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彷徨する自由帖

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神戸文学館 / ラムネの色の窓ガラス

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 その日はちょうど施設の休館日にあたる水曜で、だから当たり前に建物の門戸は閉ざされていた。私の他には人間もいない。

 神戸市灘区、丘の上の文学館。

 近くにある他の場所を訪れたついでに立ち寄っただけだから、別に落胆はしなかったけれど、今度はきちんと開いている時を見計らって内部も見てみたいと思った。貴重なハンマービーム・トラスの、美しい天井構造を拝めるというので。

 

  白い雲の吹き散らされた蒼穹に、褐色のレンガは良く映える。

 

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 石段にじっと座り、やがて陽が落ちて、右手にある洋風の電灯に明かりが点るまで忍耐強く待っていたい。そうしたら、指先からだんだん様子が変わっていって、一時的に透明になれるかもしれない。

 手持ち無沙汰に開館していない施設の周りをぐるぐる回っていると、まるで山ふもとの里を襲おうとする熊にでもなったようだった。どこかに隙間がないか、もしくは食べ物の匂いがしないか、探している。入れろ、という気持ちで。

 余談だが、熊の害……と書いて「ユウガイ」と読ませるのを、私はこのまえ初めて知った。

 

 現在神戸文学館として公開されている建物は、明治37年に建てられたものだ。

 

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 もとは関西学院の礼拝堂、ブランチ・メモリアル・チャペルで、イギリス人建築家ヴィグノールの設計と、吉田伊之助の施工で完成したものだった。それから関西学院が上ヶ原へ移築されても建物はここに残り、約10年後に神戸市によって買収される運びとなる。

 昭和20年の頃、戦時中の空襲により屋根は落ち、尖塔部分が崩れて炎で外壁も焼けた。

 

 それを建造当時の姿に戻そうと、平成5年に行われた復元。

 設計を担当したのは、近江八幡散策中にも多く名を聞いた一粒社ヴォーリズ建築事務所。実際の建築を新井組が手掛け、こうして、往時の面影が丘の上に蘇った。

 

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 柵の合間から視線だけを差し入れて、釣られている照明の美しい形を堪能する。するとあることに気が付く。奥の方にある、青みがかった窓のガラスの色は、別の壁のところにある透明なものとは少し違っていた。

 外壁に沿って一周してみると、高い位置にもそれと同じ色味のガラスがはめ込まれているのがわかった。空を反射しているからだろう、と最初は思っていたが、どうやら違う。

 調べると、公式サイト上では「ソーダ色」と表現されていた。

 色が濃いものと薄いもの、2種類あるという。なんとも心惹かれる形容である。

 その言葉自体にきらめきがある。

 

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 私はこれらをラムネ色の窓と呼ぶことにした。

 その下、白く曇った方のガラスにも目を凝らしてみよう(写真では判別しにくいのが残念)。四辺を縁取っているのは、細かな葡萄のつる。眺める網膜に触れる、弾ける炭酸の泡を思わせる感触。

 あの夏に売られるラムネに似ているがこれらは板だ。固く、薄くて、割れたら鋭い。

 

 澄んだ碧の窓を前にして、昔、恩師の一人と交わした会話が蘇る。小学校時代の理科教師で、当時の担任だった。

 確か、私はこう尋ねた。融点に達していない物質は固体ですね。それなら、私達の身の周りに存在しているものは一部を除いて、普段ほとんどが凍っているのだとも言えるんでしょうか。って。

 本来「凍る」というのは、水をはじめとした、常温で液体の物質に対してのみ使われる言葉だ。それを前置きした上で、恩師は寛容に頷いて見せた。まあ、そういう考え方もあるのではないかと。

 以来、眼球を通して認識する通常の世界のことを、私はたまに心の中で、偽物の氷の世界と称している。

 

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 それだけでなく、ラムネ色のガラスは「鏡の向こうの色」でもある。

 洗面台の前に立ち、三面鏡の両翼をこちら側に起こして、合わせ鏡を作ってみればよく分かる。無限に連続する像が、ずっと奥の方へ行くに従って、徐々に青みを帯びていく。空気遠近法を使った絵の後景みたいに、かすんで。

 あるいは深更に一人、むくりと起き出して、思い切り深く潜ればそこまで辿り着けるかもしれない。

 私はこの建物がチャペルとして使われていた頃を思った。

 真摯に礼拝堂で祈り続ければ、どこまでも静謐な、澄んだ薄青の世界に到達できるのだろうか。深層に沈んで、目を瞑り、泡の弾ける音を聞きながら、追憶の中を揺蕩うような。

 

 それは冷たい湖に潜って、白く凍りつき閉ざされた水面の向こうを一途に思うのと、とてもよく似た行為になるだろう。