昨年の12月なかば、半日くらい神戸に行っていた。
この辺りに来るのは高校の修学旅行以来で、当時、自分がここで実際に見たり聞いたりした些細なものが、そのまま同じ場所に残っているのに遭遇すると意外だった。そしてかなり懐かしかった。切なくなるくらいに。
帰国した際、ほんの数年で町というものが想像以上に大きく様相を変えることを実感したから、なおさら。
別に思い出に浸りに来たわけではないのに、図らずも必要以上に多感な、あまり良くはない状態であったのは、きっとそういう要素が揃っていたせいだ。
だから下の写真のビル(名前はHILL SIDE TERRACE /ヒルサイドテラス)を視界に入れたとき、動けなくなってしばらくじっとしていた。あんまり良いビルなので驚いて。これから先、都市部に建てられる機会はほとんどなさそうな、贅沢に丸みを帯びたデザイン。
塔屋みたいに突き出している部分のねじれ方とか、壁面の連続の仕方と、もちろんを帯びた屋根も魅力的だし、極めつけはベランダの柵だった。
印象としては全体的においしそうで、その甘さのせいか知らない郷愁も誘われた。
ビル脇に設けられた細い通路にアーチが並ぶ。大昔、誰かに手を引かれてこういう商業施設の中を歩き、何かをねだった、ありもしない記憶が蘇ってくる。だからこそ恐ろしくて楽しいのだろう。
でも、今回記録したいのは別の建物のことだ。
三ノ宮駅を出て北野坂に沿って歩き、山本通りと道が交わる点に差し掛かって突然、この土地で何をしたら、またどこに行ったら良いのかもよく分からなくなったので、右に曲がってみた。感覚が連続しないのだ。自分が直前まで何を望んでいたのか忘れてしまう。
結果的に、交差点をこの日の運命の分かれ道に見立て、四つ示された選択肢のうち一つを選んだということ。
すると、ある縦長の入り口から変な引力を感じる。誘われるまま不用意に近付いたら、もう中を覗いただけで大変だった。
煉瓦風の外壁、洋風の電燈、奥の方に伺える複数の入り組んだ通路の気配。
そう、気配だけがする。通りの向かいからでは全貌を把握できないのが憎い。
本当に危ないところだ。心を捕捉されて、離れられなくなる。絶対、陽が沈んでから足を踏み入れたら、次々と不思議なことが起こるビルだった。
まず、中心が吹き抜けの空間になっている。そのことに気が付いた時点で頭の中のトロッコが走り出し、ぐんと速度を上げ始めた。
だまし絵みたいに折り返し連なる階段と、必要もないのに四分円形に張り出した3階の一角、またテナント募集の貼り紙が追い風となって、絶えず高速で滑車を回し続ける。仰げば雲の切れ間から蒼穹が見える。
地下から地上までを貫くこの空間に、雨の日は天から滴り落ちる水が入り込んでくるのだろう。涙をためる墓穴のようで、想像するだけで素晴らしく、こちらまで泣きそうになった。
でも、それだけでは終わらなかった。
おそるおそる階段に足をかけて、ビル内の入り組んだ通路が描く軌道に、自ら巻き込まれに行く。さっきまで存在していた時間から、確かに切り離された実感があった。角ばった螺旋を描いて廻り、上昇と下降を繰り返す。螺旋。
全体的にぽつぽつ観葉植物の鉢が置かれているのも嬉しくなるポイントである。柵の間から葉が出ているのが見えるところなど、かなり良い。ここで経過する時間の象徴のよう。
館内をざっと眺めてみた感じ、照明の色が白と橙の二種類に分かれているのはたぶん意図的な仕様なのだろうと思った。そうでなかったらむしろ面白いというか、偶然にしては整い過ぎている。
それで廊下を進んだら、うす暗い突き当りには細い吹き抜けと、何かに使う梯子、シャッターがある空間……それらと自分を隔てる背の低い仕切りまで鎮座していたので、油断したら危うく叫んでしまうところでこらえた。本当におあつらえ向き、お話の中に登場させるのによくできた仕掛けじゃないかと。
通路両脇の扉はなんだろう。一体、誰が通るのだろう。
帰ってきてから調べてみると、このビルはもうすぐ築40年らしい。どこからか、猫の鳴き声がしそう。毛色は黒か、ぶちか、三毛か。
幻の猫が足元を走り抜けると風の音がする。
前述したとおり、外からこのビルの奥行きを把握するのは難しい。それゆえ、町の中に秘された基地か何かに迷い込んだ気分にさせられた。正面に空いた入口が文字通りの口みたい。
波長の合う通りすがりの人間を取り込もうと、ビルはこうして待っている。
建物は建物ごとに固有の興味深い生態を持っている。矛盾しているようだが、生き物でなくても生態は存在する。特徴、という言葉で整理することはできない類の性質を、私はそう呼んでいる。