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《文字禍》中島敦 - アッシリア|近代日本の小説家による、外国を舞台にした短編のお気に入り(4)

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 前回は20世紀、革命勃発前後のロシアを舞台にした作品、夢野久作の《死後の恋》を紹介しました。

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文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。

 

 中島敦の短編《文字禍》はこんな書き出しで始まる。題の字を読むごとく、文字による禍(わざわい)の話だ。

 舞台は遠い昔の新アッシリア帝国。そこで紀元前7世紀頃に支配者として君臨していたアッシュールバニパル王と、その命を受けて「ある噂」の根幹を調べようと奔走する老博士、ナブ・アヘ・エリバ氏が主な登場人物になる。

 古代の人々は、様々な方法で身の回りの出来事や現象を説明しようと試みてきた。例えば天災疫病の被害を受けて、その状況や原因を持てる知識のかぎり誰かに伝えた結果、一種の伝説が生まれたことも少なくない。大抵の場合、人間の理解がなかなか及ばない事件は精霊や妖鬼などの仕業とされた。

 もちろん、中には本当に「この世のモノならぬ何か」による事件の場合もあったかもしれないが、ここでは割愛しておく。

 

 話を冒頭に戻そう。文字の霊などというものが、一体あるものかどうか。

 ナブ・アヘ・エリバ博士が王からその調査を依頼されたのは何故なのか、物語の中のアッシリアでどんな奇妙な出来事が起こっていたのか――そこには、現代に生きる私達も常に直面している問いを多分に含む、興味深い背景があった。

 

目次:

 

参考・引用元:

青空文庫(電子図書館)

 

 

※物語の内容やその詳細に言及しています。

※また、この記事中で紹介しているのはパブリックドメインの作品です。

 

中島敦(1909~1942)

 教員の両親を持ち、父の転勤について度々居を移しながら学校に通い、やがて帝国大学文学部国文科を卒業した中島敦。

 役人として南国のパラオに赴任したり、横浜で教員として励んだりしながら執筆活動に勤しむものの、気管支を患い33歳で夭折した。博識な人であり、何よりも文学を愛していたのが言動の記録から伺える。

 漢文を学んだ影響から、中国をはじめとした古今東西の逸話に取材しつつ、そこに近代的な「自我」や「認識」への疑問を絡めて巧みに描き出している……のが作品の大きな特徴といえよう。

 

 彼が発表した中で最も有名なものは間違いなく《山月記》だと思う。

 高校国語、現代文の教科書で取り扱われているほか、描かれている人物像や葛藤は共感と議論を呼びやすく、物語自体も面白い。だが、この短編が連作の一篇として発表されたことを知っている人はどのくらいいるだろうか?

 1942年に筑摩書房から出版された作品集の中で、《山月記》《狐憑》《木乃伊》そして《文字禍》と並んで、連作「古譚」を構成していた。

 いずれもその名の通り、遥か昔にどこかの土地(中国、スキタイ、ペルシャ)で起こった出来事という体で書かれており、これから紹介する《文字禍》は最初に述べたように新アッシリア帝国で展開する。

 中島敦は寡作な作家だからこそ、一つ一つの話に魂がこもり、輝いているようだと私には思える。

 

  • 《文字禍》あらすじ

 アッシリアの都、ニネヴェの宮殿。そこでは最近奇妙な噂が囁かれるようになっていた。

 なんでも、アッシュールバニパル王の建てた大図書館の片隅で、毎夜何かをひそひそ話す怪しい声がある――というのだ。

 このあいだ処刑したバビロンの捕虜たちはみな舌を抜かれていたから、きっと死霊となっても喋れまい。もしくは何者かが夜中に陰謀の相談をしているとも思われたが、ある謀反が鎮圧されたばかりなので、それも考え難い。

 

星占や羊肝卜(ようかんぼく)で空しく探索した後、これはどうしても書物共あるいは文字共の話し声と考えるより外はなくなった。ただ、文字の霊(というものが在るとして)とはいかなる性質をもつものか、それが皆目判らない。アシュル・バニ・アパル大王は巨眼縮髪の老博士ナブ・アヘ・エリバを召して、この未知の精霊についての研究を命じたもうた。

 

 かくして、ナブ・アヘ・エリバ博士はまず問題の図書館にこもり、関係のありそうな資料(粘土板)を片っ端から紐解き始めたのである。ちなみに、当時アッシリアの粘土板に刻まれていたのは楔形文字だ。

 だがその努力も虚しく、文字の霊について記された文献を発見することはできなかった。ほんの僅かな手掛かりでさえも。何を読んでもただ、文字はナブー(メソポタミアで信仰された書記の神)が司っている、としか書かれていないのだ。

 そこで博士は占い師がするように、一つの文字を前にしてジッ……と凝視し始めた。観察することで何か分かることがあるかもしれない。

 

 すると時間が経つにつれて奇妙な現象が起こる。

 目の前にある文字を、どういうわけか「文字」として認識できなくなってくる。その文字を構成している要素はバラバラに分解され、単なる「線」や「点」へとなり下がってしまった。何と発音するのか、どんな意味を持っていたのか、もう読み取ることはできない。

 そもそもどうして今まで、自分の目はこれを文字として捉えていたのかが分からない。無味乾燥な図形、記号に過ぎないではないか。

 いわゆる「ゲシュタルト崩壊」である。

 

単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有(も)つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。

(中略)

今まで七十年の間当然と思って看過していたことが、決して当然でも必然でもない。彼は眼から鱗の落ちた思いがした。単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か?

 

 博士は気が付いた。単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるもの。それこそが文字の霊であり彼らの御業なのだ、と。特定の記号を特定の言葉として、人間に認識させる存在こそが。

 その発見を頭の隅に置き、彼は市井へと繰り出す。すると、おそらくは文字の霊による被害、多種多様な禍(わざわい)が沢山見つかった。

 博士は考察を続けた結果、ついに文字の霊の核心に迫り、アッシュールバニパル王へと報告するに至るのだが――。

 

文字の霊が、この讒謗者(ざんぼうしゃ)をただで置く訳が無い。

 

 最期にはナブ・アヘ・エリバ博士自身が「文字禍」に見舞われる。

 では彼は一体、何に気が付いてしまったのだろうか?

 

 

 

 

  • 好きな要素

 人が、目の前の視覚情報をどんな風に得て認識し、頭の中にある知識と結びつけて解釈するのか。私はずっとそれに興味を持っていた。大学でずっと記号論の本に顔を突っ込んでいた位に。

 だから初めて《文字禍》に出会ったとき、「何かを表す記号」としての文字をこんなにも面白く描いてくれるとは……と感心したのを覚えている。

 さて、街で聞き込みをしていたナブ・アヘ・エリバ博士は、文字の霊が人間に与える影響を調べる上でこんな例に出会ったという。

 

文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなった。

(中略)

文字に親しむようになってから、女を抱いても一向楽しゅうなくなったという訴えもあった。もっとも、こう言出したのは、七十歳を越した老人であるから、これは文字のせいではないかも知れぬ。

 

 読み書きができる者の脳を犯し、神経を麻痺させる文字。

 そこでふと、博士は近郊の国エジプトに住まう人々の考え方を思い出す。

 

埃及人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。

 

 そう、これこそが《文字禍》の物語の根幹をなしている。

 私達は普段、何かを記録し伝えるために文字を利用する。文字はいわば、伝達したい何かの写し、なのだ。例えば紙の上に「赤いりんごが一つ」と書く。それを見たある人間は頭の中に、表された通りの果実を思い浮かべられる。目の前に赤いりんごが存在しなくても。

 この場合、文字は実物の代わりに媒体となり、特定のイメージを人の脳内にもたらした。

 もちろん、これは文字の書き手と読み手がある程度の認識を共有していることが前提になる(なぜなら「赤いりんご」という存在・概念を全く知らない人間が文字列を見ても、何も思い浮かべられないので)。

 そして留意しておきたいのは、文字は何かを表すことはできても、その何かに成り代わることはできないという点だ。獅子という文字は獅子を表現してはいるが、決して、現実に生きて動いている獅子そのものではない……。

 

 文字の霊が、人にそうだと錯覚させる。通常は現実が文字に反映されるはずなのに、その状況が逆転して、文字として記録されたものこそが現実として感じられるようになる。では、記録されなかったことはどうなるのだろうか?

 ある日、文字の霊に犯されつつある博士のもとに若者がやってきた。

 

賢明な老博士が賢明な沈黙を守っているのを見て、若い歴史家は、次のような形に問を変えた。歴史とは、昔、在った事柄をいうのであろうか? それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?

(中略)

歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌されたものである。この二つは同じことではないか。
書洩らしは? と歴史家が聞く。
書洩らし? 冗談ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。
若い歴史家は情なさそうな顔をして、指し示された瓦を見た。

 

  文字が現実に成り代わると、粘土板に刻まれなかった歴史は、文字通り「無かったこと」になってしまうのだった。この若い歴史家と博士の会話は面白いが、恐ろしくもある。誰かにとって都合の悪い記録を全て削除し、書き換えてしまえば、それが新しい「真実」になるのだから――。

 それが禍(わざわい)でなくて何だろうか。

 物語の中で寓意的に語られる「文字の霊」は、確かに私達の認識に棲みついている。

 

 以下のリンクから全文が読めるので、興味をそそられた方はぜひ。

中島敦 - 文字禍 全文|青空文庫

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