世間に流布している作家像というのは、得てして実態から大きく乖離したものになりがちである。
「彼」もすっかり大衆が持つ先入観の犠牲となっているうちの1人で、けれど、作品を知れば知るほどにその印象は変化していく。暗さと明るさ、いい加減さと誠実さ、痛みを覚えるほどに感じさせられる、ひたむきさ……。根底に流れている、人間存在への愛とでも呼べそうな何か。
綴られてから年月が経ち、古くなった文字の羅列から、なお新しい何かを読み取るたびに、もう生きてはいない存在に少しだけ心を近付けられるような気がするのだった。
数年前、私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて、その返答に曰く、
汝を愛し、汝を憎む。
(中略)
私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であった。謂わば純血種の津軽人である。だから少しも遠慮無く、このように津軽の悪口を言うのである。他国の人が、もし私のこのような悪口を聞いて、そうして安易に津軽を見くびったら、私はやっぱり不愉快に思うだろう。
なんといっても、私は津軽を愛しているのだから。
(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.25)
生まれ、育った土地。いわば「故郷」について誰かが語るのを聞いたり、その様子があれこれと綴られた文章を読んだりするのは、とても面白い。生活しいて事あるごとに触れたくなるもののひとつ。愛着や懐旧、倦厭や嫌悪、いろいろと。
語られるのはあくまでも特定の人物の立場から感じたこと、見たもの、また印象などであって、仮に住んでいたとしても、土地の客観的な特徴までもをその人が把握しているとは限らないのは興味深いところ。
このような場合、故郷と聞いて各人が思い浮かべる場所というのは、実のところ私達が立っている地球の上にではなく、誰かの心の中にだけ存在する……ということになる。たとえ地図上の名では同じ土地であったとしても。
特に、幼少の頃にいくばくかの時間を過ごしてから故郷を離れた人にとっては、かつて暮らした家や近隣の情景、また関わった人々が、なんともいえない温度を持って胸のうちに生き続けているような部分があるのではないだろうか。土壌に染み込んだ雨水みたいだと、ときどき思う。結果どんな草花を育むのかは分からない。
昨年の秋、ふと太宰治の「津軽」を手に取ってから、実際の津軽地方に足を運んでみたい気持ちが強まった。それで間を置かず(つまり衝動の熱が変質してしまう前)に行ってみた。羽田から青森へ飛ぶとなんと1時間半程度で着いてしまう。青森空港のガラス壁に、黒石市の名産品、こけし(同市に「津軽こけし館」も存在する)をモチーフにした図柄が装飾として採用されていた。
「津軽」は紀行文のような体裁を取っているが、読んでみると虚実入り交じる内容と、かなり大幅に手を加え再構成されているのであろう、旅行自体や途中の出来事の流れに意識が向く(にもかかわらず、本文の最後「私は虚飾を行わなかった」とわざわざ書かれているのもそれらしい)。
作家が手掛けるものならむしろそうあってほしいと私は思っている。反対に何か、より現実に即したものを読みたいのならば、情報ができるだけ正確に記された別の資料を当たるべきなのだ。
まっすぐ知りたいことを追いかける行為とは異なり、わざわざ紀行文風の小説を選んで読むとき、事実、というものへの興味は比較的うすくなる。決してないがしろにされてよいわけではないから、皆無とまではいかずとも……。今は調べ物をしたいわけではない。単純に、お話としても面白いものが読みたい。
個人的な記憶、抱いた所感、視界に入ったもの、多くの人間に理解されるかどうかが重要ではないもの、おそらく二度とは再現できない瞬間。その作家——この場合は太宰治になるが——の、人生の一端を「覗いてみたい」と欲望する。一定の尺度で測られる物事ではなく、あなたの、あなたにとっての真実にこの指を以て触れたいと、大層な理由もなく願ってしまう。おかしなくらい強く。
朝、青森到着後に空港を出て、脇目も振らずに五所川原市の金木町へ。
なにしろ時間がないのだ。このあと浅虫温泉に寄って1泊する、そうしたら明日の午後には家に帰らなければならない。
「津惣(つそう)」の名で津軽一円に知られた、地主の家。屋号はヤマゲン(⋀源)。
その6男として太宰治、本名・津島修治は生まれた。明治42(1909)年のことだった。
私は、中学校にはいるまでは、この五所川原と金木と、二つの町の他は、津軽の町に就いて、ほとんど何も知らなかったと言ってよい。
(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.6)
「津軽」執筆のために帰省した太宰。
現在この屋敷は「斜陽館」と呼ばれ、一般見学客にも門戸が開かれている。
金木の生家に着いて、まず仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。それから、常居という家族の居間にさがって、改めて嫂に挨拶した。
(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.136)
訪問記録:
そして上の生家から、疎開時代の家(津島家離れ)へも。
第二次世界大戦の折、三鷹の家が被害を受けて青森に戻ってきた太宰は、まさにこの場所に座って数々の作品を執筆していた。一度は勘当されたものの、この昭和20年には帰省を許されていたが故に。
疎開生活は1年と数か月に及んだ。
「金木も、しかし、活気を呈して来ました」と、私はぽつんと言った。
「そうですか」お婿さんも、少し疲れたらしい。もの憂そうに、そう言った。
(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.158)
訪問記録:
また、「津軽」の中で紹介されている芦野公園駅の逸話は面白い。そして描かれたある乗客の少女の姿も魅力的である。
津軽鉄道、芦野公園駅は金木駅の隣に位置し、木造の洋風駅舎は昭和初期の竣工当時から使われている建物そのままなのだった。今は喫茶店として管理・運営されており、誰でも利用することができる。
座っているとときどき、鮮やかなオレンジ色をした「走れメロス号」がプラットフォームに停車するのが窓から見える。
窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥えたまま改札口に走って来て、眼を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。
(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.193)
訪問記録:
駅舎の喫茶店で食べたりんごカレーはとても味わい深かった。
こんな風にまず、疾風怒涛の勢いで駆け抜けた、太宰ゆかりの3つの地点。でも、各施設では職員さんによる丁寧な解説も聞けた。振り返って思う。はじめに作品「津軽」に感化され、それからかつて作者が息づいていた場所を次々と訪れてみて、自分の方は一体何をどうしたいというのか……。
具体的には別にどうもしない。行ってみたくて行くだけ。
気が向いたら今度は読み手の私がぼんやりと周囲の波動を感じ、それを基にまた何かを考えたり、喋ったりする。ゆえに帰宅してから回想する場所はもはや実際には存在していない、私の記憶の中にだけある土地となり、ほとんど保存された状態で記憶の中にだけ残り続ける。誰かの故郷を求め、最終的に、自分にとってはそうでない場所についての話を延々とすることになる。現在、こうして画面に向かっているように。
金木町を出るとき、美味しい栗のソフトクリームを食べていた。
こんなになめらかで美味しい栗ソフトなぞ、太宰が金木周辺にいた頃にはまだ無かったはずである。しかし津軽の郷土料理に「栗飯」があるから、きっと秋に、つややかな栗の実自体は彼の口へも運ばれたことだろうと思う。しばらく明治、大正、昭和と過去の時代を彷徨っていた頭の中身が、ソフトクリームをじっくり味わうために現代に戻ってきて、考えた。
作品に記された作家の旅程を、単にそのまま辿ることには魅力を感じない。でも、折角ここまで来たならば、津軽半島の突端、あの「龍飛崎(たっぴざき)」から海を視界に収めた後に温泉へ向かいたくなった。表記や呼び方は "竜"飛崎、龍飛"岬"、たっぴみさき、とかいろいろあるが、ここでは龍飛崎を採用させてもらう。
そもそも、地名の音にあてられた漢字の字面からしてずいぶん魅力的ではないか。目でなぞるとにわかに耳の奥で雷鳴が轟き、瞼の裏には強烈な稲光も反射する。またたくまに足下の地面の色を変える、龍が呼んだ雨の到来だった。
龍……飛……崎。
読んだままの印象からすると龍が空を舞う地、らしい。龍!
そのうち動き疲れ、人目につかないところですやすやと眠っている、その龍の広い背中や長いひげを撫でるか、こっそりと上に乗るかしてみたい。どこまで飛んで行くことができるのだろう。対岸の北海道・函館か、その先か。あるいは反対側である南の方角か。想像すると愛おしくて涙が流れそうになる。寄る辺なく、しかし力強く空を飛んだり、地を駆けたり、航海に臨んだりする存在を思うと、いつもそうなる。乗り物であっても動物であってもみな、勇敢な旅人に見えて。
金木から龍飛崎への道すがら、東半分が中泊に面した大きな湖、十三湖(十三潟)の姿が望める展望台に上った。道の駅の敷地内だった。十三湖に関しては、「津軽」の本文でも言及されている箇所がある。「浅い真珠貝に水を盛ったような……」って、良いな。
やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでいない。ひっそりしていて、そうして、なかなかひろい。
(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.195)
展望台の脇からは使用中止となっている滑り台が伸びていた。
それから、道の駅の看板部分に黒い牛の像があしらわれていたのがとても気になった。結構大きいので道路や駐車場からでも目立つ。晴れの日も、雨の日も、あの牛は遠くの山を見据え続けているのだろう。
私は牛さんを眺めるのも、じっくりと味わって食べるのも好きである。
全く知らなかったのだけれど、十三湖ではシジミが取れるらしい。しかも、とても美味しいらしい。検索すると「日本有数のヤマトシジミの産地」……と出てくる。普段はまったくと言っていいほど口にする機会がない貝なのだが、気になってきた。黒っぽい貝殻の中で、宝物のように守られている、ぷるぷるのシジミの本体。
その湖は西端が日本海に繋がっている汽水湖。繋がる河川のうち、岩木川をなぞればやがてあの白神山地に辿り着くのだと思うと感慨深いものだった。地図上に記された川の形というのは、それこそ龍が地面に横たわっているように見える瞬間がある。
展望台に立って首を伸ばし、視線を向けた遠くの方で水面が太陽の光を反射して、それが自分の網膜にまで届くと、内容は理解できないまでも「呼びかけられている感じ」がしてくるのだった。不思議な信号みたい。招かれているのか、実は拒まれているのか……。近付いてみたい気もする、しかしながら今日は龍飛崎へと向かうことになっているので、ご挨拶だけ。
うねうねと蛇行する国道339号線、竜泊ライン。写真下は岬へ行く途中で経由する中間地点の鳥瞰台。
漂う空気や色彩、風の音が美しいと感じられる天候に感謝しつつ、心のどこかで大嵐や大時化の風景を目の当たりにしたい――と人に渇望させる要素が、海沿いの高台には確かにあった。悪天候時の崖上に取り残されたら本当に肝が冷えるはず、けれども(だからこそ?)奇妙な憧憬とともに、昼の夢に見る情景。それと、波間に揺れる船のように胸を震わせる、何か人間ならざる者の歌声が聞こえてくる錯覚。
何度かまばたきをしてみると、眼前には再び、さっきと同じように晴れた日の夕方の風景が広がるだけなのだけれど。あるいは、風力発電用の風車のブレードが。
当時、10月の末。東北地方北部は既にまあまあ肌寒くなっただろう、と思って一応コートを持ち、初秋を意識した服装で行ったのに、昼間は結構暑かった。あの日差しよ。さすがに陽が落ちれば、ある程度は空気も冷たくなったけれども。
周辺を歩いてみると、場所柄か「密出入国 許すな!」の看板が沢山ある。海はそのまま外国まで広がり続いている。いろいろ考えながらウロウロしているうちに、身体は灯台の下へとやって来た。ここが龍飛岬、本州西側の北のはずれ。
対岸に北海道が見える。
もう少ししたら今度は函館に行く予定のため、それまでどうかいなくならないで、待っていてほしい、と思った。消えないで。あんなに大きな陸地が短期間で消えるわけない、と内心で呟くものの、星の光でさえ地表に届くまでに恐ろしいほど時間がかかるのだから、北海道の大きな島が知らないうちに姿をくらましていても、まったく不思議ではないと怖くなる。
今視界に入っているものも、霧が姿を変えて見せている幻かもしれない。見えてはいても辿り着いたらなくなっているかもしれない。実際に上陸してみるまで、それが本当にそこに在るのかどうかは分からない。
ところで、龍飛崎に来たら絶対にやりたかった行為のひとつに、「赤いボタンを押す」があった。
果たして何のボタンなのか、といえば、それは「津軽海峡・冬景色 歌謡碑」に組み込まれているボタンである――。
石川さゆりの歌唱で有名なこの歌、その歌詞が石板に刻まれている歌謡碑。おそらくは波を象っているのだろうが、下部の装飾はロールケーキのように見える。
青森県内に存在する歌謡碑には2種類あり、ひとつは青森駅近くの八甲田丸前に設置してある人感センサー式のもの、そして、この龍飛崎にあるのは押ボタン式のものになる。どちらも「津軽海峡冬景色」を大音量で再生し、遠くにいても歌が聞こえるため、歌詞に描かれている情景の理解を深めたい人におすすめ。
灯台近くの丘の上に立っていても、誰かが来るたびに風の向こうからイントロが聞こえてくる。かなり面白い。
私は念願かなって赤いボタンを押すことができ、大いに満足した。元を辿れば太宰の「津軽」が私をここまで連れて来てくれた。
この旅行のきっかけは彼の作品であったけれど、私自身の青森見聞録(2022)はまだ終わらない。
翌日の午後に帰るまで、触れられるだけのものに触れてからまた飛行機に乗った。その内容や過程を、未来の地点からできるだけはっきりと思い出そうとする、毎度ながらそういう試みで回想や訪問証拠を記していく。
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浅虫温泉での宿泊記録は以下: