参考サイト・書籍:
青空文庫(電子図書館)
文鳥・夢十夜(著・夏目漱石 / 新潮文庫)
虞美人草(著・夏目漱石 / 新潮文庫)
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夏目漱石が1908(明治41)年に発表した短編小説《文鳥》。
初めて読んだときは、冒頭から中盤にかけて、これは作中の「自分」が文鳥を飼うこととその様子を、淡々と繊細に描写した話なのだろう……と勝手に思い込んでページをめくっていた。
実際、そんな感じで物語が進むのだ。しばらくの間は。
だが中盤、とある段落に差し掛かってから、全ての描写がまったく違った色を帯びて目の前に現れてくる。
以前《倫敦塔》の感想を書いた際にも言及したが、漱石は「今ここにいないもの」の幻影を、まるで柔らかな霧や雨の向こうに在るがごとく描写するのが、本当に巧みだ。
《文鳥》は読者の官能に訴え、たとえば心の影の、少し湿った場所を手の甲でそっと撫ぜられる感覚と、割れた硝子の破片を拾おうとして指を切るのに似た痛みを、胸のどこかに残していく。
※この先、物語の内容や詳細に言及しています。
※また、生き物を飼育する行為やその死の描写が苦手な方には、読むことをおすすめ致しません。
目次:
あらすじ・概要
ある年の秋、十月。
主人公である「自分」の元に三重吉という人物がやってきて、ぜひ、鳥を飼ってみてはどうだろうか……と、唐突に提案をしてきた。
それに対して適当に是と答え、これまた適当な額の金をぽんと渡しておいた結果、三重吉はかなり時間が経ってから文鳥と籠、餌の粟などをもって、再び彼の家を訪れる。
霜が降り、戸を二重に締め切った、火鉢が必要なくらい寒く冷え込む初冬の日に。
作中の「自分」は、小説を書いているようだ。
飯と飯の間はたいてい机に向って筆を握っていた。静かな時は自分で紙の上を走るペンの音を聞く事ができた。伽藍のような書斎へは誰も這入って来ない習慣であった。
彼の人物像は、著者である夏目漱石自身とかなり重なる。
また、実際の門下生にも鈴木三重吉という帝大生がいて、作品中に鳥を多く登場させるなどしていた。それから後に筆子という子供も出てくるが、これも漱石の長女と同じ名である。
主人公は文鳥の世話の仕方をひととおり教わったが、どうも朝に布団から出るのが億劫だったり、仕事に集中していたりと、他のことに気を取られて世話がおろそかになりがちだ。それでもたまに家の誰かが水や餌を換えてくれることもあり、文鳥との生活は続いていた。
小さな生き物を眺めているうちに、彼は誰かの面影を想起する。
昔し美しい女を知っていた。
(中略)
文鳥が自分を見た時、自分はふとこの女の事を思い出した。この女は今嫁に行った。自分が紫の帯上でいたずらをしたのは縁談のきまった二三日後である。
この女性というのが、漱石の養父の妻の連れ子であり、一時期(小学生時代)ともに暮らしていた期間があった、ひとつ年上の日根野れんを意識して描かれているのではないかと推測されている。
彼女はそのあと、軍人の家に嫁いだ。
それからというもの、主人公はときおり昔の女性の幻影を、文鳥の仕草や煙草のけむりの中に視るようになった。飼育の日数が経過するに従って、鳥のさえずりは頻度を増し、音も磨かれて美しくなる。
籠を縁側に置けば、「伽藍のように静かな書斎」に高らかな鳴き声が響いたものだった。
文鳥は箱から出ながら千代千代と二声鳴いた。
だが、小説の執筆は佳境を迎えて忙しくなるし、相変わらず朝もだるくて遅くまで起きてこられない。
そのため頻繁に文鳥の世話は忘れられ、昔の女の面影も浮かばなくなる。遅く帰ってきた夜などは、ついにその存在すら意識の外に追いやられた。
やがて、ある日籠の中を覗いてみれば、文鳥の躯は硬く冷たくなっていた。
彼はその亡骸を掌に抱いてから座布団へと放って、下女を呼んで片付けさせる。
鳥を飼うきっかけとなった三重吉へと書いた手紙には、「家の者が」餌をやらないから死んでしまった、勝手に飼っておいて残酷なことだと、その責任を他者へ転嫁するような言葉を連ねて送った。
手紙の返事の具合はこうだ。
午後三重吉から返事が来た。
文鳥は可愛想な事を致しましたとあるばかりで家人が悪いとも残酷だともいっこう書いてなかった。
この、物語の最後に凝縮されている苦みがなんとも表現しがたい。
彼自身、文鳥の死は誰よりも自分の不精に責任があるのだと理解した上で、他にどうしようもなかったのだろう。きっと主人公は生涯を通し、折に触れて、その怠惰から一羽の鳥を死なせてしまったのだと思い返すに違いない。
あらすじだけを辿れば随分とあっさりしている。この短編の妙は筋書きよりも、文章そのものにこそ宿っている。
読者にもたらされた、ぎこちない終わりの余韻はささくれ立っていて、傷口が空気に触れるのも不快だと感じるほどだが……それでも各ページに凝縮された美しさは失われない。
《文鳥》の魅力
前半と後半で、作中に登場する要素の意味するところや、示唆するものが大きく変わる。
そのうち文鳥の一挙一動が「もういない人」の姿に重なり、その対象への柔らかな想いが、決して直接的には描かれていないのに痛いほど伝わってくる。
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表出する著者の感覚
同じ著者の小説「虞美人草」に、こんな一節があった。
女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必ず女である。男は必ず負ける。具象の籠の中に飼われて、個体の粟を喙んでは嬉しげに羽搏するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音を競うものは必ず斃れる。
(新潮文庫「虞美人草」(1951) 著・夏目漱石 p.33)
なるほど、漱石の考える「女性のとある一面」は、彼の作品中ではこのように表現される場合があるらしい。
女性が物事に相対する際の様子を、籠の中で粟をついばむ鳥に見立てる感覚は、実際に自身が鳥を飼ってみたことで培われたものなのだろうか。「虞美人草」の発表が明治40年で、「文鳥」の初出は明治41年の頃であるから、時期としては近い。
それを踏まえたうえで、当時の彼が持っていた視点に思いを馳せる。
また、作品の中にときおり登場する縁談という言葉。
主人公が三重吉からたびたび相談を受けているらしいのが、どうやら若い誰かの縁談であり、文章中では「例の件」と抽象的に言われている出来事のようなのだ。
翌日眼が覚めるや否や、すぐ例の件を思いだした。
いくら当人が承知だって、そんな所へ嫁にやるのは行末よくあるまい、まだ子供だからどこへでも行けと云われる所へ行く気になるんだろう。いったん行けばむやみに出られるものじゃない。世の中には満足しながら不幸に陥って行く者がたくさんある。
彼の語り口からすると、あまりこの縁談には良い印象を持っていないようす。そもそも縁談という、本人の意思以外のものが多分に介入する婚姻に対して、少なからず疑念を抱いている風にもとれる。
文鳥を眺めていて思い出した昔の美しい女性。
主人公がその人に「紫の帯上でいたずらをした」のは、彼女の「縁談のきまった二三日後」のことだった。わざわざその要素を話の中に登場させているくらいだから、きっとこの縁談にも何か思うところがあったに違いない。
上の引用で「いったん行けばむやみに出られるものじゃない」と言葉にされたその直後、次の段落で文鳥の死を目の当たりにする部分も、なんとも示唆的である。
なぜなら、飼われた鳥は基本的に籠から出られないので。
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思い出し、視ることの官能
もうこの場所には存在しないものや誰かの姿を、何らかの依代(この場合は他ならぬ文鳥である)に憑依させて瞼の裏に呼び起こす行為は、どこか胸を高鳴らせる。
小さな鳥の動きが、ぼんやりと彼の記憶の中の女性に重なる。
(人差し指を籠に)少し無遠慮に突き込んで見ると、文鳥は指の太いのに驚いて白い翼を乱して籠の中を騒ぎ廻るのみであった。二三度試みた後、自分は気の毒になって、この芸だけは永久に断念してしまった。
昼間からこんなにもデリケートな、壊れやすく美しいものに触れる文章を読んでいると、真顔にならざるをえない。
わずかに心拍数が上がり少し落ち着かなくもなるが、それはどちらかというと立ち上がってその辺をふらふら歩き発散するよりも、静かな部屋で座ったり寝転がったりして噛み締めたくなるような種類の、非常に繊細なものだ。
この女が机に凭れて何か考えているところを、後から、そっと行って、紫の帯上の房になった先を、長く垂らして、頸筋の細いあたりを、上から撫で廻したら、女はものう気に後を向いた。
その時女の眉は心持八の字に寄っていた。それで眼尻と口元には笑が萌していた。同時に恰好の好い頸を肩まですくめていた。
当時の主人公がこの女性のことを具体的にどう思っていたのか、その感情がつぶさに描かれている部分は作中にない。ただ、ああこんな仕草をしていたな、こんな印象だったな、という彼の追憶が、淡々と文章で提示されるだけだ。
それなのに、どうして相手を慈しむ眼差しや優しさが、ここまでひしひしと伝わってくるのだろう。
朝、気怠くて布団から起きる気になれないままに煙草を吸う。新聞に目を通すのも面倒で、文鳥の籠も出してやらなければならないが、難儀で仕方がない。
すると吐き出した煙のなかに昔の知り合いの女性が現れる。以前、些細ないたずらを仕掛けたときのように、ちょっと首をすくめて眉を寄せた相好で。
それを幻視した主人公はにわかに居住まいを正して羽織を引っ掻け、縁側へと出るのだ。
昔紫の帯上でいたずらをした女が、座敷で仕事をしていた時、裏二階から懐中鏡で女の顔へ春の光線を反射させて楽しんだ事がある。女は薄紅くなった頬を上げて、繊い手を額の前に翳しながら、不思議そうに瞬きをした。
この女とこの文鳥とはおそらく同じ心持だろう。
昔の女性が彼の心の中に残した思い出と、過去の美しい触れ合いの情景が尊い。
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観察の結果を言葉で綴る手腕
人生を通して、文鳥という生き物を実際に眺めた経験が全くなかったとしても、この「文鳥」を読むとその姿が鮮やかに浮かんでくるから本当に不思議だと思う。
単純に生き物の特徴を並べただけの文章なら、まずこうはならない。
漱石の観察眼とそれを別の形にする表現力、双方が揃っているからこそ描き出せたものなのだ。
文鳥の眼は真黒である。瞼の周囲に細い淡紅色の絹糸を縫いつけたような筋が入っている。眼をぱちつかせるたびに絹糸が急に寄って一本になる。と思うとまた丸くなる。
籠を箱から出すや否や、文鳥は白い首をちょっと傾けながらこの黒い眼を移して始めて自分の顔を見た。そうしてちちと鳴いた。
もはや観察日記のお手本のよう。「ぱちつかせる」という言い方も私は好きだ。
作中には他にも「真珠を削ったような爪」で止まり木に掴まる様子や、粟をついばむときに嘴が容器を叩く澄んだ音、寒い日に片足だけを出しているところなど、はっとするほど細やかな一幕が並んでいる。
水浴びの直前に聞こえた音のたとえも綺麗。
縁側でさらさら、さらさら云う。
(中略)
雛段をあるく、内裏雛の袴の襞の擦れる音とでも形容したらよかろうと思った。
こればかりは私が説明をするより、実際に本文を読んでいただいた方が伝わる。当然だが……。
今まで、なんだか難しそうだと思って漱石作品を敬遠していた人でも、この「文鳥」は短編なのできっと取り掛かりやすい。
読者の世代や好みをあまり限定しない、広くおすすめできる作品。
パブリックドメイン作品なので、以下のリンクから全文が読めます。
夏目漱石 - 文鳥 全文|青空文庫
紙媒体で読みたい方はこちら。
上の新潮文庫版巻末に掲載されている、三好行雄氏の解説もかなり良いです。
「平凡な日常性のかなたに〈夢〉を透視する漱石の資質……」という表現が使われていて、適格だと思います。夢といえばいずれ「夢十夜」のブログも更新しますのでお楽しみに。
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他の漱石の短編紹介:
近代文学いろいろ: