書籍:
チェス盤の少女(著・サム・ロイド / 訳・大友香奈子 / 角川文庫)
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この物語は、現代のイギリスを舞台とし、架空の誘拐事件を扱ったサスペンス・スリラー小説だ。
目次:
謎めいた冒頭
どこまでも深く、うす暗い場所。「彼」は生活の大部分をそこで遊び過ごしている。
〈記憶の森〉と呼ばれる場所で。
時には慣れ親しんだ空気のにおいと足に伝わる感触が安心を伝え、またある時は、影にひそむ恐ろしいものの存在を示唆し、心を怯えさせる。
あわせて〈指の骨湖〉とか〈車の町〉だとか、奇妙に幻想的な名前の存在とともにある森は、まるで童話に出てくる場所のようにも、あるいは単に規模の大きなだけの、よくあるイギリス郊外の森林のようにも思える。
たまに視界を横切るのは、動物の死骸をあさるカラスだろうか。
以前、アオガラの巣からひな鳥をぜんぶ引きずり出して殺してしまったのは、カササギだった。
森を抜けた先には大きなお屋敷があって、敷地内に点在するのは小作人用の貸家。
「彼」もそのうちの一つに住んでいる。
でも、ここはぼくの家じゃなくて、ただの汚れた影だ。キッチンに足を踏み入れ、もう一度自分に言いきかせる。
ここはぼくの家じゃない。
(角川文庫「チェス盤の少女」(2020) 著:サム・ロイド 訳:大友香奈子 p.21)
そこは一体何なのだろう。
いかにして「彼」は、その中へ足を踏み入れることになったのだろうか?
……ある日、深く暗い森へ、また一人の子供が迷い込む。
概要・あらすじ
イギリスの作家、サム・ロイドのデビュー作である「チェス盤の少女」の原題は、ザ・メモリー・ウッド(The Memory Wood)。直訳すると「記憶の森」になる。
英国ハンプシャー州の出身であるこの著者、幼い頃から頻繁に自宅近くの森で遊んでいた、と紹介欄にあったが、きっとそれが作中で効果的な演出となっている、濃密な森林描写の源流にあるのだろう……と納得させられた。
明晰な頭脳を持つ13歳の少女、イリサ・ミルゾヤン。
彼女はふだん母親のリーナと二人で暮らしていて、学校に通うかたわら、チェスへと並々ならぬ情熱を注いでいた。彼女いわく、毎日、という言葉はすなわちチェスの日を意味していると豪語するくらいだから、相当なもの。
全英ユース・グランプリの開催される特別な土曜日、母子は万全の準備を整えて家を出た。念を入れたおかげで、予定より2時間も早く到着した会場の近くで、パンにベーコン、卵、焼きトマト、豆なんかが皿に盛られた重たい朝食もとって。
順調に午前のトーナメントを勝ち進んだイリサは、ランチタイムに気分転換がてら、一人でお弁当箱を車に戻しに行くのだが……そこで突然、煙草の匂いのする何者かにガスを吸わされ、白いバンに押し込められた。
連れ去り。要するに、誘拐だ。
気絶して目が覚めると地下室のような場所で、ものものしい金属製の手錠をかけられていた。
混乱のさなかにあっても、彼女は持ち前の思考力と記憶力を使って、懸命に自分の置かれた状況を整理しようとする。何も見えない暗闇を手探りし、チェス盤のマス目に見立てた地図を頭の中に描いて、動ける範囲にあるものを探りながら。
しばらくすると謎の男が地下室を訪れる。食べ物を持って来たものの、どういうわけか「あいさつ」をしなかったイリサを礼儀知らずだと罵り、そのまま出て行った。
……そして、次に監禁部屋の扉を開いたのは別の人間。
不自然に甲高い、少年のような声を持つ「彼」の名は、イライジャ。いつも〈記憶の森〉で遊んでいる。
「悪いことじゃないよ、ルールに従ってさえいれば」
イリサは突然、めげずに顔を上げているのが大変になる。「ルールって何?」
「それは変わるんだ」
「あの人がだれなのか、教えてくれる?」
(角川文庫「チェス盤の少女」(2020) 著:サム・ロイド 訳:大友香奈子 p.132)
そのうちイライジャは自身を「ヘンゼル」と、そしてイリサを「グレーテル」と呼ぶようになった。あのグリム童話になぞらえて。ここは〈お菓子の家〉だ、と言って。
彼はいつも地下室にいるわけではなく、たまに下りてきては去っていくだけで、イリサを監禁から解放する助けにはなりそうもない。加えて恐ろしい男の方はその合間に、ビデオカメラの前でまったく意図の不明なスピーチを行うように仕向けてくる……。
男は囁く。
「言われるまでしゃべるな」
「イスに座れ」
「セリフを読むんだ」
「わかりましたと言え」
「ルールに従え」
「おまえの母さんがおまえをがっかりさせたことを、洗いざらい思いだして欲しいんだ。どんな小さな意地悪でも、どんな怠慢でも、どんな身勝手な行いでも、ひとつ残らず」
(角川文庫「チェス盤の少女」(2020) 著:サム・ロイド 訳:大友香奈子 p. 247)
イリサはビデオカメラを覗き込む。
……男はどうしてこんなことをさせるのか。この誘拐犯の目的は?
彼女は自分の家に、生きて帰ることができるのだろうか。
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徐々に加速していく展開と明かされていく真相に、特に最後の3分の1はページをめくる手が止まらなかった。とてもイギリスらしいテイストに彩られた、おすすめの作品です。
日本語版は角川の文庫本か、電子書籍のKindleで。
ネタバレあり感想
※ここから先では物語の内容や詳細、結末に言及しています。
サスペンス要素の強い作品なので、 事件の真相が徐々に明かされる読書体験を求めている方は何よりも先に本編を読むのがおすすめ。よければ本を閉じてから感想を共有してくださると嬉しいです。
以下が個人的な読後語りでネタバレ要素あり。
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ヘンゼルとグレーテル。
魔女の罠にかかった兄と妹が、機転を利かせてお菓子の家から逃げ出し、晴れてほんとうの家に帰る。それが、グリムの編纂した童話の筋書きだ。
なるほど、確かにこの「チェス盤の少女」もそうだった。
けれど大きく異なる部分が二つある。ひとつは、イリサもカイルも、親から捨てられて森に取り残されたわけではなかったこと。もうひとつは、童話に出てくる兄妹と違って、二人の帰る家はそれぞれ別の場所になったという結末。
指の骨に、あらゆる痕跡をついばむ鳥たち、「マジック」アニーの存在、冒頭からほのめかされていたいくつかのモチーフが結末に向かって融合し、2章の後半にたどり着く頃には読者にも一本の路が見えるようになる。
残忍な魔女を殺して、逃げるのだ。
問題は手段。どうやってそれを成し遂げるのか。
提示された答えは、チェスにおけるクイーンズ・ギャンビットだった。
序盤で優位に立つために、位の低い駒を犠牲にする。
……それで、二人はそれぞれの家に帰る。その意味がイリサとカイルとで異なっていようとも、ともかく、代償を払って脱出と再会とは果たされた。
読み終わってみると、原題の「記憶の森(The Memory Wood)」の意味に、いくつもの要素が重なっているのが分かる。
ムニエ・フィールズにあった実際の森だけではない。今までに葬られた数々の子供たちが存在した証である木の飾りや、イリサの脳内で展開される記憶の方法、そして何よりも……一度は行動を起こしたが失敗に終わってしまったばかりに、その心を守るため多層化し、異様に複雑な構造を持つに至った、カイルの意識。
これこそまさに森である。
今までになかった異端分子であるイリサと出会い、最後は茂る葉の隙間から陽が射すように、枝分かれした人格と記憶の鍵が外され、彼は「イライジャ」ではないほんとうの自分を取り戻す。
「そういうふりをしてたんだ。とてもうまくふりをしていたら、しまいにはそう信じるようになっちゃった。おかしなもんだよね。何かを一生懸命思えば、ほんとうになるなんてさ」
(角川文庫「チェス盤の少女」(2020) 著:サム・ロイド 訳:大友香奈子 p. 466)
「身の回りのあらゆるものに強い信念を持っている」マジック・アニーのキャラクター造形は、あまりにも現実的、かつ身近で恐ろしく、だからこそこの童話における魔女の役割を効果的に果たしているのだと震えた。
好みの話だったのでもっと同作者の小説が読みたいと思うも、これがサム・ロイドのデビュー作であり最新作。他タイトルの既刊はなく、肩を落としていたところで、なんと刊行予定の新作を見つけ飛び上がって喜んだ。
2021年7月8日に発売されるのは、ザ・ライジング・タイド(The Rising Tide)という題の小説だ:
事前に明かされた情報は少ないが、紹介文を読むかぎり「チェス盤の少女」と同じジャンルのドラマティックなスリラーで、表紙の「そろそろ彼女の最悪の悪夢が打ち寄せる頃」という一言にも期待が高まる。
タイトルの意味は直訳すると「満ち潮」だ(ドキドキ)。
当日になったらすぐにKindle版をダウンロードしてその世界に没頭しようと思う。日本語訳版が出るのは早くても1年後くらいになると思うので、こういう時は英語の本が原文で読めてほんとうに良かったー! と嬉しくなる。
そもそもイギリスの物語や芸術作品に惹かれ、英語の本が読みたくて語学の勉強と留学をしていたので、こんな風に楽しめる時点でもう夢が叶っているのである。
最高。
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この感想で伝わったかどうかは分かりませんが、「チェス盤の少女(The Memory Wood)」は面白い誘拐もののサスペンスでした。興味が湧きましたら、ぜひ手に取ってみて下さい。