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彷徨する自由帖

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永世の繭の眠り・シルク博物館・純喫茶「田園」

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 昼前から長く、激しく降り続いていた雨脚の勢いが弱まり、窓を境界とした外側は幾分か落ち着きを取り戻しているようだった。

 遠くの方から、蛙の鳴き声がケロコロと軽快に響いてきている。

 耳障りな感じの全くない、どこか可愛らしいと形容しても許されるような音で、果たして昔からこの辺りに生息している蛙であるのだろうか? と首を傾げた。今までにあまり聞いたことがないような気がする。過去に覚えがあってもよさそうなものだが、なんだか新鮮だった。

 一度鳴くと、二回か三回、同じくらいの長さで音を出すのを繰り返す。どういうわけかこちらが部屋の中で身構えていると鳴いてはくれず、何か別のことをしたり考えたりして、脳裏のその存在が薄れ始めた頃にまたケロコロと聞こえる。

 

 

 振り返れば一昨日、5月6日は2023年の立夏。ふと浮かんだのは「木の芽流し」という言葉だった。萌芽の頃、樹木から顔を出す鮮やかな緑のとんがりを、まるで洗うように降る長雨を指してそう称する場合がある。

 新芽が出ればまた、それを好んで喰む生物も競うように生まれるもの。

 あともう半月もすれば徐々に毛虫さんたちが緑の葉を食べ始める時期になるため、樹々のそばを通行する際は、できるだけ頭上に気を付けて歩行しないといけない。毛虫さんも芋虫さんも本当においしそうに葉っぱを食むもので、想像するほど少しだけ彼らと同じになって、あの柔らかな緑を歯を使って噛んでみたくなる。

 雨で洗われた天然のサラダの味はいかほどだろうか。ドレッシング要らず、摘みたてをどうぞ。

 

 

 先日は地元横浜のシルク博物館で、昔、株式会社伊勢丹が作ったらしい30分くらいの古い映像を見ていた。

 桑の葉を熱心に喰む蚕の幼虫のひたむきさ。

 彼らは一心不乱に食べ、みるみるうちにその体へ消えていく緑の布団(兼、ご飯)は、また人間の飼育者の手で折を見て重ねられる。蚕は独特の周期で成長していく……長い時間食べ続けたら深い眠り(「眠」で「みん」と称する)に落ち、脱皮をし、また何日も食べ続け……といったように。

 もっとも長い眠りは、白い繭の中で。

 蚕が首を8の字に振ることで形成される繭は、その糸の絡み方も、メビウスの輪のごとく8の図を描いているのだった。まさに永世の眠りの象徴にふさわしく。彼らのほとんどはそのあと意識を取り戻すことなく、人間の手で命を奪われ、繭だけが残る。

 絹糸が持つ光沢の、真珠に似た独特の生々しさはその製法も相まって、どこまでも生物の死の香りがする。蚕は「一匹」ではなく、「一頭、二頭……」と数えられる家畜。

 博物館に展示されていた着物は美しいものだった。生糸から生成したそのシルク糸がちらちらと不思議に輝くのは、糸の断面が円や楕円ではなくて、三角に近い形状になっているからなのである。

 

 

 このシルク博物館が入っている建物、シルクセンターのビル地下1階には知る人ぞ知る喫茶店「田園」があった。

 観光で来る人よりも、普段から近辺で勤務している人の方がきっと存在をよく知っていて、身近だろう。私も頻繁に足を運ぶわけではないので、教えてもらえなければずっと分からなかったと思う。奥まった入口から入り、廊下を抜けて、さらに一番奥へ進むと食券販売機がある。食券で好きなものを選んだら買って、カウンターに出して席で待つ。できたら取りに行く。

 アイスティーは300円でとても手頃。

 

 

 落ち着いたうす緑色のソファと、深緑色のテーブルが、店名の通り「田園」のある風景と共に桑の葉が茂る様子を思い起こさせた。

 蚕は桑を喰む。七十二候のうち、夏の項目の中にも「蚕起食桑 (かいこおきてくわをはむ)」がある。5月の21日頃から数日間がそう言われるようになるので、時期はもう近い。

 目覚めたと思ったら、あっという間に永劫の眠りに落ちる、蚕の一生と私達の一生にはそこまで大きな差異があるだろうか。気が遠くなるほど長く紡がれてきた万象の歴史、すべてを俯瞰する観点からすれば、瞬く間に生まれては消えてしまうという点でどちらも変わらないものである。

 

 

 そういえば、祖母の家でも大昔に屋根裏を使って蚕を育てていたそうだ。

 大切な存在なのでおかいこさんと呼ぶ。当時のことを尋ねると、蚕はかわいいでしょう、と言う。確かにじっと眺めてみるとかわいらしい。顔も仕草も、苦しくなるほどに。卵を割る小さな黒い蟻蚕(ぎさん)の身体が白く変化して、何度も脱皮しながら食事と眠りを繰り返し、いつしかぷっつりと外界との繋がりを断ってしまう。

 細かく波打っている繭の表面。何よりも、強固な壁として機能する。

 絹糸を採集するために殺されなかったわずかな個体は、ふたたびそこから成虫として生まれ出るが、彼らの姿は着飾って舞踏会へ赴く人々の装いにそっくりだ。北海道旭川で、かつてクスサンという蛾の大量発生に遭遇したときもまったく同じことを思った。

 ふわふわの素材で作られた、豪華な服を身に纏っている。

 厚手のマントを羽織り、頭には飾りをつけて。

 つがいを探しに出掛けていく。