chinorandom

彷徨する自由帖

MENU

サム・ロイド著《The Rising Tide(満ち潮)》嵐が訪れて始まる悲劇の連鎖、幸せだった家族に迫る不穏な過去の波

※当ブログに投稿された記事には一部、AmazonアソシエイトのリンクやGoogle AdSenseなどの広告・プロモーションが含まれている場合があります。

 

 

 

 同じ著者による前作品の感想:

 

 書籍:

The Rising Tide (English Edition, Kindle)(Sam Lloyd / Transworld Digital)

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

Her worst nightmare is about to wash ashore.

  ―― 表紙より

 

 イギリス、サリー州在住の小説家、サム・ロイドの新刊《The Rising Tide》が2021年7月8日に発売された。

 正式な日本語訳版がまだ出ていないので、ここではタイトルを「満ち潮」と訳することにしてみる。

 前作《The Memory Wood》に引き続き、今作も物語の開始地点から後半にかけて緊張感がどんどん高まっていく、サスペンス&サイコ・スリラー要素の強い小説だった。個人的には前の作品の方により好きな成分が詰まっているのだが、こちらも総合的にはとても楽しめたし満足。

 

 事件の舞台は、鬱蒼とした森から茫漠たる海へと移される。

 

目次:

 

概要・あらすじ

 

The news doesn’t strike cleanly, like a guillotine’s blade. There’s no quick severing. Nothing so merciful. This news is a slovenly traveller, dragging its feet, gradually revealing its horrors.

 

(Lloyd, Sam. The Rising Tide (p.5). Transworld. Kindle版)

 


 海辺の田舎町、スケントル(Skentel)。その片隅、海原と砂浜を見下ろせる場所に建つ古い家の扉を、誰かが叩いた。

 

 夫のダニエル、娘のビリー、そしてまだ小さな息子のフィンと一緒に暮らしている女性、ルーシー・ロック(Lucy Locke)は凝視していたパソコン画面から顔を上げる。

 尋ねてきたのはビーという友人だった。なんでも、ルーシー一家の所有している船「レイジー・スーザン号」がなぜか沖で発見された、というのだ。ぷかぷかと波間に浮かんでいたのだと。

 係留のロープが外れたか、切れたかして流されたのか。それとも盗難か。

 詳細を知るために王立救命艇協会(ボランティア組織、通称RNLI)の拠点へと向かったルーシーは、そこで思いもかけない事実を聞かされることになる。

 

 レイジー・スーザン号を港から発進させたのは、朝、いつものように職場へ向かったはずの彼女の夫ダニエル(Daniel Locke)で、彼は船上から無線で救難信号を発していた。

 それを受け取ったRNLIが現場に急行すると、そこにはひとつの人影もなく、ただ船だけがあったのだ。

 

‘The hatch was unlocked?’
‘Unlocked and wide open. That boat was a modern-day Mary Celeste.‘

 

(Lloyd, Sam. The Rising Tide (p.206). Transworld. Kindle版)

 

 後に救命胴衣をまとって海上で救助されたダニエルは、以前と比べてまるで人が変わったようになっていた。さながら、中身の人格をそっくり入れ替えてしまったかのごとく。

 彼は自分とルーシーの子供たち、ビリーとフィンを連れ出して海に突き落とし、殺害したのだと供述するが、発言は一貫性と整合性に欠けている。また、家族にいったい何が起こったのか探ろうとするルーシーの方も、どうやら周囲に隠していることがあるようだ……。

 

 スケントルに派遣された警察のふたり、エイブラハム・ローズ(DI Abraham Rose)とクーパー(DS Cooper)が、この事件の解決に向けて奔走する。

 

 

周囲で起こる全てが怪しい

 

 読み進めていくうちに、私たちは誰に対しても疑いの目を向けることになる。

 当然だけれど、それぞれの人物がそれぞれの主観で語る物事に耳を傾けていると、見えている景色の違いにただ驚かされるばかりだ。

 

 家族が失踪してたったひとりで戦わなくてはならなくなったルーシー、彼女は無垢な被害者であると本人も友人たちも信じているが、もちろんそうは思わない人間もいる。特に、彼女の若い頃の「悪い傾向」を知っている人間であればなおさら。

 どうやら、以前はかなり節操のない性的関係を複数の男性と築いていたようだ。ダニエルと結婚した現在とは違って。

 

’Nobody seems to know. Lived here till she was eighteen, shagged half the town before she left. Buggered off to London and turned up six years later with a kid.’

 

(Lloyd, Sam. The Rising Tide (p.208). Transworld. Kindle版)

 

 スケントルで生まれ育ってロンドンで美術大学に通い、さらに誰が父親なのかも分からず生まれた娘ビリーと共に、他国を放浪していたルーシー。彼女はその数年間で何を経験したのだろうか。

 もしかしたら、それは現在起こっている恐ろしい事件と何か関連があるのかもしれない。

 

 また、一見すると順風満帆に思えた一家は実のところ内部に大きな問題を抱えていたし、外部のいろいろな要因にも平和な生活を脅かされていたのだ。

 ダニエルは親友のニック(Nick Povey)と共に会社を設立し軌道に乗せたものの、ある日裏切りとも呼べる行為に直面し、今後の展望を持てないでいた。ビリーは海を愛する心からシー・シェパードに傾倒する言動を見せ、海洋生物保護のためなら暴力的で危険な行為も辞さないと考える。

 そして、フィン。彼は学校でいじめに遭っていた。クラスメイトが自分を無視し、まるでそこに存在していないかのように振る舞うという。いじめの主犯格であるエリオットはベスという女性の息子で、さらにベスはルーシーを好いていない。

 警察署での供述でもそれが明かされる。

 

'That chick has a temper. I’ve seen a side of her she tries to keep hidden. Ugly, it is. Frightening.'

 

(Lloyd, Sam. The Rising Tide (p.208). Transworld. Kindle版)

 

 ルーシーは「自己暗示」に長けていた。

 困難な状況が起こっても絶対に大丈夫だと自身に言い聞かせる。加えて、もしも現実が理想から離れていたならば、行動を起こす。すると結果的に彼女の周囲の全ては望むように保たれる、といった具合に。

 

 だが、そのような振る舞いは、すべからく何かの犠牲に成り立つものではないだろうか?

 そう読者が抱く疑問は、結末が迫るにつれて徐々に氷解していくことになるだろう。

 

 

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 現時点(2021年7月13日)で日本語訳版は出版されていないので、購入は原語版のペーパーバックか電子書籍のKindleで。

 

 以下が個人的な読後の語りでネタバレ要素あり。

 サスペンス要素の強い作品なので、 何よりも先に本編を読むのがおすすめ。よければ最後のページを閉じてから感想を共有してくださると嬉しいです。

 

 

 

 

 

ネタバレあり感想

  

 前作に引き続き、人称や視点によって見えているものが全く異なる面白さと、はじめは些末だと看過していた数々の要素の点が後になって線で結ばれる感覚がある。

 そこに登場人物それぞれの魅力が絡んできて、さらに物語は明確な結末へと向かう。だが全ての問題が都合よく解決されるわけではない。

 

 読み終わったあと、個人的に作中での犯人の描かれ方、また扱われ方が改めて興味深いと思った。逃亡を許さず、被害者の手で直接相手を倒す部分にはある種の爽快感が伴っている。

 特にルーシーの場合は全く接点のない他人ではなく、己が過去に関わった人間に執着されているという点で、過去に終止符を打って先へ進む様子が間接的に表現されているのだった。

 ビリーを失った悲しみが永遠に失われず、昔の恋人ジェイクへの借りを返すのが限りなく困難であっても。彼、あまりにも良い人だ……。

 

 それから、犯人の動機。

 The Memory Wood(チェス盤の少女)におけるマジック・アニーは決して派手ではないものの、現代の魔女としての人物造形がリアルだと感心した。今回の方はルシアンの側が「ルーシーの黒魔術に翻弄された」と脅迫的に思い込んで凶行に及ぶが、実際、両者ともそのへんに居そうな感じがする。イカれてはいるが分からなくはない。

 そのわりに同情の余地があるかと言われればあまりなく、犯罪者を特別扱いしてかばったり、あれはやむを得ない行為だったと言ったりはしない作者の姿勢が見える。

 

 ところで、イリサとイライジャ、またルーシーとルシアンという名前の類似したふたりの組み合わせが象徴的に出てくる部分が気になるのだが、どのような意図をもってそうしているのかなんとなく知りたいところ。

 童話や伝説、聖書の引用をよくする作者なので何かこだわりがありそう。モーティス・ポイント(Mortis Point)の名前の由来とか、舞台設定にもゴシック風の雰囲気を組み込んでくるのが好き。

 

 エイブラハム・ローズ氏に関してはもう愛さずにはいられなくなってしまったし、正直、彼とビビおばあちゃんが会話しているシーンを延々と読んでいたかった。最期の選択も決して「良かった」とは言えないものだけれど、彼の出した答えとしては、非常にそれらしいと納得させられる。

 

According to the note he left, he’d been too frightened to seek treatment or even confirm a diagnosis. The post-mortem found a serious but treatable lung condition – Abraham Rose was cancer-free.

 

(Lloyd, Sam. The Rising Tide (p.388). Transworld. Kindle版)

 

 ビビおばあちゃんだけでなく、ルーシーも彼のことを生涯忘れないだろう。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 今作、前作ともにおすすめできるスリラー小説です。