書籍:
嵐が丘(著:エミリー・ブロンテ / 訳:鴻巣友季子 / 新潮文庫)
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イングランド北部、ヨークシャーの荒野に古い屋敷が建っている。その「ワザリング・ハイツ(嵐が丘)」に暮らすのは、アーンショウ家の当主と、息子と娘。加えて数少ない使用人。
ある日、彼らの世界に思いもかけない異物が入り込んでくる。
そうして娘と黒い子どもは出会ってしまい、いつの間にやら近郊の「スラッシュクロス・グレインジ(鶫の辻)」に暮らす一家も巻き込んで、とんでもない舞台の幕は上がってしまうのだ。
「ここよ、それから、ここ!」
キャサリンはそう云いながら、片手でひたいを叩き、もう片方の手で胸を叩きました。
「魂はどっちに住まうものか知らないけれど、魂のなかでは、心のなかでは、これは絶対にいけないことだとわかってるの!」
(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.165)
己の半身。
あるいは魂の片割れ、とも呼べる「なにか」。
果たしてそんなものが、本当にこの世界に存在するのかどうか、実際に確かめるすべなどない。だからその判断は個々の意識にのみ委ねられている。要するに問題は、当事者であるふたりが周囲の目にどう映るかではなく、ふたりのなかで互いがどのような場所を占めているのかだけなのだ。
相手の魂と自分の魂が、本質的な共通点を持っていると感じられる。
惹かれ、時には反発し合い、肉体の側がどこでなにをしていようと、精神的には絶対に無関係ではいられない。
生きているあいだ、そういう人間に出会える(むしろ「出会ってしまう」)ことは、幸福であり災厄でもある。
邂逅してしまった以上、もう二度とそこからは逃れられず、人生を通して相手の存在が心のなかの一部屋を占めることになるから。
「どうして愛しているかというと、ハンサムだからじゃなくてね、ネリー、あの子がわたし以上にわたしだからよ。人間の魂がなにでできていようと、ヒースクリフとわたしの魂はおなじもの」
(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.168-169)
19世紀のイギリスで発表され、多くの議論を巻き起こしたエミリー・ブロンテ(出版に際し、はじめはエリス・ベルという男性名を用いた)の著作「嵐が丘」は、現在よりもずっと幼かった私の胸にそれを深く刻み付けた本だった。
復讐劇、悲劇、恋愛譚。ミステリーにサイコ。その他。
数あるジャンル名のどれもが「嵐が丘」という小説にふさわしく思えるし、反対に、どれかひとつだけを選んで当てはめるのは適当ではない。どんな物語なのか? と聞かれれば誰もが答えに窮するだろうが、もしも私なら、この世界における人間の、魂と魂の繋がりが描かれているものだと強く主張する。
すべての出来事、キャサリンとヒースクリフの邂逅を含めた一連の嵐が読者の眼前を吹き抜けて、余計なものはことごとくさらって行ってしまう。
最後に残るのは抽象的かつ純粋なものだけ。
わたしはあなた、あなたはわたし。
相似な図形のように、拡大しても縮小してもぴたりと合う形。もしくは、もともとひとつだったものをふたつに割った破片、その対となる関係性。なにが起こっても変わらない絶対的なもの、それを確信させる存在。
「キャサリン・アーンショウ、俺が生きているうちは、汝が決して安らかに眠らないことを! お前は俺に殺されたと云ったな――なら、この俺にとり憑いてみろ!
(中略)
いつでもそばにいてくれ――どんな姿でもいい――俺をいっそ狂わせてくれ! お前の姿の見えないこんなどん底にだけは残していかないでくれ! ちくしょう! どう云えばいいんだ! 自分の命なしには生きていけない! 自分の魂なしに生きていけるわけがないんだ!」
(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.349)
中盤から次々と起こり錯綜する事件に、整理されていない時系列、不実で知識や正しさに欠ける登場人物たちや、全員の口の悪さに負けないよう読み進める。
そうすると、この一編の物語をつらぬくひとつの軸が見えてくる。
描かれているのはとても普遍的なテーマだ。
それはきっと、作中のあまりに閉鎖的かつ特殊な舞台を借りてしか、紙上に再現することのできなかった図式。19世紀どころかいまの21世紀に至っても、一部の人間からは眉をひそめられるような描き方。
現世で魂の半身に出会うのは、まぎれもない僥倖だ。
だが、同時にとんでもない悲劇でもある。
このふたつは両立する。それこそが、表面ではなく本質で繋がる人間関係の、恐ろしくも美しい部分。
魂の邂逅は、肉体とそれを取り巻く環境にいつだって阻まれている。時には結ばれず別れなければならない。
「この世は丸ごと、あいつが生きていたことを、俺がそれを失ったことを記す、膨大なメモみたいなものなんだ!」
(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.666-667)
どこにいようと、誰となにをしていようと関係ない。わかるのは、相手こそが自分の命であり魂であるという確信だけ。たとえそれが錯覚であったとしても、本人のなかに確固たる感覚があるかぎり、それは真実にほかならない。誰にも否定できない。
片割れを見つけてしまったがゆえの歓喜と苦悩。
一生のうちで、これほどまでに想いを捧げられる存在に出会えたら、それだけで己の人生に価値があったといえるだろう。たとえそのせいで、どれほど黒い苦しみの炎に焼かれることになろうとも。
愛の定義は人それぞれだ。そして私は、仮にも愛というからには、これほどの強さがなければ本物とは呼べないと思っている。ほかはすべて偽物だ。表面だけの、言葉だけの、むなしいもの。
けれど人間は常にそれらに縛られている。悲しいことに。だからだろうか。作者も自身が生まれ育ったヨークシャーの荒野に立って、地平線を見つめ一心に願っていた。すなわち「生も死も雄々しく耐える縛られない魂」を求めて。
時に、死は救いかもしれない。
かけがえのない者との邂逅と喪失を嘆く者にとっては。
「もうちょっとで『俺の天国』に手が届きそうなんだ。だいたい、他人の天国じゃ俺にはなんの有り難みもないし、行きたくもないからな!」
(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.686)
キャサリンとヒースクリフはロックウッド氏が最後、皮肉交じりに言い残したように、静かな大地に休らい寄り添ってじっと眠っているのだろうか。
いいや、彼らはきっと煩わしいものをすべて捨て、檻から抜け出したあと、むき出しの魂となって自由に荒野を駆け廻っているのだろう。あるべきところに填められたパズルのピースのように、それによって、ばらばらになった絵柄が過不足なく完成するみたいに。
ふたりにとっては、物理的な身体に縛られ、お互いが一時的に離ればなれになっていた状態こそが、なにかの間違いだったのだから。
書籍:
小説「嵐が丘」のなかには、人間同士の本物の関係性がある。その一端、ひとつの側面だけを取り上げて、恋愛もの……と称するのはどう考えても正しくない。
これは魂を描いた、魂の物語だ。
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