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彷徨する自由帖

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旧前田家本邸|英国の雰囲気を纏う駒場公園の洋館

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参考サイト・書籍:

目黒区公式ホームページ

旧前田家本邸(東京都生涯学習情報)

 

 

旧前田家本邸・洋館

 夏の爽やかな緑を抜けると、忽然と館の入り口が現れる。

 英国カントリーハウスを彷彿とさせる煉瓦の外観、車寄せ、そして……玄関右に聳え立つ、とんがり屋根。

 東京都目黒区の一角、格式の高そうな住宅群に囲まれた駒場公園内には、重要文化財に指定された昭和初期の邸宅がある。当時は東洋髄一と名高かった旧前田侯爵邸だ。その他、旧前田家本邸と呼ばれる場合も多い。

 

 

 これは加賀百万石の藩主、そして大名であった前田家の16代目当主・利為(としなり)が家族と暮らすために建設した邸宅で、大規模な洋館とこじんまりとした和館の二つで構成されている。

 当初は洋館のみを建設する予定だったが、後に迎賓館として、和館の方も併設することになったらしい。

 今までは和館が生活の場、洋館が客人を迎える間、という近代邸宅のパターンを多く目にしてきたので、その点は少し意外に思った。当の前田利為氏は大正2年にドイツへ留学し、昭和2年からは英国駐在武官としてロンドンに滞在していたから、それを通してヨーロッパの生活様式を気に入ったのかもしれない。

 大きな規模でありながら、無料で入場し見学できる旧前田侯爵邸には、当時の華族の暮らしぶりを知る手掛かりが沢山残されている。

 

  • 洋館部分

 

 毛足の長い絨毯に、そっとくるぶしをくすぐられるのは贅沢な感覚だと思う。この屋敷を訪れた人々は皆一様にこの赤い床に迎えられるのだ。

 広い玄関ホールの突き当りには大食堂、手前には大客室と小客室、その間の左手には立派な階段。庭園に面する側は一面が硝子張りの扉になっている。さらに、階段の下には非常に魅力的な空間が設けられていたのだが、これは一体何だろうか。暖炉に付随するもののように見える。

 天井部分がアーチを描くようにくり抜かれ、うっすらとレリーフも施されていて、小窓のステンドグラスは魚の鱗を連想させる幾何学のパターン。果実のようにふっくりした上部の照明もかわいらしい。それらに囲まれて、小さなソファでくつろげる仕様になっている。

 説明によれば、この一角をイングルヌックと呼ぶそうだ。

 

 

 特に用事が無くてもつい引き寄せられてしまうような、言い知れぬ魔力を持った空間だと思う。ここでずっと本を読んだり書き物をしたりしていたい。私がイギリスに滞在していた際も、冬場に暖炉のそばで微睡むのは、何にも勝る至福の時間だったと回想する。

 前田利為やその家族も、しばしばそんな団欒の時間を設けていたのだろうか。

 ちなみに利為の最初の妻・前田漾子(まえだ なみこ)は彼のヨーロッパ行きに同行したが、現地滞在中に病で命を落としている。子供は二人いた。そして、後妻の菊子との間にもうけた子供は三人。菊子は何作か、当時の華族を論じた著書を残している。

 イングルヌック上部に展開する階段に足を掛ければ、あれよという間に時代は遡り、気分はすっかりこの邸宅の住民のものになる。踊り場の壁に設えられた縦長のステンドグラスと、手の込んだシャンデリアが圧巻だった。

 

 

 

 

 光を抱くようにして這う、蔦のような意匠が本当に素敵。その周りをさらに筒のような照明が囲んでいる。付近にある小窓に施された透かしは宝相華唐草をモチーフとしているのだが、文様はそれに似ていた。

 他のステンドグラスもよく見ると唐草が描かれているものが多い。

 前田一家の主な生活の拠点がこの二階で、主に居室や書斎をはじめ、浴室などの設備が揃っていた。それぞれの部屋に暖炉が用意されているのを見て、冬はさぞかし暖かろうなと思う。敷かれたカーペットも温もりを湛えている。逆に、夏場はどうやって涼しく過ごしているのだろう。

 暖炉に付随する煙突が幾つか館の外へと伸びているが、窓からそのうちの一本を眺めると鉄筋で補強されているのに気付く。竣工から長い時を経ているので倒れやすくなっていそうだ。

 

 

 そしてここは、前世で私が実業家だった頃、書斎として使っていた部屋。近所の家に居候している書生がたまに「本を何冊か貸してくれませんか」と訪ねてくるのが可愛くて好きだったのを覚えている。舶来の珍しいお土産を渡すと喜んでくれた。……なお、全てが妄想です。すみません。

 家主の書斎の窓を覆うカーテンは、落ち着いた青色と黄の絵柄の組み合わせで知性と気品を感じさせる。卓の上には黒電話もあった。

 前田利為は、同じ陸軍士官学校に学んでいた同期・東條英機——後の第40代総理大臣とは常に反目し合っていたと伝えられている。しかし、戦時中に搭乗機が何らかの理由で消息を絶ち、亡くなった利為の葬儀で弔辞を読んだのは東條だった。

 その時、一体どんな気持ちでいたのだろう。

 

 

 洋館と和館の竣工が昭和4~5年で、利為の殉死が昭和16年。

 彼の死後、家族は別の場所へと移ってしまったから、この豪奢な大邸宅はほんの10年ほどしか本来の用途として使われなかったことになる。100人以上いたと言われる使用人たちも国許へ帰ったり、付近で別の仕事を探したりしたのだろうか。残された旧前田侯爵邸は、今も日本の邸宅史の中にぽつりと浮かんでいる感じがする。

 こんな風に、もう誰も住んでいない館を徘徊するのが、自分にとって何よりの楽しみなのだと改めて思った。

 さて、婦人室兼居間の隣に移ると半円形の明かり取りが見える。ここが浴室だ。地下一階の、暖房も兼ねたボイラーから湯を調達できる仕組みで、今はもうないが浴槽と様式トイレが併設されていた様子。清潔な感じ。

 

 

 横の部屋には、利為が欧州へと渡った際に持っていたトランクが展示してあった。年季が入っている。日本で前田といえば、花橘を家紋とする美濃の前田氏と、梅鉢を家紋とする加賀の前田氏が著名だが、ここに関係あるのは後者だ。真ん中にはっきりと刻印されている。

 以前、横浜で日本郵船 氷川丸を見学した際にも目にした情報だが、乗船記録のステッカー等が沢山張られていたり、旅の痕跡が多く残っていたりする鞄を持っていると、旅慣れた客として船員にも一目置かれたそうだ。

 外出自粛のボーダーも緩くなってきた昨今、私は切実に旅行がしたい……。飛行機や新幹線に飛び乗って気の向くままに動き回りたい。……閑話休題。

 二階の隅の方にあった、使用人たちが使っていた部屋を覗いて、もう一度一階へと下りた。

 

 

 旧前田侯爵邸内で最も心惹かれたのが、大食堂内にある白く美しい暖炉。上の部分に施された彫刻の細工は、思わず触れてみたくなるほど滑らかだ。よく見るとこれも他の装飾と同じ唐草模様になっている。

 また、部屋の壁紙は旧岩崎邸庭園にあるものと同種の金唐和紙でできていた、貴重なものだった。

 今年で竣工91周年を迎えた旧前田侯爵邸が、これからも良好な状態で保存され、長く一般市民に見学の門戸を開いてくれることを願っている。

 

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