書籍:
マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集(著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン / 訳:天沼春樹 / 新潮文庫)
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アンデルセンの紡いだ数々の作品は、いわゆる「昔話」と呼ばれる童話(ここではヨーロッパのものを指している)の形式や、特色とはまた違った種類の魅力……すなわち「近代の童話」としての良さをたくさん持っている。
登場する人物の繊細な感情の動きに、宗教的な信心の要素、そしてめまぐるしく変化を続けていた当時の社会へ向ける目……いずれも彼の生きた19世紀らしさを反映し、それでいて古い伝説や神話の源泉から巧みに材料が調達されている。
また、アンデルセン自身の人生経験からも。
独特だけれど単純に癖が強いというだけでなく、本当に卓越した目と手を持った作家だと思う。本文の描写を見てもそれがよく分かった。
ここで紹介するお話「木の精のドリアーデ」には、その発表の前年である1867年に開催された、パリ万国博覧会の壮麗な風景が登場する。
外界に強い憧れを抱く木の精の願いはどこか同作者の「人魚姫」も彷彿とさせ、しかしまったく別の結末を迎える部分も興味深い。
もっとひろく知られて欲しい短編のうちのひとつ。
目次:
「木の精のドリアーデ」あらすじ
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森にいた木の精
郊外の森に生えていた木が切られ、やがて人間たちのいるところへ運ばれていくという点で、この話は同作者による「もみの木」にも似ている。そちらは人間たちによってクリスマスツリーとして利用され、最後には火で燃やされてしまう大木の、切ないお話だったが……。
童話「木の精のドリアーデ」は、フランスのどこかにある田舎の森の場面から始まる。
若いマロニエに宿った木の精。
植物や虫、動物に人間などの言葉を解せる彼女は、自分では行くことのできない場所の話を他の皆から聞くのが大好きだった。たまに年取った神父がやって来て、マロニエの周囲に集まった子供たちへ歴史や偉人の講釈をするのも楽しみにしていた。
依代となる木を離れては動けない彼女。その外界への憧れは、日に日に強くなる。
まだ見たことのない景色、聴いたことのない歌。誰もが憧れる、奇跡か魔法のようなものがあるという場所、首都のパリ。
子どもは絵本に手をのばす。木の精も、雲の世界を、彼女の思い描く都の描かれた本をほしがっていたのだ。
(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.304)
そんなあるとき、彼女の宿っていたマロニエの木はやってきた何人もの人間により根っこから掘り返されて、馬車ではるばるパリへと運ばれることになった。向かう先で、通りに並ぶ街路樹のうちの一本として使われるためにだ。
それは、木の精の念願が成就することも意味する。つまりは都に行けるのだから。
木をのせた馬車が進むにつれて建物がどんどん増え、人通りも多くなり、賑わいが増していくのを感じて彼女は高揚した。やがて所定の場所に植えられたマロニエの傍らで、溢れんばかりの色彩と光に目を焼き、自分は幸せだと叫ぶ。本当に街に来られたのだと。
一方、彼女がここに来る前に同じ場所へ立っていた木はすっかり都会の空気に枯れて、引き抜かれたあと、入れ替わるようにどこかへ運ばれていった。おそらくは、冒頭で紹介した「もみの木」と類似の末路を辿ったのだろう。
つまりは廃棄場行きか、暖炉の薪になって燃やされるかだ。
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首都で人の姿を得る
はじめは何もかもに感動していた木の精だが、数日をパリの中心部で過ごすうち、やはり「木のある場所から動けない」ことを苦悩するようになった。
せっかく街へ来たというのに少しも枝葉のそばから離れられず、代わり映えのしない無機質な壁や、貼られた広告ばかりが目につく。すべてを記憶し飽きてしまうほどに。ここからでは、うわさに聞く凱旋門というものも、かの「万博の奇跡」も視界に映せないのだ。
夢にまで見た憧れの先には、一体何があるのだろう? 目抜き通りの向こう側には?
彼女は「人のような幸福」を渇望し、虚空に向かってひたすらに祈った。
わたしの寿命がうばわれてもかまいません。そして、あのカゲロウの命の半分ほどの命さえ与えてくれれば。わたしを、この牢獄のようなところから救いだしてください! 人間の命を、人間が味わう幸福をお与えください。ほんの一瞬でもかまいません。
(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.319)
果たしてその願いは叶えられ、一陣の風が梢を吹き抜けたかと思えば、マロニエの枝の真下にはひとりの若く美しい女が現れた。髪に一輪の花を挿している。それは、他ならぬ木の精の姿だった。
夜明けになれば儚く露と消え去ってしまう宿命を背負って、彼女はガス灯が照らす夜のパリを駆け抜けていく。本文曰く「休むことなど知らない、飛び続けるのが宿命のカゲロウ」のごとく。
打ち上がる花火。刺激的なダンス。カフェやレストランの明かり、万博会場の庭園とアクアリウム、あるいは地下水道。
絶え間ない未知の奔流。
木の精は本当に数えきれないものを見て、聞いて、体験もした。すべてを己のうちに取り込むかのように。だがそうしているあいだにも、生命の終焉は刻々と迫ってくる。寿命と引き換えにした幸福なのだから。
本当にこれで良かったのだろうか。そんな念さえ頭をよぎり、疲れ切った身体を噴水のそばに横たえた彼女へ、風がそっと囁きかけるのだった。
「そうしたら、あなたも死者の仲間になって、ここにある立派な物たちが一年たたぬうちに消え去るように、あなたも消えてしまいますよ。
(中略)
塵になるんです。すべてが塵にすぎないんです」
(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.319)
言葉のはっきりとした意味は分からずとも、それはどこか恐ろしいことのような気がした。やがて、うつろに立ち上がり彷徨っていた木の精は、最後に小さな教会の前に辿り着き倒れ込んだ。
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夜明けに潰える命
教会の入口からは、パイプオルガンの荘厳な音色が響いている。彼女はそこに、むかし故郷の森でいつも耳にしていた、あの懐かしい神父の声を聞いた気がした。
古い樫の木が葉を揺らすざわめきに似たものも。
そのうちに雲間から徐々に朝の陽が差して、はじめに約束されていたように、短い寿命を迎えた木の精を消し去っていく。
汝のあこがれと願いが、神が汝に与えたもうた場所から汝をそっくり引き抜いてしまった。それが、汝の破滅となろう。あわれな木の精よ!
(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.340)
太陽がすっかり天球の頂上にのぼる頃には、かつてこの木の精が宿っていたマロニエはすっかり枯れてしまっていた。彼女がもういないからだ。
しおれて散ったその花を、往来の人々はただ踏みつけて通り過ぎる。
この物語が「人魚姫」に類似していて、けれど決定的に異なっているのは、人魚は結末で神の試練(人々のために良いおこないを数百年間し続ける)に身を捧げたが、木の精はついにキリスト教的な信仰の念を持つには至らなかった部分だろう。
絢爛なパリの街の路地をぬって歩く際中、彼女はいちど聖マドレーヌ教会の前を通りかかったが、その厳かな感じに怯えて「わたしは入ってはならないところかもしれない」と考える。
夢に見た憧れの場所とは明らかに異なる、沈黙に包まれた懺悔と祈りの空気に背を向けた木の精。ここもやはり、最後に彼女が直面する運命を示唆していたのだろうと感じた。
物語の魅力
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パリ万国博覧会の描写・文明批評
近代化の甚だしい19世紀を「メルヘンのような偉大な驚くべき進歩の時代」「夢の時代」と繰り返し表現するのは確かに皮肉っぽい感じがするが、このお話の中で描写されるパリ万博の情景はそれだけではない。
アンデルセンが実際に現地へ赴き、滞在中に触れたものや展開されていた光景に対して抱いた、新鮮な驚きや感動が《木の精のドリアーデ》にはきちんと取り入れられている。
どんどん先へと向かう時代、技術の華やかさと、その影で犠牲になったり取り残されたりする何か。どちらか一辺倒になることなく、両方の要素に同じくらい気を配り描き出しているのが物語の最大の魅力だと思った。
さて、ぼくたちは、パリの博覧会に行くことにしよう。
さあ、もう着いてしまった! あっという間にひとっとびだ。なにも魔法を使っているわけではない。蒸気の力で、海と陸とを移動してきたのだ。
(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.299)
万博の栄華の裏にあるものとして、煤煙で汚れた空気などの環境に殺されてしまう木や、もとの住処から追いやられてしまうネズミたちが象徴的に登場した。それから、この賑わいも永遠には続かず、時期が来れば跡形もなく消え去ってしまうのだと示す言葉も。
社会の止まらない前進、絶え間ない文明の発展を前提にして築かれた輝きはもろいものだ。
また、木の精がたびたび耳にする「あの街(パリ)はお前の身を破滅させる」という警告が印象的だが、これは彼女が自然界に生きる者でありながら暮らしに適した場所を離れることと、眩しさに目がくらんで別の大切な事柄を見失ってしまうこと、その二つに対して投げかけられていると分かる。
芸術と工業の華やかな花が、練兵場の不毛な砂の上に咲いた!
(中略)
秋嵐が吹きすぎる頃にはしかし、根も葉もなにひとつ残らないだろう。
(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.306-307)
お話を読んでいるだけで、心だけ当時に飛んで行ってみたくなる。万国博覧会の開催されていた1867年のパリへと。
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胸に強い羨望を抱く存在への慈愛
木の精はパリに行き、そこで人の身を得てから、森にいれば永らえたはずの命を一夜にして散らしてしまった。
とても切なく悲しいことだ。
それでもこの物語は、単に彼女の選択を間違っていたと断じるだけの論調にはなっていない。
「人魚姫」で末の姫に対して注がれていたような著者の優しいまなざしが、はじめから終わりまで、変わらず感じられるようになっている。ほとんど慈しみともいえる柔らかさで。
知らない世界を知りたい、見てみたい、という強い憧れ。
それは、まるで旅をするように生きていた作者アンデルセン自身が、いつでも胸に抱いていた想いと非常に似てはいなかっただろうか。
これから目のまえに現れるすばらしく、そして新しいことを、すでに知ってはいたけれど、そのことだけを木の精は思い描いては夢を見ていた。
このとき、パリへむかった旅立つ木の精には、どんな無邪気な子どもの心でも、どんな情熱にうかされ、血をたぎらせた若者であっても、そのめくるめく思いはきっとかなわなかったろう。
(新潮文庫「マッチ売りの少女/人魚姫:アンデルセン傑作集」(2015) 著:ハンス・クリスチャン・アンデルセン 訳:天沼春樹 p.313)
たとえそれが己を滅ぼしてしまうと言われても、対象を求めずにはいられない感情。
そんなものを覚えずに慎ましく暮らしていくのがあるいは正解かもしれない。また、特にアンデルセンの場合、自らの信心に対する想いが作品から透けているのも無視できない。敬虔にキリスト教の神に仕えて正しい行いをすること。それこそが、真実の救いへの道なのだと幾度も説く。
けれど彼は信仰を持ちつつ、本当に信仰のみを抱いて生きていくのは何より難しい行為だとも理解しているのだ。だからこそ「赤い靴」や「雪の女王」が書けたのだろう。
他ならぬ著者こそが常に迷いを心に飼っていたし、好奇心で胸が沸き立つ瞬間や、未知のものに遭遇して高揚する感覚を知っていた。だから木の精などの登場人物に向けられるまなざしは、どこまでも優しい。
……そんな風に、アンデルセン自身にも直接繋がる要素が盛り込まれているだけあって、背負った何らかの罪に対して与えられる「罰」の描写もなかなか苛烈であるのだが、その話はまた別の作品の紹介でしようと思う。