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エミリー・ブロンテ《嵐が丘》Ⅰ - この世で魂の半身に出会うことは幸運か、それとも悲運か|19世紀イギリスの文学

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 エリス・ベル名義で「嵐が丘」が発表された直後の批評のなかに、「主人公ふたりの愛はあまりに抽象的で、肉体を欠いている」……というものがあったそうだ。

 それが「ある種のリアリティの欠如」や「どこか人間離れしたもの」という意味で使われていた言葉なら、確かに頷けるところもあるかもしれない。ただ、単純に性的描写の欠落という意味であれば、私は「肉体を介在した愛の存在しかこの世界では認められないのか?」という疑問を呈さざるをえない。

 ヴァージニア・ウルフは作品の内容に対して、ある見解を述べている。

 

「『嵐が丘』には“わたし”というものが存在しないのだ。主従関係もないし、愛はあっても男女の愛ではない。エミリーはもっと大きな観念にインスパイアされて書いたのであり、彼女を創造へとかりたてるのは、私的な過去の痛みだの傷だのではない……」

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.697)

 

訪れたヨークシャーの風景

書籍:

嵐が丘(著:エミリー・ブロンテ / 訳:鴻巣友季子 / 新潮文庫)

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 

 

 イングランド北部、ヨークシャーの荒野に古い屋敷が建っている。その「ワザリング・ハイツ(嵐が丘)」に暮らすのは、アーンショウ家の当主と、息子と娘。加えて数少ない使用人。

 ある日、彼らの世界に思いもかけない《異物》が入り込んでくる……。

 そうして娘と「父なし子」は出会ってしまい、いつの間にやら近郊の「スラッシュクロス・グレインジ(鶫の辻)」に暮らす一家も巻き込んで、とんでもない舞台の幕は上がってしまうのだ。

 

「ここよ、それから、ここ!」
 キャサリンはそう云いながら、片手でひたいを叩き、もう片方の手で胸を叩きました。
「魂はどっちに住まうものか知らないけれど、魂のなかでは、心のなかでは、これは絶対にいけないことだとわかってるの!」

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.165)

 

 

 己の半身。

 あるいは魂の片割れ、とも呼べる「なにか」。

 

 果たしてそんなものが、本当にこの世界に存在するのかどうか。実際に確かめるすべなどない。だからその判断は個々の意識にのみ委ねられている。問題は、当事者であるふたりが周囲の目にどう映るかではなく、ふたりのなかで互いがどのような場所を占めているのかだけなのだ。

 相手の魂と自分の魂が、本質的な共通点を持っていると感じられること。

 惹かれ、時には反発し合い、肉体の側がどこでなにをしていようと、精神的には絶対に無関係ではいられない。

 

 生きているあいだ、そういう人間に出会える(むしろ「出会ってしまう」?)ことは、幸福であり災厄でもあるのだろう。

 邂逅してしまった以上、もう二度とそこからは逃れられず、人生を通して相手の存在が心のなかの一部屋を占めることになるから。

 

「どうして愛しているかというと、ハンサムだからじゃなくてね、ネリー、あの子がわたし以上にわたしだからよ。人間の魂がなにでできていようと、ヒースクリフとわたしの魂はおなじもの」

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.168-169)

 

 19世紀のイギリスで発表され、多くの議論を巻き起こしたエミリー・ブロンテ(出版に際し、はじめはエリス・ベルという男性名を用いた)の著作「嵐が丘」は、今よりもずっと幼かった私の胸にそれを深く刻み付けた本だった。

 

 復讐劇、悲劇、恋愛譚。ミステリーにサイコ。その他。

 数あるジャンル名のどれもが「嵐が丘」という小説にふさわしく思えるし、反対に、どれかひとつだけを選んで当てはめるのも適当ではない気がする。どんな物語なのか? と聞かれれば誰もが答えに窮するだろうが、私なら、この世界における人間の「魂と魂の繋がり」が描かれているものだと主張する。

 すべての出来事、キャサリンとヒースクリフの邂逅を含めた一連の嵐が、読者の眼前を吹き抜けて、余計なものはことごとくさらって行ってしまう。

 最後に残るのは抽象的かつ純粋なものだけ。

 わたしはあなた、あなたはわたし。

 相似な図形のように、拡大しても縮小してもぴたりと合う形。もしくは、もともとひとつだったものをふたつに割った破片、その対となる関係性。なにが起こっても変わらない絶対的なもの、それを確信させる存在。

 

 

 

 

「キャサリン・アーンショウ、俺が生きているうちは、汝が決して安らかに眠らないことを! お前は俺に殺されたと云ったな――なら、この俺にとり憑いてみろ!
(中略)
いつでもそばにいてくれ――どんな姿でもいい――俺をいっそ狂わせてくれ! お前の姿の見えないこんなどん底にだけは残していかないでくれ! ちくしょう! どう云えばいいんだ! 自分の命なしには生きていけない! 自分の魂なしに生きていけるわけがないんだ!」

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.349)

 

 

 中盤から次々と起こり錯綜する事件に、整理されていない時系列。加えて不実で、知識や正しさに欠ける登場人物たちや、全員の口の悪さに負けないよう読み進める。

 そうすると、この一編の物語をつらぬくひとつの軸が見えてくる。

 

 描かれているのはとても普遍的なテーマだ。

 それはきっと、作中のあまりに閉鎖的かつ特殊な舞台を借りてしか、紙上に再現することのできなかった図式。19世紀どころかいまの21世紀に至っても、一部の人間からは眉をひそめられるような描き方。

 現世で魂の半身に出会うのは、まぎれもない僥倖。

 だが、同時にとんでもない悲劇でもある。

 このふたつは両立する。それこそが、表面ではなく本質で繋がる人間関係の、恐ろしくも美しい部分。

 魂の邂逅は、肉体とそれを取り巻く環境にいつだって阻まれている。時には結ばれず別れなければならない。そもそもキャサリンとヒースクリフの間には、根本的なすれ違いがあった。

 

「この世は丸ごと、あいつが生きていたことを、俺がそれを失ったことを記す、膨大なメモみたいなものなんだ!」

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.666-667)

 

 どこにいようと、誰となにをしていようと、あるのは「相手こそが自分の命であり魂である」という確信だけ。たとえそれが錯覚であったとしても、本人のなかに確固たる感覚があるかぎり、それは真実にほかならない。誰にも否定できない。

 片割れを見つけてしまったがゆえの歓喜と苦悩。

 

 一生のうちで、これほどまでに想いを捧げられる存在に出会えたら、それだけで己の人生に価値があったといえるだろう。たとえそのせいで、どれほど黒い苦しみの炎に焼かれることになろうとも。

 愛の定義は人それぞれだ。そして私は、仮にも愛というからには、これほどの強さがなければ本物とは呼べないと思っている。ほかはすべて偽物だ。表面だけ、言葉だけの虚しいもの。

 けれど人間は常にそれらに縛られている。悲しいことに。だからだろうか。作者も自身が生まれ育ったヨークシャーの荒野に立って、地平線を見つめ一心に願っていた。すなわち「生も死も雄々しく耐える縛られない魂」を求めて。

 ゆえに、時に死は救いかもしれない。

 かけがえのない者との邂逅と喪失を嘆く者にとっては。

 

「もうちょっとで『俺の天国』に手が届きそうなんだ。だいたい、他人の天国じゃ俺にはなんの有り難みもないし、行きたくもないからな!」

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.686)

 

 

 キャサリンとヒースクリフはロックウッド氏が最後、皮肉交じりに言い残したように、静かな大地に休らい寄り添ってじっと眠っているのだろうか。

 時々、彼らはきっと煩わしいものをすべて捨てて檻から抜け出したあと、むき出しの魂となり、自由に荒野を駆け廻っているのだろうと想像してしまう。あるべきところに填められたパズルのピースのように、それによって、ばらばらになった絵柄が過不足なく完成するみたいに。

 ふたりにとっては、物理的な身体に縛られ、お互いが一時的に離ればなれになっていた状態こそが、なにかの間違いだったのだから。

 

書籍: 

 

 小説「嵐が丘」のなかには、人間同士の本物の関係性がある。その一端、ひとつの側面だけを取り上げて、いわゆる「恋愛もの」……と称するのは正しくない気がした。

 これは魂を描いた、魂の物語だもの。

 

 

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