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《Kの昇天》や《泥濘》などから感じられる梶井基次郎の視点 - 分裂する意識、分身への興味|日本の近代文学

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書籍:

短編集「檸檬」(著:梶井基次郎 / 新潮文庫)

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

「視ること、それはもうすでに なにか なのだ。
 自分の魂の一部分或いは全部がそれに乗り移ることなのだ」

 ————短編『ある心の風景』より

 

(新潮文庫 改版「檸檬」(2003) 著:梶井基次郎 p.144)

 

 この部分を読んだとき、高校現代文の授業で「Kの昇天 - 或はKの溺死」が取り上げられた際にはうまく呑み込めなかったある種の感覚に、少しだけれど近付けたような気がした。

 何かを見る自分、そして、そんな自分をまた見られることに対する、一種の執着であり興味。

 自我と引き離しては語れない視点そのものの面白さが、梶井基次郎作品の根幹にはあるのだと、短編集を再読して感じたのだ。

 

目次:

 

梶井基次郎(1901~1932)概要

 

 明治34年に生まれ、昭和7年に31歳という若さでこの世を去った梶井基次郎。

 

 彼は中学校卒業後、第一志望だった大阪高等工業学校の受験に失敗したのち、第三高等学校の理科甲類に進学した。はじめは電気技術者を志していたが、徐々に哲学や文学への興味を高め、特に夏目漱石や谷崎潤一郎を熱心に読んでいたという。

 高校入学の翌年には肋膜炎を発症し、落第。熊野での療養生活を経て、大阪に帰還してからは軽度の肺尖カタルであると診断され、最終的な死因も肺結核となる。

 そんな短い生涯の大半を病と向き合い続けて過ごした彼の精神性は、残された数少ない作品の中に刻み込まれるようにして残っている。

 

 夭折しているがゆえに、梶井基次郎が生涯で手掛けた小説は、短編集を一冊読むとそのほとんどを網羅してしまえる。

 だからこそ、複数の作品を通して繰り返し形を変え、何度も登場する主題や概念がいっそう明確に表れていて、与えられた年月がもっと長ければどんな風に昇華されたのかと想像するのを止められない。

 余命を意識した倦怠とか、闇とか……あるいは清澄さと穢れの対比、相反する二つに抱く印象とか、気になる要素はいくつもあるが、今は彼の「視点」や「分裂する意識と分身への興味」に注目してみたい。

 

 

 

 

興味深いテーマ「視ること」

  • 自我の分裂、もう一人の自分 -「泥濘」の圭吉

 

 梶井基次郎の作品には、

 ○対象を想像することで頭の中に次々生み出されていく分身

○何かをじっと見つめることによって徐々にずれていく認識

○見ている対象に意識が乗り移ってひとりでに動き出すもの

 ……などがよく登場する。

 

 特に前の二つは文中で、半透明のセロファンに描いた絵を重ねたり、動かしたりするような層状の描写(作品にのめりこんでいると読者も酔いそうになる)が特徴的だが、最後のひとつはかなり不気味さと異様さが際立っている。

 夜中に水を飲もうと起き出して台所まで行く途中、ふと視線をやった鏡の中の自分がぬっと手を伸ばしてきたかのような戦慄を感じるのだ。

 

 短編「泥濘」の主人公・圭吉は、不活発な精神状態と鬱屈の中で、自分が退廃的なものに惹かれる傾向があるのだと認める。たとえば部屋の換えていない花瓶の水が不愉快なのにそのままにしておく気分は、どちらかというと億劫よりも、何かに魅入られている状態であるのだと。

「檸檬」の中の言葉を借りるならば "見すぼらしくて美しいもの" にひきつけられていることを指しているのだろう。

 圭吉は夜中の鏡に映った自分の顔を「醜悪な伎楽の面」と称して、一種の恐れを感じながら、それと戯れたい気持ちにも駆られている。

 

見た夢と現実とが時どき分明しなくなる悪く疲れた午後の日中があった。自分は何時か自分の経験している世界を怪しいと感じる瞬間を持つようになって行った。

 

(新潮文庫 改版「檸檬」(2003) 著:梶井基次郎 p.66)

 

 彼は歩きながら、以前ひどく酔ったときのことを思いだしている。

 ある日、帰宅した先で母親に醜態を叱られた圭吉は、近くに立ってそれを見ていた友人に母の声真似をされた。再現された「圭吉!」という声音はあまりにもそっくりで真に迫り、今度は彼がひとりで、友人の声真似の真似をするのだ。

 すなわち、模倣の連鎖。何かを模倣するには対象をよく観察しなければならず、これも見ること、そして見られることに深くかかわってくる行為にほかならない。

 

 圭吉は月に照らされて歩を進める。すると意識が自らの落とした影に移り、じっと眺めているうちに、影だと思っていたものが「生なましい自分」であることに気が付く。

 

自分が歩いてゆく!
そしてこちらの自分は月のような位置からその自分を眺めている。地面はなにか玻璃を張ったような透明で、自分は軽い眩暈を感じる。

 

(新潮文庫 改版「檸檬」(2003) 著:梶井基次郎 p.74)

 

 自分の影だったはずのものが、自分そのものになってしまう逆転現象。「視る」ことで対象に意識が乗り移る。そして、今度は影の方が意思をもって勝手にどこかへ去っていく。それを見ている自分……。

 この短編を踏まえたうえで「Kの昇天」に改めて触れると、初読時とは印象がまた変わった。

 

 

 

 

  • 書簡体の小説「Kの昇天」- Kと私

 

 作中に登場するシューベルトの音楽「ドッペルゲンゲル」や、ロスタンの著作「シラノ・ド・ベルジュラック」との関係に言及するのも楽しいが、この記事では上に挙げた短編「泥濘」を踏まえた感想を述べるにとどめておく。

 

「Kの昇天」が書簡体、要するに手紙の形式をとっている意味と、その効果について考えることがいろいろある。

 個人的に、作中のKと私という二人の人間そのものが、影に魅入られたひとりの意識が分裂した状態を示唆しているような印象を受けるのだ。もちろん、物語の中ではきちんと別の人格を持つまったくの別人であるものの、あくまでも要素として、「Kの昇天」の語り手(私)とKはほとんど同一人物のようなものだと思う。

 Kの方は、魅入られて影に乗り移った方の意識。そして、私の方はそれを少し離れたところから見ている側なのである。さながら「泥濘」の圭吉と同じように。

 

 それをいっそう感じるのが、後半に出てくる対比だ。

 

その一と月程の間に私が稍々健康を取戻し、此方へ帰る決心が出来るようになったのに反し、K君の病気は徐々に進んでいたように思われます。

 

(新潮文庫 改版「檸檬」(2003) 著:梶井基次郎 p.158)

 

「私」が回復していくに従ってKの病気は重くなる。まるで、影と実体が逆転していく様子を別の形で表しているかのようだ。

 そして手紙の書き手はKの最期をまるで見てきたように語る。

 彼の担っている役割には、月へと飛翔し去る自分を少し離れた場所から(比喩として)眺めていたはずのK自身を示唆し、象徴的に表現することも含まれているのだと思った。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 高校時代にはどこか退屈だと感じていた梶井基次郎の作品は、改めてきちんと世界に入り込むとこんなにも面白いのだと気付く。もっと違う着眼点から語りたいことも沢山あるので、また気が向いたら書きに来ようと思った。

 

 彼の作品はほとんどがパブリックドメインなので、以下のリンクから色々な短編が読めます。

梶井 基次郎|青空文庫

 紙の書籍はこちら:

 

他にも近代文学いろいろ: