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彷徨する自由帖

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日帰り一人旅:滋賀県 近江八幡散策(3) 水路のある商人の町へ - 八幡堀と日本家屋

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 前回の記事の続きです。

 

参考サイト:

(一社)近江八幡観光物産協会

 

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 琵琶湖の東に広がる近江八幡の地には、一体どんなものがあるのだろうか。

 ヴォーリズの建築、他の近代遺産、それから「近江商人」の家。時代と住む人々の変遷を見守りながら発展した街に流れているのは、表通りは活気に溢れながらも小さな路地は静謐さを保ったまま伸びているような、どこか訪れる人の心を穏やかにさせる空気だった。

 八幡堀の南側に広がる区域は特に整然としていて、碁盤の目とまではいわないが、地図を眺めてみると似た形の四角がたくさん並んでいる。

 JR近江八幡駅から徒歩約30分。

 体力温存のためにバスに乗っても良いけれど、運河に至るまでの周囲の様子を肌で感じながら、土地の雰囲気を自分なりに味わってみるのは他では得難い体験になる。たとえ誰もが知っているような有名なものでも、実際にそれらを見て感じ、確かめた事柄だけはやはり無二のもの。

 いわゆる観光地ばかりに行くのもつまらないが、観光地にあるものだけを頑なに避けてしまうのもつまらない。現地で吸い込んだ空気の詳細な匂いや温度は、どんな本を隅々まで探したとしても、完全に同じ描写を見つけることはできないだろうから。

 

目次:

 

旧伴家住宅

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 近江商人の家は間口が比較的狭く、外観も派手ではなく質素で、どちらかというと内側の方を広く豪華にした造りのものが多いのだと、この旧伴家住宅の受付の方が教えてくれた。

 そもそも近江商人とは、いまの滋賀県の中の地域から全国に商いを展開させていた商人のことを指す言葉。

 彼らは特に江戸時代ごろに最も活発な動きを見せていた。近隣を大きな街道が通る立地を活かして、京都や大阪(大坂)、江戸などの都市に進出したほか、遠くは蝦夷地などにも触手を伸ばしていたという。

 旧伴家住宅の起源を辿ると、伴庄右衛門という江戸時代初期の豪商に行き当たる。彼が本家として建てた商家が基盤となって、現在も残る、七代目能尹(よしただ)によって建設されたこの建物が誕生した。

 

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 建設年代は江戸時代の後期。着工から完成まで十年以上もかかったと言われている家は、遠目からでも存在がよく分かる3階建ての造りだ。

 この頃は町屋の高さに関して、2階建てやそれ以上の建物を設けてはならないという決まりがあり、天井にかけられる梁の長さも制限されていたのだが、旧伴家住宅は規定を大きく超える規模の建物となっている。それが当時の地域における近江商人の力を示している要素だと考えられていて、在りし日の彼らの立場が伺えた。

 伴家は畳表や扇子、蚊帳、麻織物などを生産し販売していたそうで、1階の土間から上がってすぐの場所には蚊帳を主に作っていた頃の古い貴重な看板が展示されていた。

 広い邸内では沢山の従業員が並んで作業に勤しんでいたらしく、単なる住宅というよりも、むしろ工房といった方が実態に近かったのかもしれない。畳の上にたいそう大きな面積の布が広げられ、加工されていく様子を想像する。それはどこか漣や雪景色に似て、幻想的ですらある。

 

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 通常の公開日に見学できるのは、太い柱と梁が支える45畳の大広間が見どころの2階まで。そしてパンフレットによれば、3階部分には「ジシンの間」と呼ばれている空間があるのだとか。

 どうやら江戸時代には、不審者や火災に目を光らせる役職の「自身番」が存在していたとのことで、旧伴家住宅の中でも窓から町の半分ほどを見渡せる部屋がそう名付けられたと考えられているそうだ。

 最上階に上れなくても屋根裏の吹き抜けを下から眺めることができ、40センチ角の大黒柱や高さ70センチを超える胴柱、丸太梁と、そこに立っているだけで建材の持つ迫力に圧倒される。

 加えて印象的だったのが、展示物として設置されていた極彩色の巨大な「左義長(さぎちょう)」。毎年、干支の動物をモチーフとしたダシで飾られ、左義長祭りの当日は各地区同士でこれをぶつけ合い、通称「ケンカ」を行う。最後に炎を用いて左義長を燃やす奉火が行われ、祭りの終わりとともに本格的な春の到来を祝うのだった。

 

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 精巧な動物の像や他のパーツは全て、穀物や寒天など食品になる素材でできている……。

 

 江戸時代に著しく興隆した伴家だが、その末期からはどういうわけか衰退の一途を辿り、商売に幕を下ろして家系も途絶えた。よくあることなのかもしれないが、旧伴家住宅を見学し、最盛期に思いを馳せてからその事実を知ると興味深い気もする。

 明治に入るとこの建物は八幡西小学校や図書館としても利用されており、現在復元されているのもその時の状態である。展示物のなかの校長室の机や椅子のほか、塗料で塗られた壁の感じ、窓の金具などがそれらしかった。

 今だと不便なことの方が多そうだけれど、昔なら、こんな空間で学びを深められるのは良いなと思う。教科書や道具箱を背負って通ってみたい。

 

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 旧伴家住宅の入館料は400円。

 通りを挟んで向かいに建つ、市立資料館との共通入館券は800円になる。

 

 

 

 

 

八幡堀

 北西へと進み続けると、日牟禮八幡宮とこちら側との岸を隔てる八幡堀に行き当たった。

 ところで私は水のある場所、町を訪れるたび、それについて熱を入れて言及している気がする。好きなのだろう。自分のことながらはっきりとした理由は分からないが。

 

 

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 八幡堀は琵琶湖に繋がっている。

 そもそも、そこから水を引くために設けられた水の路だったのだ。16世紀後半、戦国の安土桃山時代に、豊臣秀次が八幡山城を築くにあたって城下町が整備され、土地の血管として人や物を運んだ八幡堀は町の発展の礎となった。

 白雲橋の親柱のそば、大きな常夜燈を見上げて昼夜の賑わいを想像する。建物から漏れる明かりだけでは周囲をあまねく照らすことはできず、壁と壁の隙間に常に何かが潜んでいた頃の様子を。湿った石で足を滑らせないように、どこかから呼び止められても(そういえば本所七不思議に「おいてけ堀」というものがある)安易に振り返らないように、気を付けて。

 石段を使って水面の近くに下りるとき、わくわくしないことのほうが少ない。

 

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 まだ明るい午後の水路の両脇には、料亭や蔵造りの建物が並んでその景観を構成していた。

 漆喰で覆われた土蔵の壁や分厚い窓の扉は、和三盆糖のお菓子みたいだと私は常々思っている。上の写真だと特に、施された花の形のような文様が特にそれらしい。そうっと舌を這わせたら、きっと一瞬のうちに溶けてしまうような甘い味がするはずだ。突然勢いよく駆け出して壁にかじりついたら、狂人だと思われてしまうだろうか。だってお腹が空いたのに。

 平日というのもあって人通りは少なく、舟の往来もない。岸に横付けされて水と風に揺られるままの舟は眠っている動物みたいに見える。陽射しを浴びてうとうとと。

 一般には乗り物であり、種類によっては家にもなる、海や川の上に浮かぶもの。

 

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 横道に逸れると魅力的なレンガの壁と扉もあった。

 水路の側から眺める建物は正面でもあり裏口でもあるから、また階段を上って地面を通る道路の方に立ってみると、不思議な感覚が残る。勝手に中庭を覗いて帰ってきた風の心持ちがする。

 おはなしの中で川は異なる世界を隔てるものと相場が決まっているし、他の場所とは空間の質が違うからそう思えるのかもしれない。

 八幡堀の脇を歩ける区間はとても短いけれど、濃く、凝縮された空気にはそれを意識させない深みがある。足を動かしながら吸い込んでは吐き出した。師走の気温が、息を煙のように白くする。

 

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家々の壁の不思議な文字

 近江八幡に限らず滋賀県内の住宅に見られる特徴で、印象的なものがあった。

 はじめは新幹線の中からぼんやり外を眺めていて気が付いたのだ。滋賀県の県境を越えたあたりで、民家の壁に、不思議なものがたくさん確認できるようになった。それらは、過去に旅行した国内のどの地域でも目にしたことがなかったもの。

 

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 屋根の下の壁のところ、何か突起の上に書かれた文字のようなものがある。なじみのない意匠なので第一印象は「怪しい」だったし、少し怖くもあった。知らないものは恐ろしい。

 調べてみると、この文字は「水」というものであるらしい。まるでひらがなの「ゐ」のような形、これで水と読ませるのかと頭をひねり、古籍のくずし字の表を見て草書体なのだと納得した。他にも、楷書の漢字に近い水の文字が大きく書かれているものもあるという。

 どうやら、かつては庶民に許されなかった懸魚の役割を異なる形にした、火伏(火事防止)のおまじないに端を発するものらしい。

 不思議な儀式の行われている県に迷い込んでしまったかと不安だったけれど、杞憂でほっとした。

 

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 そして突起だけが残り、文字はもう消されてしまっている家もある。

 近江八幡のほかに安土、彦根、米原で電車を降りたが、どこに行ってもこれがあった。意識して探そうとしなくても見つけられるくらいだから、国内の他の場所に比べて本当に数が多いのだろう。面白い発見となった。

 

 

 近江八幡の散策記録は次の記事に続きます。