最近訪れた温泉旅館で、「ユリ根」を使った料理が提供された。
初めて見るそれは文字通り植物の「『百合』の根っこ」であるらしく、人間でもこういうものが食べられるのだとは今まで全く知らなかったので、詳細を教えられながら味わった。小鉢の中央におこわが盛られ、その丘の頂上にユリ根の切片がふたつかみっつ、まとめて乗せられているもの……。
温かく、やわらかな食感がよく蒸したじゃがいもに似ていて美味しかった。印象や形がにんにくにも近いというのは後から調べて気付いて、なるほど確かにそういう感じだったかもしれない、と回想する。
きちんと味を知ってしまったので、もしもこれから先に見る夢のなかに百合の花が出てくるとするなら、きっと私は真っ先にその根を喰らおうとするに違いない。手足のない虫に姿を変えて、土に潜って、陽光の及ばない場所で宝物のように守られている根を目の当たりにしては恍惚とする運命にあるのだと思う。
表面に歯を立てずにはいられない。たとえまだ蒸されても、煮られてもおらず、硬いままの根っこであったとしても。
それは生々しく、不安になる白さで、たいそう綺麗な見目をしているはずだと想像を膨らませた。実際とは違う想像上のユリ根を。どこかの屋敷からふと気まぐれに庭に出てきた深窓の住人と同じく、普段は隠されているものがいきなり自分の眼前に晒されると、否応なしに連れ出してみたくなるような気分に近いものを感じさせられる。
百合といって、根ではなく花の方から真っ先に連想させられるものといえば、私にとっては夏目漱石の小説《夢十夜》の第一夜に登場する一文かもしれない。
作中の「自分」によって、「真白な百合」が「鼻の先で骨に徹(こた)えるほど匂った。」と述べられる部分。
骨にこたえるほど……。
かつて高校現代文の授業で取り扱われなければきちんと身を入れて読んだかあやしく、当時、題も内容も一応把握したのにこれといった印象を抱かなかったから、初めて《夢十夜》に触れた時の自分はおそらく何とも思わなかったのであろう。
漱石が遺したものを知り、すっかり大好きになった今ではとても考えられない、実に勿体ないことであるのだが。閑話休題。
「真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った」という描写、この箇所を読むたび、私の脳裏に閃くのは教室だ。そう、片側が廊下に面し、もう片側には校庭に面する窓が一列に並んでいた、以前通っていた小学校の教室。2022年で創立150周年を迎えたわりと古い学校なのだが、私の在学中の校舎の新しさはまあまあだった。
小学4年、当時のクラス担任がとても植物の好きな人で、季節ごとに異なる種類の花を花瓶に活けて飾っていた。
その中のひとつには百合もあった。だいたい、色は白いものだったと記憶している。桃色のではなく、花弁の表面にそばかすを思わせる斑点がついているものとも、オニユリのように鮮やかなものとも異なっていた、白くて大きな百合。
私はその香がとても好きだった。
独特かつ強くて、百合が花瓶にさしてある時には教室いっぱいに漂っていた、あの感じ。振り返ると実は苦手だった子も多くいたのではないかと思うくらい、百合の香には固有の癖が、本当の本当に「骨の芯まで浸透してくるような」湿度がある。感触自体は柔らかいのに、こちら側がどれほど身構えていても、いざそれを吸わされると何もかも根本から挫かれてしまうような。
窓から教室へと風が吹き込むたび、花の本体から発された香が千々になって、空間に漂う。
《夢十夜》に描かれた「百合の匂い」はなんと的確なのだろう。
それから無視できないのは、花全体の造形もそうだ。たおやかでありながら弱々しさとは無縁で、けれど、どこか放ってはおけない感じが醸し出されている。むしろ、百合という植物自体が積極的にそれを演出している……とでも表現できそうな雰囲気。
真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。
そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。
(新潮文庫「文鳥・夢十夜」(2003) 夏目漱石 p.33)
本当なら露がひとつ(どれほど高い場所からこぼれた雫であっても)落ちたくらいで百合の花や茎は揺らがない印象なのに、わざと、作中で「自分」という人物が目の前にいるからこそ、百合は自らを「ふらふらとさせて見せた」のだと思わずにはいられない。
実際にはある種の「弱さ」も持つ花なのかもしれないが、私にはどうしてもそのように思えてしまう。ずっと、この植物が醸し出す芯の強い感じにこそ注意を向けさせられてきた。
存在を無視できない。
その匂いに惹かれて静かな教室で、百合の雄蕊の茶色い花粉をちょっぴりつついて落としてみたり、時には雌蕊の方の先端の、ぬらりとした粘液でつややかに覆われた部分をこれまたちょっぴり枝や葉でつついてみたりと、構わずにはいられなかった。授業中でも変わらず気になったし、魅了されていた。
友達に百合の香の話をしてみたら「その強さゆえに、食事のテーブルを飾るのには向かないとされる花」なのだと言われて、室内の置く場所で花を分類するやり方が確かにあったことを改めて思い出したというか(私は普段、結構そういうことを忘れている)やはり一般的にも香りが強いと認識されている花なのだ、百合とは、と思った。
同時に少しだけ残念だった。
あのあまりに鮮烈な匂いが、もしも「自分にだけ知覚できるもの」であったなら、多分今でも十分に好きな百合の花をもっと好きになっていただろう。百合の凄艶な感じは別に、私にだけ理解できる類のものではなく、わりと皆がその魅力を知っている……ということらしかった。