書籍:
完訳 アンデルセン童話集(一)(著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン / 訳:大畑末吉 / 岩波文庫)
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この世界で、全てにおいて心から満足している誰かがいたとすれば、その人間は「幸福とは何か」を考える必要性には迫られない。また「理想」について、あえて言葉で語ることすらないだろう。言うまでもなく、現状こそがそのまま完璧を体現しているに等しいから。
けれど私も、そして他の多くの人達も、日々の生活の中でよりよい何かを求めて生きている。もう少しこうだったら良い、という望みが滾々と湧いてきて、時にそれが「願い」と呼ばれる。
では運よくその願いを成就させたとき、人は本当の意味で幸福になれるのか、否か。
……アンデルセンの著したお話のうちのひとつ《幸福の長靴》には、不思議な力を持つ長靴が登場する。履くと、その人間の一番望んでいる場所や時代へ、瞬時に連れて行ってくれる。時と場所に関することならどんな願いでも叶えられるという。
この物語の中では、現状に不満を持つ5人の人物が実際に幸福の長靴を履き、結果的にどうなったかの顛末が語られる。
「おまえさんが、そう思いなさるのは勝手だけどね。」と《悲しみ》は言いました。「その人はきっと、幸福どころか不幸になって、長靴のぬげた時をありがたく思うようになりますよ。」
(岩波文庫「完訳 アンデルセン童話集(一)」(2020) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:大畑末吉 p.169)
彼らを通して描き出されているのは、私達が何かを願うとき、実は自分自身でもその本質に思い至らないことがある……という興味深い事実とその難しさだ。
法律顧問官、夜警、病院勤務の助手、書記、そして学生。
このように社会的立場も年代も大きく異なる人々が、各々の願望を持ち、それを叶えてくれる幸福の長靴を手に入れる。けれど、魔法の力で願いを成就させたというのに、そのあと残ったのは「こんなはずではなかった」という気持ちばかりだった。
例として、法律顧問官の場合を挙げてみよう。
クナップ法律顧問官は、自分の生まれた時代よりも中世の方がはるかに優れていて、幸福な時代だと信じていた。とりわけ、ハンス王の治世だった15~16世紀の一時期が。
彼は宴会場から去るときに、はずみで幸福の長靴を履いてしまう。すると、たちまち魔法の力が働き、法律顧問官がちょうど考えていた幸福の場所へと彼を連れて行ってしまったのだった。
つまり、ほんとうのハンス王が生きていた頃のコペンハーゲンに。
こんな時代に生まれていたら良かったのに、と日頃から思っていた法律顧問官は、その結果どうなっただろうか。
15世紀後半の世界で幸福に暮らせたのだろうか?
読者にも予想できるように、もちろん違う。
まず、彼は舗装されていない当時の道のぬかるみに辟易した。なにせ数百年前のことだから、見慣れた街灯もなく、暗い通りには辻馬車の一台も走っていない。また橋も少ないから、川の対岸へ渡るにはわざわざ渡し守のいる小舟を拾わなくてはならない。
立ち並ぶ家々の様子もどこかみすぼらしく映った。
やがて飛び込んだ酒場での会話も、その混乱を加速させる。
幸福の長靴によっていわゆるタイムトラベルを行った彼だが、そこでは現代からみると学問の進み具合も大きく違う。あらゆる常識が異なるために誰とも話が合わず、今では迷信だとされている現象が、事実だと思い込んでいる人間の数も多かった。
顧問官はいままで、こんな野蛮な無学な者どもの仲間になったことは、一度もありませんでした。
(中略)
「こんな恐ろしい目にあうのは生まれて初めてだ!」と思いました。
(岩波文庫「完訳 アンデルセン童話集(一)」(2020) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:大畑末吉 p.178)
彼はすっかり恐ろしくなってしまい、酒場から逃げ出そうとする過程で運よく幸福の長靴を脱ぐことができた。おかげで現代(私達からすれば近代)のコペンハーゲンに戻ってこられたのだ。
この章は、現状の幸福をありがたがる法律顧問官の様子でしめくくられる。
「あんな時代に暮らせたらどんなにか幸福だったろう」という願望を普段から抱いていても、実際にそれが成就してみると、それはそれで多くの弊害に悩まされることになるのだった。
ままならないものである。
「幸福の長靴」の物語は他の章も全体的にこんな調子で進む。
そうして最後、とある学生が願った事柄ともたらされた状況は、話を締めくくるのと同時にかなり象徴的かつ皮肉な演出をする役割を果たしていた。
個人的に彼は、その設定や描写から、作者であるアンデルセン自身の想いが強めに反映されている人物なのだろうと感じる。信仰に篤い牧師志願で、旅をこよなく愛し、そして「至上の幸福」を求めている——。
私達の生きている地上において、果たして至上の幸福とは何だろうか。一体、どんな状態を意味しているのだろうか。
学生は長靴を履いて、以下のように望んだ。
「ただ、このからださえなかったらなあ。肉体はこの地に休んでいて、その間に魂だけが飛びまわるんだ。
どこへ行っても、僕の心を押えつける不満があるばかりだ。その場限りのはかないものではなく、それ以上のものを僕は求めているのだ。そうだ、よりよいもの、いや、一番よいものをだ!
だが、それはいったいどこに? そして、どういうものだろう? いや、僕にだって、それが何だかはわかっている。僕は幸福を求めているのだ。すべてのものの中で一番の幸福を!」
(岩波文庫「完訳 アンデルセン童話集(一)」(2020) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:大畑末吉 p.213-214)
私は初めて読んだとき、あまりにもこの望みに賛同できるのでむしろ苦しくなった。
何にも左右されないゆるぎない幸せ、ほんの一時の儚いものではなく、正真正銘の「本当の幸福」を得たい。
そう……ただ表面をなぞるような幸せでは駄目なのである。
しかしこれを考える際、人間の抱く幸福という感覚は、結局どこまでも主観的なものであるということを忘れてはならない。そもそも絶対的ではなく、揺らぐ性質のものなのだ、という事実を。
学生は長靴の魔力によって、いまの彼が最も望んでいる幸福な状態へと導かれた。
すなわち「死」へ。
身体から離れて魂となった彼は、もう俗世のつまらない有象無象に心を悩まされることはない。静かな永遠の眠り。それが、学生の切実な願望を受けて、長靴がもたらしたものであった。
ちなみにこの後、お話の最後に交わされる、ふたりの仙女の会話が非常に重要なものとなっている。
他の読者の皆さんはどんな感想をお持ちになるだろう。
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