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短編《霧笛》を読みながら - 大佛次郎記念館と近代洋館群|横浜山手の丘散歩Ⅲ

 

 

 

前回の記事:

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

参考サイト・書籍:

大佛次郎記念館(公式)

霧笛/花火の街(著:大佛次郎 / 講談社文庫)

 

 

目次:

 

 わりとよく足を運ぶ公園の片隅で、また、新しい宝物を見つけたような気分になった。

 けれどすぐ、それはあまりに傲慢な意識だと思いなおす。だって、昔から幾度となくこの前を通っていたのにもかかわらず、中を覗いてみようともしなかったのは自分の側なのだから。

 大佛次郎記念館は浦辺鎮太郎による設計で、昭和53年に竣工。同年の5月に開館して以来、ずっとここにある。

 今まで、私がそれにさっぱり意識を向けていなかっただけで。

 

大佛次郎(1897~1973)記念館

 

 植え替えの行われている花壇の前から見上げた半円。その形が知っている何かに似ているような気がして、うんうんと頭をひねっていたら、海から丘へ吹いてくる風があるものを示唆してきた。

 外輪船、である。

 正確にはその側面に設けられた水車のことを。

 

 調べると、推進機の役割を果たす水車が蒸気船の船尾についているものもあるが、そちらの名前は船尾式(スターン・ウィーラー)で、側面にあるなら舷側式(サイド・ウィーラー)と呼び表して区別がされるよう。

 いずれも今ではほとんど見かけることがなくなった。邂逅できる場所を探せば、まれに観光地の海や湖で、本物ではなく水車を模した「飾り」のあしらわれた遊覧船を目にするにとどまる。

 ともかく、水面から半分だけ覗くその形に半円形の窓は似ていた。

 

 

 大佛次郎記念館。

 

 明治30年生まれの小説家・大佛次郎(本名:野尻清彦)と、彼の著作にまつわる所蔵品を展示している横浜の文学館だ。アール・デコを踏襲した意匠が視覚に楽しい。

 水中を思わせる深い色に窓からの光が射して、階段を上った先はとても明るく、地上の出入り口から続く庭園とはまた違った領域へと辿りついた。赤レンガの外観と内装の白い石、そしてガラスの青は、大佛次郎が心を傾けた国であるフランスの国旗を意識した配色になっているのだという。

 

 館内の閲覧室では実際に彼の作品を読むことができてありがたい。他の場所で手に取るのとは、きっとまた別の感慨があるだろう。

 生涯を通して鎌倉の自然、そして出身地である横浜の地と文化風俗をこよなく愛した大佛次郎の物語の中で、私が初めて触れたのは《霧笛》という短編だった。

 作中では、当時の横浜の外国人居留地や中華街が魅力的に描かれているだけでなく、興味深い精神的な葛藤がテーマとして扱われていて引き込まれた。いわゆる文明開化期に生きた日本人のうち、決して少なくない割合の人間が、欧州に対して抱いていたであろう特定の情念を感じさせる物語で。

 

 

 大佛次郎は1931年からあの横浜の老舗、ホテルニューグランドの一部屋で仕事をするようになった。《霧笛》を発表したのがその2年後のことで、その内容と作者が主に過ごしていた場所が合致する。

 ちなみに私は、今のニューグランドのロビーラウンジで提供されているアフタヌーンティーが大好きだ。

 

 生前、猫が大好きだった彼の軌跡を見守る数々のオブジェに挨拶をして、記念館の外に出たら、実際に《霧笛》の内容を思い返しつつ現在の旧居留地を歩いてみることにした。

 作品に登場する風景は湿っていて暗く、もやにかすむ瓦斯灯の明かりとどこか酒くさい路地など、私が慣れ親しんだ山下・山手の印象とはだいぶ離れているものだが……そこからも作者の地元へ向ける愛情深いまなざしと、確かな観察に裏付けられた描写を感じさせられる。

 ページをめくるたび、自分のよく知る町のはずなのに、時代も住む人も異なる不思議な幻想が目の前にあらわれるのだった。

 

 

 

 

 

  • 《霧笛》のあらすじと横浜山手の洋館群

 今回の散歩コース:

ブラフ18番館、ベーリック・ホール、山手234番館、山手資料館、山手111番館、横浜市イギリス館(旧英国総領事公邸)を通る道

 

 

 物語の主人公は、横浜外国人居留地の一角に佇む異人館……103番の屋敷でボーイをしている、千代吉という人物である。

 21歳と若い盛りで、身寄りのない男。

 

 彼には以前、往来でイギリス人クウパーの財布を掏ろうと試みた際にあえなく捕まり、そのまま使用人として雇われることとなった経緯がある。千代吉はクウパーの過去をあまりよく知らず、今は船会社にいて荷物船の船長をしていることだけを把握していた。

 外国人居留地は治外法権の色が濃く、日本の法律や警察の関与を言外に拒む魔窟だ。

 その場所でクウパーは、彼こそが支配者の権化であるかのような威厳をもって、全ての上に君臨している存在だった。妻子はなく、動物を飼って可愛がる様子もなく、ときおり居間などで何か考え込む風にしている。

 

 日に焼けた皮膚、特徴的な骨格、青く冷たい目。

 

人を幾人も平気で殺してきた男。——そういう影はたしかにクウパーにあった。

 

(大佛次郎「霧笛/花火の街」(1996) Kindle版(Kindleの位置No.547-548) 講談社文庫)

 

 

 千代吉は、自分をこそ泥として軽蔑しながらも屋敷に置いているクウパーに対して、敵意にも近い感情を抱いていた。憎んでもいた。

 だがそれと同時に、傲岸不遜な彼を圧倒的な上位の存在……要するに己と同じ人間ではなく、神のような、あるいは巨人のような者として捉えており、その膝元に仕えていると特別な気分にさせられるのも事実なのであった。

 クウパーの屋敷、母屋の客間にある等身大の肖像画や書斎の壁の小さな絵には、志那人、印度人、黒人を蹂躙する彼の姿が描かれている。千代吉はそれらを眺めるたび、相手に対する強い崇拝や、卑屈さと背中合わせの奇妙な忠誠心を感じていた。

 

単純に日本人と外人との違いというのではなかった。クウパーは人間としてまったく特別なものなのだ。

 

(大佛次郎「霧笛/花火の街」(1996) Kindle版(Kindleの位置No.555-556) 講談社文庫)

 

 そんなクウパーが商用で神戸に出張していた留守の折、千代吉はやくざ者の富という男と、豚常という男に出会う。彼らの出入りしている賭場で思いがけずその目を引いたのが、17~18歳の頃に見える女、お花だった。

 

 ここから彼の運命は数奇なレールを辿って加速し始める。

 


 

 何度かお花との逢瀬を重ね、それからしばらく会えなくなって久しぶりに尋ねた彼女の屋敷で、千代吉はなんと自分の主人であるクウパーがお花へ並々ならぬ愛情を注いでいることを知ってしまう。

 部屋で見つけた写真の裏の恋文は、普段の冷たい石のような支配者の面影とはかけ離れた、なよなよとしていてどこまでも千代吉を失望させるものだった。

 

 ペンで書いた、たどたどしい字体の仮名文字。

 

「ワタクシのタマシイ。サイアイナルオハナヘ。クウパー」

(中略)

そのワタクシがあの怖ろしいクウパーだって!

 

(大佛次郎「霧笛/花火の街」(1996) Kindle版(Kindleの位置No.1308-1319) 講談社文庫)

 

 子供のような筆跡、言葉。まるで悪い夢でも見ているように千代吉は震えた。こんなものを書く人間が、己の主、ひいては神であるはずがない! と。

 結局のところ、クウパーといえど自分と同じ人間だったのである。

 

 

 その後、千代吉は以前にお花からもらった高価な装飾品の腕輪(元はといえばクウパーのものである)をちらつかせて、自分の主人を挑発し一度は屋敷から放り出される。正確には自分から警察の留置所へと出て行ったのだ。どこか、なげやりな気分にもなっていた。 

 彼は……それから、クウパーやお花がどんな風に再び道を交えるのか。

 物語の結末は、何とも虚しく物悲しいものになる。

 

「撃ってごらんなさい。旦那」

 

(大佛次郎「霧笛/花火の街」(1996) Kindle版(Kindleの位置No.2190) 講談社文庫)

 

 

 

 

  • 物語の魅力的な部分

※ここから先では物語の詳細と結末に言及しています。

 

 

 作中で何度か示唆される、千代吉の特徴的な癖

 

 それは誰かの挙動に感心し、慕わしい存在だと判断した場合、いつのまにか相手の仕草や発言を無意識にまねているというものだ。しかも自分では容易に気が付かず、周囲から指摘されて初めてそうと気が付くことも多い。

 この描写に《霧笛》の面白さが凝縮されていると私は思う。

 歩き方、視線の向け方、機嫌のよい時の肩のすくめ方……千代吉は憎んでいるはずの主人クウパーに知らずと肉薄していく。そして自覚してからというもの、己をロビンソン・クルーソーに登場する奴隷フライデーに例えて、誰よりも忠実な下僕なのだと認識するに至るのだ。

 

そのほかのことは、どうでもよかった。ただ、あの怖ろしい目のことだった。人間の誰が、あんな目を持っていよう?
(中略)
惚れてんだ! そうだ、俺アあの外国人に惚れてんだ! こんなに憎んでて、どこか、あいつが好きなんだ!

 

(大佛次郎「霧笛/花火の街」(1996) Kindle版(Kindleの位置No.1134-1159) 講談社文庫)

 

 

 終盤、船で謀反を企てたとして印度人を撃ち殺したクウパーを、傍で見ていた千代吉。

 いちどは激しく失望したものの、彼にまた己の神となってほしい願望が独白の端々から透けて見え、それを踏まえたからこそ、例の「癖」がラストシーンに繋がったのではないかと読者に推測させる。

 女の着物の赤い帯に向かって引き金を引いた指。

 千代吉とクウパーを、単に物語の中で独立した人格として見るのも楽しいし、その属性(日本人、英国人)から、開化期の日本と諸外国の関係を反映したある種の擬人化なのだと捉えてみても興味深い。

 

なにかいってくれないか? そうだ。ひと言で、千代吉が恐怖に打たれて口もきけなくなるようなことを! それなのだ! ひところのクウパーの、神様のように堂々とした威厳を見せて欲しいのである。

 

(大佛次郎「霧笛/花火の街」(1996) Kindle版(Kindleの位置No.2148-2151) 講談社文庫)

 

文庫や電子書籍:

 

 

近代文学いろいろ:

 

 

 

 

サム・ロイド著《The Memory Wood(邦題:チェス盤の少女)》「記憶の森」で対峙する脅迫的な幻想は、現実の殻を被った童話

 

 

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書籍:

チェス盤の少女(著・サム・ロイド / 訳・大友香奈子 / 角川文庫)

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 

 

 この物語は、現代のイギリスを舞台とし、架空の誘拐事件を扱ったサスペンス・スリラー小説だ。

 

目次:

謎めいた冒頭

 

 どこまでも深く、うす暗い場所。「彼」は生活の大部分をそこで遊び過ごしている。

〈記憶の森〉と呼ばれる場所で。

 

 時には慣れ親しんだ空気のにおいと足に伝わる感触が安心を伝え、またある時は、影にひそむ恐ろしいものの存在を示唆し、心を怯えさせる。

 あわせて〈指の骨湖〉とか〈車の町〉だとか、奇妙に幻想的な名前の存在とともにある森は、まるで童話に出てくる場所のようにも、あるいは単に規模の大きなだけの、よくあるイギリス郊外の森林のようにも思える。

 

 たまに視界を横切るのは、動物の死骸をあさるカラスだろうか。

 以前、アオガラの巣からひな鳥をぜんぶ引きずり出して殺してしまったのは、カササギだった。

 

 森を抜けた先には大きなお屋敷があって、敷地内に点在するのは小作人用の貸家。

「彼」もそのうちの一つに住んでいる。

 

 でも、ここはぼくの家じゃなくて、ただの汚れた影だ。キッチンに足を踏み入れ、もう一度自分に言いきかせる。
 ここはぼくの家じゃない。

 

(角川文庫「チェス盤の少女」(2020) 著:サム・ロイド 訳:大友香奈子 p.21)

 

 そこは一体何なのだろう。

 いかにして「彼」は、その中へ足を踏み入れることになったのだろうか?

 

 ……ある日、深く暗い森へ、また一人の子供が迷い込む。

 

概要・あらすじ

 

 イギリスの作家、サム・ロイドのデビュー作である「チェス盤の少女」の原題は、ザ・メモリー・ウッド(The Memory Wood)。直訳すると「記憶の森」になる。

 英国ハンプシャー州の出身であるこの著者、幼い頃から頻繁に自宅近くの森で遊んでいた、と紹介欄にあったが、きっとそれが作中で効果的な演出となっている、濃密な森林描写の源流にあるのだろう……と納得させられた。

 

 明晰な頭脳を持つ13歳の少女イリサ・ミルゾヤン

 彼女はふだん母親のリーナと二人で暮らしていて、学校に通うかたわら、チェスへと並々ならぬ情熱を注いでいた。彼女いわく、毎日、という言葉はすなわちチェスの日を意味していると豪語するくらいだから、相当なもの。

 全英ユース・グランプリの開催される特別な土曜日、母子は万全の準備を整えて家を出た。念を入れたおかげで、予定より2時間も早く到着した会場の近くで、パンにベーコン、卵、焼きトマト、豆なんかが皿に盛られた重たい朝食もとって。

 

 順調に午前のトーナメントを勝ち進んだイリサは、ランチタイムに気分転換がてら、一人でお弁当箱を車に戻しに行くのだが……そこで突然、煙草の匂いのする何者かにガスを吸わされ、白いバンに押し込められた。

 連れ去り。要するに、誘拐だ。

 気絶して目が覚めると地下室のような場所で、ものものしい金属製の手錠をかけられていた。

 混乱のさなかにあっても、彼女は持ち前の思考力と記憶力を使って、懸命に自分の置かれた状況を整理しようとする。何も見えない暗闇を手探りし、チェス盤のマス目に見立てた地図を頭の中に描いて、動ける範囲にあるものを探りながら。

 

 しばらくすると謎の男が地下室を訪れる。食べ物を持って来たものの、どういうわけか「あいさつ」をしなかったイリサを礼儀知らずだと罵り、そのまま出て行った。

 ……そして、次に監禁部屋の扉を開いたのは別の人間。

 不自然に甲高い、少年のような声を持つ「彼」の名は、イライジャ。いつも〈記憶の森〉で遊んでいる。

 

「悪いことじゃないよ、ルールに従ってさえいれば」
 イリサは突然、めげずに顔を上げているのが大変になる。「ルールって何?」
「それは変わるんだ」
「あの人がだれなのか、教えてくれる?」

 

(角川文庫「チェス盤の少女」(2020) 著:サム・ロイド 訳:大友香奈子 p.132)

 

 そのうちイライジャは自身を「ヘンゼル」と、そしてイリサを「グレーテル」と呼ぶようになった。あのグリム童話になぞらえて。ここは〈お菓子の家〉だ、と言って。

  彼はいつも地下室にいるわけではなく、たまに下りてきては去っていくだけで、イリサを監禁から解放する助けにはなりそうもない。加えて恐ろしい男の方はその合間に、ビデオカメラの前でまったく意図の不明なスピーチを行うように仕向けてくる……。

 男は囁く。

 

「言われるまでしゃべるな」

「イスに座れ」

「セリフを読むんだ」

「わかりましたと言え」

「ルールに従え」

 

「おまえの母さんがおまえをがっかりさせたことを、洗いざらい思いだして欲しいんだ。どんな小さな意地悪でも、どんな怠慢でも、どんな身勝手な行いでも、ひとつ残らず」

 

(角川文庫「チェス盤の少女」(2020) 著:サム・ロイド 訳:大友香奈子 p. 247)

 

 イリサはビデオカメラを覗き込む。

 

 ……男はどうしてこんなことをさせるのか。この誘拐犯の目的は?

 彼女は自分の家に、生きて帰ることができるのだろうか。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 

 

 徐々に加速していく展開と明かされていく真相に、特に最後の3分の1はページをめくる手が止まらなかった。とてもイギリスらしいテイストに彩られた、おすすめの作品です。

 日本語版は角川の文庫本か、電子書籍のKindleで。

 

 

 

 

ネタバレあり感想

※ここから先では物語の内容や詳細、結末に言及しています。

 サスペンス要素の強い作品なので、 事件の真相が徐々に明かされる読書体験を求めている方は何よりも先に本編を読むのがおすすめ。よければ本を閉じてから感想を共有してくださると嬉しいです。

 

 以下が個人的な読後語りでネタバレ要素あり。

 

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 

 ヘンゼルとグレーテル。

 

 魔女の罠にかかった兄と妹が、機転を利かせてお菓子の家から逃げ出し、晴れてほんとうの家に帰る。それが、グリムの編纂した童話の筋書きだ。

 なるほど、確かにこの「チェス盤の少女」もそうだった。

 けれど大きく異なる部分が二つある。ひとつは、イリサもカイルも、親から捨てられて森に取り残されたわけではなかったこと。もうひとつは、童話に出てくる兄妹と違って、二人の帰る家はそれぞれ別の場所になったという結末。

 指の骨に、あらゆる痕跡をついばむ鳥たち、「マジック」アニーの存在、冒頭からほのめかされていたいくつかのモチーフが結末に向かって融合し、2章の後半にたどり着く頃には読者にも一本の路が見えるようになる。

 残忍な魔女を殺して、逃げるのだ。

 

 問題は手段。どうやってそれを成し遂げるのか。

 提示された答えは、チェスにおけるクイーンズ・ギャンビットだった。

 序盤で優位に立つために、位の低い駒を犠牲にする。

 

 ……それで、二人はそれぞれの家に帰る。その意味がイリサとカイルとで異なっていようとも、ともかく、代償を払って脱出と再会とは果たされた。

 

 読み終わってみると、原題の「記憶の森(The Memory Wood)」の意味に、いくつもの要素が重なっているのが分かる。

 ムニエ・フィールズにあった実際の森だけではない。今までに葬られた数々の子供たちが存在した証である木の飾りや、イリサの脳内で展開される記憶の方法、そして何よりも……一度は行動を起こしたが失敗に終わってしまったばかりに、その心を守るため多層化し、異様に複雑な構造を持つに至った、カイルの意識。

 これこそまさにである。

 今までになかった異端分子であるイリサと出会い、最後は茂る葉の隙間から陽が射すように、枝分かれした人格と記憶の鍵が外され、彼は「イライジャ」ではないほんとうの自分を取り戻す。

 

「そういうふりをしてたんだ。とてもうまくふりをしていたら、しまいにはそう信じるようになっちゃった。おかしなもんだよね。何かを一生懸命思えば、ほんとうになるなんてさ」

 

(角川文庫「チェス盤の少女」(2020) 著:サム・ロイド 訳:大友香奈子 p. 466)

 

「身の回りのあらゆるものに強い信念を持っている」マジック・アニーのキャラクター造形は、あまりにも現実的、かつ身近で恐ろしく、だからこそこの童話における魔女の役割を効果的に果たしているのだと震えた。

 

 好みの話だったのでもっと同作者の小説が読みたいと思うも、これがサム・ロイドのデビュー作であり最新作。他タイトルの既刊はなく、肩を落としていたところで、なんと刊行予定の新作を見つけ飛び上がって喜んだ。

 2021年7月8日に発売されるのは、ザ・ライジング・タイド(The Rising Tide)という題の小説だ:

 

 事前に明かされた情報は少ないが、紹介文を読むかぎり「チェス盤の少女」と同じジャンルのドラマティックなスリラーで、表紙の「そろそろ彼女の最悪の悪夢が打ち寄せる頃」という一言にも期待が高まる。

 タイトルの意味は直訳すると「満ち潮」だ(ドキドキ)。

 

 当日になったらすぐにKindle版をダウンロードしてその世界に没頭しようと思う。日本語訳版が出るのは早くても1年後くらいになると思うので、こういう時は英語の本が原文で読めてほんとうに良かったー! と嬉しくなる。

 そもそもイギリスの物語や芸術作品に惹かれ、英語の本が読みたくて語学の勉強と留学をしていたので、こんな風に楽しめる時点でもう夢が叶っているのである。

 最高。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 この感想で伝わったかどうかは分かりませんが、「チェス盤の少女(The Memory Wood)」は面白い誘拐もののサスペンスでした。興味が湧きましたら、ぜひ手に取ってみて下さい。

 

 

 

 

夏目漱石の《文鳥》もういない人の幻を籠の中に視る官能|日本の近代文学

 

 

 

 

参考サイト・書籍:

青空文庫(電子図書館)

文鳥・夢十夜(著・夏目漱石 / 新潮文庫)

虞美人草(著・夏目漱石 / 新潮文庫)

 

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 夏目漱石が1908(明治41)年に発表した短編小説《文鳥》

 

 初めて読んだときは、冒頭から中盤にかけて、これは作中の「自分」が文鳥を飼うこととその様子を、淡々と繊細に描写した話なのだろう……と勝手に思い込んでページをめくっていた。

 実際、そんな感じで物語が進むのだ。しばらくの間は。

 だが中盤、とある段落に差し掛かってから、全ての描写がまったく違った色を帯びて目の前に現れてくる

 

 以前《倫敦塔》の感想を書いた際にも言及したが、漱石は「今ここにいないもの」の幻影を、まるで柔らかな霧や雨の向こうに在るがごとく描写するのが、本当に巧みだ。

《文鳥》は読者の官能に訴え、たとえば心の影の、少し湿った場所を手の甲でそっと撫ぜられる感覚と、割れた硝子の破片を拾おうとして指を切るのに似た痛みを、胸のどこかに残していく。

 

※この先、物語の内容や詳細に言及しています。

※また、生き物を飼育する行為やその死の描写が苦手な方には、読むことをおすすめ致しません。

 

目次:

 

あらすじ・概要

 

 ある年の秋、十月。

 主人公である「自分」の元に三重吉という人物がやってきて、ぜひ、鳥を飼ってみてはどうだろうか……と、唐突に提案をしてきた。

 

 それに対して適当に是と答え、これまた適当な額の金をぽんと渡しておいた結果、三重吉はかなり時間が経ってから文鳥と籠、餌の粟などをもって、再び彼の家を訪れる。

 霜が降り、戸を二重に締め切った、火鉢が必要なくらい寒く冷え込む初冬の日に。

 作中の「自分」は、小説を書いているようだ。

 

飯と飯の間はたいてい机に向って筆を握っていた。静かな時は自分で紙の上を走るペンの音を聞く事ができた。伽藍のような書斎へは誰も這入って来ない習慣であった。

 

 彼の人物像は、著者である夏目漱石自身とかなり重なる。

 また、実際の門下生にも鈴木三重吉という帝大生がいて、作品中に鳥を多く登場させるなどしていた。それから後に筆子という子供も出てくるが、これも漱石の長女と同じ名である。

 

 主人公は文鳥の世話の仕方をひととおり教わったが、どうも朝に布団から出るのが億劫だったり、仕事に集中していたりと、他のことに気を取られて世話がおろそかになりがちだ。それでもたまに家の誰かが水や餌を換えてくれることもあり、文鳥との生活は続いていた。

 小さな生き物を眺めているうちに、彼は誰かの面影を想起する。

 

昔し美しい女を知っていた。
(中略)
文鳥が自分を見た時、自分はふとこの女の事を思い出した。この女は今嫁に行った。自分が紫の帯上でいたずらをしたのは縁談のきまった二三日後である。

 

 この女性というのが、漱石の養父の妻の連れ子であり、一時期(小学生時代)ともに暮らしていた期間があった、ひとつ年上の日根野れんを意識して描かれているのではないかと推測されている。

 彼女はそのあと、軍人の家に嫁いだ。

 

 それからというもの、主人公はときおり昔の女性の幻影を、文鳥の仕草や煙草のけむりの中に視るようになった。飼育の日数が経過するに従って、鳥のさえずりは頻度を増し、音も磨かれて美しくなる。

 籠を縁側に置けば、「伽藍のように静かな書斎」に高らかな鳴き声が響いたものだった。

 

文鳥は箱から出ながら千代千代と二声鳴いた。

 

 だが、小説の執筆は佳境を迎えて忙しくなるし、相変わらず朝もだるくて遅くまで起きてこられない。

 そのため頻繁に文鳥の世話は忘れられ、昔の女の面影も浮かばなくなる。遅く帰ってきた夜などは、ついにその存在すら意識の外に追いやられた。

 

 やがて、ある日籠の中を覗いてみれば、文鳥の躯は硬く冷たくなっていた。

 

 彼はその亡骸を掌に抱いてから座布団へと放って、下女を呼んで片付けさせる。

 鳥を飼うきっかけとなった三重吉へと書いた手紙には、「家の者が」餌をやらないから死んでしまった、勝手に飼っておいて残酷なことだと、その責任を他者へ転嫁するような言葉を連ねて送った。

 手紙の返事の具合はこうだ。

 

午後三重吉から返事が来た。
文鳥は可愛想な事を致しましたとあるばかりで家人が悪いとも残酷だともいっこう書いてなかった

 

 この、物語の最後に凝縮されている苦みがなんとも表現しがたい。

 彼自身、文鳥の死は誰よりも自分の不精に責任があるのだと理解した上で、他にどうしようもなかったのだろう。きっと主人公は生涯を通し、折に触れて、その怠惰から一羽の鳥を死なせてしまったのだと思い返すに違いない。

 

 あらすじだけを辿れば随分とあっさりしている。この短編の妙は筋書きよりも、文章そのものにこそ宿っている。

 読者にもたらされた、ぎこちない終わりの余韻はささくれ立っていて、傷口が空気に触れるのも不快だと感じるほどだが……それでも各ページに凝縮された美しさは失われない。

 

 

 

 

《文鳥》の魅力

 前半後半で、作中に登場する要素の意味するところや、示唆するものが大きく変わる。

 そのうち文鳥の一挙一動が「もういない人」の姿に重なり、その対象への柔らかな想いが、決して直接的には描かれていないのに痛いほど伝わってくる。

 

  • 表出する著者の感覚

 同じ著者の小説「虞美人草」に、こんな一節があった。

 

女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必ず女である。男は必ず負ける。具象の籠の中に飼われて、個体の粟を喙んでは嬉しげに羽搏するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音を競うものは必ず斃れる。

 

(新潮文庫「虞美人草」(1951) 著・夏目漱石 p.33)

 

 なるほど、漱石の考える「女性のとある一面」は、彼の作品中ではこのように表現される場合があるらしい。

 女性が物事に相対する際の様子を、籠の中で粟をついばむ鳥に見立てる感覚は、実際に自身が鳥を飼ってみたことで培われたものなのだろうか。「虞美人草」の発表が明治40年で、「文鳥」の初出は明治41年の頃であるから、時期としては近い。

 それを踏まえたうえで、当時の彼が持っていた視点に思いを馳せる。

 

 また、作品の中にときおり登場する縁談という言葉。

 主人公が三重吉からたびたび相談を受けているらしいのが、どうやら若い誰かの縁談であり、文章中では「例の件」と抽象的に言われている出来事のようなのだ。

 

翌日眼が覚めるや否や、すぐ例の件を思いだした。

いくら当人が承知だって、そんな所へ嫁にやるのは行末よくあるまい、まだ子供だからどこへでも行けと云われる所へ行く気になるんだろう。いったん行けばむやみに出られるものじゃない。世の中には満足しながら不幸に陥って行く者がたくさんある。

 

 彼の語り口からすると、あまりこの縁談には良い印象を持っていないようす。そもそも縁談という、本人の意思以外のものが多分に介入する婚姻に対して、少なからず疑念を抱いている風にもとれる。

 

 文鳥を眺めていて思い出した昔の美しい女性。

 主人公がその人に「紫の帯上でいたずらをした」のは、彼女の「縁談のきまった二三日後」のことだった。わざわざその要素を話の中に登場させているくらいだから、きっとこの縁談にも何か思うところがあったに違いない。

 上の引用で「いったん行けばむやみに出られるものじゃない」と言葉にされたその直後、次の段落で文鳥の死を目の当たりにする部分も、なんとも示唆的である。

 なぜなら、飼われた鳥は基本的に籠から出られないので。

 

  • 思い出し、視ることの官能

 もうこの場所には存在しないものや誰かの姿を、何らかの依代(この場合は他ならぬ文鳥である)に憑依させて瞼の裏に呼び起こす行為は、どこか胸を高鳴らせる。

 小さな鳥の動きが、ぼんやりと彼の記憶の中の女性に重なる。

 

(人差し指を籠に)少し無遠慮に突き込んで見ると、文鳥は指の太いのに驚いて白い翼を乱して籠の中を騒ぎ廻るのみであった。二三度試みた後、自分は気の毒になって、この芸だけは永久に断念してしまった。

 

 昼間からこんなにもデリケートな、壊れやすく美しいものに触れる文章を読んでいると、真顔にならざるをえない。

 わずかに心拍数が上がり少し落ち着かなくもなるが、それはどちらかというと立ち上がってその辺をふらふら歩き発散するよりも、静かな部屋で座ったり寝転がったりして噛み締めたくなるような種類の、非常に繊細なものだ。

 

この女が机に凭れて何か考えているところを、後から、そっと行って、紫の帯上の房になった先を、長く垂らして、頸筋の細いあたりを、上から撫で廻したら、女はものう気に後を向いた。
その時女の眉は心持八の字に寄っていた。それで眼尻と口元には笑が萌していた。同時に恰好の好い頸を肩まですくめていた。

 

 当時の主人公がこの女性のことを具体的にどう思っていたのか、その感情がつぶさに描かれている部分は作中にない。ただ、ああこんな仕草をしていたな、こんな印象だったな、という彼の追憶が、淡々と文章で提示されるだけだ。

 それなのに、どうして相手を慈しむ眼差しや優しさが、ここまでひしひしと伝わってくるのだろう。

 

 朝、気怠くて布団から起きる気になれないままに煙草を吸う。新聞に目を通すのも面倒で、文鳥の籠も出してやらなければならないが、難儀で仕方がない。

 すると吐き出した煙のなかに昔の知り合いの女性が現れる。以前、些細ないたずらを仕掛けたときのように、ちょっと首をすくめて眉を寄せた相好で。

 それを幻視した主人公はにわかに居住まいを正して羽織を引っ掻け、縁側へと出るのだ。

 

昔紫の帯上でいたずらをした女が、座敷で仕事をしていた時、裏二階から懐中鏡で女の顔へ春の光線を反射させて楽しんだ事がある。女は薄紅くなった頬を上げて、繊い手を額の前に翳しながら、不思議そうに瞬きをした。

この女とこの文鳥とはおそらく同じ心持だろう。

 

 昔の女性が彼の心の中に残した思い出と、過去の美しい触れ合いの情景が尊い。

 

  • 観察の結果を言葉で綴る手腕

 人生を通して、文鳥という生き物を実際に眺めた経験が全くなかったとしても、この「文鳥」を読むとその姿が鮮やかに浮かんでくるから本当に不思議だと思う。

 単純に生き物の特徴を並べただけの文章なら、まずこうはならない。

 漱石の観察眼とそれを別の形にする表現力、双方が揃っているからこそ描き出せたものなのだ。

 

文鳥の眼は真黒である。瞼の周囲に細い淡紅色の絹糸を縫いつけたような筋が入っている。眼をぱちつかせるたびに絹糸が急に寄って一本になる。と思うとまた丸くなる。
籠を箱から出すや否や、文鳥は白い首をちょっと傾けながらこの黒い眼を移して始めて自分の顔を見た。そうしてちちと鳴いた。

 

 もはや観察日記のお手本のよう。「ぱちつかせる」という言い方も私は好きだ。

 作中には他にも「真珠を削ったような爪」で止まり木に掴まる様子や、粟をついばむときに嘴が容器を叩く澄んだ音、寒い日に片足だけを出しているところなど、はっとするほど細やかな一幕が並んでいる。

 水浴びの直前に聞こえた音のたとえも綺麗。

 

縁側でさらさら、さらさら云う。
(中略)
雛段をあるく、内裏雛の袴の襞の擦れる音とでも形容したらよかろうと思った。

 

 こればかりは私が説明をするより、実際に本文を読んでいただいた方が伝わる。当然だが……。

 

 今まで、なんだか難しそうだと思って漱石作品を敬遠していた人でも、この「文鳥」は短編なのできっと取り掛かりやすい。

 読者の世代や好みをあまり限定しない、広くおすすめできる作品。

 

 パブリックドメイン作品なので、以下のリンクから全文が読めます。

夏目漱石 - 文鳥 全文|青空文庫

 紙媒体で読みたい方はこちら。

 

 上の新潮文庫版巻末に掲載されている、三好行雄氏の解説もかなり良いです。

「平凡な日常性のかなたに〈夢〉を透視する漱石の資質……」という表現が使われていて、適格だと思います。夢といえばいずれ「夢十夜」のブログも更新しますのでお楽しみに。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 他の漱石の短編紹介:

 

近代文学いろいろ:

 

 

 

【アニメ版第1話・第2話】ジョーカー・ゲームの背景に登場する日本の近代建築や文化的要素

 

 

 

公式サイト・書籍:

TVアニメ『ジョーカー・ゲーム』

ジョーカー・ゲーム(角川文庫)(著・柳広司 / 絵・森美夏)

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 柳広司による小説作品「D機関シリーズ」。

 現在、角川文庫から既刊4巻が刊行されており、2016年4月からはProduction I.Gによって制作されたアニメーション(全12話)も放映されていた。それから、今年でちょうど5周年を迎える。

 私は基本的に原作のファンなのだが、映像化したことで街の様子や小物などをより具体的に想像できるようになり、近代好きとしては視聴していてとても楽しかった。

 この記事では主に、アニメ版「ジョーカー・ゲーム」で画面に登場したいくつかの建築物や、戦前の昭和を感じさせる特徴の数々に目を向けて、当時の文化に思いを馳せてみることとする。

※ここから先、物語に軽く言及しています。鑑賞前のネタバレに注意。

 

 

◇アニメ版1話&2話の時系列:

 昭和14(1939)年の春。

 

◇原作本文との相違点:

 ゲーム中の学生の発言「先年、ロンドンで行われた軍縮会議(1930年)の時の日本が~」の部分が、アニメ版では地名が「ワシントン」になり、発言者も結城中佐に変わっている。

 史実におけるワシントン会議は1922年。

 

建物および交通

  • 参謀本部と銅像

 第1話・第2話では佐久間が何度かここに出入りする。当時の所在地は東京府、麹町区永田町。

 綺麗な屋根が特徴的な参謀本部の庁舎は、当時教師として来日していたイタリア人、カッペレッティによる設計で、明治14年に竣工した。明治27年に起こった地震で被災したため、その4年後に本部の機能を隣の新館へと移している。

 やがて昭和16年になると、陸軍省と参謀本部はここから市ヶ谷へと移転するので、劇中で見られる姿はその直前ということになる。

 また、建物の前に鎮座する騎馬像は、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王をかたどったもの。彼は明治元年に東征大総督という任に就き、同年4月の江戸開城に貢献した。

参考:中央官庁の集積地 ~ 霞が関・永田町 | このまちアーカイブス | 三井住友トラスト不動産

 

  • 国会議事堂

 ほんの一瞬だが国会議事堂が出てくる。これは大正9年(1920年)に着工、そこから17年にわたる長い工事の後、昭和11年(1936年)に竣工した。なので、アニメ第1話・第2話の時点では完成してからまだ3年しか経っていない、できたてほやほやの状態。

 丈夫な鉄骨鉄筋コンクリート造りということもあり、工事中の大正12年(1929年)に起こった関東大震災でも、被害を免れた箇所が多い。

 参議院のページ 「国会議事堂案内 国会外景」に色々な説明が載っている。貴重な当時の白黒写真や、建物細部のレリーフ、照明などは必見。

 

  • 服部時計店

 ゴードン邸から視点がズームアウトする際、大通りの交差点に面して、目立つ隅丸建築が建っているのが分かる。昭和7(1932)年に竣工した、服部時計店(現セイコーホールディングス株式会社)の「二代目」時計塔がそれだ。

 今では和光本館として知られ、近代化産業遺産にも認定されている。

 ネオ・ルネッサンス様式を踏襲した優美な時計塔、震災にも耐えうるように選ばれた石の素材と、窓などに施された繊細な装飾……。まさに、銀座のシンボルと言ってもいい存在。

 設計を手掛けた渡辺仁は他にも、日本航空や東京ガスの会長を務めた、原邦造の邸宅(昭和13年竣工)にも携わっている。これは原美術館として最近まで開館していたが、主に老朽化を理由として2021年1月に閉館となった。

参考:和光と時計塔の歴史

 

  • 東京駅

 第2話の中盤で佐久間の背景に描かれたのが、言わずと知れた東京駅の丸の内駅舎

 辰野金吾による設計で1914年(大正3年)に竣工した。後の第二次大戦中に空襲で大きな被害を受けたため、現在でも見られる駅の外観は、2012年の工事で復元されたものとなる。その際、3階部分が省略されたり、南北のドーム部分が取り払われたりした。

 東京駅丸ノ内本屋として国の重要文化財に指定されている。

 

  • 明治生命館

 上の場面で東京駅が映り込んだ直後に、この白い明治生命館も登場する。設計は岡田信一郎。つまり、佐久間が歩いていたのは現在の日比谷通りということになる。

 1934年(昭和9年)に竣工した荘厳な古典主義の外観と、古代ギリシアを思わせるコリント式の柱が特徴的だ。皇居の堀と三菱一号館に挟まれても、緊張している様子などまったくない。

 国会議事堂と同じ鉄骨鉄筋コンクリート造りで、柱頭にあしらわれているアカンサスの葉の意匠は、建物内部1階の天井にも見ることができる。戦後の一時期はGHQにより接収されていた。

 内部は特定の日時においてのみ、無料で一般公開されている。

公式サイト:明治生命館|国指定重要文化財

 

  • 路面電車

 第1話・第2話で幾度となく画面を横切る路面電車

 その多くは車体が緑とクリームの二色で塗り分けられており、記載されている番号は5013だ。すなわち、東京市電の5000形である(第二次大戦後に都電と改称)。実際に5013~5024の車体が製造されたのは昭和18年のことなので、本来、設定が昭和14年の世界には存在しないはず。

 アニメ劇中ではそれらしい架空の車体として、あえて5013を登場させたということなのだろう。

 実はジョーカー・ゲームで描かれる昭和初期の頃、東京市電は関東大震災からの復興に尽力しつつも、経済恐慌や車(バス、1円タクシー)の台頭を受けてなかなかの苦境を経験していたそうだ。

 その後も第二次大戦中には空襲被害に遭い、なんとか持ち直した時期があったものの、昭和38年の杉並線廃止を皮切りとして衰退の一途を辿った。

 

  • その他

D機関の周辺

 アニメにおける〈大東亞文化協會〉の外観、赤レンガの積み方が何を採用しているのかはちょっと判別ができず。所在地の設定は九段坂下、愛国婦人会本部の裏手となっている(原作本文参照)。

〈大東亞文化協會〉の建物隣には「名峰堂薬局」と号を掲げた看板建築があり、向かいには「大帝都印刷」の表記が見えた。手前の電柱にも「○○眼科」という広告が出ている。そういった細かい部分に目を凝らすのが楽しい。

 

昭和初期のカフェ事情

 D機関の学生たちが夜の街に繰り出すシーンでは、一時停止しないと追いきれないほどの看板およびネオンがきらめいている。

「喫茶ノグチ」「喫茶トランジスタ」「カフェ メアリー」系の表記もあれば、「夜汽車」や「紅桜」などちょっと怪しいものまで様々だ。

 一般にカフェというと純喫茶を思い浮かべる人の割合が多いと思うが、料理よりも女給との接触と酒に重きを置いた、「特殊飲食店としてのカフェー」が脳裏をよぎる人も割といるはず。私はどちらにも興味がある。

 関東大震災以降、特殊なカフェーの件数は増加。そもそもこの区分が生まれたのも、昭和初期に警察が規制を強め、純喫茶とそうでない店を分ける必要が生じたからだった。

 同じ時代に生きたD機関の学生たちが遊んでいるところ、ちょっと覗きたい。

参考サイト:大正2年〜昭和14年・都市文化の勃興とビール (1)新しい娯楽施設「カフェー」の隆盛|キリン歴史ミュージアム

 

小物や文化的要素

  • 腕時計

 佐久間が食堂へ水を取りに行く際、窓際に置いていた腕時計

 盤面にはSHIRATOと書かれている。枠にはJAPANとも。実際にその名前の時計製造会社は存在していないため、おそらくアニメ版ジョーカー・ゲームのチーフリサーチャー、白土晴一氏の名前から取ったものだろうと推測した。

 日本で初めて作られた腕時計は精工舎(セイコー)の「ローレル」であるらしく、発売は1913(大正2)年のこと。劇中の時間に重なる昭和12~14年の頃は、日中戦争や第二次世界大戦の影響で、セイコーも時計より兵器の生産に注力する必要があった。

参考:第一期:世界を追いかける(1881~1920年代) | 会社と製品の歴史 | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座

 

  • 黒い車

 ゴードン邸前に停められていた車は「ダットサン セダン」に似ている。正面の意匠がそれらしい感じ。ただ、16型なのか17型なのかまでは分からなかった。

 もしも17型であれば、日産自動車から1938年(昭和13年)に発売されたものなので、この家宅捜索が昭和14年であることを考えると当時としては最新のものになる。

 上のセイコーをはじめとした時計会社と同じく、自動車など製造系の他の会社も戦争の機運が高まると、乗用車より軍需用トラックなどの製造に力を入れざるを得なかった、

参考:NISSAN HERITAGE COLLECTION online

 

  • 広告気球(アドバルーン)

 アニメ版ジョーカー・ゲームでは何度かアドバルーンが映る場面がある。目を凝らすと、旗の部分には「祝 浪漫科学館開館」「○屋呉服店大賣出し」などと書かれているようだ。

 戦前まではこうした広告気球が、各店舗や会社だけでなく帝国陸軍においても使われていた。だが昭和14年を境にして、アドバルーンや百貨店の大売出しが禁止されている。それだけではなく、商品の宣伝自体が鳴りを潜め、ほとんどの張り紙が国威発揚、戦意高揚を目的としたものに変わった。

 ちょうど、JGの第1話・第2話がそれと同じ年であるのだと認識して視聴すると、あの宙に浮かんだ球体も何かの象徴のように思えてくる。

参考:ニッポン広告史 昭和篇 初期から戦中・終戦まで  | アドミュージアム東京

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 アニメ版は他に第8話・第9話の「ダブル・ジョーカー」、第10話の「追跡」、そして第11話の「XX ダブル・クロス」で当時の日本の様子が描かれている。

 今後それらに登場するものも順にまとめてみたい。

 

 

 

Amazon.co.jp:ジョーカー・ゲームを観る | Prime Video

 

 ほか、明治村の聖地などまとめ:

 

 

 

 

愛蔵版《シェーラ姫の冒険》と《新シェーラ姫の冒険》人間を愛する魔神たちのまなざし

 

 

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 まだ幼いころ夢中になって読んだだけでなく、いまでも自分の心を捉えて離さない。

 もしも、そんな児童文学作品をひとつ選んで挙げなさいと言われたら、私は間違いなく「シェーラ姫の冒険です」と答えるだろう。

 

目次:

 

書籍:

シェーラ姫の冒険 愛蔵版 [全2巻](著・村山早紀 / 絵・佐竹美保 / 童心社)

新シェーラ姫の冒険 愛蔵版 [全2巻](著・村山早紀 / 絵・佐竹美保 / 童心社)

 

 

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 先日、注文していた上の二作品が手元に届いた。

 それからすぐにページを開いて読み始め、かつて夢中になった物語に大人になってからまた没入する、この愛しくも不思議な感覚を存分に楽しんでいたところだ。

 現在の私を生かしているのは、こういう読書体験そのものなのだと改めて実感した。

 

 主に1990~2000年ごろ生まれた方々の中で、児童書ブランドのフォア文庫から発刊された「シェーラひめのぼうけん」のタイトルを知っている、あるいは幼少期を実際にその本と共に過ごした、と振り返る人の数は決して少なくない。

 フォア文庫版の刊行から約20年の時が経過して、シェーラ姫の冒険、そして続編である新シェーラ姫の冒険愛蔵版としてよみがえり、また新しい歴史を刻もうとしている。

 この記事では、私の個人的な物語への想いを綴るのに加えて、何度読み返してもぐっとくる部分を抽出して紹介したい。

 

※ここから先、おおまかな筋書き登場人物の特徴などに軽く触れているので、それらを知る前に作品を読みたい派の方はブラウザバックして、ぜひ書店やオンライン販売ページへ。

 

思い出に刻まれた物語

  • シェーラ姫の冒険

 出会いはたしか、小学1年生の頃だった。

 

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 場所は意外にも、図書室ではなく教室だったと記憶している。担任の先生がいくつかのおすすめ書籍を教壇脇の棚に置いていて、生徒は休み時間にそこから好きな一冊を選び、自由に借りることができたのだ。

 その棚の隅にあったのが、他でもない「シェーラひめのぼうけん」第1巻の「魔神の指輪」と、第2巻の「うしなわれた秘宝」だった。

 魅力的な表紙と挿画は当時から佐竹美保氏が手掛けていて、遠い異国を思わせる衣装を着た子供たちと建物、また空を飛んでいる絨毯などのヴィシュアルに惹かれて、私は手を伸ばした。

 

 危機に見舞われた王国を救うため、仲間と共に姫君が旅に出る。

 そんな王道のわくわくする物語は、自分の現在の生活にも繋がる、さまざまな興味の原点を心の中に刻んでくれた。

 今では頻繁に旅行をするようになったのも、遠く離れた土地のことを調べる面白さを知ったのも、こんな風にむかし触れた文学作品から影響を受けている部分もきっと大きい。

 

 巻ごとに展開される、作中世界の地域ごとの風景や文化的な要素に加えて、もうひとつ特筆したいのは魅力的な登場人物たちの造形と心情描写である。

 たとえば、可憐な容姿と怪力を持つシェーラザード王国の姫・シェーラは、いつも前向きで明るく、優しさと強い正義感をあわせ持つ、まさに児童文学の主人公らしいキャラクターだ。

 けれど一方では、立派な王であった父と自分の現状を比べて力不足を嘆いたり、自分は子供としてどう思われていたのか、本当に愛されていたのかと悩んだりする場面も見られる。

 

 それから彼女に付き従う魔法使いの少年・ファリード。聡明で地道な努力家でもあるが、自分に自信がなく、悩みながらもシェーラの力になりたいと願い、そばで支え続けている幼馴染だ。

 そんな彼が抱えた幼少期のトラウマや父母との関係、家庭環境もかなり複雑なもの。物語の中盤で彼自身が発した「ぼくは身のうちに闇を抱えている」という言葉に、どきりとさせられた読者も少なくはないはず……。

 

 また個人的に、海賊船の船長シンドバッドには非常に色々なことを考えさせられた。

 積極的に死地へと身を投じるわけではないけれど、いつも心に空虚さを飼っていて、いざとなれば自分の命をためらいなく捨てられる危うさがある。だからこそ英雄的な働きができ周囲からは賞賛されるが、分かる人にはその後ろ暗さが透けてしまうという、幼少期の自分にとってはなんだか深遠なキャラクターだった。

 

 それらを大人になってから読み返して、はじめて認識できる味わい深さがあるのも、シェーラ姫の冒険の特徴だと思う。

 

 

 

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  • 新シェーラ姫の冒険

 さて、大いなる脅威との戦いに勝ち、王国へと帰った姫君と魔法使いの物語は、やがて子供たちへと受け継がれた……。それが続編である新シェーラ姫の冒険の幕開け。

 古に存在した、魔法使いの王国と錬金術の王国との争いをきっかけに引き起こされた災禍が、永い時間をこえて形を変え、また人々の前に立ちはだかることになる。

 活路を見出すための旅の途中、少年少女はたくさんの人々に出会う。

 

 ここで正直に白状したいのだが、私は小学生だった当時、新シェーラの第9巻である「死をうたう少年」の時点で、お話を読むのをやめてしまっていた。だから今回購入した愛蔵版で、はじめて物語の結末に触れることになったのだ。

 理由として、その頃の自分は新シェーラで描かれていた大きなテーマや課題を、実感をもって受け止めることができなかったからだと思う。

 

 新シェーラを再読してみてまず感じたのは、前作に比べても、登場人物の葛藤や世界に対する向き合い方が、かなり現在の私たちに近い場所にあるのだということだった。それは……

  • 他人から見た自分という存在には、果たして価値があるのだろうか?
  • また、人間の価値は何によって定義されるのだろうか?
  • そもそも、幾度となく過ちを繰り返し続ける人類に、存在する意義はあるのだろうか?

 のような、普遍的かつ根源的な問い。

 この世界に生きて、一度でも物事を深く考えたことがある人であれば、必ずぶつかる壁のようなもの。

 

 今でこそそれらについて悩み、答えを探しながら歩む毎日だが、きっと小学校低学年の私にはまだ難しかったのだろう。それは、ある意味では幸せなことだったのかもしれない……(別に昔へ戻りたくはないのだけれど)。

 この部分からは、児童向けの文庫でこういったテーマをごまかすことなく追求しようとした、作者の村山先生の想いを感じられる気がする。

 子供だった頃にきちんと受け止められなかった物語は、しばらくの時を経て、大人になったひとりの読者のもとにしっかり届きました、と叶うならば伝えたい。

 

 

 

 

人を愛する魔神たちのまなざし

 ここからはごくごく個人的な好みによる、「シェーラ姫の冒険」と「新シェーラ姫の冒険」のなかで、特に推したい要素をつらつら語ることにする。

 よかったらついてきて下さると嬉しい。

 物語を通して読者の私が心を傾けてやまないのは、何といっても魔神たちの存在だ。

 

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 シェーラたちの生きる世界には、一概に魔神といってもかなり多様な種類が存在する。

 格の高いものもいれば低級のものもいて、善良であったり、邪悪であったり、あるいはそのどちらでもなかったり。自然のエレメントから生まれたものもいれば人工のものもいる。

 魔神同士は過度に干渉しないのを不文律としていて、互いの契約を尊重するため、魔神によってかけられた呪いはその張本人でなければ基本的には解くことができないらしい。それこそ、神さまでもないかぎり……。

 

 シェーラ姫とその娘たちにも、それより遥か昔に生きた王や王子、姫君たちにも、まるで友人のようにそっと寄り添う魔神たちがいた。私は、彼らのことが本当に好きだ。

 彼らが愛おしい人間を見守るときの、慈愛に満ちた、どうしようもなく切ないまなざしが好きなのだ。

 いくど月日を重ねても変わらず、永遠に近い時を生き続ける魔神たちにとって、有限の命を持つヒトの存在はとても儚い。どれほど共にいたいと願ってもいつかは必ず別れが訪れる。それを悲しんで何らかの行動に移したり、反対に世の摂理であるのだと受け入れたりする際の想いが、胸を打つ。

 

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「シェーラ姫の冒険」と「新シェーラ姫の冒険」を通して、特に愛した人間との関わりが多く描写されている魔神が、三体いる。

 ここでは、本編で登場する時系列とはあえて逆の順番に紹介してみたい。

 

  • 錬金術の王国の魔神

 魔神に性別の概念はないけれど、人の青年のような姿をとっていたこの魔神のことは、便宜上「彼」と呼んでみる。土と水から生まれた存在なのだそうだ。

 遠い過去、錬金術の王国で守護神として祀られていた彼は、とても賢く優しいその国の王子を深く愛していた。けれど王子はあるとき未来を垣間見て、いずれ自分は大人になれないまま死んでしまうことと、王国も同じように滅びる運命にあることを知ってしまう。

 それを恐れた王子は、よき友人だった魔神の力を借りて、この世界から少し位相のずれた荒野に黒水晶と雲母でできた屋敷を建て、そこへ逃げ込むことにしたのだ。永劫に時間を止めて……だんだんとほころぶ身体は、からくりへと作り替えて。

 

錬金術の王国の王子は、そうして時から切り離されました。
遠い昔、二つの大国の争いが終わるより前のこと、砂漠にシェーラザード王国ができる、それよりも何千年も昔の、遠い時代のことでした。

 

(童心社 愛蔵版 新シェーラ姫の冒険(2021) 著・村山早紀 下巻p.291)

 

 自分の国が戦争で滅んでも、彼はその屋敷で音楽を奏でながら、己ひとりだけが助かるための選択をした後悔を抱えて過ごしている。

 そうして、いつも悲しそうにうなだれている王子のそばに、見えないけれども魔神はずっといて、荒野で彼のために涙を流す。決して離れずに、そばで見守っているのだった。

 言葉にできないくらい美しい関係性だと思う。

 この王子が最終的に何を選択したのかは、実際に「新シェーラ姫の冒険」の本編を読めば明らかになるだろう。

 

  • 夢魔の王 翼持つものラーニャ

 魔神は自らが好むものにその姿を変えることができるそうだ。

 ならば、背中に輝く翼を持つ、大きな銀色のペルシャ猫として過ごしているこの魔神は、果たしてどんな性格をしているのだろうか? ……きっと気まぐれかつ悪戯好きで、好奇心旺盛で、己が認めた者に対しては比類なき愛情を注ごうとするタイプだろう。

 火と風と土から生まれた魔神、ラーニャの眼は綺麗な緑色をしている。

 

 物語の舞台となる時から千と百年の昔、伝説の魔法の杖に自らの魂を封じ込めた、ラシードと呼ばれる魔術師の王がいた。ラーニャは彼の親友だったのだ。ラシード王がまだ幼い頃から一緒にいて、その生涯でたくさんの冒険の旅を経験した、相棒のような存在。

 最期に、疫病で亡くなった両親と民を死から救おうとした無理な魔法がたたり、病床に臥した王を目の当たりにしてラーニャは願った。このまま魔神の国へ、永遠に死ぬことのない黄昏の世界へと、彼の魂を連れて行くことができたらと。

 けれどラシードは後世のために、魔法の力と自らの魂の一部を杖に封じ込めて残すことを望んだ。そうしてしまえば魔神の国には行けず、たちまちに命が尽きてしまうのだとしても。

 ラーニャは彼の意向に沿って、杖の水晶の中で長い眠りにつくことにした。愛しい者の意志と共にあるために。

 

「……人間って、なんなのかしらねえ」
(中略)
「どんなに愛しても、強く抱きしめても、手の中からすり抜けていってしまう。花みたいにはかなくて、風みたいに消えてしまって。弱くて。でも強くて。それが、人間。人間たち」

 

(童心社 愛蔵版 シェーラ姫の冒険(2019) 著・村山早紀 下巻p.362)

 

  • 千の瞳の王 アルフ・ライラ・ワ・ライラ

 火と風と水から生まれた、砂漠の世界で最強と畏れられる魔神こそが、アルフ・ライラ・ワ・ライラ

 普段は少女のような姿をとっていて、であるシェーラ姫からは「ライラ」の愛称で呼ばれ、虹色月長石の指輪に封印されている。

 ライラもまた、人間に特別な強い思いを寄せている魔神のひとりだが、その因縁の起源は実のところ、シェーラが生まれるよりも二百年ほど前にさかのぼる。

 

 ……砂漠の王国にサイーダという姫君がいた。彼女は非常に聡明で、芸事にもすぐれた才を持っていたが、邪悪な継母によって塔に幽閉されていたため、とても孤独だったの。

 ライラは彼女のリュートの音色を聞きそめ、十日十夜にわたる「歌と詩と謎かけの勝負」をもちかける。

 そしてライラは最終的に勝利したサイーダの願いを叶え、友人として自ら指輪の中に封じられた。以来、彼女の生涯にわたってその身を守護し、今際の際には上記のラーニャと同じように、永遠に変わらない魔神の国で共に暮らそうと提案する。

 それを断ったサイーダは息を引き取ると、またたくまに魂は天上へと昇り、もうライラと会ったり話したりすることはできなくなってしまった。

 

 この出来事は「永遠」を生きる魔神であるライラの胸に、あまりにも短い「有限」を運命づけられた人間の儚さを強く刻み付けることになる。

 

「初めて見たとき、サイーダさまがもう一度帰って来てくれたのかと思ったものだ。だが、一緒に旅をするうちに、わたしはシェーラ姫のことをも好きになった。サイーダさまの月のような優雅さとはちがうけれど、太陽のようなまっすぐな心を愛するようになったのだ」

 

(童心社 愛蔵版 シェーラ姫の冒険(2019) 著・村山早紀 下巻p.255)

 

 人間を愛する魔神たちは、往々にして強大な力深奥な知恵を持っているが、決して万能でも無謬でもない。

 そんな彼らが物語とどんな風にかかわり、私たちの前を通り過ぎるときにどんな軌跡を残すのかが、個人的に「シェーラ姫の冒険」を紐解く際にはじっと注目してしまうところなのである。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 こうして感想を書いてみて、お話への愛着がいっそう深まった。まだ愛蔵版が手元に届いたばかりの興奮が冷めないうちに、また次の休日にでも通しで読み返そうと思う。

 シェーラ姫の冒険が大好きです。これからもずっと。

 

 

 

 

 

 

Odai「わたしの宝物」

空を仰いで想うのは:星の王子さまミュージアム・箱根|サン=テグジュペリ

 

 

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参考サイト・書籍:

TBS「星の王子さまミュージアム 箱根サン=テグジュペリ」(公式サイト)

星の王子さま(著・サン=テグジュペリ / 訳・内藤濯 / 岩波文庫)

夜間飛行(著・サン=テグジュペリ / 訳・堀口大學/ 新潮文庫)

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 県境をまたがない散歩に出掛けた。自分の地元でありながら、神奈川県内の魅力的な場所すべてを把握できているとはとても言いがたく、いつ、どこをふらついていても必ず新しいものに出会う。

 こうして箱根を訪れたのはもう何度目になるだろう。

 最近では一昨年の1月に大涌谷へと足を運び、道中で土木遺産・近代化産業遺産である「箱根登山鉄道」に乗り込んで、その歴史や車窓からの景色を楽しんだ。

 

 

 上の記事には2019年に発生した台風19号が通過するより前、まだ土砂災害の被害を受けていない現地の様子を記録しているので、興味があれば読んでみてほしい。

 さて、今回覗いてみたかったのはここ。

 箱根の中でも北部、仙石原(せんごくはら)エリアにある多様な美術館のうちのひとつ……星の王子さまミュージアム

 

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 フランスの都市リヨン生まれのアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(1900~1944)は、優秀な成績を残したパイロットであり、また寡作ながら深く心に刻まれる作品を生み出した小説家でもある。

 代表的な「星の王子さま」は私にとって本当に重要な物語で、今までに何度も読み返していたが、もう一つの代表作「夜間飛行」を手に取ったのはこの訪問がきっかけとなる。どのように表現すべきか分からないが、昔から抱いていたとある感覚を、展示で彼の生涯を辿っているうちにはっきりと思い出した。

 それは、空を飛ぶという行為は何よりも特別なことである……という確信。頭上の世界に対する一種の憧憬でもある。

 翼を持つ生き物とそれを模した機械、さらにその機械を操縦する存在に対する、畏敬にも似た大きなあこがれだった。

 

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 写真をご覧いただけると分かると思うが、この「星の王子さまミュージアム」の敷地内に再現されているのは、作者ゆかりの城や街並みであったり、幼少期に庭師へ心を寄せたエピソードを意識したガーデンだったりする。個人的にはとても気分が癒された(特に花粉のせいで心が荒んでいたので)。

 中央部には展示ホールがあって、そこではサン=テグジュペリの人生の軌跡を辿りながら、直筆原稿や手紙といった貴重な資料を眺められる。

 とりわけ興味深かったのは彼の飛行士としての一面をたくさん垣間見られた部分と、愛した妻コンスエロとの関係、そして親友レオン・ヴェルトが作品にどのような形で影響を及ぼしたのかを感じられたことだった。

 サン=テグジュペリが人格からして優れていたとか、聖人のようであったとは全く思わない。それでも彼の心が抱き続けた純粋さ、どこまでも優しく柔らかな一面、あるいはその意志を貫こうとする芯の強さは、本文からはっきりと感じられる。

 決して順風満帆とはいかなかったであろう人生、その風雨の中を懸命に飛び続けた、孤独な旅人の背中を想う。

 

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 遥かな空と対峙するとき、操縦士たる彼は一人だ。たとえ同じ機の内部に無電技師がいようとも、俯瞰する街のどこかに家族や友人がいようとも。

 ふと「夜間飛行」の描写を脳裏に浮かべる。

 

いまのファビアンは、自分に向かって叫ばれるあらゆる忠告に従ったはずだ。

(中略)

誰かがファビアンに「二百四十度の方向に……」と命令してくれたら、彼は機首を二百四十度の方向へ向けるだろう。それなのに、彼は今ひとりぼっちだった。

 

(新潮文庫 夜間飛行(1956) 著・サン=テグジュペリ、訳・堀口大學 p.106-107)

 

 夜間の郵便飛行をおこなうパイロット(ファビアン)は、ブエノスアイレスに帰還する途中で暴風雨に襲われ、進路を見失う。雷のせいで無線通信を行うこともできない。残りわずかな燃料で陸地を探そうと試みたがことごとく失敗に終わり、葛藤の末……ついに彼は雲の上へと出ることを決めた。

 頭上の雲の切れ間、わずかに覗く星影に引き寄せられるかのように。やがて眼前に広がったのはあまりにも美しい銀色の「死」の光景。

 それは不帰の路だった。もう二度と、生きて地上には帰れない。

 

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 上のフランス式庭園と建物のレプリカは、サン=テグジュペリが幼少期を過ごしたサン=モーリス・ド・レマンス城を模したものだ。本物はリヨンにある。

 ライト兄弟が飛行テストを行うよりも数年前に生まれた彼は、小さな頃から物語の種を大切に育み、そのうち昼夜を問わず空の世界に惹かれるようになり、兵役の服役中に飛行連隊に入隊した。

 これはまだ黎明期の分野であり、飛行士という職業が周囲の理解を得るのは難しかったことが当時の記録から伺える。

 幸福な婚約のため一度は夢をあきらめたが、その破棄をはじめとして襲う苦労の連続、紆余曲折を経てサン=テグジュペリは再び飛行士試験を受け、合格した。郵便飛行路線での勤務の開始だ。

 しかし、それからもままならぬ日々にはときおり暗雲が立ち込め、決して短くない期間、その頭上に影を落とした。

 多くの幸せと悲しみを経験した飛行士兼作家が行方不明になったのは、1944年7月31日のこと。地中海コルシカ島から偵察のために飛び立った彼は、そのまま帰らぬ人となった。後の1998年にマルセイユ沖からブレスレットが引き揚げられ、彼を撃墜したパイロットの証言も得られた結果、その死は決定的なものとなる。

 

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 私が「星の王子さま」の中でとりわけ心を打たれるのは、誰かと〈仲よくなる〉というのはそもそもどういうことなのか、そして築いた関係性を稀有なものたらしめる要素は一体何なのかが、キツネと王子さまとの会話を通して巧みに描写されている部分だ。

 その誰かにとって、視界には映るけれどどうでもいい存在や、いなくなっても替えのきくような存在だったものが、世界で一つしかない「かけがえのないもの」に変化するとき。

 時間を費やすこと。

 すなわち、「ひまつぶし」するということ。

 

「(前略)あのキツネは、はじめ、十万ものキツネとおんなじだった。だけど、いまじゃ、もう、ぼくの友だちになってるんだから、この世に一匹しかいないキツネなんだよ」

 

(岩波文庫 星の王子さま(2017) 著・サン=テグジュペリ、訳・内藤濯 p.139)

 

 そもそも王子さまは、深く愛してはいたが非常に気難しいバラの花といさかいを起こして自分の星を離れ、彷徨った先でキツネと出会ったのだった。

 彼は自分にとって「唯一」だったバラの花が、実のところ他の星にもたくさん生えているありふれたものなのだと落胆し、ひどく嘆く。

 けれどキツネは、あらゆる関係性の本質を考える手掛かりをくれた。そうして王子さまは気がつくのだ。

 

「あの一輪の花が、ぼくには、あんたたちみんなよりも、たいせつなんだ。だって、ぼくが水をかけた花なんだからね。覆いガラスもかけてやったんだからね。ついたてで、風にあたらないようにしてやったんだからね。ケムシを……二つ三つはチョウになるように殺さずにおいたけど……殺してやった花なんだからね。

(中略)

ぼくのものになった花なんだからね」

 

(岩波文庫 星の王子さま(2017) 著・サン=テグジュペリ、訳・内藤濯 p.139-140)

 

  そんな彼に、キツネは言う。

 

「あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思ってるのはね、そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ」

 (中略)

「めんどうみたあいてには、いつまでも責任があるんだ。まもらなけりゃならないんだよ、バラの花との約束をね……」

 

(岩波文庫 星の王子さま(2017) 著・サン=テグジュペリ、訳・内藤濯 p.141)

 

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 私はこの物語にいつ邂逅するのが正解だったのか、未だに分からない。

 過去、こんな風に物事を説明してみせるだけの能力がもしも自分にあったのなら、誰かに対して望まないことを言ってしまわずとも済んだのだろうか、と思う。不意に思い出して、対処法の存在しない悲しみに胸を痛める機会もずいぶんと減ったかもしれない。

 けれどそれは、どうしても分からないことなのだ。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 星の王子さまミュージアムを訪れるのには箱根登山バスか、強羅駅から出ている観光めぐりバス、あるいは新宿駅発の小田原箱根高速バスを利用するのが便利です。もちろん乗用車でも。

 徒歩だと駅からは遠いので(強羅から1時間半以上はかかります)、特別な理由がない限りは選択しないのが無難。

 サン=テグジュペリの作品、ぜひ読んでみてくださいね。

 

 

 

 

 

 

《義血侠血》泉鏡花 - 巡り合わせの妙と、下された評決の先に残る絆|近代日本のロマン主義的文学作品

 

 

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金沢なる浅野川の磧(かわら)は、宵々ごとに納涼の人出のために熱了せられぬ。

 

 泉鏡花の小説、また戯曲は、第一に取っつきにくい。そしてどうにか取っついたとしても、読み進めるのが難しく、かつては紐解こうとしたけど断念してしまった。あるいはとにかく表現が晦渋だ。

 ……などなど。

 現代、令和の時代を生きる読者にとって、鏡花の作品はそんな風に捉えられがちである。

 確かに諸手を挙げて「親しみやすい」とは言いがたい。私も始めて彼の作品に興味を持った中学生の頃は、お話の内容を理解するのに精一杯で、洗練された文章の美しさや著者の持ち味にまで意識を向けるのはなかなかできなかったのを記憶している。

 今でもその魅力を十二分に理解できているわけではないけれど、泉鏡花の物語は本当に面白い、とためらいなく口にできるくらいには作品の良さを知ったし、何度も繰り返して読むほどにその念は強くなる。もっと知りたい、と思わされる。

 その一端を伝えられれば……。

 

参考サイト・書籍:

青空文庫(電子図書館)

泉鏡花記念館(記念館ウェブサイト)

外科室・海城発電(著・泉鏡花 / 岩波文庫)

高野聖(著・泉鏡花 / 集英社文庫)

 

目次:

 

泉鏡花(1873~1939)

 彼は明治6年、北陸における「小京都」と称されて独特な文化の花開く、石川県金沢市に生まれた。名高い加賀百万石の城下町である。

 9歳の頃に死別した母・鈴は江戸の生まれで、大鼓師の娘であったことから能楽に造詣があり、子である鏡花も彼女の影響を少なからず受けていたのだろうと伺える。加えて父は彫金師であり、加賀藩の細工方を務める金工の弟子だった。

 そんな鏡花に人生の転機が訪れたのは明治20年の頃。

 通っていた北陸英和学校を中退し、数々の小説を読み漁る生活を始め……さらに18歳となる明治23年には、本格的に文学を志し東京へ出る決意を固める。それも、かの尾崎紅葉の作品に心を動かされたために。紅葉に弟子として迎え入れられた鏡花は、もはや崇拝にも近い、師への強い敬愛とともに自らの小説を磨き上げていった。

 これから紹介する作品《義血侠血》「ぎけつきょうけつ」と読む。明治27年、11月中の読売新聞に掲載されていた、彼の代表的な作品の中でも最初期に発表されたものだ。

 

 

 

  • 《義血侠血》あらすじ

一、乗り合い馬車の御者と乗客

 物語は富山の高岡から始まる。

 

越中高岡より倶利伽羅下の建場なる石動(いするぎ)まで、四里八町が間を定時発の乗り合い馬車あり。

 

 そこでは人力車乗り合い馬車の勢力がしのぎを削り、乗客を奪い合っていた。

 乗り合い馬車の方はなんといっても賃銭が安い。それゆえ人力車を利用する人々が減少し、車夫は不景気を嘆き、御者とはたびたびの衝突を免れなかった。そんな、ある夏のこと。一人の謎めいた美しい女性が、客引きの奴(やっこ)の前を通りかかる。

 勧誘に応じて颯爽と馬車に乗り込んだ彼女は何者だろうか。

 

その年紀は二十三、四、姿はしいて満開の花の色を洗いて、清楚たる葉桜の緑浅し。色白く、鼻筋通り、眉に力みありて、眼色にいくぶんのすごみを帯び、見るだに涼しき美人なり。

(中略)

人を怯れざる気色は、世磨れ、場慣れて、一条縄の繋ぐべからざる魂を表わせり。

 

 いかにも、という感じが怪しい。道中、横から煽ってくる乱暴な人力車の車夫にも、そのせいでがたがたと大きく揺れる車体にも全く動じない。ただ満面に笑みをたたえ、状況を面白そうに見守っている

 また、ようよう騒がしくなる状況の中で平静を失わずにいる者が、彼女の他にもう一人だけいた。

 それが……馬車の手綱を握って馬を駆る、御者の青年である。彼は乗客が揃うまでは待合所の隅で書物を手に取り、犬を撫でながら黙って座っていた。

 

向者より待合所の縁に倚りて、一篇の書を繙ける二十四、五の壮佼(わかもの)あり。

(中略)

渠の形躯は貴公子のごとく華車に、態度は森厳にして、そのうちおのずから活溌の気を含めり。陋しげに日に黒みたる面も熟視れば、清矑明眉、相貌秀でて尋常ならず。とかくは馬蹄の塵に塗れて鞭を揚ぐるの輩にあらざるなり。

 

 いよいよ発車という折になれば翻然と御者台に乗り移る。そして、黙々と業務をこなす。しかしその容貌はとてもこの仕事に似合うようには思えない。彼は人生で何を経験し、いかにしてこの職場に辿り着いたのだろうか。

 子細ありげな男女がふたり揃って、いよいよ物語は動く。

 そのうち馬車は、こちらへの罵倒を続ける人力車に追い抜かれ、乗り合わせた乗客たちは悔しがって御者を激励した。皆で出し合った酒手(要するにチップのこと)をとらせる、だから馬をもっと早く駆けさせ、人力車よりも先を行ってくれ、と。

 合計で六十六銭五厘の金が集まったが、青年は簡単に縦に首を振らない。

 

御者は流眄(ながしめ)に紙包みを見遣りて空嘯ぬ。

「酒手で馬は動きません」

 

 それを受けて、発言をしたのが例の女性だった。

 相手に対して詰るような言葉を使いつつも、その声音はどこか戯れの延長のようだ。本気の叱責ではない。

 

「馬丁様、真箇(ほんと)に約束だよ、どうしたッてんだね」

 

 実はというと、六十六銭五厘の酒手のうち、大部分を占める五十銭を出したのが彼女なのである。決して安い金額ではなく、ひょいと懐から半円銀貨を出してしまえる人物が只者でないのは明らかで、周囲はざわついた。

 御者の青年は再び鞭を振るう。

 だが石動まであとわずかというところで、このままでは人力車に追いつけなさそうだと判断する。だいぶ無理をさせた馬も疲弊していた。そこで彼の取った行動は……なんと、まず御者台から飛び降りること。そしておもむろに一頭の馬を馬車から外す。

 あっという間に彼は馬の背へ飛び乗り、さっきの女性をさっと横に抱え上げて、一直線に目的地へと駆け去ってしまった。

 

魂消たるは乗り合いなり。乗り合いは実に魂消たるなり。渠らは千体仏のごとく面を鳩め、あけらかんと頤を垂れて、おそらくは画にも観るべからざるこの不思議の為体に眼を奪われたりしに、その馬は奇怪なる御者と、奇怪なる美人と、奇怪なる挙動とを載せてましぐらに馳せ去りぬ。
車上の見物はようやくわれに復りて響動めり。

 

 置き去りにされた他の乗客からすればたまったものではない。不平不満、罵詈雑言の矛先は同乗していた奴(やっこ)に向かい、可哀相な彼は小さくなって頭を下げるばかりであった……。

 一方、風のように駆ける御者に連れられた女性の心に、この出来事はあまりにも強烈な印象を残した。彼女は石動へ着いた途端に気絶してしまったが(無理もない)、あとから人に尋ねると、御者の青年の名は金様(きんさん)なのだと判明する。方正謹厳な人柄で知られ、加えて学問が好き。だから仕事の合間に黙々と本を読んでいたのだ。

 それからというもの、彼女は自分の行く先々で、金様に似た者の面影を探しては目で追ってしまうのであった。

 

 

 

二、友と欣弥 - 二人の交わした約束

 さて、そんな女性の方は一体何者なのか。

 彼女の名前は水島友(みずしま とも)、また人呼んで「滝の白糸」という。天涯孤独で、とある見世物小屋に身を寄せ、水芸で評判を集める売れっ子の太夫だった。本来であれば興行は夜のみであるにもかかわらず、その人気ぶりといったら、昼にも開場して客を入れなければならないほど。

 乗り合い馬車で五十銭の半円銀貨を無造作に放り投げられたのは、この実績あってこそだったのだ。

 あるとき、彼女は仕事を終えた夜に涼もうと川原を散歩していた。そこでなんと、ずっと忘れられなかった金様に再会することになる。彼は月の下で橋の欄干にもたれ、ぐうぐうと寝息を立てていた。二人は邂逅に驚き、共に身の上を語り合う。

 

「おまえさん、金沢へは何日、どうしてお出でなすったの?」

四顧寥廓として、ただ山水と明月とあるのみ。飂戻たる天風はおもむろに馭者の毛布(ケット)を飄せり。

「実はあっちを浪人してね……」

「おやまあ、どうして?」

「これも君ゆえさ」と笑えば、

「御冗談もんだよ」と白糸は流眄に見遣りぬ。

 

 聞けば、御者の本名は村越欣弥(むらこし きんや)。だから金様の愛称で呼ばれていたのだろう。あの乗せ逃げ事件のおかげで馬車会社から責を問われ、解雇されてしまったため、金沢に出て仕事を探しているのだがなかなか見つからない。

 彼は士族の出だが、早くに父を亡くして高岡に越してきた経緯がある。その折に学校を辞め、母を養うためにも働かなければならず、学問……特に、法律で身を立てたい望みとの間で苦悩していた。

 友は欣弥の話にひとしきり耳を傾けたあと、こう言う。

 

「あなた、お出でなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立っちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送ってあげようじゃありませんか」

 

 突拍子もない提案に、もちろん彼は度肝を抜かれた。

 

「なんだって?」

美人も希有なる面色にて反問せり。

「なんだってとは?」

「どういうわけで」

「わけも何もありはしない、ただおまえさんに仕送りがしてみたいのさ」

「酔興な!」と馭者はその愚に唾するがごとく独語ちぬ。

 

 押し問答の末、欣哉はついに折れた。仕送りを受ける。そのかわり、恩返しとして貴女の願いを叶えることにしよう……と。

 友が彼に求めたのは、欣弥と「ただ他人らしくなく、生涯、親類のようにして暮らしたい」というものだった。ひとりの家族もなく、見世物小屋で毎日を過ごしている彼女にとっての切実さを伺わせる、ささやかな願い。彼はそれに答えて「よろしい。決してもう他人ではない」と頷いた。

 これが二人の交わした約束だ。

 欣弥は心を決めたあとすぐに実家へと発ち、資金援助を受けることになった旨を伝えて、東京へと旅立っていった。法律を学ぶために。

 それからというもの、友は欣弥の学費、そして彼の母の分も含めた生活費を自分の稼ぎから捻出し、定期的に送った。売れっ子の太夫とはいえ日々のやりくりは一気に厳しくなったが、尊い家族の縁を結び、気持ちの上では水島友ではなく「村越友」として奮闘する生活は、三年間も続いた。

 

渠はついにその責任のために石を巻き、鉄を捩じ、屈すべからざる節を屈して、勤倹小心の婦人となりぬ。

 

 だが、それに終止符の打たれる瞬間がやってくる。

 奇しくも、欣弥の望みが叶う時と、友の望みが絶たれる時は、ほぼ同時に訪れることとなってしまう。

 

 

 

 

三、恐ろしい事件

 ある夜のこと。

 霞ケ池のほとりに、まるで死んだように倒れている女性がいた。

 

四肢を弛めて地に領伏し、身動きもせでしばらく横たわりたりしが、ようよう枕を返して、がっくりと頭を俛れ、やがて草の根を力におぼつかなくも立ち起がりて、踽く体をかたわらなる露根松に辛くも支えたり。その浴衣は所々引き裂け、帯は半ば解けて脛を露し、高島田は面影を留めぬまでに打ち頽れたり。

 

 彼女は他ならぬ滝の白糸、水島友

 興行を終えたあとに水辺で休んでいて、なんと運悪く、強盗に遭ってしまったのだ。

 懐に抱いていたのは、自分が日々を暮らすためだけの金ではない。欣弥と母の元に送り、そのつつがない生活を支えるための、基盤となる大切な財産。額はおよそ半年分。それが奪われたとあれば援助ができず、彼らは困窮してしまうだろう。

 友は大きな混乱と深い絶望に陥った。

 だがここに、決定的なすれ違いがひとつあった。欣弥は卒業と就職を間近に控え、その夢を叶える一歩手前まで来ており、もはや半年もの援助は必要としていなかったのだ。あってもせいぜい二、三か月ほどか。もちろん、当時は今のようにすぐ誰かと連絡の取れる時代ではないから、そんなことを確認する手段もない。

 それゆえ追い詰められてしまった彼女は、ついに……自分を襲った強盗が落としていった出刃包丁を握って、近隣の家に押し入った。どうにかして仕送りの金を工面しなければならず、もうそうするしかないのだ、と頑なに思い込んでしまったために。

 

これまでなりと観念したる白糸は、持ちたる出刃を取り直し、躍り狂う内儀の吭を目懸めがけてただ一突きと突きたりしに、覘いを外して肩頭を刎ね斫りたり。

内儀は白糸の懐に出刃を裹みし片袖を撈り得てて、引っ掴みたるまま遁れんとするを、畳み懸けてその頭に斫り着けたり。渠はますます狂いて再び喚かんとしたりしかば、白糸は触るを幸いめった斫りにして、弱るところを乳の下深く突き込みぬ。これ実に最後の一撃なりけるなり。

 

 初めは金品だけを持ち逃げするつもりだったのだが、騒がれてしまい、後には引けなくなった彼女が思い切り振るった刃は、家の主人とその妻を惨殺した。

 滅多切り、それはもうむごたらしく、あまりにもおぞましい形で。

 単なる被害者であった彼女、美貌の太夫・滝の白糸は一転、この時点で立派な人殺しになってしまった。

 

風やや起こりて庭の木末を鳴らし、雨はぽっつりと白糸の面を打てり。

 

 殺人犯は発見され次第警察に捕まり、法廷などしかるべき場所で、相応の裁きを受けるものだ。細かな仕組みは異なれど、この図式だけは現代と変わらない。

 裁判といえば。私たち読者は、ふと考える。

 滝の白糸たる水島友が資金援助をしていた村越欣弥は、そういえば、法律を勉強してはいなかっただろうか。

 

 

 

四、裁判所へ向かう検事代理

 水島友の裁判は実に奇妙なものになった。

 なぜなら彼女の用いた凶器(出刃包丁)は、もとはといえば、彼女を襲った強盗の男が落としたものだからだ。別の事件で嫌疑をかけられていた強盗は、家宅に侵入して夫婦を殺害した罪を問われ、きっぱりと否定している。確かにひとりの女を脅して金品を奪ったが、殺人までは犯していない、と。

 どうにも事実が証言から捻じれているため、予審は「強盗が夫婦も殺した」との判決を出して終結した。そして、いよいよ次なる公判が開かれる。

 このまま何事もなければ、彼女は己の犯した罪から逃げおおせたかもしれない。……だが。

 公判の日、老いた母親を伴って馬車から降りた乗客があった。

 

渠らの入りたる建場の茶屋の入り口に、馬車会社の老いたる役員は佇めり。渠は何気なく紳士の顔を見たりしが、にわかにわれを忘れてその瞳を凝らせり。

たちまち進み来たれる紳士は帽を脱して、ボタンの二所失れたる茶羅紗のチョッキに、水晶の小印を垂下げたるニッケル鍍の鎖を繋けて、柱に靠れたる役員の前に頭を下げぬ。

「その後は御機嫌よろしゅう。あいかわらずお達者で……」

(中略)

当時盲縞の腹掛けは今日黒の三つ紋の羽織となりぬ。金沢裁判所新任検事代理村越欣弥氏は、実に三年前の馭者台上の金公なり。

 

 立派な風体の紳士は、昔ここで御者として働いていた、あの欣弥に他ならなかった。

 彼は無事に学問を修め、検事代理となり、恩人である友の裁判へ向かっているところだったのである。

 何という巡り合わせだろうか。

 二人を待ち受けている運命が気になる方は、ぜひ一旦ここで記事を読むのをやめて、まず物語の結末をご自分の目で見届けてほしい。

 パブリックドメイン作品なので、以下のリンクから全文が読めます。

 泉鏡花 - 義血侠血 全文|青空文庫

 

 

 

 

 これより先、お話の展開や結末に言及しています。ネタバレが苦手な方はご注意。

 

  • 注目したい要素

冒頭と終盤の鮮やかな対比

 するりと馬車から降りた検事代理、欣弥の変貌もさることながら、私が心動かされたのは友の変化だった。

 裁判所で判決の時を待つ彼女は、欣弥が出廷するのを目に入れた瞬間にさっと蒼褪める。今までは彼のことを、頼りがいのある馬丁でありながら、懸命に勉学に励む可愛らしい書生だと思っていたのだ。それなのに、目の前に現れたのは畏敬の念すら胸に呼び起こす、ひとりの法律家。

 彼女は生涯を通し、これほどまでに憔悴し打ちのめされたことはなかった。

 また欣弥のほうも、かつては闊達豪放だった友を前にして、感極まる。

 謎めいた美貌の太夫。出会ったばかりの頃は堂々とした振る舞いと、煙に巻く言動で彼を翻弄しつつも、時には激励してくれた。長らく自分と母を支え続けてくれた恩人。彼女がいなければここに自分もいなかっただろう。けれど今その人は法廷でうなだれ、冷灰のようにじっとしている

 この二人の置かれた状況、様子の、あまりにも鮮やかな序盤と終盤の対比がただ悲しい。もちろん、そうでなければ面白くないのだけれど。

 

物語の構成、劇的な演出

 そもそもどうしてこんなことになってしまったのだろうか、という問いは作品を読んでいて頻繁に浮かぶ。何かひとつでも不運なすれ違いをなくせば、あるいは用心深く事件を避けられれば、物語は円満に終わるはずったのに。

 しかしそれを考えても無駄だ。これは、ロマン主義江戸文芸の影響を色濃く反映した、鏡花の初期の作品。

 冒頭、美女を突然抱え上げて馬に乗せ、他の乗客を置き去りにして駆け去る御者。偶然の再会と仕送りの約束。強盗に遭った被害者が殺人犯に。そして、下された判決と最後に欣弥が選んだ道。どれも突拍子もない。

 こうしたあらゆる極端な要素が順序だてて並べられ、劇的な物語を構成しているところに、自然さや平穏さを求めるのはお門違いなのである。

 

白糸は生まれてより、いまだかばかりおびただしき血汐を見ざりき。

一坪の畳は全く朱に染みて、あるいは散り、あるいは迸り、あるいはぽたぽたと滴りたる、その痕は八畳の一間にあまねく、行潦のごとき唐紅の中に、数箇所の傷を負いたる内儀の、拳を握り、歯を噛い緊めてのけざまに顛覆りたるが、血塗れの額越しに、半ば閉じたる眼を睨むがごとく凝えて、折もあらばむくと立たんずる勢いなり。

 

 この場面、私は読んでいて純粋にやりすぎだと思った。あんまりにも凄艶で残酷で。

 でも、だからこそ一幅の絵になる……。

 

重ねられる言葉の心地よさ

 鏡花の作品に散りばめられている修辞についてはすでに沢山の解説がなされている。私が個人的に好きなのは、ある表現を繰り返し反復することで増幅していく情景や、感情の味わい深さ。

 例えば上に挙げた殺傷のシーンでも、

 

白糸は生まれてよりいまだかばかりおびただしき血汐を見ざりき。

 

 から数行の後、さらに

 

白糸は生まれてより、いまだかかる最期の愴惻を見ざりしなり。かばかりおびただしき血汐! かかるあさましき最期!

 

 と似た言葉が重ねられている。法廷における場面でもそうだ。

 欣弥が友を視界に収めて想った彼女の様子が、

 

恩人の顔は蒼白めたり。その頬は削けたり。その髪は乱れたり。乱れたる髪! その夕べの乱れたる髪は活溌々の鉄拐を表わせしに、今はその憔悴を増すのみなりけり。

 

 のように表現されていた。

 その髪は乱れたり、乱れたる髪、その夕べの乱れたる髪……思わず声に出して音読したくなる。実に舞台映えしそうな表現だ。

 この《義血侠血》という作品が「滝の白糸」の題でドラマや映画、オペラなどに変換され人気を博しているのは、単純な物語の内容だけでなく、言語表現の特徴も大いに影響しているように私には感じられる。

 

 

 

  • その後の二人の運命は

 裁判を経て迎えるお話の結末はこうだ。最終的に、友は欣弥の尋問を受けて、自分が家宅に侵入し殺人を犯したと自白する。この場面はぜひ本文中の台詞や描写をじっくりと読んでいただきたい。涙が出てくるし、引き裂かれそうになる。

 やがて人生最大の恩人を殺人犯として起訴した欣弥は、死刑に処される彼女の後を追い、宣告の下された日の夕べに自ら命を絶った。

 かつて「決してもう他人ではない」と誓った、大切な者との別れを憂いて。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 紙媒体で読みたい方はこちら。

 

 

 個人的に思ったのですが、この題の《義血侠血》は「議決、評決」と非常に音が似通っていますよね。

 関連する内容なのでちょっと面白いなあと。

 お読みいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 関連する過去記事(日本の近代文学):

 

はてなブログ Odai「我が家の本棚」

 

 

 

 

新潮文庫版《十二国記》を一気読みする至福 - 王と麒麟と国、そして民衆の物語

 

 

 

 

 君の好きそうな、ぐっとくる主従関係が描かれているよ——と教えられて、その長編小説に脇目もふらず手を出した。

 結果、ものの見事に落ちてしまったのだ。底の見えないほど深い深い沼に。

 所謂ステイホーム期間中に、全巻を読みました。

 

公式サイト:

 

 

《十二国記》著:小野不由美

  • シリーズ概要

 概要と書いてはみたものの、長年多くの人々に愛されているシリーズなので、ここに明記しておくべきことはあまりない。全て公式サイトとWikipediaに書いてあるし、私の沼落ちはあまりに遅すぎた。この今更感……。

 しかし読者としては、最新刊の発売を18年も待つ必要が無かったことで、かなり安堵もしている。

 十二国記は1991年に刊行されたホラー小説《魔性の子》(新潮文庫)の設定を皮切りとした物語で、その後は講談社X文庫にて《月の影 影の海》から本格的な進行が始まった。現時点で完全版と称されているのが新潮文庫版であり、この記事で紹介するものは、そちらに記載されている情報と刊行時期に準拠している。

 また、シリーズは最近の2020年3月に、第5回「吉川英治文庫賞」を受賞したとのこと。おめでとうございます。

 

  • 心躍る物語

 ジャンルでいうならば《十二国記》はハイ・ファンタジーに該当する。

 舞台は、普段私たちのいる世界とは隔絶された場所にあり、その様相はどこか古代中国の周礼を彷彿とさせるが、全く異なる条理で動いている。創世神話によれば、かつて最高神・天帝が荒廃した世を嘆いて、初めから作り直したのが十二国の世界なのだという。こちらの世界と十二国の世界は、蝕と呼ばれる現象によってのみ僅かに交わることがある——。

 そんな中で、数奇な運命や困難な現状に翻弄されながらも、毅然として立ち向かう人々の描く軌跡を辿るのがこの物語なのだ、と個人的に思っている。

 最も惹かれたのは、一国に一人の王を、神獣である麒麟が選ぶ……という点だった。

 

「天命をもって主上にお迎えする。御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと、制約申し上げる」「——許す」

 

 妖力甚大な聖なる獣、麒麟。多くの場面では人の姿をとっている。

 性向は仁で、慈悲と憐憫に満ちた心を持ち、争いを厭い、血に病む。基本的に本人が闘うことはできない(例外はある)ため、妖魔を折伏し、指令に下すことで身を守っている。

 十二国の世界において麒麟は天意の器だ。本人の意思とは関係なく、強い直感のように「天啓」が下り…… 誓約を交わしたのちは、実権を持たぬ宰輔(宰相)として王のそばに仕え、国を見守る。たとえ麒麟自身がその王を嫌っていたり憎んでいたりしても、決して天啓には抵抗できない。

 作中では全ての国の王と麒麟が描かれるわけではないが、それぞれに独特かつ魅力的な関係性を築いているのを見るのが本当に面白いし、ぐっとくるのだ。

 

  • 各巻のあらすじ紹介

 一応、新潮文庫完全版の刊行順に並べてみたものの、新しく読むなら《月の影 影の海》《風の海 迷宮の岸》《東の海神 西の滄海》のうちどれかから入るのが良い気がする。

 しかし、人によって楽しみ方が大きく異なるのもシリーズの特徴だと感じているので、何とも言えない。

 とりあえずエピソード0《魔性の子》に関しては、《黄昏の岸 暁の天》の前までには必ず読んでおくのをおすすめするが、シリーズ以前に一つの物語として楽しみたいのなら最初に手に取るべきだと思う。難しい。

 

0. 魔性の子

 

 もしも、普段は「向こう側」——異なる条理の世界に属する存在が、交わってはならないはずの「こちら側」へと侵食してきたとしたら……。私たちの目に、それは一体どんな風に映るのだろう。

 ニュータウンのある海辺の街では、最近「き、を知りませんか」と奇怪な言葉をかけて徘徊する女の目撃証言が、多く出回っている。

 当初ホラー小説として発表された《魔性の子》は、終始90年代日本の独特な空気を纏いながら、高里要という「神隠しに遭った少年」をめぐる異常な現象や、祟ると恐れられて孤立する彼の、寂寥とした心情を中心に展開する。加えてそこに絡んでくるのが、自称・故国喪失者の教育実習生、広瀬だった。

 ある一時期の記憶がすっかり抜け落ちている高里は、広瀬と共に過ごすうち、忘れていた大切な何かと誰かの名を徐々に思い出していく。それは同時に、自分が本当は何者であったのかという自覚を取り戻し、帰還と旅立ちの果てない途へ向かうために必要な過程だった。彼の真実の姿とは?

 恐ろしくも切ない、十二国記本編の序章。

 

1. 月の影 影の海(上・下)

 

 

 序章《魔性の子》で描かれたのが「向こうから現実世界に侵食してきた存在」だとすれば、これはその逆で、「現実世界から向こうへ突然渡ることになった者」の視点で進む物語。

 女子高校生・中嶋陽子が主人公に設定されているのに加えて、優柔不断な彼女が徐々に確固とした自我を獲得していく流れには、当初若年層向けのレーベルで出版された際の名残りが色濃くある。

 あまりにも唐突にあらわれた、金の長髪を持つ妙な男から「見つけた。あなただ」と告げられる陽子。

 彼女は何も分からぬまま連れ去られる途中で、巨大な妖魔に襲われて男とはぐれ、異世界の小さな町へと流れ着いた。だが、余所者の自分は「海客」と呼ばれて厭われ、裏切られ、利用される……。果てには存在を排除しようとしてくる者たちにも常に追われながら、希望など欠片も見えない過酷な旅が始まった。

 どんなに苦しくても、良心を捨てても進み続けるのは、たった一つの目的のため。自分を連れ去ったあの男を見つけ、お前は誰で、なぜこんなことをしたのかと問い詰める。そして——絶対に生きて、家に帰る。

 やがて友と出会い開けていく視界、その先にあったものは、想像もできなかった宿命と重い選択だった。

 

2. 風の海 迷宮の岸

 

 卵果が蝕で流されたため、出生から幼少期を日本(倭、蓬莱と呼ばれる)で過ごした戴国の麒麟・泰麒(たいき)。

 十二国世界(常世)において麒麟のたてがみは金色が基本だが、まれに白や赤、黒を持つ個体もいる。泰麒は鋼の毛並みを持つ黒麒麟だった。昔から日本での家族になじめなかった彼は、自分が実は人間ではなく麒麟であった事実を蓬山の女仙から聞かされ、そのせいで異物のように扱われていたのだと実感する。

 泰麒は故郷である十二国世界に戻ってからも、そこで育った他の麒麟と違い、獣の姿になることも妖魔を折伏することもできない。常世にも蓬莱にも居場所と存在意義を見つけられない中で、戴国の王を選ぶという使命を前にして怖気づく彼は、ある「恐ろしいような雰囲気」を持つ男と邂逅する。彼の名を驍宗といった。

 麒麟は直感のように天啓を受けて、たった一人の王の前に跪く。それ以外の人間の前で叩頭することは絶対にできない。それを知らなかった泰麒がついた一つの嘘と、弱気で少しばかり卑屈な表層の裏に隠された、強大な黒麒麟の力とは。

《魔性の子》からの流れをくみ、やがて《黄昏の岸 暁の天》、《白銀の墟 玄の月》へと至る、戴国の波乱の発端が描かれる。

 

3. 東の海神 西の滄海

 

 先王の暴挙により荒れ果てた北東の国、雁(えん)。

 それを立て直すべく、ようやく登極した延王・尚隆と延麒・六太の治世は二十年ほどを迎えようとしていた。見渡すかぎり焦土しか無かった風景も緑で覆われつつあるが、未だに腐敗した官吏の更迭を行う余裕はなく、国庫には大した財も残されていない。——そして、謀反が起こる。

 王を選んだ六太は胎果の生まれで、応仁の乱における京の荒廃をその目で見ており、蓬莱での両親には口減らしとして山に捨てられた。蓬山から女怪の迎えが来た後も、権力者こそが国を滅ぼし、民を苦しめるのだと実感している彼は、麒麟でありながら自分の王を信じることができない。

 煩悶の続くある日、古い友人・更夜に呼び出されて街へ下りたが、それは罠だった。

 一方、王の尚隆も実は胎果の生まれで、本名を小松三郎尚隆という。日本では瀬戸内に小さな領土を持つ武家の三男坊だったが、小松家が戦で滅亡した折、死にかけている所で誓約を交わし常世へと渡った。暢気かつ鷹揚な態度で、常にゆったりと構えているが、統治者としての実力は本物だ。しかし周囲の人間にはなかなかそれが伝わらない。

 彼は今回の謀反を制圧し、麒麟を助け出すことができるのだろうか。

 

4. 風の万里 黎明の空(上・下)

 

 

 エピソード1《月の影 影の海》で宿命を受け入れ、慶国の王として登極した陽子。

 しかし、馴染みのない常世の慣習に戸惑うばかりか、女王を侮っている王宮の官吏たちには軽んじられて、その前途は多難だった。たのみの宰輔、景麒も自分を助けるより、むしろ責めるような言動ばかりする……。国づくりの指標を得たいと願い、彼女は市井へと下りた。

 その頃、北西の端に位置する国・芳では、州候のひとりである月渓によって王と王后が弑され、一人娘の公主は位と仙籍を剥奪された後に放逐されていた。名を祥瓊(しょうけい)という。

 王宮では自らの役目を放棄していた彼女は、ただ何不自由ない王宮の生活が懐かしく、同じ年代の景王が妬ましい。その感情のまま慶の首都、堯天へと向かう道中で、ひょんなことから鼠の半獣と出会うことになる。

 この巻では少女たちがそれぞれの思惑をもって慶に集い、最終的には奇しくも和州の内乱に巻き込まれていく。

 胎果ではなく、海客として蓬莱から流された鈴もそこに加わって、物語は人がどう生きるべきか、責任を負って何を為すべきなのかを問いかけ、最後にひとつの道標を示す。

 

 

 

 

5. 丕緒の鳥

 

 長編の行間を埋める《丕緒の鳥》。

 ここには表題作を含めて四編の小話が収録されている。どれも、普段はあまり表舞台に出てこない役職の人間が、それぞれの仕事に励む中で様々な難事と出会う話だ。特に《落照の獄》や《青条の蘭》で発生する問題は、こちらの世界に生きる者としても他人事とは思えない。

 印象としてはかなり重たいが、その分心を打つ場面も数えきれないほど多かった。十二国世界における架空の祭祀・大射の陶鵲や、暦づくりを通して感じられる四季の情景も美しい。

 あらゆる視点に立って国と民の有様を描ける、筆者の表現力にただ感服する。

 

6. 図南の翼

 

 ほんの少し《風の万里 黎明の空》に登場した、恭国を統べる供王は幼さを残す少女の姿をしている。

 彼女——珠晶はかつて、自国の麒麟に天意を図るため、生家から抜け出して自らの意思で昇山していた。……当時12歳という若さで。もちろん周囲の人間は反対したが、王の不在で妖魔の跋扈する国を見ても、他に率先して立ち上がろうとする者は周りに一人もいなかったのだ。

 旅先で騎獣を盗まれたり、黄海で妖魔に喰われたりしそうになっても、持ち前の機転と驚異的な運の良さで切り抜ける珠晶。黄朱の民・頑丘や謎の青年・利広を巻き込んで前進する過程で、自分の未熟さや甘さを突き付けられ、落胆する時も数知れないが、考えて行動することを決してやめない。

 彼女は蓬山へ無事に辿り着き、供麒に拝謁することができるのか。そして王として選ばれるのか。

 結末に至るまでの胸の高鳴りもさることながら、終盤で「あの話に出てきたあの人」の再登場に高揚する人が、きっと後を絶たないと確信している。実際、私は該当する場面で思わず顔を上げて叫んだ。

 

7. 華胥の幽夢

 

 こちらも《丕緒の鳥》と同じく短編集となっているが、相変わらず濃いエピソードが多く、その重さは本編にも引けをとらない。

 今まで登場した人物たちの裏側や、伺えなかった側面を描いている点でも必読の一冊なので、絶対に飛ばさないで。

 中でも私が(というよりか、読者の殆どが)心を射抜かれたのは、あの《風の万里 黎明の空》で簒奪をもくろんだ芳の州候・月渓の抱いた巨大感情が明らかになる話《乗月》に他ならない。厳格さゆえに民を苛んでしまった峯王を弑したのは、民を第一に思ってのことではなく、実は……。

 この先は実際に読んで確かめてほしい。

 

8. 黄昏の岸 暁の天

 

 今まで紡がれた物語が急速に合流し、いよいよ面白さの度合いが大変なことになってくる巻がこれ。読んでみるとわかるが《魔性の子》と表裏一体の関係になっていて、現実世界の私たちから見たあの世界の影で、果たして何が起こっていたのかを知ることができるのだ。

 戴国の雲海上で何者かに角を折られた泰麒は、とっさに「鳴蝕」を発生させ、十二国の世界から別の次元へと自らを飛ばしていた…… わずか二体の指令である白汕子、傲濫と共に。どこへ行ってしまったのか全く分からない。

 それを救うべく景王に援助を求めてきたのが、瑞州師の女将軍・李斎。麒麟だけでなく泰王驍宗の所在までも知れず、戴は荒れ、周辺の海域には妖魔が跋扈しているという。

 とはいえ慶も未だ建て直しの最中で、他に割く余力などない——それに、大綱に定められた覿面の罪もあるので戴に軍も出せない。だが徐々に志を共にする者が集い、最終的には慶、雁、漣、範、奏、恭、才の麒麟たちで、手分けして蓬莱と崑崙を捜索することになった。

 常世における神(天)の在・不在にも切り込む怒涛の展開と陽子の成長には、何度読んでも心が躍る。

 

9. 白銀の墟 玄の月(一~四)

   

 

 ——ついに麒麟、還る。戴国の運命やいかに。

 

 もうここまで来たら「本編を読んでください」としか言えない。

 彼らの物語を、最後まで見届けて欲しい。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 以上、既刊のタイトルごとの紹介でした。これらに加えて、2020年内には短編集の刊行が予定されているので、続報を首を長ーくして待っています。

 ちなみに小野不由美氏の著作の中で、他にも好きなものには《東亰異聞》や《営繕かるかや怪異譚》があります。

 どちらも自分のぐっとくるツボをこれでもかと押さえてくる要素が満載なもので、それらもいずれ紹介したく……。前者は文明開化期が舞台の物語で、後者は古い町屋など、建築物にまつわる短編集です。

 文章や描写自体も素敵で、とっても面白いんですよ。

 

お題「好きなシリーズもの」

 

 

 

 

《少年》谷崎潤一郎 - 和洋折衷の大邸宅で、ちょっと背徳的な「遊び」に興じる子供たち|耽美な近代文学

 

 

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レンガの西洋館

 開港や文明開化の影響、そして政府の意向もあり、公共の施設をはじめとした数々の建造物が洋風の趣を纏うようになった明治時代。その頃は官庁や銀行、学校、駅舎などに見られる様式が代表的な例だった。

 当時の市井の人々(今もそうかもしれない)にとって、大規模な洋館「普段の生活から隔てられた領域の象徴」だったことだろう。

 特にそれが住宅であれば、一部の旧華族資産家しか持ち得ないような仰々しい門構えの向こうに聳え立つ、まこと風変わりな存在。前を通るたび、一体どんな人間がここに暮らしているのだろう?  と、首を伸ばして覗く誰かがいたことは想像に難くない。少なくとも私だったらそうなるが。

 

 耽美な作風で知られる作家・谷崎潤一郎短編小説《少年》の中にも、たいそう立派な和洋折衷のお屋敷が登場する。

 ひょんなことから級友に遊びに誘われた主人公は、そこで他の子供たちと戯れながら過ごすうち、奇怪かつ艶やかな世界へと足を踏み入れてしまうのだった。

 

参考サイト・書籍:

青空文庫(電子図書館)

刺青・秘密(著・谷崎潤一郎 / 新潮文庫)

写真の中の明治・大正 - 国立国会図書館所蔵写真帳から -(国立国会図書館)

 

 

目次:

 

谷崎潤一郎《少年》

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明治時代の水天宮

 上の画像は、国立国会図書館ウェブサイトより規約に則って転載した写真。

《少年》の主人公は当時、この水天宮裏の有馬学校に通っていた設定だ。

 

  • 町の一廓、大邸宅

 《少年》が文芸雑誌「スバル」上で発表されたのは1911年(明治44年)のこと。

 作中では語り手(主人公:萩原の栄ちゃん)が「もうかれこれ二十年ばかりも前になろう」と当時を振り返っているので、物語はだいたい明治の半ば頃――ようやく横浜市で近代水道が整備され、東京電燈株式会社が街への送電を開始したあたりの出来事か、と想定できる。

 舞台は新大橋のたもと、隅田川沿いに長く伸びる河岸通りの閑静な一角。そこには良家の子息であり主人公の級友、塙 信一(はなわ しんいち)の住む大きな家があった。

 ある日、学校から帰ろうとすると栄ちゃんは信一に呼び止められ、うちでお祭りがあるから寄っていかないかと誘われる。どうしてあまり交流もない自分が、と思わないではなかったが、育ちの良いお坊ちゃまに目を掛けられるのは決して悪い気がしなかった。

 さっそく一度家に帰って着替え、ただいまの挨拶もそこそこに素早く靴を履いて町を駆けていく。晴れた日の、のどかで暖かな陽の光を浴びながら。

 

和洋折衷の趣

 さて、信一の家は作中でこんな風に描写されている。

 

長い長い塀を繞らした厳めしい鉄格子の門が塙の家であった。前を通るとこんもりした邸内の植込みの青葉の隙から破風型の日本館の瓦が銀鼠色に輝き、其のうしろに西洋館の褪紅緋色(たいこうひいろ)の煉瓦がちらちら見えて、いかにも物持の住むらしい、奥床しい構えであった。

 

 少々重苦しい感じはするものの、かなり魅力的。他の実在する洋館付き日本家屋と同じく、毎日の営みは主に和館の方で行われているようだ。

 そこに暮らす家族の豊かな生活が伺えるのは、建物の外観からだけではない。

 信一は嬉しそうに栄ちゃんを家に上げ、自身の姉である光子の持ち物だといって、様々な玩具や絵双紙を広げて見せた。どれもその辺の家では簡単にお目にかかれないような代物だ。

 特に彼らが魅入られたのは、旧幕府時代を描いた鮮やかな木版画。それには今しがた首を切り落とした下郎の横で文を読む侍や、寝込みの女に刃を突き立てる忍者、果ては目玉の飛び出た死体が描かれるなど奇怪な場面で満ちていて、まだ十歳程度の子供の好奇心は際限なく刺激されたことだろう。

 思えば、面妖なる世界への扉は、この時点でもう少しずつ開いていたのかもしれない。

 二人が庭でくつろいでいると何処からか耳慣れない音色が聴こえてくる。それは西洋館の二階から漏れる洋琴(ピアノ)の演奏だった。弾いているのは信一の姉、光子。曰く、西洋人の教師が毎日わざわざ教えに来ているのだとか。洋館には彼女たち以外入れてもらえないのだと彼は言う。

 

肉色の布のかかった窓の中から絶えず洩れて来る不思議な響き

………或る時は森の奥の妖魔が笑う木霊のような、或る時はお伽噺に出て来る侏儒共が多勢揃って踊るような、幾千の細かい想像の綾糸で、幼い頭へ微妙な夢を織り込んで行く不思議な響きは、此の古沼の水底で奏でるのかとも疑われる。

 

 演奏が止んでも、主人公はその音色に心奪われ、忘我に揺れていた。

 光子は皆に光っちゃんと呼ばれている、少し気弱な性質の少女だった。姉さんといえど所詮は妾の子だから、などと信一に言われたり、日頃から姉弟喧嘩をして痣を作ったりしては、悔しさにぐっと涙をこらえているような様子で――。

 彼女の本領発揮に立ち会うには、物語の進展をしばし待たなくてはならない。

 

 

 

 

  • 子供たちの怪しげな戯れ

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和館

 祭りの日以来、主人公である栄ちゃんと大邸宅に住む級友の信一、そして姉の光子はよく一緒に遊ぶようになった。時にはそこに「仙吉」という、屋敷に仕える馬丁の息子が加わることも。

 そして、厳めしい鉄格子の門を隔てたこの塙家の敷地内と外の世界では、彼らの関係性はがらりと変わってしまうようなのだ。

 例えば、栄ちゃんを家に誘った信一は、学校では常にお付きの女中を従えて片時も離れない姿を周囲に晒している。それで意気地がなく、弱虫だとからかわれているため、友達も少なかった。しかし屋敷の中ではどうだろう。いさかいの中で光子を打ち据えてみたり、自分よりも体躯の大きな仙吉を縛ったり顔を汚したりと、猛獣使いもかくやと思われる振る舞いで闊歩していた。

 一方、学校では典型的なガキ大将として君臨し、いつも下級生をいじめている仙吉は、屋敷に来ると飼い主に従う犬のようにおとなしい。自分の親が塙家に雇われている身分の差を考慮しても、信一に呼び捨てにされながら、あまりに従順にご機嫌取りをする姿は奇妙だった。一体、どんな魔力がこの場所に働いているものか……。

 それでは以下に、彼らが屋敷で興じていた「ちょっといけない遊び」の数々を紹介しよう。

 

泥坊ごっこ

 この時は仙吉に泥坊の役割が与えられた。栄ちゃんと信一が巡査となって、窃盗や詐称をはたらいた不届き者をこらしめるために奔走するという設定になっている。

 信一は物置小屋で仙吉を捕らえると、自分の身につけていた兵児帯をほどいて器用に縛り上げた。両手を後ろに回して固定するだけではなく、紐の余りをくるぶしまで伸ばして、曲げた足の先も一緒にしてしまう。

 それからおもむろに小屋の隅の佐倉炭を持ってきて、唾で湿らせてから仙吉の顔に落書きを始めた。罪人の証として墨を入れるというのだ。

 

仙吉は滅茶々々にされて崩れ出しそうな顔の輪廓を奇態に歪めながらひいひいと泣いて居たが、しまいには其の根気さえなくなって、相手の為すがままに委せた。

 

 栄ちゃんは横でそれを眺めながら、色白で細身の信一が、荒くれ者の仙吉に制裁を加える様子が何となく心地良いと感じていた。

 たおやかな少年が大男を征服する絵面を見る快楽。その感覚が一体何処から来るものなのか、彼はまだ知らない。

 

狼と旅人ごっこ

 今度は信一が、栄ちゃんと仙吉が野宿する旅人となった。夜中に寺のお堂へ侵入してきた獣が二人を追い回し、最終的に牙を突き立ててその肉を食らってしまう、そんな流れ。

 栄ちゃんは初め怖がっていたが、不意に自分の体の上に乗った信一の羽織ごしに人間の体温を検知して、胸を高鳴らせる。まるで本物の動物がするように舌で舐められ、突っ伏した形で押さえられた顔面が足元の土で汚れるのすら何故か愉快に思って、着物をはだけながら彼の言いなりになっていた。

 この日はそんな遊びをしている所を屋敷の女中に発見されてしまい、着物を汚したことを咎められたが、彼らはもっと別の部分で後ろめたさを覚えずにはいられなかっただろう。

 

私は恐ろしい不思議な国から急に人里へ出て来たような気がして、今日の出来事を夢のように回想しながら家へ帰って行ったが、信一の気高く美しい器量や人を人とも思わぬ我が儘な仕打ちは、一日の中にすっかり私の心を奪って了った。

酒盛り遊び

 数日経って、暦は桃の節句を迎え、屋敷には光子の雛人形が飾られる。遊びに呼ばれた栄ちゃんは畳の間へ上がったところ、何かをたくらんでいるそぶりの信一と光子を見つけた。どうやら、彼らは供え物の白酒で仙吉を酔わせようとしているらしい。

 四人で輪になって、間を置かず仙吉のお猪口にどんどんと酒を汲んだが、同じように飲んでいる他の面々も徐々にふらつき始めた。顔は赤くなり、汗は流れ、視界は揺れて船の底にいるようだ。

 酩酊状態で座敷を歩き回ってはくだをまき、均衡を崩して倒れては全員でけらけらと笑い合う。すると、ここからまた別の遊戯が始まった。

 

狐ごっこ

私と仙吉と二人の田舎者が狐退治に出かけると、却って女に化けた光子の狐の為めに化かされて了い、散々な目に会って居る所へ、侍の信一が通りかかって二人を救った上、狐を退治してくれると云う趣向である。

まだ酔っ拂って居る三人は直ぐに賛成して、其の芝居に取りかかった。

 

 狐役の光子は皆を化かし、獣の糞尿を御馳走だと思い込ませるのだといって、唾で汚れた食べかけの饅頭や豆炒りを皿に盛って二人にすすめる。それらは栄ちゃんと仙吉によってすぐに平らげられた。

 やがて侍の信一が登場し、不届き者の狐を退治するために光子に猿轡をはめ、全員総出で身動きのとれない顔や体を残りの菓子類でべたべたに汚した。すっかりぼろぼろにされてしまった彼女だが、その後サッと風呂へ赴いたかと思えば、小綺麗な格好ですぐに戻ってくる。

 先ほどの狼藉も全く意に介さない様子で、今度は皆に「犬にならないか」と持ち掛けてきた。

 

犬ごっこ

 文字通りに、彼らは酔ったままわんわんと鳴きつつ、犬のような四足歩行で座敷の中を駆け回った。

 しばらくは芸をやらされたり、お菓子のある方へ走らされたりしていたが、少しして信一が本物の狆(ちん)を連れてくる。着物まで着ているから、きっと塙家で飼われているのだろう。

 人と獣が一緒になってじゃれ合いながら、時には互いを舐めてまで犬の真似をする

 

信一の足の裏は、狆と同じように頬を蹈んだり額を撫でたりしてくれたが、眼球の上を踵で押された時と、土蹈まずで唇を塞がれた時は少し苦しかった。

 

 懸命に信一の指をしゃぶる栄ちゃんはその最中、「人間の足は塩辛い酸っぱい味がするものだ。(でも)綺麗な人は、足の指の爪の恰好まで綺麗に出来て居る」と、恍惚とした気分でいた。

 こうして、危ない世界への扉がどんどん大きく開いていく。

 

刃物遊び

 子供たちの戯れは日を追うごとにエスカレートしていった。

 ある時などは、信一が浅草や人形町で買ってくる鎧刀を振り回し、紅や絵の具で作った血糊を用いた架空の惨殺事件が繰り広げられる場面も……。

 そのうち、信一が本物の小刀を持ってきてこう言い出す。

 

「此れで少うし切らせないか。ね、ちょいと、ぽっちりだからそんなに痛かないよ」

 

 驚くべきことに、残りの彼らは提案に対して従順だった。目に涙をためて怖がりつつも、手術でも受けるようにじっとしながら、肩や膝にそっと刃が滑るのを眺める。

 特に栄ちゃんはまだ母親と一緒にお風呂に入っていた時分だったから、浴室で傷を見られないよう、細心の注意を払わなくてはならなかった。

 彼らに大きな転機が訪れるのは、そんな遊戯が一か月ほど続いたある日のこと。

 

 

 

 

  • 気弱だった光子の「覚醒」

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彼女の君臨する城

 ここまでの物語で、塙家の一角を占める西洋館の内部は全く描写されていない。ただ、窓からピアノの演奏が漏れ聞こえてくるのみだ。普段は「いたずらをするから他の人間を上げてはいけない」と両親に言い含められているため、光子は彼らを連れて中に入れない。

 それでも好奇心を抑えきれなくなった少年たちは、稽古が終わるのを見計らって彼女に詰め寄った。どうしても駄目だという光子木に縛り付けてくすぐったりつねったり、首を絞めたりして拷問する。彼女はいつものように涙目でされるがままだったが、ついに降参してこう言った。に西洋館の鍵を開けてあげるから、陽が沈んでからおいで、と。

 栄ちゃんの胸は高鳴った。そこには、信一と光子の父が海外から集めてきた、多種多様な珍しい物品で満ちている部屋があるらしい。待ちきれない思いで、彼は家族には縁日へ行くと偽って、明かりの灯った家を飛び出した。

 

未踏の西洋館内部へ

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見慣れぬ調度品

 カンテラが露店を照らす町の通りを抜けて、再び塙家へとたどり着いた彼。昼間の約束にたがわず、煉瓦の洋館の鍵は開いていた。

 扉を押し開けて眼前に広がるのは荘厳な螺旋階段。おそらくは光子が置いてくれたのであろう燭台を手にして、栄ちゃんはそっと二階へと足を進めた。

 だが、先に来ているはずの仙吉たちの姿が見えないのはどういうことだろう。言い知れぬ心細さを感じつつ、そっと光子の名を呼んでみたが、返事は帰ってこなかった。より上の部屋にいるのだろうか?

 不意に、ワインレッドの光が目を刺激する。それは部屋の中央から吊るされた、大きなシャンデリアの色硝子からくるもの。調度品の家具も金銀に怪しく輝いて、少年の心を引っ掻き回した。突然に置時計までもが音を立てて彼をさらに驚かす。

 

其の時不意に煖炉棚の上の置時計がジーと蝉のように呟いたかと思うと、忽ち鏗然と鳴ってキンコンケンと奇妙な音楽を奏で始めた。これを合図に光子が出て来るのではあるまいかと帷の方を一心に視詰めて居たが、二三分の間に音楽も止んで了い、部屋は再び元の静粛に復って、緞子の皺は一と筋も揺がず、寂然と垂れ下がって居る。

 

 この描写からも、《少年》という小説が、近代の洋館を探索する怖さとたまらなさに満ちているのが感じられて、気分が高揚した。

 

天使の肖像と蛇

 また、栄ちゃんの立つ部屋の左側には油絵がかかっている。それは乙女の肖像画だった。露出の高い服に様々な装身具を纏い、綺麗な鼻筋と大きな目で真っすぐに前を見つめる少女は天使のように思われ、彼はしばし恍惚として立ち尽くす。

 お伽噺に出てくるような美しい姿を前にして。

 やがて視線を下に向けると、がいた。

 正確には蛇の置き物のようなのだが、燭台で照らして目を凝らすほどに、その頭は動いているように見える。栄ちゃんがぞっとして顔を青くし、震えながら立ちすくんでいると、隣部屋に続くカーテンの奥から白い顔が笑いながら出てきた。光子だった。

 黒髪をほどき、洋服と装身具で着飾ったその全身を見て、彼は気が付く。先程の天使の肖像は、他でもない光子を描いたものだったのだ…… と。

 

「………先刻からお前の来るのを待って居たんだよ」
こう云って、光子は脅やかすようにじりじり側へ歩み寄った。何とも云えぬ甘い香が私の心を擽ぐって眼の前に紅い霞がちらちらする。

 

小さな王国の女王様

 普段とあまりに様子の違う光子の姿に、栄ちゃんは戸惑いと恐れを隠し切れない。

 仙吉に会わせてあげるよ、と強く腕を引かれ、真っ暗で何も見えない部屋の方へと連れて行かれる。そこで彼女はこうも言った。お前に面白いものを見せてあげる。

 すると、動けずにいる彼の目の前で、青白い光が音を立てて舞い始めた。

 

部屋の正面の暗い闇にピシピシと凄まじい音を立てて、細い青白い光の糸が無数に飛びちがい、流星のように走ったり、波のようにのたくったり、圓を畫いたり、十文字を畫いたりし始めた。
「ね、面白いだろ。何でも書けるんだよ」
こう云う声がして、光子は又私の傍へ歩いて来た様子である。今迄見えて居た光の糸はだんだんに薄らいで暗に消えかかって居る。

 

 彼女が使ったのは魔術ではなく、舶来の燐寸(マッチ)。父親が買ってきたものの中にあったのだろう。壁を擦ったときに散る火花が先ほどの光だったというわけだ。

 光子はその火を燭台に移す。すると、眼前に現れたのは、栄ちゃんの理解を遥かに超える光景だった。

 服を剥がれ、手足を縛られた仙吉

 そう、燭台だと思っていた物体は彼。少年はあおむけに胡坐をかいて座り、額に蝋燭を乗せてじっとしている。溶けた蝋が瞼や鼻、唇をふさいで、あごの先からはボタボタと膝の上に落ちていた。加えて切なげな声で、己はもうすっかりお嬢様に降参してしまったのだと告げる。

 その横に立つ光子こそが、この奇怪で艶やかな国にたった一人で君臨する、支配者だった。

 

「栄ちゃん、もう此れから信ちゃんの云う事なんぞ聴かないで、あたしの家来にならないか。いやだと云えば彼処にある人形のように、お前の体へ蛇を何匹でも巻き付かせるよ」
光子は始終底気味悪く笑いながら、金文字入りの洋書が一杯詰まって居る書棚の上の石膏の像を指さした。

(中略)

「何でもあたしの云う通りになるだろうね」
「………」私は真っ蒼な顔をして、黙って頷いた。

 

 パブリックドメイン作品なので、以下のリンクから続きと全文が読めます。

谷崎潤一郎 - 少年 全文|青空文庫

 紙媒体の購入はこちら。

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 現実だけではなく、文学世界で楽しむ洋館巡りも中々おつなもの。

 ちなみに記事中の洋館の写真は、駒場公園の旧前田侯爵邸で撮影したものです。

 

他にも近代文学いろいろ:

 

 

 

 

小雨ふる新吉原遊郭跡 - 樋口一葉の《たけくらべ》を片手に歩く、静かな昼の旧花街

 

 

 

 

 大切な誰かへ思いを伝える手段はいろいろある。直接声に言葉をのせたり、手紙をしたためたり、あるいはそっと触れたりなど。

 去る2月14日のバレンタインデーには、日本でも多くの人がイベントの賑やかな空気にあやかり、洋菓子を意中の相手に贈る光景がそこかしこで見られた……らしい(私はその日、仕事をしていただけなのでよく知らない)。

 昔も今も変わらない、人が誰かを恋い慕う心。だがその向かう先、行きつく場所はそれぞれに違う。

 私が折に触れて読み返す、樋口一葉著の短編《たけくらべ》には、決して声高に叫ばれることのない感情のやりとりと結ばれ方がとても丁寧に描かれていた。

 

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池の鯉

 時代は明治新吉原遊郭という特殊な世界から、通りをほんの数本隔てた場所で育ち暮らす子供たち。

 幼いながら、ふとした瞬間に大人顔負けの振る舞いや機転を見せる彼らが、日々起こる様々な出来事を通して喜怒哀楽を経験し成長していく過程が愛おしい。

 現在はほとんど廃れているものの、未だ残る吉原の面影と過去の隆盛を偲びに、先日は散歩へ出かけた。天気予報が外れて容赦なく氷雨に打たれ、とても寒かった。

 

参考サイト・書籍:

青空文庫(電子図書館)

一葉の「たけくらべ」(ビギナーズ・クラシックス 近代文学編 角川ソフィア文庫)

 

 

 物語の情景を織り交ぜて、散策の感想を記載してみる。

 

新吉原遊郭 周辺散歩と《たけくらべ》の情景

 三ノ輪で地下鉄を降りて、吉原へと続く土手通りをしばらく歩く。これは駅から真っ直ぐに伸びる大きな道だ。昔は、その名の通りに土手(日本堤)があったのが由来。

 すると、左手に趣のある古そうな建物が見えてきた。ずいぶん魅力的な佇まいだと思えば「登録有形文化財」の表記もあるではないか。

 どうやら二軒の店が隣り合っているようで、一方は《土手の伊勢屋》、もう一方は《桜なべ 中江》と書いてあった。調べると、いずれも創業から百年以上存続している老舗の食事処とのこと。外観をなめるように堪能しつつ写真を撮ってしまう。

 

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桜なべ 中江さん前

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土手の伊勢屋さん前

 公式サイトによれば《土手の伊勢屋》さんの創業は明治22年。《たけくらべ》を著した樋口一葉が吉原近く、竜泉へ引っ越してきたのが明治26年だから、その頃には既に営業を開始していたことになる。

 関東大震災の影響で大正12年に建物が全壊し、昭和2年に建て直しが行われているものの、店自体は途絶えていない事実がとても感慨深い。

 吉原の向かいという土地柄、当時は一般客に加えて遊郭の利用者従業員、出前の注文などで賑わい、昼夜を問わず回転していたようす。白黒写真をじっと眺めて意識を飛ばせば、道を風のように行き交う沢山の人力車が見える気がする。

 

参考:HISTORY | 土手の伊勢屋(どてのいせや) | 三ノ輪で128年続く老舗天麩羅屋

 

 現在は店の前の土手通りを渡るとガソリンスタンドがあり、そこで一本のが雨に濡れながら葉を揺らしていた。

 細さのせいか、頼りなくさみしげな風貌だ。

 

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六代目 見返り柳

廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き……

 

 これは、曲線を描いて人の視線を攪乱させる吉原の玄関――衣紋坂(えもんざか)の入り口に昔から立っている、見返り柳

 上に引用した《たけくらべ》の冒頭でも言及されているが、植えられた当時から何度も消失し代替わりしていて、2020年現在で六代目にあたる。朝、遊女に見送られながら廓(くるわ)を去る客が、名残り惜しんで何度も道を振り返る仕草から名付けられた。

 そして上の引用に登場するもう一つの存在、吉原をぐるりと囲んだ お歯ぐろどぶ という堀は、埋め立てられてしまっているのでもう無い。残っているのはわずかな石垣の遺構のみ。

 事前に調べていたからそれと分かったが、知らなければ素通りしてしまうだろう。どこからどう見てもマンションの花壇でしかない。

 

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お歯黒溝の生垣

茶屋が桟橋とんと沙汰して、廻り遠や此処からあげまする、誂へ物の仕事やさんとこのあたりには言ふぞかし……

 

 ここでは回り道をすると遠いから……と、仕立て屋さんが荷物を持ってお歯黒どぶの跳ね橋を踏み、向こう岸へ合図をしている。

 下水として機能し、かなり広い幅を持っていたことから、遊女の脱走(足抜け)を防ぐ役割も果たした溝。仕事で出入りする人間が利用する跳ね橋を除いては、廓への出入り口は大門ひとつに限られていた。

 それもあってか、関東大震災時の火災では500人近くの遊女が避難しそこね、廓の端にあった弁天池に飛び込んで亡くなった悲惨な歴史がある。

 火事と喧嘩は江戸の華、と言われたほど火による被害が多かった東京、この吉原も数えきれないほどの焼失を繰り返しては再建されてきた。

 

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吉原神社前

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吉原弁財天

 弁天池の跡地に建てられたのが慰霊・供養塔(吉原弁財天)。

 昭和10年の頃、吉原弁財天吉原神社と合併した。弁財天の御朱印も神社の方でもらえる。いずれも寒空の下で敷地に一人立っていると、しんみりとした気持ちが強くなった。周囲は静かで人通りも少ない。

 

 花街は栄え、時に文化的な流行の発信地ともなりえた煌びやかな世界だが、そもそもが借金のカタに身売りした女性たちの集う場所。上位の遊女としてのしあがり、破格の待遇を受けられた者はごく僅かだ。

 廓内で客が見た一夜の夢よりも儚く、知られずに消えていった人間の数はいかほどだろうか。

 かつて「生まれては苦界、死しては浄閑寺(著名な投げ込み寺)」という句が詠まれたことに、ただ納得と悲しみの念を抱くばかり。

 ちなみに、遊女たちが性病などの検査をするために赴いた吉原病院は後に東京都立台東病院、東京都台東区立台東病院と名前を変え、今も当時と同じ場所に佇んでいる。

 

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かつて遊女達も座った椅子、一葉記念館にて

 

 

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吉原大門(明治10年代)

 一葉記念館にあった写真の吉原大門明治10年代のもので、二本の柱の上に載ったお化けのように大きなガス灯が目を引く。

 文明開化から間もない頃、ハイカラなガス灯の燈火は洒脱さと高級感の象徴であったことが伺える(関連記事:光源としての瓦斯(ガス)と明治~大正時代の日本|GAS MUSEUM がす資料館にて)。

 とはいえ、これも見返り柳と同じく何度も代替わりしており、素材も外観も変化している。明治初期は黒塗りの木で、やがて上の写真のようになり、さらに後には鉄製のアーチが設けられた。

 震災で倒壊してから門は作られておらず、今に至るという。

 

 他に明治期の吉原で見られたハイカラな設備として、大店(おおだな)・角海老楼の時計塔が挙げられる。

《たけくらべ》では八月下旬に千束神社の祭りを終えて、の静かで物悲しい雰囲気に包まれた近隣の様子が描かれる部分に登場した。

 

赤蜻蛉(あかとんぼ)田圃に乱るれば横堀に鶉なく頃も近づきぬ、(中略)角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうに成れば……

 

 輸入品の機械を用いて三角の屋根を戴いた時計塔は、やがて東京の名所と呼ばれるまでに至り、優美な印象を大通りに添えていたのだろう。

 ちなみに、以下の写真は新吉原遊郭だった場所に現在建っているソープランド《角海老》だが、明治期の大店の方とは全く関係がなく、名前だけを拝借している施設になる。

 昔の地図を確認してみても位置が異なっていた。

 

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ソープランド

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Yoshiwara, Tokyo. © The New York Public Library

 この古写真ニューヨーク・パブリック・ライブラリー所蔵 パブリックドメイン)にも、角海老ではないがその付近にあった洋風の楼閣が映っている。

 明治後期の新吉原を想像するための素晴らしい資料だ。

 さて、ここからは実際に町を歩きながら、《たけくらべ》の根幹をなす登場人物のうちのひとり――人気の遊女を姉に持つ少女・美登利(みどり)のことを考えてみよう。

 

色白に鼻筋とほりて、口もとは小さからねど締りたれば醜くからず、一つ一つに取たてては美人の鑑に遠けれど、物いふ声の細く清しき、人を見る目の愛敬あふれて、身のこなしの活々したるは快き物なり、(中略)朝湯の帰りに首筋白々と手拭さげたる立姿を、今三年の後に見たしと廓がへりの若者は申き……

 

 美登利の一家は、あるとき身売りした彼女の姉に付いて、紀州(和歌山県)から東京・吉原に移り住んだ。

 そのうち妹にも客を取らせようという楼主の魂胆か、遊女屋のひとつ《大黒屋》の別荘で暮らし、様々な後ろ盾のもと何不自由ない生活を送る美登利は、竹を割ったような性格で勝ち気な人柄。他の遊女や遣手が渡してくる金銭を惜しむ様子もなく使い、子供たちの間ではまるで女王様のように扱われていた。

 引っ越し当初は訛りもあったことで、口々に「田舎者」と馬鹿にされていたのが最近は見る影もない。

 

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履物の大黒屋さん

 今回散歩の途中で出会った大黒屋さんは、遊女屋ではなく履物のお店だった。

 物語の中で新吉原遊郭の西、入谷に近い私立小学校《育英舎》に通う美登利には、何となく気になる人がいる。それが龍華寺の息子・藤本信如(のぶゆき、しんにょとも読む)で、いずれは僧侶になる予定の真面目かつ勤勉な少年だ。子供たちの組む徒党、《横町組》の頭である長吉にも一目置かれている。

 学校の運動会で転び、手を汚した信如へハンカチを差し出したのをきっかけに、美登利は折を見て彼に構うようになった。

 

最初は藤本さん藤本さんと親しく物いひかけ……

 

 しかし悲しいかな、人気者の美登利と信如が仲良くするのが妬ましいのか、周りが必要以上に彼をはやし立ててからかう。要らぬことばかり言ってくる。

 もとより純朴な性格の信如はそれを嫌がって、ことあるごとに美登利を無視しようと努めた。

 彼女はなぜ彼が自分を避けるのか合点がいかないので、そのうちに意地悪をされているのだと思い、二人とも互いを避けるようになってしまったのだ。

 

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吉原の町角

 そこに美登利へ好意を寄せる質屋の息子・《表町組》の正太郎も絡んできて、お語は進む。

 それぞれの、言葉にするだけではない思いの交感が、一葉の紡ぐ洗練された言葉に乗せられて優しく哀しく流れていく。

 今は皆に女王様と慕われ、蝶よ花よとおだてられている美登利の未来は、決して明るいものではない。両親や姉のいる大黒屋の主人がそっと画策しているように、いずれは彼女も遊女として働き、客を取るようになるだろう。

 

或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懐かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝へ聞くその明けの日は信如が何がしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ。

 

《たけくらべ》の最後で髪を島田に結い、不穏な空気と諸事に心乱す美登利の家にそっと置かれていた白い水仙の造花。一体誰からなのかは分からないが、彼女はどこか惹かれてそれを花瓶にさし、眺めた。

 そういえば今日は、信如この地を離れて仏教の学校へ入学する日だったな――と思い至ることを示唆して、物語は幕を閉じる。

 この恋は目に見える形で成就しない。二人の行く道が、この先の地点で交わることもほぼ無いと考えていい。それでも互いの大切な人へ、確かに思いは伝わったのだ。

 

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鷲神社(浅草酉の市御本社)

 新吉原だった地区を出て少し歩くと鷲(大鳥)神社にさしかかる。

 作品中では十一月の酉の市に向けて、色とりどりの熊手を準備する住民たちの描写があった。大門と溝で外界から隔てられた遊郭と言えど、祭りの当日は一般に開かれていたらしく、その賑わいはかなりのもの。

 私も工作が好きなので内職のお手伝いをしてみたい。それできちんと商売をするのは本当に難しそうだけれど。

 

あやしき形に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田楽みるやう、裏にはりたるのさまもをかし、(中略)一家内これにかかりてそれは何ぞと問ふに、知らずや霜月酉の日例の神社に欲深様のかつぎ給ふこれぞ熊手の下ごしらへといふ……

 

 また、さらにそこから北へと進めば、子供たちが《表町組》《横町組》徒党に分かれて激しく争う八月の祭りの舞台・千束神社がある。

 

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千束神社前

 現場では四角い万灯などの道具も用いて喧嘩する騒ぎになったそうだから、幼子がすることとはいえ、一歩間違えれば暴動だ。

 美登利は表町組に、信如は成り行きとはいえ横町組に属し対立していた部分からは、どこか《ロミオとジュリエット》や《ウエストサイド・ストーリー》を連想させられなくもない。

 

正太郎組の短小野郎と万燈のたたき合ひから始まつて、それといふと奴の中間がばらばらと飛出しやあがつて、どうだらう小さな者の万燈を打ちこわしちまつて、胴揚にしやがつて……

 

 この辺りまで来るともう三ノ輪の駅は目前。

 今の新吉原遊郭跡に、私が好きな明治・大正期の面影を偲ばせる遺構はほとんど残っていないが、本や地図を片手に歩くのはとっても面白い妄想の材料がそこかしこに散らばっている。

 新吉原が題材になっていたり、登場したりする作品は数多い。漫画《鬼滅の刃》でも遊郭編の舞台が吉原だった。当ブログを読んで下さっている方々も、もしも好きな物語のどれかにこの場所が登場したら、一度足を運んでみるのも楽しいと思う。

 

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左側が《花街》

 余談だが、最近買った香水が J-Scent《花街》

 昔栄えた家の廃墟のような……談笑の声や煙が染みた、木の柱の香りがする。かすかに果物の気配も。そこにはくすんだ妖しげな華やかさがあって、どこか吉原の隆盛と衰退を思わせた。

 和風の渋い匂いが好きな人におすすめ。

 

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はてなブログ 今週のお題「大切な人へ(思いを伝える物語)」

 

 

 

 

《文字禍》中島敦 - アッシリア|近代日本の小説家による、外国を舞台にした短編のお気に入り(4)

 

 

 

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 前回は20世紀、革命勃発前後のロシアを舞台にした作品、夢野久作の《死後の恋》を紹介しました。

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文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。

 

 中島敦の短編《文字禍》はこんな書き出しで始まる。題の字を読むごとく、文字による禍(わざわい)の話だ。

 舞台は遠い昔の新アッシリア帝国。そこで紀元前7世紀頃に支配者として君臨していたアッシュールバニパル王と、その命を受けて「ある噂」の根幹を調べようと奔走する老博士、ナブ・アヘ・エリバ氏が主な登場人物になる。

 古代の人々は、様々な方法で身の回りの出来事や現象を説明しようと試みてきた。例えば天災疫病の被害を受けて、その状況や原因を持てる知識のかぎり誰かに伝えた結果、一種の伝説が生まれたことも少なくない。大抵の場合、人間の理解がなかなか及ばない事件は精霊や妖鬼などの仕業とされた。

 もちろん、中には本当に「この世のモノならぬ何か」による事件の場合もあったかもしれないが、ここでは割愛しておく。

 

 話を冒頭に戻そう。文字の霊などというものが、一体あるものかどうか。

 ナブ・アヘ・エリバ博士が王からその調査を依頼されたのは何故なのか、物語の中のアッシリアでどんな奇妙な出来事が起こっていたのか――そこには、現代に生きる私達も常に直面している問いを多分に含む、興味深い背景があった。

 

目次:

 

参考・引用元:

青空文庫(電子図書館)

 

 

※物語の内容やその詳細に言及しています。

※また、この記事中で紹介しているのはパブリックドメインの作品です。

 

中島敦(1909~1942)

 教員の両親を持ち、父の転勤について度々居を移しながら学校に通い、やがて帝国大学文学部国文科を卒業した中島敦。

 役人として南国のパラオに赴任したり、横浜で教員として励んだりしながら執筆活動に勤しむものの、気管支を患い33歳で夭折した。博識な人であり、何よりも文学を愛していたのが言動の記録から伺える。

 漢文を学んだ影響から、中国をはじめとした古今東西の逸話に取材しつつ、そこに近代的な「自我」や「認識」への疑問を絡めて巧みに描き出している……のが作品の大きな特徴といえよう。

 

 彼が発表した中で最も有名なものは間違いなく《山月記》だと思う。

 高校国語、現代文の教科書で取り扱われているほか、描かれている人物像や葛藤は共感と議論を呼びやすく、物語自体も面白い。だが、この短編が連作の一篇として発表されたことを知っている人はどのくらいいるだろうか?

 1942年に筑摩書房から出版された作品集の中で、《山月記》《狐憑》《木乃伊》そして《文字禍》と並んで、連作「古譚」を構成していた。

 いずれもその名の通り、遥か昔にどこかの土地(中国、スキタイ、ペルシャ)で起こった出来事という体で書かれており、これから紹介する《文字禍》は最初に述べたように新アッシリア帝国で展開する。

 中島敦は寡作な作家だからこそ、一つ一つの話に魂がこもり、輝いているようだと私には思える。

 

  • 《文字禍》あらすじ

 アッシリアの都、ニネヴェの宮殿。そこでは最近奇妙な噂が囁かれるようになっていた。

 なんでも、アッシュールバニパル王の建てた大図書館の片隅で、毎夜何かをひそひそ話す怪しい声がある――というのだ。

 このあいだ処刑したバビロンの捕虜たちはみな舌を抜かれていたから、きっと死霊となっても喋れまい。もしくは何者かが夜中に陰謀の相談をしているとも思われたが、ある謀反が鎮圧されたばかりなので、それも考え難い。

 

星占や羊肝卜(ようかんぼく)で空しく探索した後、これはどうしても書物共あるいは文字共の話し声と考えるより外はなくなった。ただ、文字の霊(というものが在るとして)とはいかなる性質をもつものか、それが皆目判らない。アシュル・バニ・アパル大王は巨眼縮髪の老博士ナブ・アヘ・エリバを召して、この未知の精霊についての研究を命じたもうた。

 

 かくして、ナブ・アヘ・エリバ博士はまず問題の図書館にこもり、関係のありそうな資料(粘土板)を片っ端から紐解き始めたのである。ちなみに、当時アッシリアの粘土板に刻まれていたのは楔形文字だ。

 だがその努力も虚しく、文字の霊について記された文献を発見することはできなかった。ほんの僅かな手掛かりでさえも。何を読んでもただ、文字はナブー(メソポタミアで信仰された書記の神)が司っている、としか書かれていないのだ。

 そこで博士は占い師がするように、一つの文字を前にしてジッ……と凝視し始めた。観察することで何か分かることがあるかもしれない。

 

 すると時間が経つにつれて奇妙な現象が起こる。

 目の前にある文字を、どういうわけか「文字」として認識できなくなってくる。その文字を構成している要素はバラバラに分解され、単なる「線」や「点」へとなり下がってしまった。何と発音するのか、どんな意味を持っていたのか、もう読み取ることはできない。

 そもそもどうして今まで、自分の目はこれを文字として捉えていたのかが分からない。無味乾燥な図形、記号に過ぎないではないか。

 いわゆる「ゲシュタルト崩壊」である。

 

単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有(も)つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。

(中略)

今まで七十年の間当然と思って看過していたことが、決して当然でも必然でもない。彼は眼から鱗の落ちた思いがした。単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か?

 

 博士は気が付いた。単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるもの。それこそが文字の霊であり彼らの御業なのだ、と。特定の記号を特定の言葉として、人間に認識させる存在こそが。

 その発見を頭の隅に置き、彼は市井へと繰り出す。すると、おそらくは文字の霊による被害、多種多様な禍(わざわい)が沢山見つかった。

 博士は考察を続けた結果、ついに文字の霊の核心に迫り、アッシュールバニパル王へと報告するに至るのだが――。

 

文字の霊が、この讒謗者(ざんぼうしゃ)をただで置く訳が無い。

 

 最期にはナブ・アヘ・エリバ博士自身が「文字禍」に見舞われる。

 では彼は一体、何に気が付いてしまったのだろうか?

 

 

 

 

  • 好きな要素

 人が、目の前の視覚情報をどんな風に得て認識し、頭の中にある知識と結びつけて解釈するのか。私はずっとそれに興味を持っていた。大学でずっと記号論の本に顔を突っ込んでいた位に。

 だから初めて《文字禍》に出会ったとき、「何かを表す記号」としての文字をこんなにも面白く描いてくれるとは……と感心したのを覚えている。

 さて、街で聞き込みをしていたナブ・アヘ・エリバ博士は、文字の霊が人間に与える影響を調べる上でこんな例に出会ったという。

 

文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなった。

(中略)

文字に親しむようになってから、女を抱いても一向楽しゅうなくなったという訴えもあった。もっとも、こう言出したのは、七十歳を越した老人であるから、これは文字のせいではないかも知れぬ。

 

 読み書きができる者の脳を犯し、神経を麻痺させる文字。

 そこでふと、博士は近郊の国エジプトに住まう人々の考え方を思い出す。

 

埃及人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。

 

 そう、これこそが《文字禍》の物語の根幹をなしている。

 私達は普段、何かを記録し伝えるために文字を利用する。文字はいわば、伝達したい何かの写し、なのだ。例えば紙の上に「赤いりんごが一つ」と書く。それを見たある人間は頭の中に、表された通りの果実を思い浮かべられる。目の前に赤いりんごが存在しなくても。

 この場合、文字は実物の代わりに媒体となり、特定のイメージを人の脳内にもたらした。

 もちろん、これは文字の書き手と読み手がある程度の認識を共有していることが前提になる(なぜなら「赤いりんご」という存在・概念を全く知らない人間が文字列を見ても、何も思い浮かべられないので)。

 そして留意しておきたいのは、文字は何かを表すことはできても、その何かに成り代わることはできないという点だ。獅子という文字は獅子を表現してはいるが、決して、現実に生きて動いている獅子そのものではない……。

 

 文字の霊が、人にそうだと錯覚させる。通常は現実が文字に反映されるはずなのに、その状況が逆転して、文字として記録されたものこそが現実として感じられるようになる。では、記録されなかったことはどうなるのだろうか?

 ある日、文字の霊に犯されつつある博士のもとに若者がやってきた。

 

賢明な老博士が賢明な沈黙を守っているのを見て、若い歴史家は、次のような形に問を変えた。歴史とは、昔、在った事柄をいうのであろうか? それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?

(中略)

歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌されたものである。この二つは同じことではないか。
書洩らしは? と歴史家が聞く。
書洩らし? 冗談ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。
若い歴史家は情なさそうな顔をして、指し示された瓦を見た。

 

  文字が現実に成り代わると、粘土板に刻まれなかった歴史は、文字通り「無かったこと」になってしまうのだった。この若い歴史家と博士の会話は面白いが、恐ろしくもある。誰かにとって都合の悪い記録を全て削除し、書き換えてしまえば、それが新しい「真実」になるのだから――。

 それが禍(わざわい)でなくて何だろうか。

 物語の中で寓意的に語られる「文字の霊」は、確かに私達の認識に棲みついている。

 

 以下のリンクから全文が読めるので、興味をそそられた方はぜひ。

中島敦 - 文字禍 全文|青空文庫

 紙媒体の購入はこちら。

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関連記事:

 

 

 

 

《死後の恋》夢野久作 - ロシア|近代日本の小説家による、外国を舞台にした短編のお気に入り(3)

 

 

 

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 前回は、イギリスを舞台にした夏目漱石の作品《倫敦塔》を紹介しました。

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 王朝文化が栄華を極めた帝国から、ソヴィエト連邦への変遷をたどったロシア。二月革命が勃発しロマノフ朝が潰えて、最後の皇帝ニコライ2世の一家全員と飼い犬、従者が処刑された20世紀初頭。

 彼らはみな銃で撃たれたり、剣で刺されたり殴打されたりした後に火をかけられ、最後には無造作に森に埋められた――。

 事件そのものの凄惨さが話題を呼んだのに加えて、まだ不明瞭だった殺害状況と死体の判別の難しさから、ある噂がまことしやかに囁かれるようになる。

 それは当時、皇帝の末娘だったアナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァが逃げ延び、今もどこかで生きているのではないかという一種の伝説。これに乗じて遺産をねらう偽物が何人もあらわれて、一部の人々は熱狂し、謎めいた状況は混乱を極めたそうだ。

 このアナスタシア伝説を題材にした作品は多い。

 私の愛するミュージカルアニメ映画《Anastasia(1997)》や英国ロイヤル・バレエの演目のほか、最近ではスマートフォンゲーム《Fate/Grand Order》のサーヴァントとして、アナスタシアがキャラクター化され登場している。

 

 今回の記事で紹介する短編小説《死後の恋》も、そんな伝説に着想を得た物語のうちのひとつだった。

 

目次:

 

参考・引用元:

青空文庫(電子図書館)

 

 

※物語の内容やその詳細に言及しています。ネタバレ注意。

※また、この記事中で紹介しているのはパブリックドメインの作品です。

 

夢野久作(1889~1936)

 いま私の手元には夢野久作の短編集《瓶詰の地獄(角川文庫)》があるが、カバーの折り返しに記載されている著者の経歴は、一言でいうと混沌としている。

 

日本右翼の大物、杉山茂丸の長男として生まれる。(中略)慶應義塾大学文学部中退。禅僧、農園主、能の教授、新聞記者と、種々の経歴を持ち、1926年「あやかしの鼓」を雑誌発表して作家生活に入る。

 

 これを2回、3回くらい読んでも文字が頭に入ってくるだけで、彼の人生の全貌は全くつかめた気にならない。種々の経歴、という言葉では到底片付けることのできない何かを強く感じる。

 47年の短い生涯を通して著された物語も幻想的・狂気的な雰囲気を纏った怪しいものが多く、特に難解な《ドグラ・マグラ》は日本三大奇書の一つとしてよく話題に上るため、未読でもその名前だけを知っている人は少なくないのではないだろうか。

 だが、彼の作品群はそれらの目立つ要素を抜きにしても、文句なく面白い。文章表現も美しく魅力的だ。

 個人的には、おそらく新聞記者として勤めた経験から培われたと推察できる表現や場面が、とても良いと思う(例えば短編《けむりを吐かぬ煙突》などにそれが出てくる)。

 単に変わっているだけの小説だ、という先入観で夢野久作を敬遠している人がいるならば本当にもったいない。もちろん、好みの分かれる作風であるのはわかる。

 手軽に読める長さの物語も多いので、まずは一度手に取ってから、その面白さを判断してほしいと願わずにはいられない。

 

  • 《死後の恋》あらすじ

 物語は、みすぼらしい服を着たロシア人の男ワーシカ・コルニコフの回想と、独白の形式で進む。

 舞台はロシアの浦塩(ウラジオストク)。

 コルニコフに突然「私の運命を決定(きめ)てください」謎の言葉で呼び止められ、レストランへと引っ張り込まれた一人の日本兵は、成り行きでその話を最後まで聞くことになるのだが......彼曰く、今まで数多の人間にある秘密を打ち明けてきたものの、誰一人としてそれを信じなかったのだという。

 

ですから誰でもいい……この広い世界中にタッタ一人でいいから、現在私を支配している世にも不可思議な「死後の恋」の話を肯定して下さるお方があったら、……そうして、私の運命を決定して下さるお方があったら、その方に私の全財産である「死後の恋」の遺品をソックリそのままお譲りして、自分はお酒を飲んで飲んで飲み死にしようと決心したのです。

 

 白髪交じりの中年に見えるコルニコフの相貌だが、実際はまだ24歳の若者で、帝国時代の貴族の血を受け継いでいると語った。

 周囲からは戦争体験により精神病を患った狂人だと思われており、かつて所属していた白軍からも追い出されてしまったらしい。

 

 記事の冒頭で述べたロシア革命の折に両親を喪い、半ば自暴自棄になって軍隊にいた彼は、流れ着いた部隊でリヤトニコフという兵士と出会う。

 コルニコフと同じモスクワの出身らしく、革命以前の王朝とその文化――美術や音楽を愛好している共通点から、二人は兄弟同様に親しくなり、しばしば話し込んだ。

 周囲に分かり合える人間がいない中、無二の友人を見つけた彼らの喜びは想像に難くない。

 

起居動作が思い切って無邪気で活溌な、一種の躁ぎ屋と見えるうちに、どことなく気品が備わっているように思われる十七、八歳の少年兵士で、真黒く日に焼けてはいましたけれども、たしかに貴族の血を享けていることが、その清らかな眼鼻立ちを見ただけでもわかるのでした。

 

 リヤトニコフはちょっと不思議な雰囲気を持つ少年だった。

 ある日、コルニコフが斥候に向かうことが決まり、分隊の仲間に別れの挨拶をしようと部屋に戻ると、酷く浮かない顔で座り込むリヤトニコフによって外へと連れ出される。

 そして人気のない場所まで来たとき、彼が革のポーチから取り出して見せたのは眩く輝く、何十粒もの大きな宝石だったのだ。貴族の家に生まれ育ち、宝石を愛好していた人間として、それが偽物でないことはすぐコルニコフに分かった。

 

 状況が全く把握できない彼に対して、リヤトニコフは語り始める。かつて革命の機運を察した両親が、折を見て家を再興させて欲しいとの願いを込め、彼に血統の証明と結婚費用に使える宝石を託してこっそり逃がしたこと。

 生家を出てからは、モスクワで大学生に変装して音楽教師をしていたこと。

 そして――軍に徴用されてから、自分の家族が過激派に殺された、という噂を聞いてしまったことを。

 

……私はリヤトニコフが貴族の出であることを前からチャンと察しているにはいましたが、まさかに、それ程の身分であろうとは夢にも想像していないのでした。

 

 目の前にいる人間が打ち明けた事の内容に慄きながらも、コルニコフはいくつかの疑念を捨てきれない。

 仮にこの少年がニコライ2世の血縁だとすると、三女マリアと末息子アレクセイの間の年齢でなければならないが、皇帝には他に男の子どもがいなかったはずだ。また、なぜリヤトニコフが、これらの宝石を彼に見せたのか......コルニコフには、その理由がさっぱり分からなかった。

 果たしてリヤトニコフは誰なのか。そして、「死後の恋」とは一体何なのか。薄々勘づいている人も沢山いることと思うので、この先はぜひ本編で。

 次の項にはたくさんのネタバレがあります。

 

 

 

 

  • 好きな要素

 夢野久作の文体の中では三点リーダーがよく使われているのだが、これが彼の作品に大きな魅力を添えていると私は思う。

 決して無駄には多用されておらず的確で、一人称の語りに独特のリズムを与えており、読んでいると思わず引き込まれてしまうのだ。

 

……ところでウオツカを一杯いかがですか……ではウイスキーは……コニャックも……皆お嫌い……日本の兵士はナゼそんなに、お酒を召し上らないのでしょう……では紅茶。乾菓子(コンフェートム)。野菜……アッ。この店には自慢の腸詰がありますよ。召し上りますか……ハラショ……。

 

 静かに話を聞いている日本兵の目の前で、コルニコフが胡散臭く、忙しなく喋る様子がはっきりと思い浮かぶ。なかなかたまらないものがあるが、皆さんはどう感じるだろうか。

 加えて、ところどころに登場するカタカナの表記。

 

チットモ御存じなかったのですね。ハハア。ナルホド。

ゼヒトモ一度ゆっくりとお話ししたいと思っておりましたのです。

・不意にケタタマシイ機関銃の音が起って、私たちの一隊の前後の青草の葉を虚空に吹き散らしました。

 

 通常は漢字とひらがなにする表記をカタカナに変えただけでどこまでも怪しい。これらの文体を、私は勝手に夢Q節(ゆめきゅうぶし)と呼んで愛好している。

 

 《死後の恋》の中で物語が大きく動くのは、ウスリからニコリスク(双方とも地名)へと向かう彼らの軍の部隊が、道中の小さな森付近で敵に襲撃されるところ。この部分には前述したような三点リーダーが殆ど使われておらず、漂う緊迫した雰囲気を強調しているようだった。

 文中の表現を借りれば「小鳥の群れのように」頭上を飛び交う弾丸、負傷し身を伏せて辺りを見回すコルニコフと、森へと逃げていく仲間たち――そこには、リヤトニコフの姿もある。

 やがて、コルニコフ以外の全員が森の中に消えた後、激烈な銃声が聞こえて数十秒の後に止んだ。何事かと皆を追った彼が緑に分け入り、そこで目にしたのは、あまりにも凄惨な光景だった......。

 

三十幾粒の宝石は、赤軍がよく持っている口径の大きい猟銃を使ったらしく、空砲に籠めて、その下腹部に撃ち込んであるのでした。私が草原を匐っているうちに耳にした二発の銃声は、その音だったのでしょう……そこの処の皮と肉が破れ開いて、内部から掌ほどの青白い臓腑がダラリと垂れ下っているその表面に血にまみれたダイヤ、ルビー、サファイヤ、トパーズの数々がキラキラと光りながら粘り付いておりました。

 

 リヤトニコフの、少年......ではなく、実は少女だったその身体は敵兵(赤軍)に蹂躙され、引き裂かれ、しまいには樹の幹から吊り下げられ宝石を撃ち込まれていた。

 ここで断っておくが、私は血液や内臓が出てくる小説や映画などの作品があまり得意ではない。どちらかというと苦手な方だ。だが、《死後の恋》のこの部分で展開する風景のことは恐ろしいだけでなく、心から美しいと思った。

 もちろんこの短編は一人称なので、語り手が本当のことを話しているのか、嘘を言っているのか、読者には結局分からないのだが。

 

エッ……エエッ……私の話が本当らしくないって……。
……あ……貴下もですか。……ああ……どうしよう……ま……待って下さい。逃げないで……ま……まだお話しすることが……ま、待って下さいッ……。
ああッ……
アナスタシヤ内親王殿下……。

 

 私のブログをここまで読んで下さった方々はぜひ、小説の全文を読んで、コルニコフの話を最後まで聞いてあげて欲しい。

 

夢野久作 - 死後の恋 全文|青空文庫

 紙媒体の購入はこちら。

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 次回、この連載の最後では中島敦の《文字禍》を紹介したいと思います。

 

他にも近代文学いろいろ:

 

 

 

 

 

《倫敦塔》夏目漱石 - イギリス|近代日本の小説家による、外国を舞台にした短編のお気に入り(2)

 

 

 

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本棚ギャラリー

 

 前回は、ドイツを舞台にした森鴎外の作品《うたかたの記》を紹介しました。

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 これを読んでいる方々の中に、空想を日常的に好んで行うと自認している人はどの位いるだろうか。

 もしくは、普段から意識していないのに頭の方が勝手に働き、色々な出来事がどんどん脳内で展開してしまう、という人。

 その数は決して少なくないと思うし、かくいう私もそのうちの一人だ。目の前に何らかの種を与えられると、嬉々として水をやり育てずにはいられない。物語の破片ははっきりと見えなくても、あらゆるものの陰にそっと息をひそめて隠れているから。

 前回に引き続いて紹介したい短編は、作者がイギリスの首都・ロンドンの観光名所《ロンドン塔(Tower of London)》を訪れた際の出来事が、臨場感とともに描写されているもの。

 そこで遭遇した数々の人物・事物と、それを鍵として開かれた空想の扉から垣間見える、少し怪しげだが幻想的で美しい世界のお話だ。

 

 物語の終盤、古い塔の雰囲気に首まで浸ったあと帰路につき、到着した宿で明かされたある事実も、非常に漱石らしい語り口で叙述されていて面白い。幻想的だが平易で、わかりやすくもあるのが夏目漱石作品の魅力。

 宿の主人からの無粋な「種明かし」を受けて、彼はさも落胆して鼻白らんだかのように見せているが、実のところ漱石本人も「空想なんてのはこんなものだ」と初めからに構えていたのではないかと読者の側に感じさせる。

 さて、そんな彼をロンドン塔で待ち受けていたものとは一体何だったのだろう。

 

目次:

 

参考・引用元:

青空文庫(電子図書館)

 

 

※物語の内容やその詳細に言及しています。

※また、この記事中で紹介しているのはパブリックドメインの作品です。

 

夏目漱石(1867~1916)

 神奈川近代文学館で開催されていた、《特別展「100年目に出会う 夏目漱石」》を鑑賞しに行ったのはもう3年も前になる。光陰矢の如し。漱石が没してから百と少しの年数が経過してもなお、紡がれた多くの物語は、人々の心を惹きつけてやまない。

 自己と他者、そして日本と外国の狭間に立ちながら文学と人間について考え続けた彼の葛藤には、それだけ普遍的な要素が含まれているということだろう。

 文部省から「英文学研究」の名目でイギリスへの渡航が命じられたのは、西暦1900年――漱石が33歳の時。当時まだ小説作品は発表しておらず、1903年に帰国してしばらくの間も、英文科の講師として帝国大学に勤務していた。

 かの小泉八雲の後任としてやってきたのだが、生徒からの授業の評判は芳しくなかったらしい。

 

 彼が本格的に執筆を始めたのはこの頃で、38歳になって《吾輩は猫である》を出版する運びとなった。

 ロンドン滞在中の経験に着想を得たこの《倫敦塔》も、比較的初期の1905年に発表された作品だ。

 

  • 《倫敦塔》あらすじ

 そもそもロンドン塔とは、イングランド王ウィリアム1世によって11世紀に建設が命じられた要塞。時代が移り変わるに従って天文台や造幣局、監獄処刑場として使われるようにもなり、特に15~17世紀には数々の著名な人物がここで死んでいった。

 現在では貴重な史跡として、ユネスコ世界文化遺産のリストに登録されている。

 

二年の留学中ただ一度倫敦塔を見物した事がある。その後再び行こうと思った日もあるがやめにした。人から誘われた事もあるが断った。一度で得た記憶を二返目に打壊すのは惜しい、三たび目に拭い去るのはもっとも残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う。

 

 まだロンドンに着いて間もない時分のこと。

 漱石は観光でもする気分だったのか、不慣れな街を歩くのに苦労しながら、どんよりとした曇りの日にテムズ川の畔を訪ねた。そして向かい側に建つ塔をじっと見つめるうちに、自分を強く引きつける不思議な力を感じ、入口まで小走りで向かう。

 門をくぐり、石橋を渡り、敷地内を歩き始めた彼の双眸に映っていたのは、もはや現在の倫敦塔の姿ではなかった。

 

余はこの時すでに常態を失っている。

 

 イギリスの歴史を通してこの塔に関わったあらゆる人物の影が、視界に現れては消えていく。それは、まだ塔の周辺の堀に水が張られていたころ船を操った船頭であったり、下卑た戯れに身をやつす見張りの番兵であったりした。

 不意に透けた眼前の石壁の向こうに、処刑を明日に控えた可哀そうな王子たちが、寄り添いながら健気に祈る姿すら間近に浮かぶ。その情景の、真に迫ることといったら。

 もちろん、実際に漱石が対峙していた塔はもう使われていない只の史跡であり、これらの映像は全て彼の空想・妄想だ。それが、あたかも本当に目の前で起こっている出来事であるかのような描写で物語は進む。映画のように。

 彼が想像力の翼を羽ばたかせながら更に歩を進めていくと、ある美しい女性が息子と思わしき子供を連れて、塔内を見物しているのに出くわした。

 二人の視線の先には三羽のカラスがいる。寒そうだから餌をやりたい、とごねる子供に対して女性はただこう言った。

 

女は静かに「あの鴉は何にもたべたがっていやしません」と云う。小供は「なぜ」と聞く。女は長い睫の奥に漾うているような眼で鴉を見詰めながら「あの鴉は五羽います」といったぎり小供の問には答えない。何か独りで考えているかと思わるるくらい澄ましている。

 

 それは少々不可解な光景だった。子供の傍らに立ち、どこからどう見ても三羽しかいないカラスを指して「五羽いる」と断言する、面妖な雰囲気の女性。底知れぬ怪しさを感じながらも、漱石はひとまずこの場をやりすごした。

 だがどういうわけか、次に足を踏み入れた部屋でも遭遇した先程の親子は、さらに謎めいた雰囲気を纏って、これまた奇妙なことを話している。

 特に女性の方は、かすれて殆ど判別できないような図柄を迷うことなく指して子供に説明し、ついには石の壁一面に刻まれた囚人たちの叫び(落書き)や各家の紋章を前にして、何か古めかしい詩句を諳んじ始めたのだ。

 彼らは一体何者なのか。そして、空想と奇妙な現実の間で戸惑いながら帰り着いた漱石を待っていた、宿の主人の言葉とは......? 本編を最後まで読むとそれが分かります。

 

 

 

 

  • 好きな要素

 まず、序盤で使われていた二つの印象的な比喩が気に入っている。

 

その頃は方角もよく分らんし、地理などは固より知らん。まるで御殿場の兎が急に日本橋の真中へ抛り出されたような心持ちであった。

(中略)

この響き、この群集の中に二年住んでいたら吾が神経の繊維もついには鍋の中の麩海苔のごとくべとべとになるだろうとマクス・ノルダウの退化論を今さらのごとく大真理と思う折さえあった。

 

 とても面白い例えだと思うし、《倫敦塔》にはこんな表現がたびたび出てくる。

 ある部分では、塔に吸い寄せられるように近付いた際の自分を、「過去の一大磁石に吸収された小鉄屑」と称してもいた。読者が不覚にもクスリと笑ってしまうような言い回しの数々は、漱石の著作の大きな魅力の一つだろう。

 

 この短編の味わいどころは何といっても、彼の空想の中で現れては消えていく、幻想的な人物や情景の奔流。まるでイッツ・ア・スモールワールドのアトラクションみたい。どんよりと曇ったロンドンの空が不意に割け、突然に用意された舞台の上で、歴史をなぞった演目が始まる。

 ある場所では、かつて塔に幽閉されていたエドワード5世とその9歳の弟が寒さと処刑に怯えながら寄り添い、本を読む姿が「再生」されていた。

 むき出しの石壁、色あせたタペストリー、不気味に鳴く夜中の風の音。僕たちは一体いつ、殺されてしまうのだろうか――と不安げに囁かれる二人の可憐な声。

 それは徐々に遠くなり、次に映し出されたのは、彼らの母親とおぼしき人と門番の影だった。

 

忽然舞台が廻る。見ると塔門の前に一人の女が黒い喪服を着て悄然として立っている。面影は青白く窶れてはいるが、どことなく品格のよい気高い婦人である。やがて錠のきしる音がしてぎいと扉が開くと内から一人の男が出て来て恭しく婦人の前に礼をする。
「逢う事を許されてか」と女が問う。「否」と気の毒そうに男が答える。「逢わせまつらんと思えど、公けの掟なればぜひなしと諦めたまえ。私の情け売るは安き間の事にてあれど」と急に口を緘みてあたりを見渡す。濠の内からかいつぶりがひょいと浮き上る。

 

 こうして母と息子たちとの面会があえなく拒絶された後、無慈悲にも処刑は執行される。

 それは血塗られたロンドン塔で起こった、数ある凄惨な出来事のうちのひとつだ。名もなき囚人の遺した壁の落書きも、ドラローシュの絵画で有名なジェーン・グレイの斬首も、一つの巨大な織物の縦糸と横糸のように織られ重なって、この塔を彩っている。

 

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《ジェーン・グレイ》ポール・ドラローシュ © The National Gallery

 

 全ては自分の空想でありながら、度を越えて現実味を帯びてくる風景に漱石は少し動揺し、ついには塔を後にしようとした。途中で出逢った母子もどこか不気味で怪しい。

 急ぎ足で去ろうとする彼に追い打ちをかけるように、ガイ・フォークス(17世紀の人物)が鐘つき塔の窓から顔を出して、国会爆破計画の失敗をくやしげにぼやくのだが、私はこの場面も大好きだ。

《倫敦塔》を手に取ると、目の前にあるものから空想をどんどん展開する楽しさと、最後にそれをあっけなく砕かれてしまう悲哀の両方を感じられる。ふと思い立った時に、何度でも初めから頁を開いてしまいたくなる素敵な作品なので、幻想や英国の歴史が好きな人におすすめ。

 

 以下のリンクから全文が読めます。

夏目漱石 - 倫敦塔 全文|青空文庫

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 明治39年当時、同じ本『漾虚集』に収録されていた短編「カーライル博物館」については以下で:

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 次回は夢野久作の《死後の恋》を紹介したいと思います。

 

 

 

 

《うたかたの記》森鴎外 - ドイツ|近代日本の小説家による、外国を舞台にした短編のお気に入り(1)

 

 

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 が好きだ。なかでも、小説を手に取ってよく読む。けれど読書家だと胸を張って言えるほどに冊数を重ねているわけではない。

 この世の中には"本の虫"としか表現のできない類の人達が沢山いて、一日に一冊以上の本を、まるで息をするように読んでいる。書の大海を泳ぐサメのごとき彼らに比べれば私などは、たぶん、庭に出したビニールプールで遊んでいる子供みたいなものだ。

 自分は多読な方ではなく、どちらかといえば、気に入った作品を何度でも繰り返し読みたいと思う。そうすることで初見では分からなかった事実や要素に気が付いたり、文章そのものの良さをひたすら噛み締めたりして、物語の世界を楽しんでいる。

 特に、高校時代から現在に至るまで夢中になって味わっているのは、近代日本の作家の小説。明治から大正にかけての時代に、文化的な激動を経験しながら生きた彼らの作品は、それが直接の主題ではなくても、紡がれた文章の端々から当時の空気を微かに伝えてくる。

 

 これから四記事に分けて紹介したい短編は森鴎外・夏目漱石・夢野久作・中島敦の手によるもので、全て外国の土地や出来事に着想を得ているもの。

 どれも青空文庫に掲載されており、すぐに読み終わることのできる長さのお話なので、もしも好みに合いそうな未読の作品があればこれを機に触れてみてほしい。少し古い作品は難しそう、取っつきにくい……と感じている人も、試しにぜひ。

 作者の生まれた年が早い順にということで、今回は森鴎外の著作《うたかたの記》から紹介しようと思う。

 

目次:

 

参考・引用元:

青空文庫(電子図書館)

 

 

※物語の内容やその詳細に言及しています。

※また、この記事中で紹介しているのはパブリックドメインの作品です。

 

森鴎外(1862~1922)

 作家だけではなく、官僚や軍医としての顔を持つ当時のエリート、森鴎外。本名を森林太郎という。非常に博学だったことに加えて、異様な「まんじゅう茶漬け」なるものを好んで食していた......という衝撃的な事実もよく話題になる、興味深い人物。

 20代の頃にドイツ留学の経験がある彼は、同国を舞台にした作品を幾つか残している。中でもとりわけ有名な《舞姫》、そして《文づかい》と今回紹介する《うたかたの記》は、併せてドイツ三部作と呼ばれることも。どれも、彼の著作の中では比較的初期に生み出されたもので、後期のものに比べるとロマン主義的な特徴が強く出ているといえるだろう。

 美しい言葉によって紡がれる、まるで映像のような動きと色彩のある異国の情景には、初めてその頁をめくった時から強く心を打たれた。

 

  • 《うたかたの記》あらすじ

幾頭の獅子の挽ける車の上に、勢いよく突立ちたる、女神バワリアの像は、先王ルウドヰヒ第一世がこの凱旋門に据ゑさせしなりといふ。その下よりルウドヰヒ町を左に折れたる処に、トリエント産の大理石にて築きおこしたるおほいへあり。これバワリアの首府に名高き見ものなる美術学校なり。

 

 バワリア(Bavaria)という呼称はバイエルン(Bayern)の英語(もしくはラテン語)表記に相当しており、今ではドイツ共和国を形成する州のうちのひとつだが、当時は独立した王国だった。

 そんなバイエルン王国の首都ミュンヘンに、極東の島国・日本からはるばるやって来た画学生が、この物語の主人公。名前を巨勢(こせ)という。

 巨勢は、同じように美術を学ぶ青年・エキステルと縁あってドレスデンの地で出会い、しばらく彼が通う美術学校に滞在して絵画の制作をすることになったのだ。

 エキステルの計らいで、放課後に学生たちが集い談笑するカフェ《ミネルワ》に連れてこられた巨勢は、皆に対する自己紹介の代わりに、とある出来事を語り始める。それは六年前の冬の日にこの地で出逢った、美しい菫売りの少女に関する物語だった。

 彼が過去に施しを与えた少女の瞳に魅了されて以来、どんなに優れた絵画の女神や天使たちを目の前にしても、その面影が脳裏に浮かんで離れないのだという。

 

そのおもての美しさ、濃き藍いろの目には、そこひ知らぬ憂いありて、一たび顧みるときは人の腸を断たむとす。嚢中の『マルク』七つ八つありしを、から籠の木の葉の上に置きて与へ、驚きて何ともいはぬひまに、立去りしが、その面、その目、いつまでも目に付きて消えず。

 

 しばらくはその幻影に囚われて制作も何も手につかなかったが、どうにかならないものかと悩んだ末、ついに記憶の中の少女を絵描きとして画布に刻み込もう――と決意する。

 そこで滞在することを選んだのが、他でもない藍色の目の少女と邂逅した地、ミュンヘンだったのだ。

 長々と感傷的なトーンで(半ば涙ぐみながら)話す彼に対し、エキステルすらも若干の冷めた視線を向けるなか、皆からマリイと呼ばれている若い女性だけは驚きを隠せない表情で彼のことを見ていた。彼女は美術学校でモデルを務めており、容姿端麗だが突飛で奇妙な言動をするため、周囲からは狂人と称されることもある。

 実は、六年前の冬の日にかじかむ手で菫を売っていた美しい少女は、いま目の前にいるマリイその人に他ならなかったのだ。彼女と巨勢の「再会」から、物語は大きく動き始める。

 

 

 

 

  • 好きな要素

 文庫にしておよそ25ページ程度という短さの《うたかたの記》だが、読後はまるで壮大な映画を観た後のような感覚に包まれる。

 それは、おそらく主人公の巨勢も、読者すらも置き去りにしかねない勢いで颯爽と頁のうえを駆け抜けていった、マリイという女性の強さと儚さによるものだろうと私は感じた。そもそもこの短編の題にある「泡沫(うたかた)」とは、水に浮かんだ泡のように、すぐ消えてしまうものを表している。

 常に肝の据わった堂々とした態度で振る舞い、歯に衣着せぬ物言いもする反面、ふとした時に悲しみの表情を覗かせる彼女。しかもそれが聡明さゆえに生じる憂いであるのだから、存在に心惹かれない理由が見当たらない。

 ある日、「今は名を偽っているが、かつては宮廷画家の一人娘であった」と語るマリイの出自の真実を聞かされた巨勢。話を聞くあいだ、彼の胸にはこんな想いたちが渦巻いていたという。

 

或ときはむかし別れし妹に逢ひたる兄の心となり、或ときは廃園に僵れ伏したるヱヌスの像に、独り悩める彫工の心となり、或るときはまた艶女に心動かされ、われは堕ちじと戒むる沙門の心ともなりしが、聞きをはりし時は、胸騒ぎ肉顫ひて、われにもあらで、少女が前に跪かむとしつ。

 

 私も、巨勢とほとんど同じ感情を抱いた。マリイという女性には、その前に立つ人間に「膝をつきたい」と思わせるだけの何かがあるのだ。

 気晴らしにアトリエを離れて、彼女に所縁ある土地・シュタルンベルクに建つベルク城を訪れようとマリイが提案した時も、巨勢はただ幼子が母に手を引かれるごとく従う他に術がなかった。まるで、そうするのが最も自然な行為であるかのように。

 街から城へと向かう道中、二人は馬車に乗る。湖畔の道には俄かに霧が立ち込め、空からは雨も降ってきたので、御者が母衣(ほろ)で車体を覆うべきか尋ねると彼女は拒否した。

 心地よさそうに水滴を受け、かつて菫売りをしていた自分を気にかけてくれた巨勢との再会を喜びながら、彼女は笑う。ここで、物語の中で最も美しく、最も自分の心を打った場面が登場した。

 

被りし帽を脱棄てて、こなたへふり向きたる顔は、大理石脈に熱血跳る如くにて、風に吹かるる金髪は、首打振りて長く嘶ゆる駿馬の鬣に似たりけり。

(中略)

「御者、酒手は取らすべし。疾く駆れ。一策(ひとむち)加へよ、今一策。」と叫びて、右手に巨勢が頸を抱き、己は項をそらせて仰視たり。巨勢は絮の如き少女が肩に、我頭を持たせ、ただ夢のここちしてその姿を見たりしが、彼の凱旋門上の女神バワリアまた胸に浮びぬ。

 

 気分が高揚して色づいた、血管の透ける色白の肌が「大理石」に例えられているという時点で、もう胸の高鳴りが抑えられない。そこだけ読むと、マリイはまるで優れた彫刻家が手掛けた傑作のようにも思われるが、動かざる石像とは違い、首を振るたびに美しい髪が風を受けてうねっていた。

 雨足が強くなるに従って、彼女は馬車を速めるよう御者に命じる。

 その姿に気圧されて、空を仰ぐ勇壮な横顔を眺めることしかできない巨勢は、霞む視界の中で、ミュンヘンの街に佇んでいた女神の像とマリイをただ重ねるばかりであった――。

 

 この後に二人を待ち受けているのは、史実にも存在したバイエルン王国の王・ルートヴィヒ2世の死に関係する、数奇で切ない運命。ひとり残された巨勢はアトリエに籠り、一体何を思ったのだろうか?

 行方と結末を見届けたいと少しでも思ったのなら、ぜひこの短編を紐解いてみてほしい。

 

 以下のリンクから全文が読めます。

森鴎外 - うたかたの記 全文|青空文庫

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ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 他に、関連する鴎外の短編では《普請中》がおすすめ。いつか皆さんの好きな物語についても教えてくださると嬉しいです。

 次回は、夏目漱石の《倫敦塔》を紹介したいと思います:

 

 

 

 

英国が舞台の児童文学《小公女》より - 飢餓に苛まれながら、他人にパンを与えることができるか|F・H・バーネットの小説

 

 

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板の上の林檎

参考・引用元:

小公女|A Little Princess(青空文庫)(著・バーネット / 訳・菊池寛)

 

 

  • あらすじ

「うれしいわ。ね、私、ひもじい苦しみは身に沁みて味わっているでしょう。ひもじい時には、何か『つもり』になったって、ひもじさを忘れることは出来ないのよ」
「そうとも。うむ、そうだろうな。でも、もうそのことは忘れる方がいいよ。私の膝のそばに来て坐っておくれ。そして、嬢やはプリンセスだということだけ考えている方がいい」
「そうね。」と、セエラはほほえみました。「私、人の子達に、パンや、甘パンを恵んでやることが出来るのですものね」

 

 これは、言わずと知れた名作児童文学《小公女》の終盤にある場面。

 孤児になったと思われていたが身元の引受人が現れ、ミンチン女子学院を去ることが決まった少女・セーラと、紆余曲折の末にようやく彼女を見つけた資産家・カリスフォード氏の間で交わされた会話だ。

 

 イギリス人の父とフランス人の母(出産後すぐに亡くなっている)を持ち、英国植民地時代のインドの豪邸で大勢の使用人に囲まれ、何不自由なく育ったセーラ・クルー。

 親元を離れ、ロンドンの寄宿学校で生活をすることになった彼女は、いうなれば空想の達人だ。目の前にあるものや自身を何かに見立て、現実にそうであるかのように振る舞うことで、その行動を律したり、心を鼓舞し慰めたりする。

 なかでもセーラが大切にしていたのは、自分が「王女さま(プリンセス)」になったつもりでいること。一国を治める王女さまのような矜持を持ち、しかし決して驕らず、人民に惜しみなく施しを与える。それが彼女にとっての理想の姿、こうありたい、と願う態度だった。

 

 ある日、そんなセーラの父親が急逝したという報せが入り、少女を取り巻く環境は大きく変化することになる。

 寄宿先である学院の長・ミンチン女史は、一切の財産と後ろ盾を失いお荷物となった彼女を冷遇し、食べ物や休息を十分に与えず、奴隷のようにこき使うことを決めた。かつて開かれた誕生日会で、意地悪な同級生のラビニアがセーラに投げつけた言葉――その中にあった、

 

「あなたは何でも持っているから、何を空想しようと御勝手よ。でも、万一あなたが乞食になって屋根裏に住むようになるとしたら、それでもあなたは、空想したり、つもりになったりしていられるでしょうかね

 

 という仮定が、ここで図らずも現実のものとなる。

 

 セーラが「持つ者」から「持たざる者」へと突然転落してから、何を考え、どのように行動したのか? そして状況や環境が変わることで、当事者や周囲の人間の態度は、一体どのように変貌するのか?

 私は幼少期から幾度となくこの本を手に取り、繰り返し読んだが、その度に彼女の緑の双眸に問われ、試されているような気分になる。

 今この手の中にあるものや、自分を支え保障するものを全て失ってなお、私は「自分の望む姿であろう」という意思を持ち続けて生きることができるのだろうか。飢餓に苛まれるなかで、同じように苦しんでいる目の前の人間に、手の中のパンを黙って差し出すことができるのだろうか、と。

 

  • 生まれ落ちた瞬間に与えられるもの

 人間は自分が出生する場所、環境を選べない。そして、ヒトが成長していく過程で、環境は人格の形成に多大な影響を及ぼす。

 世界というものをどのように感じとり、そこから何を考え、どんな答えを導き出すのか。それをはじめに決定する要素は、私達の意思の及ばない領域で割り振られ、それぞれに与えられている。出生の瞬間どころか、むしろ受精が行われた時点でほとんど確定していると言ってもいいかもしれない。

 生まれ落ちるその場所は、穏やかな優しさに包まれた世界か? それとも暴力に支配された世界か? あるいは、望まれて生まれてきたのか? その存在を疎まれながら生まれたのか? そんな分岐の可能性が、無限に存在しているのだ。

 私自身が出生から年を重ね、今こうして自由に生きることができているのも、ひとえに「運が良かったから」というだけのこと。それはハッキリしている。私は確かに、物心ついた時から何らかの努力をし続けてきた。

 だが、個人の努力が運へと与えられる影響など、本当に微々たるものなのだから。

 

《小公女》の主人公セーラは、どんな時でも他人を慈しむ優しい心を持つだけではなく、鋭い洞察力や幅広い知識までも備えた聡明な少女だ。けれど、その性格や思考、振る舞いなどを身に着けるに至った過程と、育った家庭や境遇を完全に切り離して考えることはできない。

 彼女の父親であるクルー大尉は、インドにいた頃も娘がロンドンに移ってからも、セーラに好奇心や空想の糧となる書物や人形などを多く買い与えた。もちろん、寄宿学校の学費や生活費も彼が用意している。彼女が語学のクラスを取らずともフランス語を理解し流暢に話せるのは、幼いころから、周囲の人間がその言語で話すのを聴いていたから。

 また、常に娘を一人の人間として尊重し接していた父の態度・物腰から、日々の中で彼女は多くを学んでいたと推測できる。

 

 このように、父親の寵愛を受けているという実感に包まれ、飢えや欠乏から遠く離れた世界、その創造力を十分に養い発揮できる環境でのびのびと育ったのが、セーラ・クルーという少女なのだ。母を亡くしたという喪失の悲しみを除けば、物語の序盤で彼女はあらゆるものを持っている。

 もしもこのまま何事もなく話が進んだならば、セーラはただの「空想が得意で思いやり深い、とても恵まれた幸せな女の子」としてしか私の眼には映らなかっただろう。

 彼女自身もそれを自覚していると読み取れる台詞がある。

 

「人はふとしたはずみで、いろいろになるものね。私はふとしたはずみから、あんないいお父様の子に生れたのね。ほんとうは私、ちっともいい気質じゃアないのでしょうけど、お父様は何でも下さるし、皆さんは親切にして下さるんですもの、気質がよくなるより他ないじゃアありませんか。私がほんとうによい子なのか、いやな子なのか、どうしたらわかるでしょうね」

 

 そんな中、事態はクルー大尉の代理人・バロー氏が学院へともたらした知らせによって一変する。――セーラの父親が病で死んだ。遠いインドで。

 おまけに、共同でダイヤモンド鉱山運営の事業を画策していた友人に、財産の持ち逃げまでされて。彼女は他に身寄りもなく、「王女さま」どころか、もはや乞食同然の身分になり下がった――と。

 これを聞いたミンチン女史は怒り動揺し、クルー大尉の支払いをあてにして自腹でセーラに与えていた数々のものを全て取り上げた。その後すぐに追い出してしまうことも考えたが、学院の評判に傷がつくかもしれないというバロー氏の助言を受け、彼女をここで働かせることに決める。

 

 こうしてセーラは屋根裏の狭い部屋をあてがわれ、今までのように特別な扱いをされることなく、一介の使用人として学院でこき使われることになったというわけなのだ。

 

 

 

  • 変わらない心と意思を持つこと

 セーラを取り巻く世界はがらりと変わった。今まで彼女を金銭面・精神面で支えてくれた父親は、もういないのだ。

 まず、新しく暮らすことになった陰気な屋根裏部屋が彼女の心に影を落とす。斜めに傾いた天井、塗装の禿げた壁、固く汚い寝台。見慣れた調度品など一つもない。すきま風がひどくネズミも出る部屋で毎夜寝なければならず、雨の日も風の日も関係なく外へとおつかいに出され、十分な食事を与えられないことなどはザラだった。

 加えて、彼女が周囲の人間から受ける待遇も「お金持ちの令嬢」から「雑用係の少女」らしいものへと変化する。

 ミンチン女史だけではなく、厨房の使用人たちや街行く人々も、みすぼらしい格好ですっかりと痩せてしまったセーラを、まるで乞食娘のように粗雑に扱い始めた。それらは確実に、いつも前向きで誇り高くあろうと努めていた彼女の心を蝕む。

 やがて、セーラという少女にはあまり縁が無かった類の苛立ちや、微かな妬みの描写さえも、独白から読み取れるような部分が出てきた。

 特に印象的なのは、ミンチン女子学院に入学する少し前にセーラが父親から買ってもらった人形、エミリーに関するくだり。持ち前の「想像力」で彼女を生きた友のように扱い、心を慰めていたセーラだが、いよいよ疲れ切って屋根裏部屋へと帰ってきたある夜、ついにその糸がぷつりと切れる場面がある。

 

エミリイの硝子玉の眼や、不服もなさそうな顔付を見ると、セエラは急にむかむかして来ました。彼女は小さい手を荒々しく振り上げて、エミリイを椅子から叩き落しますと、急にすすりなきはじめました。セエラが泣くなどとは、今までにないことでした。

「お前はやはり、ただの人形なのね。人形よ、人形よ。鋸屑のつまってる人形に、何が感じられるものか」

 

 このあたりは読んでいて本当につらい。

 だが、それとは対照的に、変わらなかったものも幾つかある。例えばかつての級友であったアーメンガード・セント・ジョン。

 彼女は小間使いとして働く姿を恥じたセーラに冷たい態度をとられたり避けられたりしても、昔と変わらず友人でいたいと部屋を訪れて告げた。加えて、以前よく面倒を見てやっていたロッティや、同じ屋根裏に暮らす使用人のベッキーとの会話もセーラの心を支える。

 彼女たちはセーラの見てくれや財産ではなく、誰に対しても分け隔てなく接する態度や、その口から語られる興味深い物語の数々――それらを生むセーラ・クルーという存在そのものを愛していた。だからこそ、あらゆることが変わってしまってからも、ずっと彼女の友人であり続けた。

 セーラ自身、辛く厳しい境遇の中でもそれらの「変わらないもの」を前にし、改めて心を強く持つのだと決め、自身を鼓舞する。

 

「どんなことがあっても変わらないことが、一つあるわ。いくら私が襤褸や、古着を着ていても、私の心だけは、いつでもプリンセスだわ。ぴかぴかする衣裳を着て宮様になっているのは容易いけど、どんなことがあっても、見ている人がなくても、プリンセスになりすましていることが出来れば、なお偉いと思うわ」

 

 たとえ酷く追い詰められ、苦しんでいて余裕がなくても、その挙動を律する衆人の監視がなくても、気高い心をもって行動し続けることは可能だろうか。セーラはその一例を、物語の終盤にある象徴的な出来事によって私たちに示してくれる。

 本当に何かの「つもり」になるということは、決して単なる空想には留まらず、自身の望む姿に近付くための大きな力を与えてくれるという事実を。

 

 

 

 

  • 路傍の少女へと差し出す手

 時は流れ、ロンドンは冬。

 私もしばらく英国で暮らしていたので、この季節の薄暗さや晴れ間の少なさ、冷え込む日に暖房が壊れる恐ろしさは身をもって経験したつもりだ。それでも、外套も靴下も、傘すらもなく雪の下をお使いに出るセーラの感じていた寒さには、遠く及ばないだろう。

 おまけにミンチン女史は理由をつけて彼女に食事を与えなかった。かわいそうなセーラは顔から指先、足の先に至るまですっかり肌の色が変わってしまっていた。

 

 空想で気持ちを紛らわせながらぬかるむ道を歩いていると、セーラは目の端に何か光るものを認める。

 それは四ペンス銀貨だった。大勢の人に踏まれた形跡があり、いつ誰が落としたのかすらも分からない代物。おまけに、ちょうど道の向かいにはパン屋があって、焼き立ての香りが空腹にあえぐセーラの胃を締め上げた。これがあれば甘パンを幾つか買える――彼女はためらいながらも硬貨を拾うが、そこで、自分の他にも飢えた人間がひとり蹲っていることに気が付いたのだ。

 セーラはその子供(乞食の少女)に「お腹が空いているの?」と尋ねる。答えはもちろん是だった。とにかく今日は朝から何も食べていない、という子供はやせ細り、飢えているセーラ自身よりももっと飢えているように見え、ついに彼女はこう思う。

 

もし、私がプリンセスなら――位を失って困っている時でも――自分より貧しい、ひもじい人民にあったら、きっと施しをするわ。私は、そんな話をたくさん知っているわ。甘パンは二十銭で六つ――と、六つばかり一人で食べたって足りないくらいだわ。それに、私の持ってるのは十銭(四ペンス)銀貨だけど、でも、ないよりかましだわ」

 

 自分が酷く飢えている時に、それと同じかそれ以上に苦しんでいる人間のことを、わずかでも気にかけるという芸当ができるだろうか?

 少なくとも、私にはその自信がない。所有者の分からない拾った硬貨でパンを買い、それを一人だけで貪ったところで、誰もそれを咎めないからだ。

 ただ天だけがその行いを知っている。仮に目の前に転がる子供が自分よりも苦しんでいたとして、こちら側にも施しを与える余裕など全くない。この状況では恵んだパンの分だけ自分の食べるものを失い、飢えや病、死に近づく可能性を高めることになるが故に。

 けれど彼女は違った。この時、彼女は「つもり」などではなく、紛れもなく慈悲深い「王女さま」そのものの精神を持っていた。

 

 パン屋の女将さんがおまけをしてくれたので、セーラは四ペンス銀貨で合計6つの甘パンを手に入れる。

 そして、そのうちの半分とは言わず、5つを乞食の子供へと差し出した。これで自分が食べられる分は、たったの一つになってしまったのだ。彼女の手はぶるぶると戦慄き震えていた。きっと、飢えや寒さによるものだけではなかっただろう。けれど、彼女は自身が正しいと思ったことを実行し、静かにその場を去った。

 

 この記事に関係があるのはその場面までとなるが、セーラの行いに気づいたパン屋の女将と乞食の子供の間で交わされた会話や、セーラ達の行く末が気になるのならば、ぜひ物語の全貌をその目で確かめてほしい。

 私の言葉よりも作品の本文で。

 菊池寛による日本語訳がパブリックドメインなので、青空文庫で読める。特に子供向けに訳されたバージョンでは、細かい(しかも重要な)場面が容赦なくカットされていることも多いので、幼少期に手に取ったことがあるという方もまた読み返してみてほしい。

 

 

 

  • 飢餓に苛まれながら、他人にパンを与えることができるか

 ここまでのことを踏まえて、改めて自分自身に目を向けてみる。

 私は比較的恵まれた環境で育った。とはいっても、もう思い出したくないような苦しみや理不尽はたくさん感じてきたし、周囲の子供が気にしなくていいようなことを考えなければならない立場に頻繁に置かれていたが、少なくとも、明日食べるものに困ったことがない。

 セーラの暮らしていたような豪邸に住んだことも使用人を侍らせたこともなくたって、路上で夜を明かすような生活とは程遠い場所にずっといた。

 好きなことに熱中できるのも、こうして物事を考える余裕があるのも、理想を追いかけられるのも、全てはその基盤となった環境のおかげ。人生という名のくじ引きにおいて、努力が左右する要素は驚くほど小さい。だからこそ、英国に留学していたころはずっと負い目を感じていた。与えられたものをただ享受するだけの存在だった、情けない自分自身に。

 だから大学を辞めて働くことにした。自分の食い扶持を稼げない人間が何かを偉そうに説いたところで、それは愚かな世迷い事以上のものにはならないと思ったから。結局、その判断は正しかった。閑話休題。

 

 いま目の前に、セーラが甘パンを恵んだのと同じような、飢えに苦しんでいる子供が転がっていたとしよう。私はパン5つどころか、もっと良いものも望めば与えることができる。けれど、それは私が立派な人間だからというわけではない。単に少しばかりの余裕があるからだ。

 財布に入っているのは四ペンスよりも高額な硬貨や紙幣で、仮にそれを使い切ってしまっても、口座にはいくらかのお金がある。帰れば、家賃や生活費を払って手に入れた家がある。この場で誰か一人に簡単な食事を与えることなど容易い。

 けれど、もしもそれらが存在しなければ――同じように襤褸服を着て、物心ついたときから帰る場所も食べるものもなく飢えていたら、私は目の前の子供に何をしてやれるだろうか? 何をしようという気になれるだろうか?

 

 環境が変わることで、人はそれに応じて違った一面を覗かせる。どんな状況に置かれても同じように振る舞える人間は少ない。

 私が乞食の少女であったならば、拾った四ペンスでパンを買い、目の前で蹲る子供を無視して、その全てを自分の胃に収めてしまうかもしれない。それほど飢えというものが恐ろしいからだ。この手の中に何も無ければ、私はきっとそう振る舞っただろう。

 だが、それも紛れもない私自身の姿。今は恵まれた場所にいるから、たまたま誰かを慮る余裕があるというだけに過ぎない。それを無視して、自分がもともと慈悲深い人間であるかのように振る舞うことは、あまりに傲慢だと言える。

 

 セーラが尊いのは、かつてその行動や思考を支えていた多くのものを失ってなお、「一国を治める王女さまのような矜持を持ち、しかし決して驕らず、人民に惜しみなく施しを与える」という信念のもとに行動した部分にある。

 彼女はもはやプリンセスのような見た目をしてはいないし、周囲からそういった扱いも受けてはいない。自分も飢えて倒れそうな状況の中、本当は他人に食べ物を恵んでやる余裕などないのだ。けれど、その心だけは、確かに気高いものだった。

 セーラにとっての「プリンセス」という概念はそれぞれの人間が持つ「理想の姿」に置き換えることができる。

 ここで冒頭の問いに戻ろう。今この手の中にあるものや、自分を支え保障するものを一夜にして失くしても、自分は「自分の望む姿であろう」という意思を強く持って生き続けることができるのだろうか?

 それは飢餓に苛まれるなかで、同じように苦しんでいる目の前の人間に、手の中の僅かなパンを黙って差し出すのと同じくらい苦しく、忍耐を要する行為に違いない。けれど私は、どんな境遇に追い込まれたとしても、自分が理想を捨てないという可能性に賭けたいと願ってしまう。

 

書籍:

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 「小公女」の他にも「小公子」「秘密の花園」といった、数々の名作を世に送り出したフランシス・ホジソン・バーネット。

 それらの物語がイギリスを舞台にしていることや、彼女がマンチェスター生まれであるということから誤解をされやすいのですが、バーネットは16歳の頃にアメリカへ渡り、後に国籍も得て現地で没したため、アメリカ人の作家です。ややこしい。