とある喫茶店がそこに存在するのだと、旅人たちが口にする。
不思議な魔力の満ちた空間なのだという。
その、うわさ話にだけ聞いていた「純喫茶ブラジリア」にとても行ってみたくなって、有明港を出発する前に色々と調べてみた。他の純喫茶の例に漏れず、このお店も検索でヒットする営業時間や定休日が、現在の実際を反映したものだとは限らない。都合によって閉まっている日や通常より早く閉める日、あるいは遅く開ける日などもあるだろう。
そもそも、まだ営業をされているのかどうか……。いつのまにか廃業していたというのも悲しいけれどよくある話。
加えて今回の一人旅では徳島駅到着後、時間の関係でわりとすぐ穴吹方面へ向かう列車に乗り込むつもりだった。だから、賭けのような訪問。その時やっていたら入れる、やっていなかったら、潔く諦める。
フェリーは13時半に沖洲港に着いた。路線バスに乗って、下車した徳島駅から徒歩約5分。
入口の前に差し掛かると、出されていた看板の上にある、黄色いランプが点灯していた。導きのようにくるくる回る光……ドアの前で耳を澄ますと音楽か人の話し声か、何らかの音が聞こえてくる。これはもしかしたら営業しているかもしれないと一気に期待が湧き上がってくる。
果たして、ドアは施錠されてはいなかった。
チリンチリン、と大きな風鈴の音が響く。店内は心地よい程度の薄暗さで、外の明るさから目が慣れるまでに数秒の時間を要した。手前のテーブルに碁盤を挟んだ2人客。カウンターで(おそらくは)店主ママさんと話している人が1人。後者はやがて支払いを済ませて、もうひとつのドアから退店した。
店主さんに会釈して、空いているところに着席。
店内を見回してみた。もうこの空気の感じからして分かる。とても素晴らしい昭和創業の喫茶店に、自分が来てしまったことが。
横に並んだ上部にアーチのある窓は、外から眺めた時にも思ったのだが、少し不揃いな感じがした。まるで、手で形成したかのような味がある。室内からだとそこにレースのカーテンがかかって外光を柔らかくし、さらに橙色をした照明器具の明かりが模様に反射して美しい。
常連さんなのだと思う、碁盤を挟んで囲碁をしている人達が楽しそうだ。色々と話している。最近のこと、旅行に行ったこと、不意に「やられた~」と声が上がったのは碁の戦局を受けての台詞だろう、きっと。
お冷とおしぼりを持ってきてくれようとしていた店主のおばあちゃんは、小さな段差を上り下りするのもかなり大変そうだった。なので、こちらから受け取りに行く。インターネットにもそういうレビューがあった気がする。「何にする?」と尋ねられてコーヒーでと答えた。にわかに起こるのが、コンロに火を入れるチチチッという音。
折り上げ天井が気になる。どこかのステージの設えみたい。
ここへ来た時扉の外から耳に届いていた音は、テレビのもののようだった。放映されている刑事ドラマらしきものは途中からの視聴なのでタイトルが分からない。劇中では事件の手掛かりとなるらしい「寺本のスマホ」という特定のワードが連呼されていて、その繰り返しが異常に耳に残ってしまった。
寺本のスマホの履歴がどうの、当の寺本はどこにいるのか、という話で……本当に何の刑事ドラマだったのだろう。
さらに後半では実際に「寺本」(被疑者……?)へと電話を掛けるシーンが存在し、登場人物が「もしもし……寺本さんですか?」と尋ねるところで吹き出しそうになってしまったのは秘密。人間、あまりにもどうでもいいことが変な笑いのツボに入ってしまう機会がたまにある。
ぼんやりしながら、20分くらい待っただろうか。
店主のおばあちゃんが淹れてくださったコーヒー。銀のミルクピッチャーに入っているのは、牛乳ではなくて生クリーム。好きだ。肉厚な感じのカップに注がれたコーヒーは熱くて、それから濃く、香ばしくて、安心できる味がした。
飲み終わってから退店する際、魅惑のカウンターの一部を写真に撮らせていただいたのだが、「すごく古くて汚い」と仰るので「断じてそんなことないですよ〜こんなにも素敵な内装〜」と、熱弁してしまった。もう暖簾を掲げて40~50年になるのだろうか、曰く「(開業したのは)あなたがまだ影も形もない頃に」との表現が相当印象的で面白かった。
いやあ本当にそう。平成初期に生まれたので、当時は影も形もありませんでしたよ。意識どころか細胞すら存在していない。かなり面白い。
旦那さんが癌でご逝去されてからはおひとりで、お店を守り続けている店主さん。
永久に……というのはもちろん無理。それでもできるだけ長く、お店はここに存在し続けてほしいし、おばあちゃんにも元気でいてもらいたい。
そこから徳島ひとり旅を続ける私を温かく送り出してくれて、本当にありがとうございました。おかげで帰宅するまでずっと満ち足りた気分でいられました。これほど「来られて良かった」と思える場所に運よく出会えたのは、僥倖の極み。