開港や文明開化の影響、そして政府の意向もあり、公共の施設をはじめとした数々の建造物が洋風の趣を纏うようになった明治時代。その頃は官庁や銀行、学校、駅舎などに見られる様式が代表的な例だった。
当時の市井の人々(今もそうかもしれない)にとって、大規模な洋館は「普段の生活から隔てられた領域の象徴」だったことだろう。
特にそれが住宅であれば、一部の旧華族や資産家しか持ち得ないような仰々しい門構えの向こうに聳え立つ、まこと風変わりな存在。前を通るたび、一体どんな人間がここに暮らしているのだろう? と、首を伸ばして覗く誰かがいたことは想像に難くない。少なくとも私だったらそうなるが。
耽美な作風で知られる作家・谷崎潤一郎の短編小説《少年》の中にも、たいそう立派な和洋折衷のお屋敷が登場する。
ひょんなことから級友に遊びに誘われた主人公は、そこで他の子供たちと戯れながら過ごすうち、奇怪かつ艶やかな世界へと足を踏み入れてしまうのだった。
参考サイト・書籍:
青空文庫(電子図書館)
刺青・秘密(著・谷崎潤一郎 / 新潮文庫)
写真の中の明治・大正 - 国立国会図書館所蔵写真帳から -(国立国会図書館)
目次:
谷崎潤一郎《少年》
上の画像は、国立国会図書館ウェブサイトより規約に則って転載した写真。
《少年》の主人公は当時、この水天宮裏の有馬学校に通っていた設定だ。
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町の一廓、大邸宅
《少年》が文芸雑誌「スバル」上で発表されたのは1911年(明治44年)のこと。
作中では語り手(主人公:萩原の栄ちゃん)が「もうかれこれ二十年ばかりも前になろう」と当時を振り返っているので、物語はだいたい明治の半ば頃――ようやく横浜市で近代水道が整備され、東京電燈株式会社が街への送電を開始したあたりの出来事か、と想定できる。
舞台は新大橋のたもと、隅田川沿いに長く伸びる河岸通りの閑静な一角。そこには良家の子息であり主人公の級友、塙 信一(はなわ しんいち)の住む大きな家があった。
ある日、学校から帰ろうとすると栄ちゃんは信一に呼び止められ、うちでお祭りがあるから寄っていかないかと誘われる。どうしてあまり交流もない自分が、と思わないではなかったが、育ちの良いお坊ちゃまに目を掛けられるのは決して悪い気がしなかった。
さっそく一度家に帰って着替え、ただいまの挨拶もそこそこに素早く靴を履いて町を駆けていく。晴れた日の、のどかで暖かな陽の光を浴びながら。
和洋折衷の趣
さて、信一の家は作中でこんな風に描写されている。
長い長い塀を繞らした厳めしい鉄格子の門が塙の家であった。前を通るとこんもりした邸内の植込みの青葉の隙から破風型の日本館の瓦が銀鼠色に輝き、其のうしろに西洋館の褪紅緋色(たいこうひいろ)の煉瓦がちらちら見えて、いかにも物持の住むらしい、奥床しい構えであった。
少々重苦しい感じはするものの、かなり魅力的。他の実在する洋館付き日本家屋と同じく、毎日の営みは主に和館の方で行われているようだ。
そこに暮らす家族の豊かな生活が伺えるのは、建物の外観からだけではない。
信一は嬉しそうに栄ちゃんを家に上げ、自身の姉である光子の持ち物だといって、様々な玩具や絵双紙を広げて見せた。どれもその辺の家では簡単にお目にかかれないような代物だ。
特に彼らが魅入られたのは、旧幕府時代を描いた鮮やかな木版画。それには今しがた首を切り落とした下郎の横で文を読む侍や、寝込みの女に刃を突き立てる忍者、果ては目玉の飛び出た死体が描かれるなど奇怪な場面で満ちていて、まだ十歳程度の子供の好奇心は際限なく刺激されたことだろう。
思えば、面妖なる世界への扉は、この時点でもう少しずつ開いていたのかもしれない。
二人が庭でくつろいでいると何処からか耳慣れない音色が聴こえてくる。それは西洋館の二階から漏れる洋琴(ピアノ)の演奏だった。弾いているのは信一の姉、光子。曰く、西洋人の教師が毎日わざわざ教えに来ているのだとか。洋館には彼女たち以外入れてもらえないのだと彼は言う。
肉色の布のかかった窓の中から絶えず洩れて来る不思議な響き。
………或る時は森の奥の妖魔が笑う木霊のような、或る時はお伽噺に出て来る侏儒共が多勢揃って踊るような、幾千の細かい想像の綾糸で、幼い頭へ微妙な夢を織り込んで行く不思議な響きは、此の古沼の水底で奏でるのかとも疑われる。
演奏が止んでも、主人公はその音色に心奪われ、忘我に揺れていた。
光子は皆に光っちゃんと呼ばれている、少し気弱な性質の少女だった。姉さんといえど所詮は妾の子だから、などと信一に言われたり、日頃から姉弟喧嘩をして痣を作ったりしては、悔しさにぐっと涙をこらえているような様子で――。
彼女の本領発揮に立ち会うには、物語の進展をしばし待たなくてはならない。
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子供たちの怪しげな戯れ
祭りの日以来、主人公である栄ちゃんと大邸宅に住む級友の信一、そして姉の光子はよく一緒に遊ぶようになった。時にはそこに「仙吉」という、屋敷に仕える馬丁の息子が加わることも。
そして、厳めしい鉄格子の門を隔てたこの塙家の敷地内と外の世界では、彼らの関係性はがらりと変わってしまうようなのだ。
例えば、栄ちゃんを家に誘った信一は、学校では常にお付きの女中を従えて片時も離れない姿を周囲に晒している。それで意気地がなく、弱虫だとからかわれているため、友達も少なかった。しかし屋敷の中ではどうだろう。いさかいの中で光子を打ち据えてみたり、自分よりも体躯の大きな仙吉を縛ったり顔を汚したりと、猛獣使いもかくやと思われる振る舞いで闊歩していた。
一方、学校では典型的なガキ大将として君臨し、いつも下級生をいじめている仙吉は、屋敷に来ると飼い主に従う犬のようにおとなしい。自分の親が塙家に雇われている身分の差を考慮しても、信一に呼び捨てにされながら、あまりに従順にご機嫌取りをする姿は奇妙だった。一体、どんな魔力がこの場所に働いているものか……。
それでは以下に、彼らが屋敷で興じていた「ちょっといけない遊び」の数々を紹介しよう。
泥坊ごっこ
この時は仙吉に泥坊の役割が与えられた。栄ちゃんと信一が巡査となって、窃盗や詐称をはたらいた不届き者をこらしめるために奔走するという設定になっている。
信一は物置小屋で仙吉を捕らえると、自分の身につけていた兵児帯をほどいて器用に縛り上げた。両手を後ろに回して固定するだけではなく、紐の余りをくるぶしまで伸ばして、曲げた足の先も一緒にしてしまう。
それからおもむろに小屋の隅の佐倉炭を持ってきて、唾で湿らせてから仙吉の顔に落書きを始めた。罪人の証として墨を入れるというのだ。
仙吉は滅茶々々にされて崩れ出しそうな顔の輪廓を奇態に歪めながらひいひいと泣いて居たが、しまいには其の根気さえなくなって、相手の為すがままに委せた。
栄ちゃんは横でそれを眺めながら、色白で細身の信一が、荒くれ者の仙吉に制裁を加える様子が何となく心地良いと感じていた。
たおやかな少年が大男を征服する絵面を見る快楽。その感覚が一体何処から来るものなのか、彼はまだ知らない。
狼と旅人ごっこ
今度は信一が狼、栄ちゃんと仙吉が野宿する旅人となった。夜中に寺のお堂へ侵入してきた獣が二人を追い回し、最終的に牙を突き立ててその肉を食らってしまう、そんな流れ。
栄ちゃんは初め怖がっていたが、不意に自分の体の上に乗った信一の羽織ごしに人間の体温を検知して、胸を高鳴らせる。まるで本物の動物がするように舌で舐められ、突っ伏した形で押さえられた顔面が足元の土で汚れるのすら何故か愉快に思って、着物をはだけながら彼の言いなりになっていた。
この日はそんな遊びをしている所を屋敷の女中に発見されてしまい、着物を汚したことを咎められたが、彼らはもっと別の部分で後ろめたさを覚えずにはいられなかっただろう。
私は恐ろしい不思議な国から急に人里へ出て来たような気がして、今日の出来事を夢のように回想しながら家へ帰って行ったが、信一の気高く美しい器量や人を人とも思わぬ我が儘な仕打ちは、一日の中にすっかり私の心を奪って了った。
酒盛り遊び
数日経って、暦は桃の節句を迎え、屋敷には光子の雛人形が飾られる。遊びに呼ばれた栄ちゃんは畳の間へ上がったところ、何かをたくらんでいるそぶりの信一と光子を見つけた。どうやら、彼らは供え物の白酒で仙吉を酔わせようとしているらしい。
四人で輪になって、間を置かず仙吉のお猪口にどんどんと酒を汲んだが、同じように飲んでいる他の面々も徐々にふらつき始めた。顔は赤くなり、汗は流れ、視界は揺れて船の底にいるようだ。
酩酊状態で座敷を歩き回ってはくだをまき、均衡を崩して倒れては全員でけらけらと笑い合う。すると、ここからまた別の遊戯が始まった。
狐ごっこ
私と仙吉と二人の田舎者が狐退治に出かけると、却って女に化けた光子の狐の為めに化かされて了い、散々な目に会って居る所へ、侍の信一が通りかかって二人を救った上、狐を退治してくれると云う趣向である。
まだ酔っ拂って居る三人は直ぐに賛成して、其の芝居に取りかかった。
狐役の光子は皆を化かし、獣の糞尿を御馳走だと思い込ませるのだといって、唾で汚れた食べかけの饅頭や豆炒りを皿に盛って二人にすすめる。それらは栄ちゃんと仙吉によってすぐに平らげられた。
やがて侍の信一が登場し、不届き者の狐を退治するために光子に猿轡をはめ、全員総出で身動きのとれない顔や体を残りの菓子類でべたべたに汚した。すっかりぼろぼろにされてしまった彼女だが、その後サッと風呂へ赴いたかと思えば、小綺麗な格好ですぐに戻ってくる。
先ほどの狼藉も全く意に介さない様子で、今度は皆に「犬にならないか」と持ち掛けてきた。
犬ごっこ
文字通りに、彼らは酔ったままわんわんと鳴きつつ、犬のような四足歩行で座敷の中を駆け回った。
しばらくは芸をやらされたり、お菓子のある方へ走らされたりしていたが、少しして信一が本物の狆(ちん)を連れてくる。着物まで着ているから、きっと塙家で飼われているのだろう。
人と獣が一緒になってじゃれ合いながら、時には互いを舐めてまで犬の真似をする。
信一の足の裏は、狆と同じように頬を蹈んだり額を撫でたりしてくれたが、眼球の上を踵で押された時と、土蹈まずで唇を塞がれた時は少し苦しかった。
懸命に信一の指をしゃぶる栄ちゃんはその最中、「人間の足は塩辛い酸っぱい味がするものだ。(でも)綺麗な人は、足の指の爪の恰好まで綺麗に出来て居る」と、恍惚とした気分でいた。
こうして、危ない世界への扉がどんどん大きく開いていく。
刃物遊び
子供たちの戯れは日を追うごとにエスカレートしていった。
ある時などは、信一が浅草や人形町で買ってくる鎧刀を振り回し、紅や絵の具で作った血糊を用いた架空の惨殺事件が繰り広げられる場面も……。
そのうち、信一が本物の小刀を持ってきてこう言い出す。
「此れで少うし切らせないか。ね、ちょいと、ぽっちりだからそんなに痛かないよ」
驚くべきことに、残りの彼らは提案に対して従順だった。目に涙をためて怖がりつつも、手術でも受けるようにじっとしながら、肩や膝にそっと刃が滑るのを眺める。
特に栄ちゃんはまだ母親と一緒にお風呂に入っていた時分だったから、浴室で傷を見られないよう、細心の注意を払わなくてはならなかった。
彼らに大きな転機が訪れるのは、そんな遊戯が一か月ほど続いたある日のこと。
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気弱だった光子の「覚醒」
ここまでの物語で、塙家の一角を占める西洋館の内部は全く描写されていない。ただ、窓からピアノの演奏が漏れ聞こえてくるのみだ。普段は「いたずらをするから他の人間を上げてはいけない」と両親に言い含められているため、光子は彼らを連れて中に入れない。
それでも好奇心を抑えきれなくなった少年たちは、稽古が終わるのを見計らって彼女に詰め寄った。どうしても駄目だという光子を木に縛り付けてくすぐったりつねったり、首を絞めたりして拷問する。彼女はいつものように涙目でされるがままだったが、ついに降参してこう言った。夜に西洋館の鍵を開けてあげるから、陽が沈んでからおいで、と。
栄ちゃんの胸は高鳴った。そこには、信一と光子の父が海外から集めてきた、多種多様な珍しい物品で満ちている部屋があるらしい。待ちきれない思いで、彼は家族には縁日へ行くと偽って、明かりの灯った家を飛び出した。
未踏の西洋館内部へ
カンテラが露店を照らす町の通りを抜けて、再び塙家へとたどり着いた彼。昼間の約束にたがわず、煉瓦の洋館の鍵は開いていた。
扉を押し開けて眼前に広がるのは荘厳な螺旋階段。おそらくは光子が置いてくれたのであろう燭台を手にして、栄ちゃんはそっと二階へと足を進めた。
だが、先に来ているはずの仙吉たちの姿が見えないのはどういうことだろう。言い知れぬ心細さを感じつつ、そっと光子の名を呼んでみたが、返事は帰ってこなかった。より上の部屋にいるのだろうか?
不意に、ワインレッドの光が目を刺激する。それは部屋の中央から吊るされた、大きなシャンデリアの色硝子からくるもの。調度品の家具も金銀に怪しく輝いて、少年の心を引っ掻き回した。突然に置時計までもが音を立てて彼をさらに驚かす。
其の時不意に煖炉棚の上の置時計がジーと蝉のように呟いたかと思うと、忽ち鏗然と鳴ってキンコンケンと奇妙な音楽を奏で始めた。これを合図に光子が出て来るのではあるまいかと帷の方を一心に視詰めて居たが、二三分の間に音楽も止んで了い、部屋は再び元の静粛に復って、緞子の皺は一と筋も揺がず、寂然と垂れ下がって居る。
この描写からも、《少年》という小説が、近代の洋館を探索する怖さとたまらなさに満ちているのが感じられて、気分が高揚した。
天使の肖像と蛇
また、栄ちゃんの立つ部屋の左側には油絵がかかっている。それは乙女の肖像画だった。露出の高い服に様々な装身具を纏い、綺麗な鼻筋と大きな目で真っすぐに前を見つめる少女は天使のように思われ、彼はしばし恍惚として立ち尽くす。
お伽噺に出てくるような美しい姿を前にして。
やがて視線を下に向けると、蛇がいた。
正確には蛇の置き物のようなのだが、燭台で照らして目を凝らすほどに、その頭は動いているように見える。栄ちゃんがぞっとして顔を青くし、震えながら立ちすくんでいると、隣部屋に続くカーテンの奥から白い顔が笑いながら出てきた。光子だった。
黒髪をほどき、洋服と装身具で着飾ったその全身を見て、彼は気が付く。先程の天使の肖像は、他でもない光子を描いたものだったのだ…… と。
「………先刻からお前の来るのを待って居たんだよ」
こう云って、光子は脅やかすようにじりじり側へ歩み寄った。何とも云えぬ甘い香が私の心を擽ぐって眼の前に紅い霞がちらちらする。
小さな王国の女王様
普段とあまりに様子の違う光子の姿に、栄ちゃんは戸惑いと恐れを隠し切れない。
仙吉に会わせてあげるよ、と強く腕を引かれ、真っ暗で何も見えない部屋の方へと連れて行かれる。そこで彼女はこうも言った。お前に面白いものを見せてあげる。
すると、動けずにいる彼の目の前で、青白い光が音を立てて舞い始めた。
部屋の正面の暗い闇にピシピシと凄まじい音を立てて、細い青白い光の糸が無数に飛びちがい、流星のように走ったり、波のようにのたくったり、圓を畫いたり、十文字を畫いたりし始めた。
「ね、面白いだろ。何でも書けるんだよ」
こう云う声がして、光子は又私の傍へ歩いて来た様子である。今迄見えて居た光の糸はだんだんに薄らいで暗に消えかかって居る。
彼女が使ったのは魔術ではなく、舶来の燐寸(マッチ)。父親が買ってきたものの中にあったのだろう。壁を擦ったときに散る火花が先ほどの光だったというわけだ。
光子はその火を燭台に移す。すると、眼前に現れたのは、栄ちゃんの理解を遥かに超える光景だった。
服を剥がれ、手足を縛られた仙吉。
そう、燭台だと思っていた物体は彼。少年はあおむけに胡坐をかいて座り、額に蝋燭を乗せてじっとしている。溶けた蝋が瞼や鼻、唇をふさいで、あごの先からはボタボタと膝の上に落ちていた。加えて切なげな声で、己はもうすっかりお嬢様に降参してしまったのだと告げる。
その横に立つ光子こそが、この奇怪で艶やかな国にたった一人で君臨する、支配者だった。
「栄ちゃん、もう此れから信ちゃんの云う事なんぞ聴かないで、あたしの家来にならないか。いやだと云えば彼処にある人形のように、お前の体へ蛇を何匹でも巻き付かせるよ」
光子は始終底気味悪く笑いながら、金文字入りの洋書が一杯詰まって居る書棚の上の石膏の像を指さした。(中略)
「何でもあたしの云う通りになるだろうね」
「………」私は真っ蒼な顔をして、黙って頷いた。
パブリックドメイン作品なので、以下のリンクから続きと全文が読めます。
谷崎潤一郎 - 少年 全文|青空文庫
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現実だけではなく、文学世界で楽しむ洋館巡りも中々おつなもの。
ちなみに記事中の洋館の写真は、駒場公園の旧前田侯爵邸で撮影したものです。
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