書籍:
坑夫(著:夏目漱石 / 新潮文庫)
「働いても、いいですが、全体どんな事をするんですか」
と自分はここで再び聞き直してみた。
「大変儲かるんだが、やってみる気はあるかい。儲かる事は受合なんだ」
どてらは上機嫌の体で、にこにこ笑いながら、自分の返事を待っている。
(新潮文庫「坑夫」(2004) 著:夏目漱石 p.15)
夏目漱石の作品のなかでも、現代文の教科書でよく取り上げられる「こころ」や「草枕」に比べると、話題にのぼる機会が驚くほど少ない「坑夫」という小説。
私はこれがとても好きなのだ。物語全体の流れも、内容も本当に面白いから。
著者が「坑夫」を執筆するきっかけとなったちょっと奇怪な出来事は、夏目鏡子氏の述懐による「漱石の思い出」でも詳しく語られているので、今記事では割愛する。
いわく、書生風の青年が夏目家に押しかけ、己の体験をもとに小説を書いてくれと求めた謎の事件があったのだが(しかもしばらく居候したり子供の遊び相手になったりしていた)、目的はただ金銭を受け取ることだけだったのだろうか?
要領を得ない態度が目立ったらしく、なんとも不気味な男である。
それはさておき、文学作品としての「坑夫」の魅力に注目したい。
目次:
小説「坑夫」あらすじ
物語は家出をしたらしい青年の一人称で進む。
それなりの名家に生まれ、学校教育も受けて不自由のない暮らしをしていたが、なんでもとある人間関係の問題に嫌気がさして飛び出して来たようだ。
本文からはいわゆる男女の三角関係が発端であると推察できるが、そこに家柄ゆえか、個人を超えて親族や世間が介入してくるのを重荷に感じ、ならばいっそ自分ひとりを「煙にして」……要するに姿をくらましてしまおうと決めたらしい。
一思いに死んでしまう勇気はもとよりなく、かといってどこまでも逃げ続けるだけでは金も体力も尽きる。そうして苦しむ。などと考えながら重い足を引きずる彼を、ある人間の視線が捉えた。
どてらを着た、男。
汚い掛茶屋の軒先にいたその男が、
「御前さん、働く了簡はないかね」
(新潮文庫「坑夫」(2004) 著:夏目漱石 p.13)
と青年に問う。あまりにも唐突に。
只者ではない風のすごみを帯びた視線にさらされて、けれどもそれに気圧されたわけではなく、さっきまでとは打って変わって人間の世界に戻りたくなった彼は「働いてもいい」と答えていた。
死ぬ勇気が湧かないのならば人里離れた場所へゆきたい。しかし、これからどんな場所で暮らすにしろ、金は要ると考えて。
それが地獄の穴への第一歩。
青年に声をかけてきた男は長蔵といい、目を付けた人間を言葉巧みに銅山へと連れていって坑夫の仕事を斡旋する、いわゆるポン引きだったのだ。
彼は青年を引率して汽車に乗り、降りた先でもうひとりの男性と、さらに山でひとりの子供を労働者候補に加え、鉱山のふもとの街へと向かう。そこに広がっていたのは、青年の今までの人生ではまったく見たことも聞いたこともない、想像をはるかにこえる世界だった。
面白い・良いと感じるところ
以下、個人的な感想になるので、話の展開や結末のネタバレを避けたい方は先に本文を読んでみるのがおすすめ。
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(1) 物語の構成と展開
まず、どこへゆくとも知れなかった青年を長蔵というポン引きが捕まえ、ぐいぐい緑深き山の向こうへと連れて行く、という図がとても良い。
自分の確固たる意思というよりは、何かに魅入られるか、あるいは単に成り行きで「異なる世界」へと導かれる彼。
途中で合流する妙な赤毛布をまとった男や、通りがかった子供の登場も、いよいよ大多数の人間たちが属する場所を離れて得体のしれない場所へ向かう印象と想像を掻き立てる。
彼らは山道を登り、滔々と流れる青い川という「境界」を越えて別世界に入り、そして青年はさらにそのあと坑道へ続く穴を下ってまた別の世界へと……どんどん深い場所へと、入り込んでいく。さながら冥界下りのように。
ちなみに、ふもとの町へ入る直前にも橋があって下に川が流れている。そこから先へ行ってしまったら、戻るのは決して簡単ではない。
作中でも暗い鉱山が「人間の墓所」や「地獄」などといった言葉で直接的に表現されている。要するに大多数の、普通に生きている人間がおいそれと覗ける場所ではないということだ。
銅山へ到着してからは意地悪な他の坑夫たちに苛められるだけでなく、親切な飯場の頭(原さん)からも「君には適性がなさそうだから」東京へ帰れと言われる青年だが、ここまで来たからには何とか働かなければとても帰れないと訴え、ついに案内をつけてお試しで坑道に下りることになる。
「どうだ此処が地獄の入口だ。這入るか」
(新潮文庫「坑夫」(2004) 著:夏目漱石 p.172)
装備を整えてカンテラを引っ提げ、とても現実とは思えないような闇のなかを行く。時折低く鼓膜と身体を震わすのはダイナマイトだ。また、横のくず穴へとあらがねを落とす、カラララン、カカラアンという冴えた音。
その復路で青年は迷子になり、真っ暗闇のなかで、ある一人の男に出会った。
導かれた先の異界で何か印象的なものに邂逅する。ここにも確かな面白さがある。
男ははじめ邪魔な場所にいた青年をどやすようにしたが、新入りだというとにわかに態度を軟化させ、どうしてこんなところへ来たんだと穏やかに問う。
その喋り方や用いる語彙の豊かさからして、青年と同じく、高等の学校教育を受けたことのある人間だろうと推測できた。話を聞いていると、どうやら彼はかつて社会で何らかの罪を犯してしまったがために娑婆にいられず、この坑道に流れ着いたようなのだ。
「六年此処に住んでいるうちに人間の汚ない所は大抵見悉くした。でも出る気にならない。いくら腹が立っても、いくら嘔吐を催しそうでも、出る気にならない。然し社会には、——日の当る社会には――此処よりまだ苦しい所がある」
(新潮文庫「坑夫」(2004) 著:夏目漱石 p.15)
男(名前を安さんといった)は青年に、この場所は人間が生きて葬られる場所であること、いちど本当に入り込んでしまえば決して出られないことを語り、取り返しのつかないことをしたのでないなら帰ってまっとうに生きろ、諭した。
その言葉が、確かに青年の心を打つ。
いわゆる冒険譚とはまったく性質を異にするが、この「坑夫」という小説も広義の「往きて還りし物語」といっても過言ではない気がする。
彼は暗い世界へと導かれ、彷徨い、結果的に何かを得て地上に戻った。
この物語の構成と展開にいつも私は強く惹きつけられる。
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(2) 人心のあてにならなさ
作品の中で青年が一貫して考えているのは、人間の心には真実一貫としたものなどなく、性格など状況によって如何様にも変わるのだということである。
自殺の選択肢も脳裏をよぎりながら、どこへ行っていいのかも分からない、しまいにはポン引きに鉱山まで連れて行かれるかなり異様な状況の中で、その曖昧さと複雑さが浮き彫りになる。
人間のうちで纏ったものは身体だけである。体が纏ってるもんだから、心も同様に片付いたものだと思って、昨日と今日とまるで反対の事をしながらも、やはり故の通りの自分だと平気で済ましているものが大分ある。
(新潮文庫「坑夫」(2004) 著:夏目漱石 p.28)
その時はそうだと思ったことが、後になってそうは思えなくなってくる。当時考え、感じていたことはしっかり記憶に残っているにもかかわらず、どうしてそう判断したのかはさっぱり分からない。そんな瞬間は往々にしてある。
ふわふわとした不定な意思、あるいは魂。決心も約束もずいぶんと儚い。
要するに、「過去の自分」というのは畢竟、「他人」のことなのである。
ぐるぐると巡る意識の描写は物語の後半でその骨頂を迎える。坑道の穴の下で前述した安さんに出会う直前、これから長い梯子を上るのに際して、ぼうっと休憩していた最中の場面だ。
動いて来た。油の尽きかかったランプの灯の様に動いて来た。意識を数字であらわすと、平生十のものが、今は五になって留まっていた。それがしばらくすると四になる。三になる。推して行けばいつか一度は零にならなければならない。
(中略)
ところが段々と競り卸して来て、愈(いよいよ)零に近くなった時、突然として暗中から躍り出した。こいつは死ぬぞという考えが躍り出した。すぐに続いて、死んじゃ大変だという考えが躍り出した。
自分は同時に、豁と眼を開いた。
(新潮文庫「坑夫」(2004) 著:夏目漱石 p.216)
こんな風に表現できる漱石の筆力には、本当に感服するほかない。
また青年はこのすぐ後に、登っていた梯子にしがみついたまま、長い自己問答と思考を始める。このまま力を振り絞って登り切るべきか。それとも、一思いに両手を離して縦穴に落下してしまおうか……。ここで、人生を終わりにしようか。
前方か背後、どちらかにしか進めない一本道という状況に人物を置くことで、現実である物理的な世界が彼の意識の縮図、あるいは投影、具現に形をなすように工夫された「小説的な」場面。
しかし「坑夫」は青年の一人称、彼が自分の体験した事実をつらつら語っている、という体裁で一切が進む物語だから、結びの言葉は「その証拠には小説になっていないんでも分る」となるわけだ。
初めて読み終わった時に思った。このお話は、ものすごーく面白い。
長編になるとどうしても冗長な感じが滲んでくるのが特徴の漱石の作品だが(それがまた持ち味でもある)、「文鳥」のような他の優れた短編と同じように、この「坑夫」という作品は実に美しくまとまり、洗練されている。
パブリックドメイン作品なので、以下のリンクから全文が読めます。
紙の書籍はこちら:
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次に「坑夫」ではなく「坑主」の物語はいかがでしょうか?
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