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彷徨する自由帖

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JR徳島線を利用して城下の脇町「うだつの町並み」を訪う - 阿波藍のふるさと吉野川|四国・徳島県ひとり旅(4)

 

 

 

前回:

 

目次:

 

徳島駅から脇町「うだつの町並み」へ

  • 列車に乗ってみる

 

「JR四国初の駅ビル」として、1993年に開業した徳島駅ビル。

 今年で開業30周年を迎えた。

 

 

 JR四国のコーポレートカラー(と、言うらしい)は明るい水色で、私はこれがとても好きだった。駅名の看板に使われているロゴや、車体を彩るラインにもしばしば使用されている、爽やかな色。

 詳細を調べれば「澄んだ空の青」のライトブルー、と出てきて深く納得するとともに、自分が抱いている印象の方はさらにその空を映した海の色や、風、大気の色の複合なのだとも思う。どれかひとつに留まらず……。高校生時代に四国を訪れた時と、これは全然変わらない。

 特定のものではなくその土地の印象自体に何らかの色を見出すのは、ある数字を眺めて、そこから色を連想するのと少しだけ似ている気がする。

 ちなみに日本列島47都道府県のうちで唯一、徳島県内の鉄道駅には「自動改札」が存在しないのだった。また、県内の全駅に占める無人駅の割合も非常に高く、2022年時点で1位の高知県(93.5%)に次ぎ、徳島県(81.6%)が全国2位となっていた。

 

 

 そもそもJR四国は独自のICカードを発行していない。

 先日香川県の高松を訪れた際に「IruCa(イルカ)」なる存在をちらりと見かけたが、これはJRではなく、私鉄の「高松琴平電気鉄道(ことでん)」が発行しているものになる。どちらかというと乗用車が生活の要となる地域では人口の減少に伴い、必然的に鉄道需要も少なくなり、さらにICカード対応の改札機を新規で設置するとなると1台あたりに多額の費用がかかるため実現が難しい。

 長年にわたり続く赤字(JR四国は昭和62年から一度も黒字になっていないらしい)とそれによる経費削減の影響は大きく、これだと老朽化した古い駅舎を眺めて何らかの趣を感じ無邪気に喜んでいられるのは、まったく私のような余所者の旅行客だけかもしれないではないか……といつも以上に思わされてちょっと気落ちした。先日はJR南小松島駅の「汲み取り式お手洗い設備」に関する報道もあり、どこも大変なのである。

 けれど、例えば東みよし町にあるJR徳島線、阿波加茂駅の駅舎(大正3年開業、昭和63年に改築)を取り壊す計画が持ち上がった際には、それに反対する846人分の署名が地元住民の声かけを中心に集められた。駅舎の建築に愛着を持ち、維持したいと思う人の数はわりと多い。2023年5月時点で取り壊しに関する町の方針は変わっていないが、今後の動向が気になっている。

 

 

 さて、意識を徳島駅に戻し、切符を改札口の駅員さんへ。

 ここから「脇町うだつの町並み」がある穴吹駅までは普通列車で約1時間と数分、特急列車の「剣山」を利用すれば43分程度で到着する。運行本数は少ないが、これなら徳島市内からかなり近い、と言えるのではないだろうか。運転免許非所持者でも、きちんと計画さえ立てれば旅行中に無理をせず足を延ばせる距離にある。

 今回は阿波池田行に乗車。

 車内の席には余裕があったけれど、初めて列車に乗る区域なので周辺の風景をめいっぱい楽しむため、フロント部分の片隅に陣取ってみた。あやしい乗り鉄(初心者)の客である……。プラットフォームから車両が離れていく数十秒間、できるだけ奇声を発しないように堪えながら、ときどきスマートフォンを取り出してカメラのシャッターを切った。

 あっ……「剣山」!

 特急列車「剣山」が対向車線からやって来た! 初めまして! ごきげんよう! 本日はお日柄も良く……うららかな空の下、あたたかい風が吹いており……。かわいいね……。

 

 

 ほどよく錯乱していたら目的の駅の看板が見えてきた。特急列車の登場により、変なチップを頭に刺されたみたいな数分間、多分何かしらの存在に意識を操作されていたのだと思う。

 1時間ちょっとの鉄道旅で、それにしてもあっという間に到着する。改めて地図を見返してみると、JR徳島線は徳島県の北部を、吉野川に沿うようにして東西に縦断しているのが分かった。そう、今回訪れる脇町はまさにこの吉野川の恩恵を受け、「阿波藍」の一大生産地として、18世紀頃~20世紀初頭にかけて最盛期を迎えていた場所。

 ちなみに江戸時代の慶応年間、狂乱のムーヴメント「ええじゃないか」が日本を席巻した際も、阿波(徳島)においてはその流行経路が海岸線に沿っていたものと、吉野川流域に沿って伝播したもの、ルートが大きく分けるとふたつある(参考:西垣晴次「ええじゃないか 民衆運動の系譜」講談社学術文庫)。

 川は物資を運び、人も運んで、時には新たな文化を異なる土地へと接続させる血管としての役割も担っていた。道路とも鉄道ともまた異なる、水の路で。

 

 

 降車したら、大正3年に開業した穴吹駅の改札を出る。

 ちなみに帰りの列車は、往路で乗ったものより明るい水色のラインが印象的だった。徳島線の別称「よしの川ブルーライン」を連想させる外観。電車ではないのでパンタグラフなどが付随せず、身ひとつで勇猛果敢に線路上を走る姿には、愛らしさすら覚えた。

 ディーゼルエンジンの仕様なのか、燃料燃焼時に発生する煤の影響で、車両の上部が黒くなっているのにも注目させられる。かわいいね。

 

  • 穴吹駅から

吉野川と穴吹渡し跡の橋

 

 日本三大暴れ川、というのは「板東太郎」の利根川、「筑紫二郎」の筑後川、それからこの旅で目の当たりにした「四国三郎」の吉野川とされている。

 陽の光が幅の広い水面を輝かせていて本当に綺麗だった。晴れた日はこんなにも穏やかに流れているのに、台風など荒天候時の氾濫においては警戒情報が発令され、周辺のダムから放流が行われる際にも注意喚起がなされる。また、上流に位置する早明浦ダムというのは西日本地域でも最大のものと言われていて、通常時であれば川の水位は適切に制御されているとのことだった。

 この穴吹に石碑が残っているものをはじめ、まだ川に橋が架かっていなかった頃は、舟に乗って対岸へと渡る「渡し」が人々の移動手段。

 吉野川にかつて存在していた渡し場の数は最も多い時でなんと117箇所にのぼるとされ、平成中期にはこれを復活させる催しも行われている。昔から地元住民はもちろんのこと、多くの旅行者やお遍路さんも、渡し船を利用して旅を続けていたに違いない。

 ちなみにこの渡し船のひとつを前身として、大正元年設立の阿波電気軌道が運航していた「鉄道連絡船」が、以前は阿波中原駅~富田橋を結んでいたという。大正11年頃までにはその航路が新町橋まで短縮され、昭和10年、ついに吉野川橋梁が完成して連絡船は役割を終えることになる。

 

 

 美馬市の穴吹でも、現在はふれあい橋が渡し舟の代わりとなって北岸と鉄道駅を結び、通勤通学のよすがとなっていた。歩いていると学生服の姿を最も多く見かけた。

 昔は穴吹橋のあった位置にふれあい橋が架けられたのは、平成4年。この橋の形式はどんなものかと調べてみたら「PCラーメン橋+PC桁橋」と書かれていた。PCラーメン橋とは一体……!? どう考えてもパーソナルコンピューター・塩ラーメンブリッジではない。絶対に、ない。

 てっきり食べ物の「拉麺(らーめん)」のことかと思ったけれど、実はドイツ語「Rahmen」が由来であるらしく、意味は「骨組み」なのだとか。橋の主桁と橋脚とが剛接合されているのがその特徴。また、上の場合の「PC」とはプレストコンクリートのこと。なんとなく渡る橋は、自分が普段あまり使うことのない単語と色々な技術の集積でできていた。建築畑で育った友達に今度会ったら詳しく聞いてみよう。

 

 

 上は橋に関して参考になりそうな徳島県のウェブサイト。眺めているだけで結構面白い。

 ここからしばらく川北街道を西の方角へと歩いてみて、やがて右手前方にあらわれる細い水の路、吉野川から大谷川へと続く流れを辿って行くと、見えてくるのがオデオン座。趣ある洋風の建物で、近くに植えられている柳にも風情がある。

 ちょうど建物の正面が、まるで見守るように町並み保存地区の方角を向いていて、ここから散策を始めるのにはうってつけの立地だと感じた。早速。

 

脇町劇場 オデオン座

 

 うす水色をした板張りの外観からしてもう興味をそそられる。

 入口と出口に挟まれる形で券売所のスペース(札場)が存在しており、左右の1階と2階にはそれぞれに上げ下げ窓と、ひし形の装飾が。軒下の半円部分には赤、黄、青などの板が嵌められていて、その色合いがたまに感じる「あの」不思議な懐かしさを演出しているのだった。駄菓子のパッケージみたいな組み合わせの可愛らしい3色だから、尚更そう思えるのかもしれない。

 受付の窓口の上にポツンと灯っている電灯が鬼火だった。そういう魔の一種で、自分の意思とは関係なく魅力に引き寄せられ、絶対に中を見学しなければならないと思う。

 昭和9年に完成したオデオン座は、芝居小屋。建設計画や資金調達に関わったのは地元住民と町内の事業家の方々のよう。戦後も映画館として使われていたが平成7年に一度閉館し、老朽化による取り壊しも視野に入れられていたところ、平成10年に美馬市の指定有形文化財となる。こうして価値が認められたので、今後も長く残るであろうことが予想できるのは嬉しい。

 

 

 脇町のオデオン座が注目を集めたきっかけは、山田洋次監督の映画「虹をつかむ男」のロケ地として使用されたことだった。一般公開にあたっては、美馬市の有形文化財指定後に大規模な修復が行われ、当時の姿を楽しめるようになっている。このように建物を見るだけではなくて実際に何かの演目が上映されるときもある。

 入館料は大人200円。

 ちなみに愛媛には内子座、香川には金丸座、という施設が残っているらしく、この徳島のオデオン座を含めた3つが四国で現存する貴重な芝居小屋なのだそう。他のふたつも訪れてみたくなる。

 2階建ての内部は花道やうずら桟橋、奈落に回り舞台も備わっている本格的なもので、西洋風の外観との対比がまた趣深い。入って来るときと出て行くときで印象が変わり、自分はさっきと違うところに立っていたのではないかという錯覚を抱かせる。そうして内部を歩き回り、舞台の上を仰げばおなじみのぶどう棚が……あのがっしりと組まれた格子越しに花吹雪が降ってくる、そう思って目のところに手をかざすけれど、誰もいないから別に何も起きない。

 今は無人の劇場だった。足下の板からどんな音がするものか、ごく軽く飛び跳ねてみる。役者が舞台上で立てる音には空気を変容させる力があって、それが建物の空間と呼応して、観客の五感に訴えるのが面白い。

 

 

 館内はほどよく暗くて、提灯を模した明かりが点っている。

 控室と勝手口に続く通路の脇、なんということはないキッチンも可愛らしく感じられてしばらく眺めていた。簡易的な厨房の設備からはいつもお茶や軽食などの「気配」がする。手の込んだものではないけれど、疲れた時などに提供されると、芯から安心させられるものたちの存在。水を出してお湯を沸かしたり、食材に熱を加えたりできる基本に必要な仕組みが揃っている良さ。

 振り返れば最近はお芝居や演奏会から足が遠のいており、もしかしたら自分の生活に足りていないものは、劇や音楽なのかもしれない。かといって猛暑の中積極的に外出する気にもあまりなれず、だいたい家か会社にいる。冷房の効いた空間にいないと命にかかわる予感がするし……。

 オンラインで配信されている演目のチケットを買って視聴するか、涼しくなったら実際の劇場へまた足を運んでみるか。来ていく服を選んだり現地の付近で何か食べたりするのも楽しいんだよねえ、と思い出す。

 この旅行の時期はまだ涼しくて、オデオン座から橋を経由し川を越えて町並み保存地区へ向かう道すがら、風を感じられて快適だった。少し曇っていたのもちょうどよく。

 

 

 

 

  • 美馬市・脇町うだつの町並み

よく知られた「うだつ」に出会う

 

 うだつは「うだつが上がらない」という言い回しによって人口に膾炙している存在。

 その語源が建築物に付随する「梲(卯建や宇立とも、古くはウダチと発音か)」であることも既にわりと広く知られていて、けれど日常的に実物を目にする機会がある人の数……といえば、そこまで多くはないと思われる。桃山時代以降、特に江戸時代頃に建造された商家が立ち並ぶ地域でないとなかなか残っていないもので、現物を間近で観察できる場所があれば貴重かも。

 本来は主に防火や防風の目的で設けられていたものだが、やがて装飾のために設置されることも多くなり、その資金の関係で「家が栄えていなければ取り付けられなかった」背景から「うだつが上がらない」は「出世できない・頭角をあらわさない」ことを意味するようになったのだった。

 徳島県美馬市、脇町の突抜町・町南エリアはいわゆる「重伝建保存地区」に指定されており、これは以前に足を運んだ長野県・南木曽町にある「妻籠宿」との共通点。妻籠宿は中山道の宿場町だったが、この脇町はかつて存在した、脇城という城の城下町だった。

 

 

 ここではうだつの他にも虫籠窓、蔀戸、出格子など、商家の特徴的な建築をたくさん目にすることができる。お店などが開く前の時間帯から足を運ぶのが個人的に好きで、静かに歩いているだけで人間のいない世界に迷い込んだような気分が味わえるのだった。そこは地図のどこにも載っていない、「似ているけれど違う場所」かもしれない。

 2階部分の虫籠窓から何か人ならざるものがこちらを見てはいないか、神経をとがらせてみる。いたとしても気が付けないだろうけれど。足元の地面はごく細かい石が固められたような舗装の仕方で、どんなにそっと歩いていても必ずじゃりじゃり音が鳴る。

 保存地区の区間はわずか数百メートル、しかし立ち止まりながら色々な部分に目を向けたり、少し大通りを外れてみたりすると発見が多くて退屈しない。魅惑の三叉路があったり、松屋小路と呼ばれる、昔は呉服商が暖簾を掲げていた細い通りがあったり。上の写真がその小路を写したもの。

 現地にあった説明文を引用する。

 

吉野川の水はかれても松屋はびくともしないほどの呉服商が小路の東側にあった。
この松屋の名をとって松屋小路とした。

 

 

 植物の鉢を表に出していたり、蔦の這っている壁があったりと、全体的にうす緑色の空気が漂っていてとても良い。大通りに繋がっているのに雰囲気は全然異なっている。

 以前はここに大きな服屋さんがあり、たいそう繁盛していて、人々がその前を行き交っていた。現在、その様子は街の影の方に記録されているみたいだった。光の側には出てきていない。年月が経つとあらゆる出来事が溶けて影になる、地層のように堆積したり、木の梁が煙で燻されるのに近い形で焼き付いたりして、「今」の流れから決して切り離されずに存在し続ける。

 全然関係ないのだけれど、今いちばん読みたいと思っているファンタジー小説はP・A・マキリップの「影のオンブリア (Ombria in Shadow)」。試し読みで、そういう影と隣り合う世界の情景描写に相当な魅力を感じたのと、同著者の「妖女サイベルの呼び声」(原著・英語版)がとても面白かったので。

 

阿波藍が町の繫栄の鍵

 

 この脇町南町が隆盛を誇った大きな要因は、16世紀半ばから阿波藩主の蜂須賀家政と、家老の稲田植元により積極的に「阿波藍」の生産が推し進められたことにある。

 気候に恵まれただけでなく、吉野川の恩恵——本来であれば稲作や農業に害をなす洪水の影響を受けて、肥沃な土地での連作が可能になっていた、原材料のタデアイ(小上粉など、品種はさまざま)。これを多量に収穫できる環境を整え、また品質を向上させるために技術の改良が行われたという。

 江戸から明治にかけて阿波藍の需要が大幅に増加したのには、近隣の大都市、当時の大阪(大坂)における綿の栽培量が増えていた背景もあった。収穫した綿で作られた布製品を染める染料として、ということだ。藍は絹にも綿にもよく色づいた。やがて明治36年には藍栽培の面積が1億5千万ヘクタールにまで広がり、ピークを迎えるが、その後減少する。

 

 

 上の時点ですでに、阿波藍の生産量は国内の需要に追い付かず、安価な輸入藍(沈殿藍、合成藍)によって部分的に賄われていた。

 つまり、それだけの面積で作っても必要な染料の量に間に合わなかったことが示されている。

 

 一口に「藍染料」と言っても色々な種類があって、まず大きく

・天然藍

・合成藍

 のふたつに分類することができ、阿波藍は前者の天然藍に属する技法。

 

 さらに、天然藍は

・生葉染め

・すくも(蒅)

・ウォード

・沈殿藍

 など、藍の加工方法やそれを使った染色方法によっても違いが出る。

 

 阿波藍はこのうち「すくも(蒅)」を用いる染色法に属し、葉藍の塊を砕き発酵させて作る点で希少なやり方(同じ天然藍の中でも、沈殿藍の方は色素を水で抽出するのでまた異なる)が採用されているのだった。

 藍産業振興協会のサイトに概要が載っている。

 

 

 私は付近にあった「道の駅 藍ランドうだつ」でお土産用に藍染めのハンカチを何枚か、それから自分用に「徳島・脇町 うだつがあがるせっけん」をひとつ買った。藍の成分と植物保湿成分(シンビジウムエキス)が配合されているらしい。シンビジウムというのは蘭(ラン)の一種で、藍といい蘭といい、どうやら草花の持つ効能が詰め込まれているみたいだった。

 配ったお土産のハンカチは好評で、せっけんも先日無事に使い切る。きちんと泡立つし、素朴な香りがして良かった。

 せっけんの製造販売元「株式会社河野メリクロン」は脇町に本社を置く企業で、長野県の小諸には試験場がある。シンビジウムをはじめとした洋ラン栽培、品種改良と、それに関連製品を主に取り扱っているよう。

 

 これらのお土産を買った「道の駅 藍ランドうだつ」は、旧吉田家住宅の裏手にかつてあった舟着場跡に繋がっていた。

 

旧吉田家住宅

 

 阿波藍を扱う商家はすなわち藍商で、この脇町にある中でもひときわ隆盛を誇った家が、吉田家であった。屋号を「佐直」という。おそらく、「佐川屋直兵衛」の屋敷であったことに由来するのだろう。寛政4年頃の建築物が今でも残り、内部を見学できるようになっていた。

 大人の入館料は510円。

 この旧吉田家は町でも最大の敷地面積を誇っているだけでなく、その上に建った家屋の構造自体もかなり魅力的で、2階や厨や中庭に至るまで見どころ満載だったのが嬉しい驚き。少ししてそれが、むしろ商家らしい特徴なのだと思い直す。うだつと虫籠窓、出格子など典型的な外観はわりと簡素に見える分、内装の方にこそ力を入れているところは。

 昔は障子戸を引けばすぐ吉野川を望むことができ、大きな門の外、積まれた石垣のすぐ近くにまで水が来ていたとか。それを利用して船を使い物資を運搬していた。荷物を積んだり、降ろしたり、働く人々が行き来していた石畳が私の靴の下にもあるということ。

 

 

 箪笥の中に展示してある「箱膳」は食器のセット。食事ごとに出したりしまったり、毎回水洗いすることはなく、布巾などで拭いてまた使っていたらしい。

 2階にある板の間は倉庫として利用されていたほか、場合によって奉公人たちの寝床になったかもしれない旨の記載がある。同じように寝転がることはできないけれど、あまりに夏が暑いのでつやつやした床にはペタっと張り付いてみたくなる。格好が不審になるのでやらない。

 その横には「阿波の労働事情」なるパネルもあって、藍の生産には多大な労働力を必要としたことと、それにより職にあぶれる心配は少なく、他の地方でしばしば見られた「人身売買」の例も少なかったかもしれない……という説明があった。

 確かに丁稚奉公などと言えば聞こえはいいものの、金や米と引き換えに子供をどこかへやってしまうことは口減らしでもあるし、対価が発生している点で人身売買なのである。身近に仕事があれば、遠くの町で「人質状態」になることは避けられるが、その労働と共にある生活は果たしてどのくらい快適で、どのくらい過酷なものだっただろうか?

 国内の藍のほとんどが阿波で産出されたもので賄われていた時代、令和の世界に暮らす身で想像することは難しいので、こうして町に残された痕跡から推察・空想を膨らませるしかない。歌が聞こえてきたり、戸を開け閉めする音が響いてきたりする。

 

 

 見学していて面白いのは、一応、全体を回りやすいように定められた順路に従って動いてみてはいるものの、ある階段を上って別の階段から下りてくることですぐに感覚が狂うところ。しかも、それが幾度となく繰り返されると本格的に空間把握が難しくなる。

 建物は外から眺めるよりも、内側から探った時の方がずっと広く感じられる。

 もう人の住んでいない家が管理されていると「擬態」を感じるのと同じで、建築物の外観はそれ自体が空間の擬態の結果というか、そこに内包しているすべての時間と事物、人物の痕跡を風呂敷のように包み隠しているのだと思わずにはいられなかった。だとするならば建物が立ち並んでいる地上の一区画というのは、ひとつの陳列棚であり仮面舞踏会の会場でもあるらしい。

 こう考えると「町並み保存地区」という場所が帯びている性質、重層的な在り方がさらに興味深くなり、そこが単に古い景観を保持しているだけの領域ではないことがよく分かるのだった。

 

 

 最後、これより先に進んだら重伝建保存エリアが終わっちゃうんだけど……という地点で自分に内蔵されたある種のセンサーが反応しまくり、首を傾げつつも信じて進んでいったら自働電話をひとつゲットした。この直感は信頼できる……。

 箱が末広がりではない、ストンと垂直に立った六角形タイプで、凛々しくも可愛らしい佇まいだった。小豆の色で。

 今日は脇町の周辺で1泊する。

 

 

記録は(5)へ続く……。

 

(1)から読む:

 

 

 

 

昼、ひっそりと開いては閉まるお蕎麦屋さん|神奈川県・横浜市

 

 

 

 

 

 先月、5月の話。

 

 ギリッ……ギリまで粘った同人誌(主催さんが企画してくださった合同誌、9月文フリ大阪で頒布)の原稿を提出して、締め切り明けの世界に来たら、もう6月になっていた。これを書いている今、時間はさらに経過していて、明日になったら7月だ。

 先月は珍しく、関東圏から一歩も出ない日を過ごしていた。

 でも、居住県内で福井出身の店主(かなり癖が強めだが……まあ、面白い方)が提供していたお蕎麦のおかげで、わずかに近畿地方の風を感じられたのが気晴らしになった。蕎麦という料理を普段あまり食べないので尚更。つくづく奥深い料理だなぁ、と思う。

 

 

 この店は基本、土日も営業しているが不定休で、昼間の1時間半しか開けていない。営業しているかどうかは、のれんの有無が目印。風が強いと激しく風に揺られている。

 入店すると「うちは『おまかせ蕎麦3種』のコースひとつしかメニューがございませんがよろしいですか」と聞かれたので、はい、と答えた。

 また「温かいお蕎麦は鰊と鴨が選べますがどちらになさいますか」とも聞かれるので、次は鴨、と答える。

 季節によって変わる冷蕎麦(5月)は茶蕎麦だった。

 そば茶の提供のあと、最初に出てくる。白っぽい麺と緑色の麺、ふたつがうすい紙を貼り合わせたような形で打たれていて、切ると写真のような感じになっていた。食感は所謂コシがあり、硬め。個人的に冷たくて硬めの蕎麦が好きだと、最近気が付いた。

 

 

 それから次の温蕎麦に入っているのは鴨の肉を切ったものと、肉団子。後者はつくねというのだろうか。汁の味が奥の方まで沁みていて、強い癖もなく食べやすい。

 加えて、一緒に行った人に少し分けてもらった鰊は、30時間ほどかけて煮込まれていた。甘くてしょっぱい美味しさがある。少し七味唐辛子を入れると、さらにお箸が進む気がする。

 最後に登場するのは越前そば(福岡県の嶺北地方で食べられてきたと言われるもの)。

 これは大根おろしやしぼり汁の辛さが特徴の蕎麦らしいのだが、提供されたものに関してはこちらの地方に住む人々の舌に合わせて味を変えてあるのだという。葱の風味、香ばしいかつお節がたっぷり、冷たいつゆも相まって、夏場にはつい頂きたくなるような要素が揃っている。

 

 

 いつまで営業されているか分からないけれど、また足を運ぶつもりなので、それまでは続けられていてほしい。

 ご興味を持たれた方がいましたらぜひ探してみて下さい。

 

 

 

 

 

ローカル鉄道・上信電鉄~上州富岡で降車し製糸場へ|ほぼ500文字の回想

 

 

 

 上信電鉄上信線。

 

 てっきり上州と信州を結ぶが故に上信なのだろう、と思って現地を訪れてみたら、高崎から伸びるその線路は同じ群馬県内の下仁田駅地点でぷっつりと切れ、代わりに国道254号線が荒船山の先の方まで通っていた。

 列車は、信濃国まで行かないのだ。

 私は乗用車を運転しないので、あの山を単身で越える機会は基本的に訪れない。なので上州富岡駅で降りたとき、鋼鉄のレールに沿って自分の「思念」を送っておいた。
これは下仁田の先まで飛んで行き、たぶん長野の羽黒下か、中込の駅まで辿り着く。

 今頃、どちらかの駅の職員さんがくしゃみをしていることだろうと思う。

 

 

「蒟蒻畑」で有名なマンナンライフのラッピングに全身を包まれた車両。

 マンナンライフは本社が群馬県の富岡市内に存在する。

 

 どうやら上信電鉄、かつては実際に下仁田から長野(現在の佐久市あたり)まで延線を行う計画が存在していたようだった。そのため電化へと舵を切った際、明治期には「上野(こうずけ)鉄道」だった社名が、大正10年に「上信電気鉄道」へと変更されている。

 現在の「上信電鉄」は、昭和39年の社名変更時から使われている名前。

 

 それにしても、高崎も上州富岡も暑かった。かなり。

 比較的慣れていそうな現地の方々も同じように暑がっていた。

 私はここから、富岡製糸場に向かう。

 

 

 以下のマストドン(Masodon)に掲載した文章です。

 

 

 

 

太宰治《津軽》をきっかけに津軽半島を縦断した秋の記憶、龍飛崎をめざした - 青森県旅行・回想(1)

 

 

 

 世間に流布している作家像というのは、得てして実態から大きく乖離したものになりがちである。

「彼」もすっかり大衆が持つ先入観の犠牲となっているうちの1人で、けれど、作品を知れば知るほどにその印象は変化していく。暗さと明るさ、いい加減さと誠実さ、痛みを覚えるほどに感じさせられる、ひたむきさ……。根底に流れている、人間存在への愛とでも呼べそうな何か。

 綴られてから年月が経ち、古くなった文字の羅列から、なお新しい何かを読み取るたびに、もう生きてはいない存在に少しだけ心を近付けられるような気がするのだった。

 

 

数年前、私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて、その返答に曰く、

汝を愛し、汝を憎む。

(中略)

私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であった。謂わば純血種の津軽人である。だから少しも遠慮無く、このように津軽の悪口を言うのである。他国の人が、もし私のこのような悪口を聞いて、そうして安易に津軽を見くびったら、私はやっぱり不愉快に思うだろう。
なんといっても、私は津軽を愛しているのだから。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.25) 

 

 生まれ、育った土地。いわば「故郷」について誰かが語るのを聞いたり、その様子があれこれと綴られた文章を読んだりするのは、とても面白い。生活しいて事あるごとに触れたくなるもののひとつ。愛着や懐旧、倦厭や嫌悪、いろいろと。

 語られるのはあくまでも特定の人物の立場から感じたこと、見たもの、また印象などであって、仮に住んでいたとしても、土地の客観的な特徴までもをその人が把握しているとは限らないのは興味深いところ。

 このような場合、故郷と聞いて各人が思い浮かべる場所というのは、実のところ私達が立っている地球の上にではなく、誰かの心の中にだけ存在する……ということになる。たとえ地図上の名では同じ土地であったとしても。

 特に、幼少の頃にいくばくかの時間を過ごしてから故郷を離れた人にとっては、かつて暮らした家や近隣の情景、また関わった人々が、なんともいえない温度を持って胸のうちに生き続けているような部分があるのではないだろうか。土壌に染み込んだ雨水みたいだと、ときどき思う。結果どんな草花を育むのかは分からない。

 

 

 昨年の秋、ふと太宰治の「津軽」を手に取ってから、実際の津軽地方に足を運んでみたい気持ちが強まった。それで間を置かず(つまり衝動の熱が変質してしまう前)に行ってみた。羽田から青森へ飛ぶとなんと1時間半程度で着いてしまう。青森空港のガラス壁に、黒石市の名産品、こけし(同市に「津軽こけし館」も存在する)をモチーフにした図柄が装飾として採用されていた。

「津軽」は紀行文のような体裁を取っているが、読んでみると虚実入り交じる内容と、かなり大幅に手を加え再構成されているのであろう、旅行自体や途中の出来事の流れに意識が向く(にもかかわらず、本文の最後「私は虚飾を行わなかった」とわざわざ書かれているのもそれらしい)。

 作家が手掛けるものならむしろそうあってほしいと私は思っている。反対に何か、より現実に即したものを読みたいのならば、情報ができるだけ正確に記された別の資料を当たるべきなのだ。

 まっすぐ知りたいことを追いかける行為とは異なり、わざわざ紀行文風の小説を選んで読むとき、事実、というものへの興味は比較的うすくなる。決してないがしろにされてよいわけではないから、皆無とまではいかずとも……。今は調べ物をしたいわけではない。単純に、お話としても面白いものが読みたい。

 個人的な記憶、抱いた所感、視界に入ったもの、多くの人間に理解されるかどうかが重要ではないもの、おそらく二度とは再現できない瞬間。その作家——この場合は太宰治になるが——の、人生の一端を「覗いてみたい」と欲望する。一定の尺度で測られる物事ではなく、あなたの、あなたにとっての真実にこの指を以て触れたいと、大層な理由もなく願ってしまう。おかしなくらい強く。

 

 朝、青森到着後に空港を出て、脇目も振らずに五所川原市の金木町へ。

 なにしろ時間がないのだ。このあと浅虫温泉に寄って1泊する、そうしたら明日の午後には家に帰らなければならない。

 

 

「津惣(つそう)」の名で津軽一円に知られた、地主の家。屋号はヤマゲン(⋀源)。

 その6男として太宰治、本名・津島修治は生まれた。明治42(1909)年のことだった。

 

私は、中学校にはいるまでは、この五所川原と金木と、二つの町の他は、津軽の町に就いて、ほとんど何も知らなかったと言ってよい。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.6)

 

 

「津軽」執筆のために帰省した太宰。

 現在この屋敷は「斜陽館」と呼ばれ、一般見学客にも門戸が開かれている。

 

金木の生家に着いて、まず仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。それから、常居という家族の居間にさがって、改めて嫂に挨拶した。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.136)

 

訪問記録:

 

 そして上の生家から、疎開時代の家(津島家離れ)へも。

 第二次世界大戦の折、三鷹の家が被害を受けて青森に戻ってきた太宰は、まさにこの場所に座って数々の作品を執筆していた。一度は勘当されたものの、この昭和20年には帰省を許されていたが故に。

 疎開生活は1年と数か月に及んだ。

 

 

「金木も、しかし、活気を呈して来ました」と、私はぽつんと言った。

「そうですか」お婿さんも、少し疲れたらしい。もの憂そうに、そう言った。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.158) 

 

訪問記録:

 

 また、「津軽」の中で紹介されている芦野公園駅の逸話は面白い。そして描かれたある乗客の少女の姿も魅力的である。

 津軽鉄道、芦野公園駅は金木駅の隣に位置し、木造の洋風駅舎は昭和初期の竣工当時から使われている建物そのままなのだった。今は喫茶店として管理・運営されており、誰でも利用することができる。

 座っているとときどき、鮮やかなオレンジ色をした「走れメロス号」がプラットフォームに停車するのが窓から見える。

 

窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥えたまま改札口に走って来て、眼を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.193) 

 

 

訪問記録:

 

 駅舎の喫茶店で食べたりんごカレーはとても味わい深かった。

 

 こんな風にまず、疾風怒涛の勢いで駆け抜けた、太宰ゆかりの3つの地点。でも、各施設では職員さんによる丁寧な解説も聞けた。振り返って思う。はじめに作品「津軽」に感化され、それからかつて作者が息づいていた場所を次々と訪れてみて、自分の方は一体何をどうしたいというのか……。

 具体的には別にどうもしない。行ってみたくて行くだけ。

 気が向いたら今度は読み手の私がぼんやりと周囲の波動を感じ、それを基にまた何かを考えたり、喋ったりする。ゆえに帰宅してから回想する場所はもはや実際には存在していない、私の記憶の中にだけある土地となり、ほとんど保存された状態で記憶の中にだけ残り続ける。誰かの故郷を求め、最終的に、自分にとってはそうでない場所についての話を延々とすることになる。現在、こうして画面に向かっているように。

 金木町を出るとき、美味しい栗のソフトクリームを食べていた。

 こんなになめらかで美味しい栗ソフトなぞ、太宰が金木周辺にいた頃にはまだ無かったはずである。しかし津軽の郷土料理に「栗飯」があるから、きっと秋に、つややかな栗の実自体は彼の口へも運ばれたことだろうと思う。しばらく明治、大正、昭和と過去の時代を彷徨っていた頭の中身が、ソフトクリームをじっくり味わうために現代に戻ってきて、考えた。

 

 

 

 

 

 作品に記された作家の旅程を、単にそのまま辿ることには魅力を感じない。でも、折角ここまで来たならば、津軽半島の突端、あの「龍飛崎(たっぴざき)」から海を視界に収めた後に温泉へ向かいたくなった。表記や呼び方は "竜"飛崎、龍飛"岬"、たっぴみさき、とかいろいろあるが、ここでは龍飛崎を採用させてもらう。

 そもそも、地名の音にあてられた漢字の字面からしてずいぶん魅力的ではないか。目でなぞるとにわかに耳の奥で雷鳴が轟き、瞼の裏には強烈な稲光も反射する。またたくまに足下の地面の色を変える、龍が呼んだ雨の到来だった。

 龍……飛……崎。

 読んだままの印象からすると龍が空を舞う地、らしい。龍!

 そのうち動き疲れ、人目につかないところですやすやと眠っている、その龍の広い背中や長いひげを撫でるか、こっそりと上に乗るかしてみたい。どこまで飛んで行くことができるのだろう。対岸の北海道・函館か、その先か。あるいは反対側である南の方角か。想像すると愛おしくて涙が流れそうになる。寄る辺なく、しかし力強く空を飛んだり、地を駆けたり、航海に臨んだりする存在を思うと、いつもそうなる。乗り物であっても動物であってもみな、勇敢な旅人に見えて。

 金木から龍飛崎への道すがら、東半分が中泊に面した大きな湖、十三湖(十三潟)の姿が望める展望台に上った。道の駅の敷地内だった。十三湖に関しては、「津軽」の本文でも言及されている箇所がある。「浅い真珠貝に水を盛ったような……」って、良いな。

 

やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでいない。ひっそりしていて、そうして、なかなかひろい。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.195) 

 

 展望台の脇からは使用中止となっている滑り台が伸びていた。

 それから、道の駅の看板部分に黒い牛の像があしらわれていたのがとても気になった。結構大きいので道路や駐車場からでも目立つ。晴れの日も、雨の日も、あの牛は遠くの山を見据え続けているのだろう。

 私は牛さんを眺めるのも、じっくりと味わって食べるのも好きである。

 

 

 全く知らなかったのだけれど、十三湖ではシジミが取れるらしい。しかも、とても美味しいらしい。検索すると「日本有数のヤマトシジミの産地」……と出てくる。普段はまったくと言っていいほど口にする機会がない貝なのだが、気になってきた。黒っぽい貝殻の中で、宝物のように守られている、ぷるぷるのシジミの本体。

 その湖は西端が日本海に繋がっている汽水湖。繋がる河川のうち、岩木川をなぞればやがてあの白神山地に辿り着くのだと思うと感慨深いものだった。地図上に記された川の形というのは、それこそ龍が地面に横たわっているように見える瞬間がある。

 展望台に立って首を伸ばし、視線を向けた遠くの方で水面が太陽の光を反射して、それが自分の網膜にまで届くと、内容は理解できないまでも「呼びかけられている感じ」がしてくるのだった。不思議な信号みたい。招かれているのか、実は拒まれているのか……。近付いてみたい気もする、しかしながら今日は龍飛崎へと向かうことになっているので、ご挨拶だけ。

 

 

 うねうねと蛇行する国道339号線、竜泊ライン。写真下は岬へ行く途中で経由する中間地点の鳥瞰台。

 漂う空気や色彩、風の音が美しいと感じられる天候に感謝しつつ、心のどこかで大嵐や大時化の風景を目の当たりにしたい――と人に渇望させる要素が、海沿いの高台には確かにあった。悪天候時の崖上に取り残されたら本当に肝が冷えるはず、けれども(だからこそ?)奇妙な憧憬とともに、昼の夢に見る情景。それと、波間に揺れる船のように胸を震わせる、何か人間ならざる者の歌声が聞こえてくる錯覚。

 何度かまばたきをしてみると、眼前には再び、さっきと同じように晴れた日の夕方の風景が広がるだけなのだけれど。あるいは、風力発電用の風車のブレードが。

 当時、10月の末。東北地方北部は既にまあまあ肌寒くなっただろう、と思って一応コートを持ち、初秋を意識した服装で行ったのに、昼間は結構暑かった。あの日差しよ。さすがに陽が落ちれば、ある程度は空気も冷たくなったけれども。

 周辺を歩いてみると、場所柄か「密出入国 許すな!」の看板が沢山ある。海はそのまま外国まで広がり続いている。いろいろ考えながらウロウロしているうちに、身体は灯台の下へとやって来た。ここが龍飛岬、本州西側の北のはずれ。

 

 

 対岸に北海道が見える。

 もう少ししたら今度は函館に行く予定のため、それまでどうかいなくならないで、待っていてほしい、と思った。消えないで。あんなに大きな陸地が短期間で消えるわけない、と内心で呟くものの、星の光でさえ地表に届くまでに恐ろしいほど時間がかかるのだから、北海道の大きな島が知らないうちに姿をくらましていても、まったく不思議ではないと怖くなる。

 今視界に入っているものも、霧が姿を変えて見せている幻かもしれない。見えてはいても辿り着いたらなくなっているかもしれない。実際に上陸してみるまで、それが本当にそこに在るのかどうかは分からない。

 ところで、龍飛崎に来たら絶対にやりたかった行為のひとつに、「赤いボタンを押す」があった。

 果たして何のボタンなのか、といえば、それは「津軽海峡・冬景色 歌謡碑」に組み込まれているボタンである――。

 

 

 石川さゆりの歌唱で有名なこの歌、その歌詞が石板に刻まれている歌謡碑。おそらくは波を象っているのだろうが、下部の装飾はロールケーキのように見える。

 青森県内に存在する歌謡碑には2種類あり、ひとつは青森駅近くの八甲田丸前に設置してある人感センサー式のもの、そして、この龍飛崎にあるのは押ボタン式のものになる。どちらも「津軽海峡冬景色」を大音量で再生し、遠くにいても歌が聞こえるため、歌詞に描かれている情景の理解を深めたい人におすすめ。

 灯台近くの丘の上に立っていても、誰かが来るたびに風の向こうからイントロが聞こえてくる。かなり面白い。

 私は念願かなって赤いボタンを押すことができ、大いに満足した。元を辿れば太宰の「津軽」が私をここまで連れて来てくれた。

 

 この旅行のきっかけは彼の作品であったけれど、私自身の青森見聞録(2022)はまだ終わらない。

 翌日の午後に帰るまで、触れられるだけのものに触れてからまた飛行機に乗った。その内容や過程を、未来の地点からできるだけはっきりと思い出そうとする、毎度ながらそういう試みで回想や訪問証拠を記していく。

 

つづきは青森県旅行回想(2) へ

 

 

浅虫温泉での宿泊記録は以下:

 

 

 

 

揚輝荘北園に建つ《伴華楼》の再訪記録 - 設計・鈴木禎次は夏目漱石と相婿の関係にあたる|名古屋の近代建築

 

 

 

 前に来たときと同じく季節は冬。けれど、当時の名古屋は雨だった。

 確か小雨で、歩きながら傘は差していなかったような気がする。そこかしこに小さな屋根はあっても全身が湿るから、広い庭園に長居するのは憚られて、早々に南園の聴松閣内部へ避難してしまっていたのを思い出した。だから、こうして気の済むまで伴華楼の周囲をうろうろしていられたのは新鮮。1月下旬のとある日はよく晴れていた。

 伴華楼(ばんがろう/bungalow)は、揚輝荘の敷地内にある建物のひとつ。大正15年に起工し、昭和4年に完成した。

 現存しているのはこれと「聴松閣」「座敷(聴松閣横)」「白雲橋」また敷地内に最初に建造された茶室である「三賞亭」など、有形文化財に登録された5棟くらい。でも、最も栄えていた頃には驚くことに30棟を超える建物が敷地内に存在していた。多くが失われた理由は戦災や、老朽化や、開発による土地の減少。

 公式サイトには昭和14年時点の地図が載っていて、それを現在のものと比べてみると、特に新しいマンションをはじめとした建造物の有無でどれだけ様子が変化したかが分かりやすい。例えば、姫池通に面している辺りには昔、弓道場があったのだな……とか。

 

 

 変化してきた敷地。その現在「北園」と呼ばれている方に位置する伴華楼は、いわゆる迎賓館だった。

 かつて尾張徳川家(大曽根邸)から移築されてきた平屋に、洋風の遊戯室や応接室などを新築し組み合わせた、和洋折衷の様式。アール・デコを基調としていると説明にあるけれど、個性が強く独自の趣を感じさせるようになっている。石や金属ではなく木を用いた部分が多いのもその要因な気がした。

 こぶ板や節目板など、木材そのものが持つ表情をおもてに出し、無二の微妙な味わいを楽しめるようになっていて、それがどちらかといえば幾何学的な意匠の魅力を際立たせるアール・デコと出会い、他にはない「らしさ」の演出がなされている。

 ガイドを伴うツアー以外だと1階部分を外からこうして眺めるのが見学の方法となるため、首を長く長く長ーく伸ばして内側の方に目を走らせた。とても良い。ちなみに2階も外側に面している部分ならわずかに視認できるところはあって、なかでも欄間に花のステンドグラスが施されている箇所は穴が開くほどに見つめた。

 

 

 表面が平滑ではなくじわじわした加工のガラスは、大正~昭和初期の香り。こういった建物だけでなく茶箪笥や棚の扉にもときどき使われているのを見かける。

 伴華楼を設計した鈴木禎次は明治3年の生まれで、私の好きな夏目漱石とは「相婿」の関係にあたるらしい。つまり妻同士が姉妹である、ということ。漱石の妻・鏡子さん(旧姓は中根)がお姉さんで、妹の時子さんの方が、鈴木禎次の妻。

 漱石はかつて一度だけ建築家を目指そうと思ったことがある(生活に必要な職業に魅力を感じ、かつ「美術的」な建築を手掛けたいと思った)が、落第をめぐる紆余曲折の末に同級となった友人、米山保三郎に諭され、文学の道を改めて志している。建築に関心を持つ者同士で、鈴木禎次とはそれなりに馬が合ったのではないか。

 鈴木はもと静岡出身だが、名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)の建築科で教授として勤め、その後名古屋に建築事務所を構えた縁もあってか、伴華楼など揚輝荘での仕事も含めて愛知県内に多くの作品を残している。

 

 

 市松模様の煙突があり、特に外壁が山小屋を思わせる一角。

 この模様は使われ方によって和風とも洋風とも受け取れるところが面白いと感じた。単純だけれど心地よい視覚的な音楽。煙突の根本の小さな扉からきっと炭や灰などを出し入れしていたのであろう、手入れの仕事をされていた人の様子を想像でき、さらにそこでパンやピザなどは焼けないものかとも色々考える。もちろんこれは窯ではないので無理だと思うけれど。

 柱も壁も、地面に近いところだけゴツゴツした石を用いた意匠がおしゃれ。応接間の方の柱には「兎が餅をついている」レリーフが施されているらしくて、内部から細部をじっと観察できないことに歯噛みした。でも、ガイドツアーの開催時にまた来てみればいいのだと頷く、なにせ新横浜から名古屋までは、新幹線を使えば最短ひと駅なのだから。

 兎がいるところからも想像できるように、ここが月見の名所で、昼間はそれが見られないのは残念なこと……と思いつつ、伴華楼から白雲橋の脇を歩いて、三賞亭の方に移動したらなんと丸い月が「あった」。建物の中に。

 

 

 茶室の窓。

 外の方が明るいから、玄関の側から窓に目を向けるとぼんやりと発光して見える。障子紙で半分輪郭がぼやけていて。

 揚輝荘に設けられた最初の建物がこの三賞亭なのは冒頭で述べた。これはもともと、揚輝荘の持ち主である伊藤二郎左衛門祐民(松坂屋の初代社長)が住んでいた、茶屋町(現在の中区丸の内2丁目)の本宅から移築されたものだった。

 池のほとりにあり、ここで煎茶の席に招かれた客人たちが庭園を一望できるような配置になっていた。周囲を見回すと茂みの向こう側、樹々と葉の隙間に背の高いマンションなどが透けて見えるのも、むしろ面白いと思えてくる。時代を経て長くここに存在しているからこそこういう光景になるのだと。

 

 

 

 

鮨喫茶すすす - 薔薇庭園を通って神奈川近代文学館、喫茶室まで|横浜市・中区山手町

 

 

 

 

 みなとみらい線の元町・中華街駅で電車を下り、港の見える丘公園を抜けた。

 今は七十二候で「蚯蚓出(みみずいずる)」の時期。

 薔薇が見頃を迎えた5月中旬、とにかく右を見ても左を見ても、草花の鮮やかな色だらけだった。風が吹くとなんとなく土の匂いも漂ってくるから適当に歩いているだけでも楽しい。それにだんだん夏が本格的に迫ってくれば、こんなに過ごしやすい日にはもう遭遇できないかもしれない、と思うと尚更……。

 ローズガーデン中央にある円形の噴水が今日も綺麗だった。水面が、太陽の光を受けて輝いている。

 

 

 そこから霧笛橋を渡った先にある県立神奈川近代文学館には、特にお目当ての特別展が開催されていない時期にも、たまに足を運ぶ。

 単純に横浜市内在住だから存在が身近というのもあるけれど、何よりここの常設展示室には夏目漱石が暮らした「漱石山房」の書斎を再現した空間があって、いつ来てもそれを鑑賞できる……のが一番の訪問理由かもしれない。ガラスケースの中の火鉢や文箱、文机を眺めてからそっと瞼を閉じると、自分も過去、あの木曜会の一員として歓談に参加していたような気分になれる。

 展示物の撮影は禁止なので、記録は心のアルバムに。

 

 そんな神奈川近代文学館の喫茶室として、2023年4月20日から、新しいお店がオープンしたと聞いた。

 

 

 お知らせを読むと店名は「鮨喫茶すすす」というらしい。

 鮨(すし)喫茶……つまり、文学館内で「おすし」が食べられる、ということ……!?

 かなり気になったので行ってみた。営業開始は9時半だけれどお鮨の提供は11時からとのことだったので、10時過ぎに入館したあとゆっくりのんびり展示(常設展&特別展「生誕120年 没後60年 小津安二郎展」)を鑑賞し、時間になる頃、そーっと喫茶室の扉を開けてみる。

 明るい店内。最初は緊張したので自分以外の人間を連れて行ったけれど、ひとりの客でも全然気軽に入りやすい。空いている好きな席へどうぞ~とのご案内が。

 さっそくメニューの紙に視線を落とすと、まずは「文学作品から着想を得たお鮨」が2品、視界に入った。ここは家から遠くないし、また何度か足を運んで順番に色々食べてみる予定だったので、とりあえず私は一番上にあった「岡本かの子の手毬鮨」をば。

 

 

 これが岡本太郎の母、岡本かの子が著した短編小説「鮨」イメージの手毬鮨。

 

【岡本かの子の手毬鮨(春)】

 

まぐろ(赤身)

小肌 桜ます あなご

本日の白身魚

本日の酢締め魚

卵焼き おしんこ

 

 

 そうして、もう一人は下の「ささめ雪のちらし鮨」を注文することに。

 旧家に生まれた4人姉妹が登場する、谷崎潤一郎の小説「細雪」イメージのちらし鮨。

 

 

【ささめ雪のちらし鮨(春)】

 

まぐろ(中トロ、赤身)

小肌 あなご いくら

金目鯛の炙り

ほっけの酢締め

卵焼き きゅうり

 

 

 いずれもお醤油は、小さな刷毛を使い自分で塗るタイプ。

 お鮨を構成する魚などその細かい内容は季節によって変わるらしい。

 シャリがほんのり色づいている要因は、赤酢。赤シャリと呼ばれるみたいで、調べると江戸前寿司でよく使われているのだそうだ。

 

 テイクアウトも可能だが、店内で食べる場合は温かい汁物がついてくる。汁に入っている貝はしじみ……だろうか。強い磯と海の香りが存在を主張する。また、お鮨と飲み物を一緒に注文すると合計が少しお得になるようだったので、悩んだ末に柚子煎茶(アイス)を合わせた。かなり軽やかで爽やか寄りの風味、苦さや渋さはあまりなし。

 各種お茶の提供元は静岡の「カネ十農園」さんとある。

 個人的に嬉しかったのは、これまで苦手意識のあった魚「あなご」をかなり美味しく食べられたこと。身の食感はふわふわしていて、想像していたような泥っぽい匂いもなく、安心して味わえたのがとても良かった。いずれ別の場所でもあなご、また食べてみようかな……という気持ちになれた。

 

 ◇     ◇     ◇

 

 そんな初来店の後にしばらくして、日ノ出町の中央図書館に寄る用事のついで、ちょっと散歩がてらお昼ご飯を食べて帰ろうと思い2度目の入店。

 お鮨の提供に関しては変わらず11時からだったけれど、ラストオーダーの時間が14時、と少し早まっていた。なんとなく観察していた様子だと、いずれのお鮨も品切れになるのが早そうだったので、お目当てのメニューがある人は留意されたし。公式Instagramに各種情報が掲載されている。

 さて、好奇心のまま、最もお値段の張る「本マグロの箱鮨」を選択。

 ふたを開けたらあらまあ、美味しそうなまぐろが並んで……。すみっこにワサビがちょんと付けられている。

 

 

【本鮪の箱鮨(限定5食)】

 

まぐろ(大トロ、中トロ、赤身)

おしんこ

 

 これに付いてくる汁物は貝ではなく、あおさ(海苔?)の入った赤出汁。

 手毬鮨、ちらし鮨と来て、このまぐろ鮨が一番美味しかった。おすすめ。

 あわせて注文したオリジナルブレンドティー(アイス)はこだわりを感じる風味で個人的にとても好き。かなりスモーキー、まるで焚き火の煙や燻製を思わせるような重厚感を持つお茶で、けれど喉ごしと後味は意外なほどすっきりしている。

 ホットで飲むとまた印象が異なりそう。

 

 

 ごちそうさまでした。

 

 ◇     ◇     ◇

 

 文学館内で「おすし」の喫茶点をやる、というのはなんだか新しい感じの試みだと思うので、今後の発展を興味深く見守ってみたい。

 お鮨のメニュー以外だと基本の営業時間は9時半から17時、もちろん飲み物のみでの利用も可能。ガラス張りの壁から外が見えるので開放的な空間で休憩できる。

 またいつか足を運んだ際には、苺大福などの甘味や別の種類のお茶を試してみる予定。

 

 

 

 

お題「一度は食べていただきたい◯◯」

永世の繭の眠り・シルク博物館・純喫茶「田園」

 

 

 

 

 昼前から長く、激しく降り続いていた雨脚の勢いが弱まり、窓を境界とした外側は幾分か落ち着きを取り戻しているようだった。

 遠くの方から、蛙の鳴き声がケロコロと軽快に響いてきている。

 耳障りな感じの全くない、どこか可愛らしいと形容しても許されるような音で、果たして昔からこの辺りに生息している蛙であるのだろうか? と首を傾げた。今までにあまり聞いたことがないような気がする。過去に覚えがあってもよさそうなものだが、なんだか新鮮だった。

 一度鳴くと、二回か三回、同じくらいの長さで音を出すのを繰り返す。どういうわけかこちらが部屋の中で身構えていると鳴いてはくれず、何か別のことをしたり考えたりして、脳裏のその存在が薄れ始めた頃にまたケロコロと聞こえる。

 

 

 振り返れば一昨日、5月6日は2023年の立夏。ふと浮かんだのは「木の芽流し」という言葉だった。萌芽の頃、樹木から顔を出す鮮やかな緑のとんがりを、まるで洗うように降る長雨を指してそう称する場合がある。

 新芽が出ればまた、それを好んで喰む生物も競うように生まれるもの。

 あともう半月もすれば徐々に毛虫さんたちが緑の葉を食べ始める時期になるため、樹々のそばを通行する際は、できるだけ頭上に気を付けて歩行しないといけない。毛虫さんも芋虫さんも本当においしそうに葉っぱを食むもので、想像するほど少しだけ彼らと同じになって、あの柔らかな緑を歯を使って噛んでみたくなる。

 雨で洗われた天然のサラダの味はいかほどだろうか。ドレッシング要らず、摘みたてをどうぞ。

 

 

 先日は地元横浜のシルク博物館で、昔、株式会社伊勢丹が作ったらしい30分くらいの古い映像を見ていた。

 桑の葉を熱心に喰む蚕の幼虫のひたむきさ。

 彼らは一心不乱に食べ、みるみるうちにその体へ消えていく緑の布団(兼、ご飯)は、また人間の飼育者の手で折を見て重ねられる。蚕は独特の周期で成長していく……長い時間食べ続けたら深い眠り(「眠」で「みん」と称する)に落ち、脱皮をし、また何日も食べ続け……といったように。

 もっとも長い眠りは、白い繭の中で。

 蚕が首を8の字に振ることで形成される繭は、その糸の絡み方も、メビウスの輪のごとく8の図を描いているのだった。まさに永世の眠りの象徴にふさわしく。彼らのほとんどはそのあと意識を取り戻すことなく、人間の手で命を奪われ、繭だけが残る。

 絹糸が持つ光沢の、真珠に似た独特の生々しさはその製法も相まって、どこまでも生物の死の香りがする。蚕は「一匹」ではなく、「一頭、二頭……」と数えられる家畜。

 博物館に展示されていた着物は美しいものだった。生糸から生成したそのシルク糸がちらちらと不思議に輝くのは、糸の断面が円や楕円ではなくて、三角に近い形状になっているからなのである。

 

 

 このシルク博物館が入っている建物、シルクセンターのビル地下1階には知る人ぞ知る喫茶店「田園」があった。

 観光で来る人よりも、普段から近辺で勤務している人の方がきっと存在をよく知っていて、身近だろう。私も頻繁に足を運ぶわけではないので、教えてもらえなければずっと分からなかったと思う。奥まった入口から入り、廊下を抜けて、さらに一番奥へ進むと食券販売機がある。食券で好きなものを選んだら買って、カウンターに出して席で待つ。できたら取りに行く。

 アイスティーは300円でとても手頃。

 

 

 落ち着いたうす緑色のソファと、深緑色のテーブルが、店名の通り「田園」のある風景と共に桑の葉が茂る様子を思い起こさせた。

 蚕は桑を喰む。七十二候のうち、夏の項目の中にも「蚕起食桑 (かいこおきてくわをはむ)」がある。5月の21日頃から数日間がそう言われるようになるので、時期はもう近い。

 目覚めたと思ったら、あっという間に永劫の眠りに落ちる、蚕の一生と私達の一生にはそこまで大きな差異があるだろうか。気が遠くなるほど長く紡がれてきた万象の歴史、すべてを俯瞰する観点からすれば、瞬く間に生まれては消えてしまうという点でどちらも変わらないものである。

 

 

 そういえば、祖母の家でも大昔に屋根裏を使って蚕を育てていたそうだ。

 大切な存在なのでおかいこさんと呼ぶ。当時のことを尋ねると、蚕はかわいいでしょう、と言う。確かにじっと眺めてみるとかわいらしい。顔も仕草も、苦しくなるほどに。卵を割る小さな黒い蟻蚕(ぎさん)の身体が白く変化して、何度も脱皮しながら食事と眠りを繰り返し、いつしかぷっつりと外界との繋がりを断ってしまう。

 細かく波打っている繭の表面。何よりも、強固な壁として機能する。

 絹糸を採集するために殺されなかったわずかな個体は、ふたたびそこから成虫として生まれ出るが、彼らの姿は着飾って舞踏会へ赴く人々の装いにそっくりだ。北海道旭川で、かつてクスサンという蛾の大量発生に遭遇したときもまったく同じことを思った。

 ふわふわの素材で作られた、豪華な服を身に纏っている。

 厚手のマントを羽織り、頭には飾りをつけて。

 つがいを探しに出掛けていく。

 

 

 

 

【宿泊記録】はやし別館 - 滲み出る古さ・渋さ・緩さの中に「地味な良さ」を感じる老舗旅館|四国・徳島県ひとり旅(3)

 

 

 

前回の記事:

 

 

 さて。

 この徳島駅周辺で、一体どこに泊まればよいのだろうか……。

 

 上の場合の「よい」というのは、ある程度手頃なお値段で、なんとなくその土地の特徴を感じられ、なおかつ内装のどこかが自分の琴線に触れる要素を持っていること、を指す。

 ……贅沢すぎる。もちろん簡単に見つかるわけもなくて、市内の宿泊施設で候補になりそうなものを適当に挙げていき、公式サイトや予約サイトで価格を比較したり、写真を眺めたりしていた。ついでに過去の利用客のレビューなども参考にしながら。

 すると「創業80周年☆お客様感謝格安プラン」の文字に視線が引き寄せられたのだった。

 都市部の駅付近で80周年というのはなかなか古そうで、私は古い旅館が好きだからこれは気になる。さらにその「格安プラン」の詳細を見ると素泊まりで3,900円、とのことだから、結構当たりかもしれないなと思いつつ宿の写真を確認してみた。それですぐに決めた。一瞬だった。

 なぜなら、ロビーがこんな感じの設えだったから……。

 

 

 とても……良い。照明器具も、ソファの色も布地も。

 客室に関してはいずれも普通の和室で、ひとり部屋でも8畳程度の面積があって広そう。もとより扉にきちんと鍵がかかりさえすれば(かなり重要、私はどうしても施錠可能な場所以外では眠れない)多少のことは気にならない性質なので、詳細を再確認し、予約をしてみたのだった。メインの客層はビジネス、観光、お遍路などであるらしい。レビューを見ると何組か家族連れもいる。

 JR徳島駅から、徒歩約6分の距離。散歩しているとあっという間。

 通りの先、迫る夕闇の前に光る看板が見えてくると安心した。かなり久しぶりに訪れる、しかもきちんと散策するのは初めての街だから、なおさら。

 それにしても「別館」のみがこうして在って「本館」の方は見当たらないということは、もう営業されていないのか、そもそもすでに建物自体存在していないのかもしれない。創業80周年というのはおそらく、本館の時代から数えて、ということなのだろうし。

 

 

 チェックイン予定時刻の17時になった。どきどき、どきどき。

 まずは記帳を行って基本的な説明を受ける。今日は大浴場が使用できる日らしく、しかし男女で入れ替え制ということなので、時間帯については後で入りたい時フロントに電話すれば確認できるとのことだった。来てみるまでは大浴場の状況がよく分からず、多分部屋のお風呂に入ることになるだろうと思っていたので、これは幸運。嬉しかった。

 建物好きの心をさらにくすぐられたのは、エレベーター前でのこと。古い旅館で、過去に増築と改築を繰り返してきているのだと教えられ、その時点で口角が上がりに上がってしまったのはもう逃れられない性質。

 さらに渡された鍵の番号が3から始まるのにもかかわらず、エレベーターでは「4階」を押さねばならないという。理由を尋ねると、増改築の関係でエレベーターの最下の着地点が地面より低い位置にあるために、実は「フロア番号と実際の階が1つずつズレている」のだそう。

 それ……いいですねえ! 面白いですねえ!

 何かの舞台にできそうだなあ、ほら、例えば推理小説とか、こういうの色々ありますよね、ね、と大声の早口で返しそうになるのを必死で抑えている間に、ウィーンと静かにエレベーターの扉は閉じられた。

 

 

 そんな「3階だけれど4階」のフロアで降りると、まるっとしたフォルムのソファに出迎えられる。赤い。ボルドーやバーガンディよりも明るい臙脂の色、ビロードみたいな手触りを思わせる布の素材。

 カーペットも赤みを帯びた色彩で、ロビーといい客室の廊下といい、全体的にこのカラーがポイントになっているのだと思った。なんとなくハトヤホテルの「あの感じ」も回想する。何とも言えないノスタルジックな感じ、奇妙に懐古的なレトロ風味を演出できる、独特の落ち着いた赤には惹かれるものがある。

 それは、まるっきり自分が知らない時代のはずなのに、なぜか知っている気にさせられるおかしな懐かしさ。幼少期の記憶と結びついているもの。昔から色々な旅館に連れて行かれた影響で、あたかも自分がそこで実際に過ごし育ったかのような錯覚が、きっと頭の中にあるのだ。

 廊下を照らす天井部分の照明器具は、形が氷砂糖のようだった。

 透明な四角いガラスの覆いがフロスト加工されて、柔らかな光を放つ。3つある塊のうち、ひとつが切られているのは節電のためなのか、それとも単純に古くて点かないのか。実情は不明。それでも周囲は十分に明るい。

 

 

 

 

 そうしてお世話になる客室に着いた。きちんとお布団が敷かれている。

 枕の脇に置いてあるのはバスタオル、フェイスタオル、それから浴衣など。アメニティ類は部屋のお風呂場(お手洗いと一緒のユニットバス)にて発見した。写真の角度のせいで写ってはいないが、床の間の反対に位置する壁には障子つきの窓があって、外の光が入ってくる。

 部屋の広さには余裕があるし、広縁(仮)の空間もあるし、きちんと机にお茶セットもついてくる。とりあえず大浴場を使ったり、いちど眠って起きたりしてみないと全体の感想は述べられないけれど、この時点で3,900円というのを思えばかなりお得なのではないだろうか。

 私はビジネスホテルも他の種類のホテルも異なる方面から大好きなのだが、客室の中でスリッパを履かなければならない仕様だけは実のところ嫌いで、こうして靴下か裸足でウロウロできる畳かフローリングの部屋にいると、想像している以上に安らげるのだと分かった。自分のことなのに最近知った。

 

 

 広縁(のような空間)を見てみよう。こちらの側には大きな窓もなく、本当に寝間と障子で区切られただけの謎のスペースとなっているのだが、何がなんでもこの手の空間だけはきちんと確保する……という気概にも似た何かを感じられるような。

 置いてある椅子も冷蔵庫も深みのある臙脂色。やはりこの色で全体的に統一されているらしい。しかし冷蔵庫の右横に突っ込んである座布団は……何!?

 明らかに使われていない、いらない座布団。それに加えて、広縁はその天井の端っこに穴が開いていたり、さらに押し入れの奥の奥の方によく分からない段ボールが鎮座していたりと、色々ユルめ。建物自体かなり古いからメンテナンスも大変そう。こういった際限なく滲み出てくる「味」に良さを感じられる人なら、はやし別館はおすすめである。

 湯沸かしポットやお茶セットはとても綺麗だったし、お布団も真っ白でシーツはパリパリ。フロントなど従業員の方の対応も丁寧だったので、渋いのが好きで古くても気にならない宿泊客にはかなり向いていると思うなど。私はだいぶ楽しんだ。全然また泊まってもいい。

 ……旅館の部屋で、お茶を用意してゴロゴロしている時間が……本当に素晴らしく……。この瞬間においてのみ、世界で最も美味しいお茶かもしれない。

 

 

 いちばん嬉しかったのは床の間の花瓶ではないだろうか。

 造花が置いてあるのではなくて、生の花が活けてある。客室ごとにひとつひとつ、宿の方が用意してくれたものだと思うと心が温まった。ふんわりしたツツジの花びらのほか、まだ開いていない青紫の蕾も可愛らしい印象だった。

 チェックイン後は宿に門限はなく、外で遅くまで食事して帰ってくることもできるのと、あとは玄関外のすぐ横に自動販売機があったのでジュースが飲みたくなったら買える。

 そんな「はやし別館」を徳島市訪問時の拠点にしてみるのはどうか。

 

 

 

徳島旅行記(4)へつづく……

 

 

 

 

はてなブログ お題「初めて一人旅をします。一人旅でよかった場所、一人旅初心者におすすめの旅行先を教えてください。」

山裾に広がる街で喫茶店を巡ってみる - JR徳島駅から半径1km圏内|四国・徳島県ひとり旅(2)

 

 

 

前回の記事:

 

 

 最近、自分だけでも喫茶店の空間や、そこで過ごす時間を楽しめるようになってきた。とても良いことである。

 基本的に国内外どこへでもひとりで行けてしまうのに、外食だけはどうしても難しいように感じられて、今までは避けてきていたのだけれど……でも、その原因を根本から分解してみたら、結構単純な要素に引っかかっていたらしい。

 ひとつは、これまでは行きたい場所がどこもまあまあ混んでいたために、気軽に入りにくかったこと。なんとなく入口から見て、店員さんがちょっと忙しそうにしていると罪悪感で声を掛けづらい。

 それから、どちらかというとお店に支払う金銭は飲食物以上に「誰かと会話するための場所代」という認識もあった。だからひとりだけで行ってもな、理由がないし、と思考する回路ができていたみたいで、そのあたりを見直してみたらびっくりするほど抵抗がなくなった。

 もともと自分で黙々と作るご飯ではなくて、出された料理を喜んで食べる方が好きな性質だったから、尚更。

 

 しかし外食も全然ひとりで良いとなると、本格的に他人を必要としなくなってきている……と笑いつつ、その分たまに顔を合わせる人たちとの時間がより大切に感じられるようにもなったので、これもまた面白い。

 行きたい場所を見つけた際に、無理に人を誘う必要もなくなった。会いたい時には会えばいいのだ。

 外食を口実にするのではなく。

 

 なにより、誰のことも気にしない気儘な喫茶店巡りは本当に楽しい。

 特に長く続いている、それなりに古いお店は。まず場所というものがあって、周辺に人間がいて、それぞれの辿ってきた歴史が背景に流れている。実際に行ってみて、他に気を取られずじっくり味わってみないと、触れられないものが確かに存在している……。

 今回の徳島駅近くで巡った5つの喫茶店も、いずれも素敵なところだった。

 すべてひとりで利用したお店なので、もしも同じく徳島ソロ旅を志向している人が読者の中にいたら、参考にしてみてね(掲載情報は2023年4月現在のものです。正確性の保証はできません)。

 

目次:

 

徳島駅周辺の喫茶店5選

  • 純喫茶ブラジリア

 

 

【純喫茶ブラジリア】

・アクセス JR徳島駅から徒歩約5分

・住所 徳島県徳島市寺島本町西2丁目32−1

・営業時間 9時〜17時頃(不定)

・休業日 土曜・日曜・祝日など(不定)

 

  • 森珈琲店

 

 

【森珈琲店】

・アクセス JR徳島駅から徒歩約1分

・住所 徳島県徳島市寺島本町西1丁目57 徳島駅前ターミナルビル1F

・営業時間 8時〜18時

・休業日 水曜

 

  • いかりや珈琲店

 

 

【いかりや珈琲店】

・アクセス JR徳島駅から徒歩約7分

・住所 徳島県徳島市通町1丁目1−12

・営業時間 8時〜18時半(土曜日は9時~17時)

・休業日 日曜

 

  • 喫茶びざん

 

 

【喫茶びざん】

・アクセス JR徳島駅から徒歩約11分

・住所  徳島県徳島市両国橋7

・営業時間 7時〜19時

・休業日 日曜

 

  • ギャラリー喫茶グレイス

 

 

【ギャラリー喫茶グレイス】

・アクセス JR徳島駅から徒歩約12分

・住所   徳島県徳島市銀座19−2

・営業時間 10時半〜17時

・休業日 土曜

 

 

 

徳島旅行記(3)へつづく……↓

 

 

 

 

はてなブログ 今週のお題「何して遊ぶ?」

ギャラリー喫茶「グレイス」の出来たてで美味しいピザトースト|徳島県・徳島市

 

 

 

 JR徳島駅から徒歩約12分。

 駅出口から南に進んで新町川を越えた先、「銀座商店街」周辺にあるギャラリーの、2階部分に趣ある喫茶店が存在しているのだった。ちなみに前回紹介した「喫茶びざん」からも近い距離にあり、いずれも両国橋を渡ってすぐの場所。このあたりは居酒屋、寿司屋、ラーメン屋と、夕方以降に賑わいそうな多種多様な飲食店がひしめいている。

 商店街のアーケードから逸れて少し歩くと、お目当ての建物があった。正面右側に細い階段が伸びていて、そこを上がると喫茶店の入り口。足を掛ける前に庇の上を仰ぐと大きなガラス張りの窓が見える。

 聞くところによれば、2階の喫茶店ができたのは1階のギャラリーよりも前の時代であったようで、昭和53年頃だとか。そうすると令和5年現在でもう創業から45年が経過していることになる……。わくわく。

 

 

 赤い布張りのソファに、背もたれ部分に彫刻が施された椅子が気になった。綺麗。欲しい。

 アンティークかヴィンテージか、私の眼では分からないけれど(そもそもこういった分類基準は国などによって異なる)この球体が連なったようなデザインは一般にボビン・ターニングと呼ばれるもので、そこだけ見るとジャコビアン様式初期の家具を連想させられた。もしくは後世に生産された、その雰囲気を模して作られた椅子かもしれない。

 店内は花と、おそらくは下の階でも開催されているであろう展示の、作家が手掛けた水彩画で飾られていた。遠くの窓際の方に鍵盤楽器も置いてある。

 静かで、私以外にお客さんはいなかった。朝10時半が開店時間だったので同40分くらいに伺ったところ、そこで照明とBGMをオンにしていただけたので、その日最初の利用客だった可能性が高い。お邪魔します。そして、何にしよう。

 

 

 なんだか気温が上がってきたので、ひとまずアイスコーヒーにしてみた。小さなお菓子つきで、さらに例の金属のカップで出してもらえるのが嬉しく、やっぱり器がこれだとどういうわけか美味しく感じるのだった。不思議なことに。

 後はお腹が空いたので、迷った末にセットのピザトーストを選択。これから高速バスで淡路島を横断し、新神戸経由で横浜まで帰るので、良い感じに何か朝食を食べておきたい。蜜を吸う蝶々よろしくほんのちょっとずつストローでアイスコーヒーを飲みながら、待っていた。今まさに作ってくれている音が台所の方からする。

 具材を炒める音と香ばしい香り。

 ついに登場したできたてのピザトーストはアツアツで、手で持てないくらいに強い熱を放っていた。だからお皿にフォークを添えてくれているのだと思う。端からかじってみると、かなりしっかりと焦げ目がついた食パンにはサクサクとした歯ごたえがあり、好みの焼き加減だったので喜ぶ。

 

 

 このピザトーストの一番の良さは、それぞれの具材の味が生きていたことだった。

 ときどき、使われているピザソースが強すぎて全ての味を呑み込んでしまい、ピザトーストというよりも「ピザソース味のパン」になってしまっているものに出会う。特に、自分の家で作ろうと思うと結構な割合でそうなる。

 でも「グレイス」のピザソースでは玉ねぎも、ピーマンも、ベーコンもトマトも丁度良く主張していて美味しかった。そこにペロッとかかっているチーズがさらに秀逸で、喧嘩せず調和している。いくらでも胃に収められそう。

 高速バスの出発時間に合わせるため、少し長く滞在していたら、ほうじ茶のようなものを食後に出していただけたのもありがたかった。そんなサービスをしていただいても良かったのだろうか。感謝感謝。

 

 ピザトーストを食べにまた行きたいなぁ。

 

 

 

 

創業昭和63年、JR徳島駅前の森珈琲店 - 2段のクリームソーダとモーニングセット|徳島県・徳島市

 

 

 

 駅前に、朝の比較的早い時間(8時台)から営業している喫茶店があるか、ないか。

 この意外と重要な問いに「ある」と返してくれる徳島駅はとても良いところだ。ただし、今回足を運んだ「森珈琲店」は2023年時点で水曜が定休日となっていたので、もしも該当の曜日にあたってしまった場合は他を探すか、チェーン店のお世話になろう。

 バスロータリーの西側。JR徳島駅前ターミナルビルの1階。少し奥まった位置にある入口の扉を開けて入店すると、細長い店内が視界に飛び込んでくる。机が並び、座席が一直線になっていて、椅子の反対側は隙間なく横並びになったソファなのが面白く興味を惹かれた。まるで、路面電車の座席みたいだ。このままどこへ運ばれていくのか。

 ひとりでソファ側に腰掛けると目に入る、椅子のシックな、灰色に近い緑の背もたれ。木の壁と机から受ける印象は暖かい。

 

 

 メニューの表側には「モーニングセット:全ての飲み物+200円」とあった。

 この全ての飲み物というのにクリームソーダ(つまりはフロート系)が含まれているかどうかをおずおずと訪ねてみると、なんたる幸運、含まれているということで、嬉々としてモーニングを注文した。しばらくするとお望みの品がやって来る。

 良い意味で驚かされたのは、メニューに載っていたクリームソーダのイラストと、実際に現れたものとの大きな違い。イラストの感じはごく一般的なクリームソーダであったのにもかかわらず、届いたものに目を向けると、優美な細身のグラスに「2色」の液体が注がれているではないか……!

 透明な胴体を透かして、水晶のような氷が見える。

 その下側を緑のシロップが、そして、上側を無色のソーダ水が占めていた。

 

 

 配膳の際に「よくかき混ぜてくださいね」と言われる。とてもにこやかで親切なお店の方、過去のウェブ記事などを読むに、多分この方が森さんなのだろうか。

 もう飲む前からクリームソーダの良さが分かってしまう。早い段階でふたつの層をなくし、均一に広がったシロップの甘さを楽しむも良し、あるいは頂上に乗せられているアイスクリームを溶かしながらプレーンなソーダの味から楽しむも良し。決まりはない。赤いさくらんぼが、まるで何かのサインのようにきらめいている。

 炭酸の泡はわりと細かく、強さも標準的な感じだった。

 朝の一発目、炭酸を飲んでキメるぜと意気込んだなら、絶対にこれのモーニングセットを選ぶことを個人的におすすめしておく。わくわくするようなクリームソーダで大喜びしているところ、今度はさらにまた食べられるものが来るのだ。

 

 

 3種ほどあったセットの中から「ホットサンド(ハム)」を選択した。

 ハムと野菜と、あとはチーズ的なものが挟まり、しっかりと熱で綴じられたホットサンドにジューシーなオレンジの欠片。重たすぎない朝食として適した優秀な存在たち。これに小さなサラダまでついてきたのだから、私は終始内心で微笑みながら黙々とすべてを平らげたのだった。

 駅前にこのような喫茶店があるのは素敵なこと。

 お会計をしようと思って伝票に意識を向けると、裏面に「毎度ありがとうございます」と書いてあった。印刷ではない、手書きのひとことが。

 

 

 

 

はてなブログ お題「今のマイ朝食ブーム」

喫茶びざん - 前身は昭和2年創業の西洋料理店、同12年に改称して受け継がれてきた老舗|徳島県・徳島市

 

 

 

 4月19日。午後には雨が降ったり、止んだり。

 自宅でその日の予報「降水確率40%」を矯めつ眇めつして悩み、結局折り畳み傘を持ってきて正解だったと安堵した。地味に荷物になってしまうので、旅行の際は持って出るかやめようか、最後の最後まで決めかねるのが常だから。雨の影響で気温も下がっていたため、上着も羽織っていて良かったと思う。

 ところで、両国橋……と聞いて何を脳裏に浮かべるかは、その人が日本のどの地域に住んでいるかによってかなり異なるのではないだろうか?

 有名なのは東京都・墨田区で隅田川にかかる、袂の不思議な球体飾りが特徴的な両国橋だが、ここ徳島市にも同じ名前の橋がある。欄干に立っているのは女性と男性の銅像、いずれも阿波踊りの衣装に身を包んでいるものだった。無論、そのポーズも阿波踊り。周辺は祭の時期に非常に賑わうのだという。

 喫茶店「びざん」は橋の南に伸びる通り、歩道に屋根がある商店街の一角で営業していた。

 

 

 ガラスのドアについている丸い取手をぐっと押して入ると、いらっしゃーい、と言ってもらえた。

 広い店内には、おそらくは店主のおじいさんと話す、常連らしいお客さんが1人だけ。その人もしばらくしてからいなくなり、ついに私だけになった。後から来る人もおらずかなり空いている。個人的に、首都圏の飲食店に入ろうとすると平日の中途半端な時間でも混んでいる場所が度々あるのに辟易してきたため、これくらいゆったりした時間が流れているのはだいぶありがたかった。

 勿論お店は繁盛していてほしいけれど、気軽に入りにくいほど人が溢れていたり、行列ができていたりすると、次には足を運びにくくなってしまうと感じる。これは本当に客側の勝手なのだが、体感としてどうしてもそう思うのだった。

 喫茶店「びざん」を訪れたのは、ここが徳島市内でも老舗中の老舗、として紹介されていたため。そして、その時自分がうろついていた範囲のちょうどすぐ近くにあったから。

 

 

 奥の席について、コーヒーを注文してみる。

 やがて出てきたのは丸みを帯びた逆三角形の、ちょこんとした小さめの可愛らしいカップだった。コーヒーにはかすかな酸味がある。ネルドリップで一杯ごとに淹れられる方式が昔から変わらないようで、この空間でそれを賞味することで尚更、脈々と受け継がれてきたものの一端を感じさせられる。情報によると現在のマスターはおそらく3代目なのだろう。

 

 

 びざんは昭和2年、西洋料理店の「アメリカ食堂」として開業したのがその起こりであった。

 後に第二次世界大戦を迎え、日米関係の悪化から改称を余儀なくされた結果、"Cafe Bizan" となる。初代店主は豊茂正二さんといったらしく、アメリカ帰りで通訳の仕事もされていたユニークなおじさまだと、上のページに書いてある。

 

 

 お腹が空いたので、今度は卵サンドを食べてみた。

 できたてでアッツアツ。白く柔らかな食パンに挟まれた黄色い卵はスクランブルエッグのような食感で、ふわふわしていた。卵焼きのように固いわけではなくてなめらか。ひとつ気になったのが、おそらくはパンの表面に、わさびのような風味の「何か」が塗られていたこと……!

 これがなんともいえず和風卵サンドの趣を醸し出していて、食べている途中でさらに食欲をそそられて面白かった。癖になる味。

 客が私しかいなかったからなのもあると思うけれど、お冷が無くなった瞬間におばあちゃんが来て新しいお水を注いでくれるなど、よくしてもらえた。店主のおじいさんも丁寧だった。また、何かいただきに足を運びたい徳島の喫茶店のひとつ。

 

 

 

 

創業昭和30年、いかりや珈琲店 - 山盛りアイスクリームのコーヒーゼリー|徳島県・徳島市

 

 

 

 創業が昭和30(1955)年になる「いかりや珈琲店」。徳島駅から徒歩約7分のところに存在する。

 豆などを扱っている老舗コーヒーショップの、商品販売エリアの奥に喫茶室があった。カウンター席がいくつかあるのと、実は外観よりも奥まっていて結構広い店内に、テーブルも複数。ひとりかふたりで行くのが入りやすそうな規模、という印象を受ける。

 落ち着いたテールベルトのタイルが敷かれた床。席の片側、ガラス張りになっている壁の向こうには、謎の中庭みたいな空間がある。

 平日の午後は空いていた。

 少し前にお昼を食べたので、うーんどうしよう……と迷い、ホットコーヒー(ブレンド)とコーヒーゼリーを注文してみることに。温かいものと冷たいもの、特に後者は看板に書かれていた名物らしいので、かなり楽しみにしながら。机を挟んで見える赤い革張りの椅子に視線を向けたり、本を読んだりしながら待っていると、来た。

 

 

 おっと…………!?

 届いた瞬間に「デッッッカ」と口にしてしまいそうだったのを、すんでのところで堪えた。写真では分かりにくいかもしれないのだが、グラスのサイズ、かなり大きめ。それはコーヒーゼリー部分の体積にとどまらず、その上に重ねられた山盛りのアイスクリームの層からも伺えた。どっしりと重みがある。

 厚手の白い花びらのような欠片が、一枚一枚丁寧に重ねられて、丸い山を作っていた。

 それにしても美味しそう。ひるんでいても仕方がないので、食べ出すことにする。口の中や舌が冷え切ってしまったらコーヒーで温めながら。アイスはバニラというよりも牛乳寄りの風味でほのかに甘く、コーヒーゼリーの方は苦みがまろやかでありつつ、決して甘くはない。そのためにシロップがついてくる。

 個人的にシロップはそこまで必要ではないような気がしたが、いよいよグラスの底が見え、ゼリーの終盤に差し掛かる頃には確かに「味変」をしたくなる。なので少しだけ垂らす。メープル風味がわずかに加わって、とても満足した。

 

 

「昼食後にデザートを楽しもう♬」

 くらいの気分で注文したコーヒーゼリー、結果的にはその「大きさ」と「山盛りアイスクリーム」に圧倒されることになった。でも、美味しかったなあ。確か税抜600円くらいだったと思うけれど、サイズを考えると、とてもお得な存在なのではないか。昼食から夕食のあいだに時間があいている日などはちょうど良さそう。

 食べ終わってから店内を見てみると、背後の一角に可愛らしいタイルの一角が。昭和年間に創業しているのでやはりレトロな感じのする部分が今でも残っているようだった。

 親子3代にわたって受け継がれてきたお店、また徳島に赴く機会があったら立ち寄ってみたい。

 

 

 

 

はてなブログ 今週のお題「盛り」

伝説の純喫茶ブラジリアへ|徳島県・徳島市

 

 

 

 とある喫茶店がそこに存在するのだと、旅人たちが口にする。

 不思議な魔力の満ちた空間なのだという。

 その、うわさ話にだけ聞いていた「純喫茶ブラジリア」にとても行ってみたくなって、有明港を出発する前に色々と調べてみた。他の純喫茶の例に漏れず、このお店も検索でヒットする営業時間や定休日が、現在の実際を反映したものだとは限らない。都合によって閉まっている日や通常より早く閉める日、あるいは遅く開ける日などもあるだろう。

 そもそも、まだ営業をされているのかどうか……。いつのまにか廃業していたというのも悲しいけれどよくある話。

 加えて今回の一人旅では徳島駅到着後、時間の関係でわりとすぐ穴吹方面へ向かう列車に乗り込むつもりだった。だから、賭けのような訪問。その時やっていたら入れる、やっていなかったら、潔く諦める。

 

 

 フェリーは13時半に沖洲港に着いた。路線バスに乗って、下車した徳島駅から徒歩約5分。

 入口の前に差し掛かると、出されていた看板の上にある、黄色いランプが点灯していた。導きのようにくるくる回る光……ドアの前で耳を澄ますと音楽か人の話し声か、何らかの音が聞こえてくる。これはもしかしたら営業しているかもしれないと一気に期待が湧き上がってくる。

 果たして、ドアは施錠されてはいなかった。

 チリンチリン、と大きな風鈴の音が響く。店内は心地よい程度の薄暗さで、外の明るさから目が慣れるまでに数秒の時間を要した。手前のテーブルに碁盤を挟んだ2人客。カウンターで(おそらくは)店主ママさんと話している人が1人。後者はやがて支払いを済ませて、もうひとつのドアから退店した。

 店主さんに会釈して、空いているところに着席。

 

 

 店内を見回してみた。もうこの空気の感じからして分かる。とても素晴らしい昭和創業の喫茶店に、自分が来てしまったことが。

 横に並んだ上部にアーチのある窓は、外から眺めた時にも思ったのだが、少し不揃いな感じがした。まるで、手で形成したかのような味がある。室内からだとそこにレースのカーテンがかかって外光を柔らかくし、さらに橙色をした照明器具の明かりが模様に反射して美しい。

 常連さんなのだと思う、碁盤を挟んで囲碁をしている人達が楽しそうだ。色々と話している。最近のこと、旅行に行ったこと、不意に「やられた~」と声が上がったのは碁の戦局を受けての台詞だろう、きっと。

 お冷とおしぼりを持ってきてくれようとしていた店主のおばあちゃんは、小さな段差を上り下りするのもかなり大変そうだった。なので、こちらから受け取りに行く。インターネットにもそういうレビューがあった気がする。「何にする?」と尋ねられてコーヒーでと答えた。にわかに起こるのが、コンロに火を入れるチチチッという音。

 

 

 折り上げ天井が気になる。どこかのステージの設えみたい。

 ここへ来た時扉の外から耳に届いていた音は、テレビのもののようだった。放映されている刑事ドラマらしきものは途中からの視聴なのでタイトルが分からない。劇中では事件の手掛かりとなるらしい「寺本のスマホ」という特定のワードが連呼されていて、その繰り返しが異常に耳に残ってしまった。

 寺本のスマホの履歴がどうの、当の寺本はどこにいるのか、という話で……本当に何の刑事ドラマだったのだろう。

 さらに後半では実際に「寺本」(被疑者……?)へと電話を掛けるシーンが存在し、登場人物が「もしもし……寺本さんですか?」と尋ねるところで吹き出しそうになってしまったのは秘密。人間、あまりにもどうでもいいことが変な笑いのツボに入ってしまう機会がたまにある。

 

 

 ぼんやりしながら、20分くらい待っただろうか。

 店主のおばあちゃんが淹れてくださったコーヒー。銀のミルクピッチャーに入っているのは、牛乳ではなくて生クリーム。好きだ。肉厚な感じのカップに注がれたコーヒーは熱くて、それから濃く、香ばしくて、安心できる味がした。

 飲み終わってから退店する際、魅惑のカウンターの一部を写真に撮らせていただいたのだが、「すごく古くて汚い」と仰るので「断じてそんなことないですよ〜こんなにも素敵な内装〜」と、熱弁してしまった。もう暖簾を掲げて40~50年になるのだろうか、曰く「(開業したのは)あなたがまだ影も形もない頃に」との表現が相当印象的で面白かった。

 いやあ本当にそう。平成初期に生まれたので、当時は影も形もありませんでしたよ。意識どころか細胞すら存在していない。かなり面白い。

 

 

 旦那さんが癌でご逝去されてからはおひとりで、お店を守り続けている店主さん。

 永久に……というのはもちろん無理。それでもできるだけ長く、お店はここに存在し続けてほしいし、おばあちゃんにも元気でいてもらいたい。

 そこから徳島ひとり旅を続ける私を温かく送り出してくれて、本当にありがとうございました。おかげで帰宅するまでずっと満ち足りた気分でいられました。これほど「来られて良かった」と思える場所に運よく出会えたのは、僥倖の極み。

 

 

 

 

【乗船記録】暮れの春にはオーシャン東九フェリーにて - 真夜中の海の虚を果敢に揺蕩う船|四国・徳島県ひとり旅(1)

 

 

 

 

 往路は18時間。そして、復路は6時間。

 

 ……という「のんびり」と「スピード重視」の度合いが極端に異なる交通手段を用いて、神奈川県の自宅から四国は阿波国、徳島県を訪れて帰ってきた。

 いつものように一人旅。

 高校の修学旅行以来10年ぶりの訪問で、初めて県内を気ままに散策できてたいへん楽しく、大好きな土地のひとつとして記憶に刻まれたのが嬉しい。魅力的な建築物があり、喫茶店も多くあった。入ったお店も旅館の人も温かかった。

 

 徳島までの旅程で18時間を費やした乗り物とは、船舶である。帰りの6時間は高速バス+新幹線。

「オーシャン東九フェリー」……これまでに名前だけは聞いたことのあった存在に乗り込み、そこで寝て、起きたら港に着いていた。

 鉄道網が拡充する以前、日本では水上の領域がまさに「路」そのもので、船での移動や貨物の運搬が活発に行われ、常に海運業は陸路より先行していたともいえる。けれど全国的な鉄道交通システムの整備後、速度や運賃、利便性の面で引けを取った船は、利用客のほとんどを鉄道に譲ることとなった。

 閑話休題。

 

 私は乗り物だと、鉄道や飛行機が特に好き。

 でも今回わざわざフェリーでの移動を旅程に組み込んだのは、単純に自分がこれまで経験したことがない行為で、とても面白そうだったから。それだけ。そもそも何かをするのに理由はいらない。あらゆる理由は後付けにすぎない。

 

 

 先人の方々がウェブ上に残してくれた記録を参考にしつつ、私も今記事にオーシャン東九フェリーのうち一隻「しまんと」を利用した感想を綴る。

 こうしている今も凪いだ海原の上で穏やかに揺られる感覚が残っていて、夜、布団に入ってからそれを思い浮かべると、陸地でもよく眠れた。

 波の音はもう遠いけれど、瞼を閉じれば耳朶の奥に蘇ってくる。低く。夜は空よりも暗く黒い海、あの太平洋のうねりと一緒に。

 

目次:

 

オーシャン東九フェリー乗船記

  • フェリー概要

基本情報

 

 このフェリーの航路は東京(有明)~徳島(沖洲)~北九州(新門司)を結んでいる。

 公式サイトによると運航予定の発表は2カ月前の月末で、例外を除けば基本的に「日曜日が休航日」となっていた。今回利用したのは、月曜日の19:30に東京有明港を出発する下り便。

 その場合だと徳島港に到着するのは翌日の13:30となる。

 もしも徳島で下船せず終点の新門司まで向かうなら、そこからさらに14時間くらいかかるので、総合乗船時間は約34時間程度にまでなる。この場合の大きな利点は「新門司到着が早朝5:35~6:30頃になる」ことであり、早くから活動を始めたり、何か用事があったりする人にはとても便利な仕様。

 

 2023年現在、運航しているのは全部で4隻のフェリー。

 

・びざん

・しまんと

・どうご

・りつりん

 

 ……名前から察せられる通り、それぞれが四国の各県を特徴にした内装で、内部にある乗船記念パネルと基調カラーが異なっている。

 いずれも全長約191メートル、重さは約12,636トン。

 

 

 初乗船の今回引き当てたのは「しまんと」(2016年から就航)なので、飲食スペースのオーシャンプラザ中央柱には四万十川のある高知県がはりつけにされており、入口では坂本龍馬とおりょうさんをイメージしたキャラクターのイラストも見た。廊下の壁に魚が泳いでいるのもそのイメージ。

 ソファや天井の装飾など、赤茶系の色に囲まれた空間は落ち着く。これは、高知県の花である「やまもも」の実から採用された色だった。また、クリーム色の方は桂浜の砂をイメージしたものらしい。

 全体的に目に優しく、なんとなく温もりを感じさせる。

 

特徴・傾向

 

 船内レストラン、なし。

 インターネット(wi-fi)、なし。

 けれど24時間、いつでも各種自販機で飲食物(お酒だけは真夜中の販売中止)が買えて、大浴場に関しても24時間利用できる。シンプルフェリーと呼ばれる船の設備は、簡素ながら乗客にかなりの自由をもたらしてくれる。この「乗船後の諸々は各自でお好きにどうぞ、こちらはお構いしませんので」と放っておかれる、圧倒的な心地よさ!

 なので利用してみて思ったのは、好きな時に好きなことをして自分のペースで過ごしたい人や、その都度何かをする必要に迫られずゴロゴロしていたい人には最適だということだった。つまり、私にはとても向いている。特に今回は一人の旅なので。

 友達などと一緒に赴く豪華旅や、サービス充実の客船とはまた異なる楽しみ方で、海上の時間を過ごす。

 

  • チケットを取得、乗船

徒歩乗船をウェブ予約

 

 オーシャン東九フェリー公式サイトの「ご利用の流れ」がとても分かりやすいので、利用を検討する際はまずこのページをチェック。出発地と目的地ごとで変動する価格を確認する。

 私は車・バイク・自転車を伴わない徒歩乗船で、ペットの同伴なし、また特別な支援やバリアフリー設備の必要なし……な一般客のため、それに該当するプランを探した。相部屋よりも個室がいい。

 なので、通常の2名個室を選択して予約を進めることに。

 

 ウェブで事前に予約しクレジットカード決済を行うと、割引になる。

 キャンセルの可能性がゼロに近い人におすすめの支払い方法。

 東京~徳島の2名定員個室を1名、徒歩で利用する際、単純にウェブ予約+事前決済の組み合わせだと目安となる価格が約23,000円。もしも2名で利用するなら個室利用料の方を半分に割れるので、約19,000円程度に抑えられるだろう(2023年4月現在)。

 

 

 予約後、送られてくるメールに記載のURLをクリックし、そこに表示されるQRコードを含めたページを印刷(現地でスマートフォン画面に表示できればペーパーレスで済むが、私は「スマホが壊れた時のこと」を考えてしまう心配性なので絶対に・絶対に・絶対に印刷する)したり、予約番号を手帳に控えたりする。

 これを携えて有明の乗り場まで赴けば、特に何も心配いらない。

 建物の2階で自動発券機を使い「乗船票」を手に入れ、あとは3階の待合室でフェリーの雄姿をじっと見つめていれば、やがて案内の放送が入る。出発が19:30の場合、徒歩乗船客はだいたい19:00頃から船内に足を踏み入れることができるはず。

 

待合室からの流れ

 

 この広い広い待合室!

 徒歩乗船の人間が、全然、いない。

 

 

 それもそのはず、首都圏から徳島へ向かうのに、飛行機や高速バスなどの手段だって色々充実しているのにもかかわらず、わざわざ大幅な時間を費やす船を選ぶのは「マイカーかバイクか自転車を自分と一緒に運びたい人」がほとんどなのだから。中には貨物を積んだトラックのため、徳島や新門司まで利用する運送会社の運転手さんなどもいるはず。

 何らかの事情がない限り、純粋な道楽のためにフェリーに乗る人間の数は、もちろん一定数存在してはいるが決して多くはないのである。それ……楽しすぎる。

 

 

 案内のアナウンス後にいよいよデッキから乗り込むのだが、そのとき係の人に機械でピッとしてもらう乗船券、捨てたり失くしたりしないように注意。

 乗る時だけでなく下船時にもピッ……とするため、無いと目的地でスムーズに降りられないと思う。鞄にきちんとしまっておくか、客室の中の目立つ場所に忘れないよう出しておこう。

 乗船直後にオーシャンプラザ付近で、個室の鍵を受け取る。

 

  • 客室(2名定員)

基本設備

 

 ここがこれから十数時間を過ごす、自分の城。鍵がかかる個室というのは安心かつ安全で本当に良いものだ。もう、存分にゴロゴロさせていただく。無窮の坂を転がり落ちていくおにぎりの如く。

 部屋に備えられているものは、

 

・テレビ

・冷蔵庫

・折り畳み式寝台(プルマンベッド)

・コンセント

・ハンガー

・除菌消臭スプレー

 

 など。

 

 

 

 

 

 耳を澄ますと隣室のテレビの音がうっすら聞こえてくる程度の防音なので、無音でないと眠れない人は耳栓を持参するか、船内の自動販売機(フォワードロビー側に置いてある)で購入するのがおすすめかもしれない。フェイスタオル等のアメニティもそこで買える。

 折り畳み式の寝台は結構重たいので、展開する際は怪我などしないようにゆっくりと。

 2人部屋をひとりで占領するにあたって、私は引き出したベッドのうち、下段は「普段着のままゴロゴロする用」、上段は「着替えて本格的に眠る用」と決めることにした。なぜならお手洗いやお風呂、自販機などの設備は客室の外側にあるため、基本的には普段着のまま過ごすことになるから。半裸で公共空間には出ていけない。

 でも、それによって寝る場所は汚したくないし、普段着のまま床ではなくて寝台に寝転がりたい。という願望を叶えるために、寝台はひとりでも2段使いする方法に落ち着いた。

 

過ごし方の例

 

 初めて乗る長距離フェリー、かなり興味を惹かれたのが船の揺れ方だった。どんなに海が穏やかでも船体は絶えず動いている。なので食事やお風呂を済ませて客室にいる間、私は下段の寝台に寝転がり、背中から伝わる振動の「感じ」を記憶して遊ぶことにした。

 まず気が付いたのは、進行方向に向かって右と左へ交互に傾く動き。そこへさらに、ゆるやかな上下の揺れが加わっている。

 徐々に沈み込むかと思えば、ある地点でわずかに静止して、そこからまた反対側に傾いていく。巨人の掌で両足の裏から床板をぐわっと持ち上げられるみたいな意識。この動きが、感じられる範囲で一番大きな揺れ。大海原で船が前方へと進むために発生している。

 

 

 次の振動は、海面に発生している波。

 大小のうねりがフェリーの側面にぶつかるたび、泡を含んだ白いしぶきが立って、音と共に船体がふるえを伝える。風の有無によってその強さは異なり、特に私が利用した日の真夜中は、わりと穏やかなはずなのに結構迫力のある音がずっと外で響いていた。あの低いざわつきは轟音と呼んでも差し支えない。眠りを妨げない、轟音。

 まだ暗いうちに目が覚めて窓の外を眺めた時の、あの奇妙な感動はちょっと言葉では言い表すことができなかった。

 時空の狭間の「どこでもない」ところ。

 強化ガラス越しに広がっていたのはそういう灰色の情景で、最初は恐怖に駆られて頭から毛布をかぶったが、今度はまた違う振動を感じた。多分フェリー自体の、動力のふるえ。人間の体内で血液を全身に循環させる、心臓の鼓動みたいな不断の運動。

 

 

「板子一枚下は地獄」という船乗りの言葉がある。

 果てなき虚ろな海と空の狭間を、黙々と往く船は果敢な感じがした。進んでいる、と教えられなければ単にその場で揺蕩っているようにも思える。船体を上下させて。けれど見れば、確かに前方を見据えて着実に目的地へと向かっている。恐れを知ってなお、役目のために歩みを止めない使者にも似て……。

 頼れる誰かの背に負われるというのはこういう感じなのかもしれない。例えば孤立無援の地で、その人が倒れれば自分も一緒におしまいなのだと理解して、けれど万が一にはそうなっても仕方がないと思うように全ての体重を預けている。

 少し前に、飛行機の窓から俯瞰した海原と、その表面で米粒のように小さく点々としていた船の影を思い出した。あの中に今、自分も存在しているのだと分かった。

 

 

 こうやって考え事をして遊ぶ以外には本を読んだり、メモ帳に文章を書いたり、あとは流れ星を見たりする楽しみもある。夜、目を慣らして何時間か空を仰いでいると、晴れていればいくつかは驚くほど簡単に観測できるはず。

 お酒やジュースを飲みながら探してみよう。

 にわかに空が明るくなってきた、18時間は、あっという間に過ぎる。

 

  • 食事

自動販売機

 

 ここは船内の公共飲食スペース、オーシャンプラザ。あるのはずらりと並ぶ自販機、レンジでチン、のフェリー飯である。自分にとってはまったく未知の存在……。

 乗船前から何を食べようか迷っていたし、実際に乗り込んで商品ラインナップを眺めてもみたけれど迷いは変わらなかったので、あらかじめ調べておいた人気商品を試してみることにした。優柔不断なのだ。加えて、あまり外したくない。でも初めてものなので、いずれかは絶対に食べてみたいと意気込む。

 比較的評判が良さそうだったのは「チャーシューまん」だった。

 商品名は「陳健太郎 チャーシューまん3個入り」で、自販機「C」で買うことができる。ポチリと購入してこれまた指定された「Cの商品専用」電子レンジに赴き、数分待った。

 

 

 のんびり食べたいので部屋に戻る。さあ、行ってみよう!

 甘じょっぱい豚肉がシンプルかつ弾力のある肉まんの生地に絡み、味は濃すぎず薄すぎず、何よりチンしたてなのでアツアツなのも嬉しい。惜しむらくは量が多くないことで、食べ始めると即座に胃へ消えてしまう。もっと食べさせてほしい。これが450円だった。

 そして飲料で気になったのが、エナジードリンク「アワライズ(AwaRise)」の存在。

 ゆずとすだちの風味がする炭酸飲料で、缶には「阿波踊り専用エナジードリンク」の文言のほか、英文で「踊る阿呆に見る阿呆……」のくだりが記載されている。面白かった。ジュースとしての味も美味しい方。

 

 

Flutes and drums, the prerude of Yoshikono.

The endless dancing, a night in Awa.

The dancers are fools, the viewers are fools.

As all are fools, join in and don't lose out!

 

 プレリュード・オブ・ヨシコノ、の語があまりにインパクト大。

 他の場所ではなかなか味わえない限定商品。

 

 

 館内の食事は全体的に満足だったのだが、一点だけ。

 この飲食スペース(オーシャンプラザ)の一角で機械のボタンを押すと出てくる、無料の緑茶とほうじ茶、かなり「美味しくない」! 本当に味がよくない。申し訳ないんだけれど。

 もちろん無料で提供されているものに文句をつけるなという話になるが、できれば個人でティーバッグやお茶の粉など持って行った方が良いかもしれない……と思う。お湯と紙コップも無料なので。部屋で一息つくときには、できるだけまずくないお茶や紅茶が欲しい。

 

持ち込み弁当

 

 船内の自販機以外でご飯を調達する場合、テイクアウトを実施している飲食店のお弁当を購入し、乗船時に持ち込む方法がある。持ち込みは全面的に自由だった。

 今回は試しに、有明パークビル2階のファミレスCOCO'S(ココス)でいろいろ調達してみる。チーズハンバーグとシーザーサラダと白飯、そしてプリン、とちょうどいいボリューム。プリンは小腹が空いた時に食べたいから、冷蔵庫で冷やしておくことにした。うっかり存在を忘れないように注意しないと。

 利用できるのは船内電子レンジの「A」で、これこそが持ち込み品を好きな長さで加熱できるものだった。熱しすぎて爆発させないように注意しつつ……湯気を立たせる。

 

 

 さらに船内でお酒「アサヒ贅沢搾りぶどう」を買って飲んで満足した。

 ファミリーレストランの食事の味は学生時代の思い出と強固に結びついているのか、炭酸飲料と本当によく合う。つい、なんとかソーダ(アルコールが入っていても勿論同じ)を傍らに用意して楽しんでしまう。

 ドリンクバーでメロンソーダばかり汲んできていた人間です。たまにコーラと混ぜたり、何かしたり。

 

 

 

 

  • 各種設備

 

 それぞれの個室にあるのは寝台付きのプライベート空間と冷蔵庫なので、お手洗いやお風呂、パウダールーム等を利用する際は各設備のあるところまで出ていく必要がある。

 船内はそんなに広くないのだが、慣れるまで少し迷った。

 ずっと同じ姿勢でいると血流に影響するので、ときどき散歩がてら歩き回ってみるのも良いと思う。人通りの少ない夜中と早朝は特におすすめ。ひっそりと徘徊する。

 

 

 ……そういえばレトロフューチャリズム(retrofuturism)という言葉がある。

「昔の人々が思い描いていた未来像」を指して使われるもので、こういう角の取れた四角い窓が一直線に並んでいるのを見ると、なんとなくそれが脳裏に浮かぶのだった。色合いと雰囲気がどこか、伊東ハトヤホテルの渡り廊下みたい。

 全然自分と関係のないはずのものに対して感じる、おかしな懐かしさと、過去の雑誌の片隅に乗っていそうな何とも言えない佇まい。

 外が暗くなって目を凝らしたら、遥かな海原は、いつの間にか銀河の浮かぶ宇宙空間に変わっているかもしれない。

 

大浴場・シャワールーム

 

 オーシャン東九フェリーの船内には24時間利用できる、大きなお風呂があるのが嬉しい特徴。鍵付きロッカーに衣服を入れて、鍵は腕に巻いて入浴する。スーパー銭湯みたいに。

 混雑の度合いは他の乗客との兼ね合い次第……といった感じで、私は夜の12時ごろに行ってみたところ、誰とも遭遇しなかった。ゆっくり全身を洗い、浴槽に浸かることができる。船舶内の浴槽なのでちゃぷちゃぷ揺れ、かなり面白いし、これにどういうわけか癒される。

 朝や昼間にお風呂を使う利点は、窓から海原が見られること。

 お湯の温度はどちらかというとぬるめ。激熱を期待していると拍子抜けするかもしれないけれど、お家で入るお風呂と似たようなものだと思う。

 備え付けられているのはボディソープと、リンスインシャンプー。

 

 浴槽に浸かる必要を感じない人、または洗い場が混んでいてとりあえずシャワーを使いたい時などは、隣にあるシャワールームも便利。

 備え付けのタオルはないので持ち込むか自販機で買うかしよう。

 

お手洗い・パウダールーム

 

 とても新しく綺麗なトイレの近くには、歯を磨いたり洗顔をしたりできる化粧室と、鏡の前に椅子が置かれたパウダールームがある。

 パウダールームはお化粧したり髪型を整えたりする際に便利。お手洗いや浴室からは独立しているのが好印象で、コンセントがあるからヘアアイロンも使える。

 どの設備も明るく近代的な感じ。

 

休憩スペース

 

 お風呂の近くにあるリラクゼーションスペースと、フォワードロビー。

 

 

 誰でも自由に利用できる空間で、後者は昼間だと進行方向が窓越しに見られる。個室ではなく大部屋の場合はこういう場所で時間を過ごすのも良いのではないだろうか。

 私は夜中にブラブラ徘徊していたところ、知らないおじいちゃんに「この船って最終的にどこへ行くんでしょうか……よく分からなくてお恥ずかしいんですが……博多に行くことになってるんですよ……」と話しかけられ、内心笑いながら心配になった。「徳島を出たら終点は北九州ですよ~」と一応言っておいたが、仮に乗船後にボケてしまったのなら支援が必要な案件である。

 徒歩乗船組にいなかったので、車で来ているはず……運転、大丈夫なのか?

 でも、次の日の朝に友達らしきもう一人のおじいちゃんといるのを見て、納得した。その人が旅程や運転やその他を全部担当しているなら、助手席に座っているだけの方のおじいちゃんは本当に何も知らないのだろう。「博多行くよ!」とだけ言われてついてきたのかもしれない。

 

 こういうわけのわからない出会いもフェリー旅にはある。

 

デッキ

 

 深夜や悪天候時には閉め切られるため、デッキ上で空気を吸うのは晴れている時のお楽しみ。

 ちなみに有明を夜に出発するフェリー、大人気なのが「東京ゲートブリッジ」を通過する際の眺望で、多くの人がライトアップされた橋を見にデッキへ集合するのだが、私は動くのが面倒になってしまってまさに通過の瞬間部屋でゴロゴロしていた。怠惰の極み。

 その代わり、翌朝の午前中に軽く運動をしに行った。

 時間を選べば進行方向右側の遠くに、和歌山は紀伊大島と、本州最南端の地点も見える。クレ崎だ。春も暮れらしく緑に色づいた陸地は、ぼんやりと薄い青にかすんで、まるで御簾を挟んで誰かの気配を感じるようだった。

 

 

 そのうちアナウンスが入る。まもなく徳島……沖洲。

 天候に恵まれれば、到着予定時刻よりも少し早く入港できる場合が多いよう。

 

 

徳島旅行記(2)へつづく……↓