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彷徨する自由帖

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海をグラスに1杯 - 金沢八景の喫茶店オリビエ|神奈川県・横浜市

 

 

 

 

 金沢八景の駅を出て、シーサイドラインの高架橋を辿るようにして進み始めると、少しして頭上を走る列車に追い越される。姿が見えなくても、音がするので分かる。

 右手側に住宅街、そして左手側には小型の船舶が横付けされた岸。陸地と海との境をなぞるような位置を通る高架橋の軌跡は、長く伸びて……やがて大きく海の側に逸れた。並ぶ太い柱は視界の外に続いてゆき、野島公園や八景島がその先にはある。

 横から風を受けて歩道を道なりに歩き続ける。

 しばらくしたらコーヒーと書かれた旗がはためいているのが見えてくるだろう。不思議な形にまるく切り抜かれた白い外壁から奥まった場所、水色の扉には営業中の札がかかっていて、取手を引くと想像以上に軽い感触でベルの音とともに開かれた。

 

 

でんわ☎でんわ

 

 楕円形の看板を一瞥して中に入る。

 日曜日の午後1時、店主氏がひとり、カウンターにもお客さんがひとり、とても静かだった。段差を下りるとボックス状の席が点々とある。4つあるうち埋まっているのはこれまたひとつ。窓際に着席して鞄と上着を置けば、メニューがやってきた。どの喫茶店でも見られるような一通りの飲み物が揃っていて……悩み、今日は泡立つ海を飲もうと決めて片手を挙げた。

 ソーダ水にしよう。

 店主がカウンターの向こうに戻ってしばらくすると、プシュ、とボトルを開ける音が響く。あれこそ炭酸水だと想像して目を瞑る。浜に打ち寄せる波の泡を思わせる液体がグラスに注がれるとき、何色の、そしてどんな風味のシロップが、どのくらいの分量そこへ一緒に注がれるのか。店によって結果が大きく違う難問に頭を悩ませた。

 

 

 色の答えは、青。

 液体という形を持たないものが、透明な「器」に規定されることではじめて特定の形に収まる。この感動は上野の王城でも過去に感じた。グラスの曲線は宝石のカット。そして青い色をしたソーダ水は、物語の中にしか存在できない海の深いところと、浅いところの水を汲んできて、きっかり半分ずつ混ぜ合わせ作られたもの。

 砕かれた氷が浮かんでいるのはそのお話の舞台が冬だったからで、すべて溶けてしまうまでの短い時間、確かにこちらの世界と物語の世界とのあわいに漂い続ける。背後に映るソファの赤色がわずかに透けると、透けて見える部分だけ水の色は暗く、深い青となる。

 木製のトレーにコースターがぴったり収まり、余白のある別のくぼみにはナフキンと、サンタの絵が描かれたキャンディと、お菓子のエリーゼが添えられていた。エリーゼが今回のダンスの相手のようだ。

 

 

 ソーダ水の炭酸は中くらいか、もしかするともっと優しい舌触りだったかもしれない。強炭酸ではなかった。

 目をぱっちりと開かせるよりは、例えば休日の昼食後に流れる緩慢とした空気に寄り添うような、細やかな泡が作り出す味わい。はかない甘さ。反面、存外にしっかりと固有の「味」を感じられたけれど、色つきのシロップの常、具体的に何を模した味なのかを推察するのは難しい。リンゴのようなイチゴのような、他のもののような不思議な香りと風味。

 氷が徐々に溶けてくると当然その濃さが薄まってゆき、色も味も変化する様子を楽しめた。エリーゼを一口ずつかじり、さらにキャンディを転がすあいだに。

 本を開いておとなしくしていたら、ただ静かだと思っていた店内には、ずっと音楽が流れていたことに気が付いた。サックスの旋律、ピアノの声、BGMの音量がこれまた絶妙で、会話や思索の邪魔をしない程度に、けれどはっきりと耳に届く。あんまり居心地が良いので、驚いた。

 

 

 本を読みながら1時間くらいぼんやりしていたと思う。

 午後2時頃になってくると客足が伸びて、カウンター席が常連さんたちで埋まり、残りのボックス席も一杯になった。潮時だった。気が付くと、店主のおじいさんはおばあさんに変わっていた。秘められた力を使って変身したのでなければ、単に交代したのだろう。

 会計を済ませて出入り口の扉に手をかける。来たときと同じく、その軽さに驚く。強風が吹いたら飛んで行ってしまいそうな軽さだ。それがこの喫茶店への入りやすさを反映しているような気もし、はじめての来店にもかかわらず何度も足を運んだことがあったかのような錯覚に包まれて、午後のお茶の時間は終わった。

 

 金沢八景の喫茶店、オリビエ。

 

 

 

 

Odai「わたしの癒やし」

赤い服を着て白く長いひげを生やしたおじいさん

 

 

 

 

 大きな窓の上に穴を開け、そこに紐が通されたような商品を1つ買った。紐は赤、白、交互にねじられて、ステッキ型のキャンディを彷彿とさせる趣。口に入れたら甘いかも。

 深緑の針葉樹が茂る区域に設けられた柵の内側では、たっぷりとした赤い布の服をまとうおじいさんが大きな布袋(革袋、かもしれない)を両手で逆さにし、明かりが漏れる建物の中へと大量の小箱を注いでいる。

 翼を持つふたりの天使たちがその傍らで果物を抱え、もうひとりは地面に落とした幾つかを拾いながら、順番を待っている。

 右下に金で記されたA Joyful Yuletideの文字。少し、古めかしい語句だ。

 ア・ジョイフル・ユールタイド。

 

 

 街を歩く人々が上着を羽織り、さらにそのうち半数くらいが首にぐるぐるとマフラーを巻きつけるようになる頃。色々なお店に「赤い服を着て白く長いひげを生やしたおじいさん」の描かれた商品が、たくさん並ぶ。

 木にくくりつける金銀の装飾品に囲まれた、そのおじいさんの絵が印刷された品物の数々を見ていると、温かいような寂しいような気持ちになって、家に帰りたくなったり、でも同時にそのまま違う土地に行ってみたくなったりもする。不思議。

 赤い服を着て白いひげを生やしたおじいさんは、絵の中では大抵、微笑みを浮かべているようだ。

 彼の周囲にいる子供たちも、背中に翼を持つ小さな者たちも、リスやクマやノウサギなどの動物も誰ひとりとして悲しそうな顔や怒った顔はしていない。星の見える夜空の下、世界は危険な場所ではなく、家屋の開口部から漏れる橙色の灯りで照らされるための舞台になっている。オーナメントで飾られたモミの木のそばには、飢えや欠乏や、嘆きや苦しみもないのだ。

 どこまでも綺麗で、だからこそ私はむしろ奇妙なほどはっきりとした疎外感を感じるのだろう。

 しかし、決して入れない場所は、足を踏み入れることができないからこそ際限なく美しいままで在る。

 

 魅力的なものをモチーフにした商品がたくさん見られるこの季節が好きだった。

 

 

 

 

 

Odai「これ買いました」

黄金色をしたワームスプアーの模造品:P・A・マキリップ《ホアズブレスの龍追い人》

 

 

 

 龍の残留物、になぞらえて呼ばれる強いお酒……苦い金色のワームスプアー。

 短編「ホアズブレスの龍追い人」に登場する。

 

ペカはワームスプアーを作ることもできた。本土で学んだ数少ない役にたつことのひとつだった。彼女が作ると、どういうわけか苦味がなくなった。豊かにけむる黄金のなかで熟成して、鉱夫たちに筋肉の痛みを忘れさせ、果てしなくつづく冬に彼らから不思議な物語をすこしずつ引き出していく。

 

(マキリップ〈ホアズブレスの龍追い人〉(2008) 大友香奈子訳 p.12-13 創元推理文庫)

 

 太陽がふたつ存在する世界の中央にあり、13か月ある1年のうち、12か月間は雪と氷に閉ざされたホアズブレス島。そこには鉱夫たちとその家族が多く住み、金の採掘を生業にしていた。

 島から本土に渡ったはいいが学校教育にうんざりし、5年で再び島へと帰還した娘、ペカ・クラオは、あるとき同じように外に出て島に帰って来た青年、リド・ヤロウに遭遇する。彼は龍を追う者なのだと彼女に告げた。ホアズブレス島は氷の龍の吐息のせいで凍り付いている。だから寒さに凍える皆の厳しい生活を良くするため、これから世界の果てに龍を追いやってしまうつもりだ、と。

 作中でワームスプアーは印象的な装置として働き、時に直接、時には比喩としてその存在や性質、味が描かれ、読んでいると自分も飲みたくてたまらなくなってくるのだ。金色をした苦みのあるお酒、自分に身近なものといえばビールなどがまず思い浮かぶ、でも本文の感じからすると、ワームスプアーはどちらかというと、ブランデーやウイスキーに近い質感であるような気がする。

 喉を焼くような、あの熱い一口。

 

 

 先日クラフトコーラの原液を買ってきて、炭酸水で割ったら、きれいな金色になった。

 少しもアルコールの含まれていない、炭酸と各種香辛料だけがぱちぱちと刺激的な甘い飲み物だけれど、想像力を駆使して杯を傾ければちゃんとワームスプアーの模造品になる。精神を研ぎ澄まして、確かに黄金色のお酒なのだと念じて。勢いよく飲むとむせてしまうところなどは結構似ているのだから。

 100円ショップのグラスに、同じ100円ショップで見つけた、柄の末尾の方に水晶を思わせる飾りがついているスプーンをマドラー代わりに添えても、氷と鉱山の島ホアズブレスを連想させられるようになって楽しかった。

 龍が眠りながら吐き出す吐息の中、凍った宝石の小山を下り、歩き続け、やがてその本体に出会う。道中で寒さを紛らわせたり、傷口に吹きかけたりするものがワームスプアーだ。

 ペカはその熟成に際して、己の心を含めた、あらゆるものを込めるやり方を知っている。

 

「なかになにを入れたんだい?」
「黄金」「火、石、暗闇、たきぎの煙、冷たい木の皮のにおいがする夜の空気」

「すべてよ」

「それと龍の心臓が入ってる」
「それがホアズブレスだとすればね」

 

(マキリップ〈ホアズブレスの龍追い人〉(2008) 大友香奈子訳 創元推理文庫より)

 

 例えばシングルモルトウイスキーをゆっくり、舌で溶かすように味わって、そこに灰色の煙や、木でできた樽の気配や、重なる地層の土、潮騒と海の風までもが溶け込んでいるのを感じる時がある。

 だから、ペカが上の台詞で語ったようなものたちがワームスプアーの中にもある、とはっきり思い浮かべられるし、模造品も美味だったけれど叶うならば本物に触れてみたい。この地球には実在しないお酒に。

 そうしてほんの束の間、身の内に抱くだろう。ホアズブレス島と、その心臓たる巨大な龍が秘めていたものの欠片を。

 

はてなブログ 今週のお題「最近飲んでいるもの」

 

 

 

 

切り分けた心を奪われる(または巧妙に、自分から差し出すように仕向けられる)ような

 

 

 

 外側の世界で生きる難しさに、必要以上に親切な人間だと思われてしまうと破滅する可能性が高くなる、というものがひとつ数えられる。

 

 脳裏に、陽当たりのよい高台に建つ小さな家の、中でもいちばん大きな窓がある白い部屋を想像した。内側の世界にはないものを。

 そこでは丁寧に6等分した円形のパイが皿に乗り、四角い机の中央部に置かれている。ほとんど感じられないほどかすかに発酵バターの香りがする。果物でも肉でも魚でも、鉱石でも織物でも、紙に記された事柄でも……都度、異なる中身が生地の格子でできた牢の内側に詰め込まれ、閉じ込められている。

 6等分ならばその数に対応する6人か、余りが出るそれ以下の人数でパイ片を分けるのが、きっとちょうどいい。困らなくて。そう思うのに、なぜかこの世界では、それを必ず7人か8人程度で取り合わなくてはならないような環境に置かれるのが常だった。理由など知らない。ただ、6切れのパイを分けるのが6人であってはならない、と、不可解なことを言われる。

 誰に? 人……に。

 それで呼び集められた人間たちがどうにかこうにかしてパイの切れ端を奪い合い、理由があれば譲り合い、最終的にあぶれた1人か2人の人間はいつのまにか「いなくなって」しまう。消えてしまう。外の、世界から。

 

 あまり親切な人間だと思われてはいけない、というのはそれに似た状況で消されてしまわないために役立つ知恵。

 他人から親切だと評価されることによって、自分の像は「他が駄目でもこの人になら何かを頼んでもいい」「他が無理でもこの人になら許してもらえるかもしれない」などの印象と結びつき、どこかで大きく歪められて「この人にだったら何でも遠慮なく要求していい」が石板に刻み込まれる。紙の表面にインクで書くよりも深いところへ、強固に。

 そうすると、いつも丁寧に切り分けている(もしくは細かく砕いたり、それからひとつずつ配ったりしている)心のかけらを、なぜか断りもなく勝手に持って行かれそうになる。

 一度に全部がなくなると心は場に存在できなくなってしまう。

 数に限りのあるそれらを、誰に対して・どのように分配するかは私の裁量で決められるはずで、他人が欲しいときに欲しいだけ奪えるようなものではない。本来なら。そんなことを試みた者の方も、勿論ただではすまされない。

 しかし親切という印象が胸に油断を抱かせるのか、人間に対する態度を誤った度合いまで軟化させると、境界線の内側に踏み込もうとする靴だか素足だかの先が闇の向こうから見えてくる。なので、適度に自分が決して善良ではなく、意識によって武装しており、保身としての防衛を第一に考えていますよと示すことで、盗難の被害に遭う機会を未然につぶせるのだった。

 私は「あなたに」「何かをしてあげるために」「存在している」のではなく、そうでなくても、ここにいる。自分が大事、優しくありません。あまり寛容でも温厚でもありません。場合によっては、嫌だと感じたら、誰かを見捨てる時もあります。容易に手の届かない場所まで去り、いつか気が変わるまで戻りません。

 そう、わざわざ看板を立てておかないと、いけないのだろうか。言葉にするまでもなく当然のことを……。

 

 でも、もっとも厄介なのは、相手から要求されることではない。そう思う。

 厄介で恐ろしいのは、強制的にではなく自発的に、心の一部なら進んで差し出してもいい、と思わされてしまうこと。加えて、そう思わされる状況に置かれることの方……だから広義の恋は劇物なのだ。何かに心を傾ける。この世界に存在しているものの中で、ある特定の何かを、時にはひとつではなくいくつもある何かを気に入って、意識を割く。いつの間にか自分自身ではなくて、対象のことを考えている。

 それは劇的に、甚だしく、一方ではゆっくりと蝕む毒のように回り切り、たまに生物の息の根すら止めてしまう。当然の帰結として。普段あれだけ慎重に配分している「心」を、際限なく注いでいれば、その献身の持ち主はもちろん沢山のエネルギーを消費する。自覚のあるなしにかかわらず。

 多少は自分を損なってもいいから、相手に捧げてみたい、そういった衝動に一瞬でも身を任せたくなる情動の恐ろしさ。輪をかけて恐ろしいのは、それがとても美しく見えるからで、何かのために生きるのはそこまで怖いことではないのかもしれないという淡い錯覚を抱かせる。それは違う。実際に恐ろしいし、とても怖いことだ。自分と向き合う時間が減ることは。

 ただそれを理解し、道なき道に分け入る覚悟を持ってそうするか、あるいは無自覚に迷い込んでしまうか、の差異があるだけ。

 

 心は、外野からよこせ、と言われれば「嫌だ」とはっきり反発できるけれど、自分の内から湧き上がってくる「あげてもいいかもしれない」は、どうにも抑えることができない。

 残酷な話。こんな残酷な話が、あっていいわけがないのだが。

 だから、何かを好きになることは文字通りの敗北なのだった。

 

 

 

 

茉莉花茶とアイスクリーム

 

 

 

 

 中古の食器を扱うお店を物色した結果、ノリタケのボーンチャイナ(骨灰磁器)製品から、廃盤になったシリーズ「カリフパレス」のティーカップとソーサーを手に入れた。

 コーヒーと兼用ではないティー専用のティーカップらしく、口径がとても広く、いれたての熱いお茶を飲むのに適したごく浅いつくり。全体的にかなり薄くて、釉薬に覆われた表面の艶と白色には言葉にしにくいなめらかさ、なまめかしさがある。唇や舌からは味までもほのかに感じられそうな。実際にお茶を注いだら、水の色が本当に綺麗に見えるものだからすっかり感動していた。

 取手をつまんで横からティーカップの輪郭を確かめると、波打つ青緑のふちから底部、設置点にかけての曲線に僅かなくびれがあって、だから浅いところと深いところの推移がこういうグラデーションになるのだろうと分かる。淡い彩りの草花が舞うカップ内側の柄の見え方も美しかった。

 良い買い物をしたものだ。

 

 

 私は熱いものを食べたり飲んだりするのが非常に苦手なのだけれど、思えば、いつもそのことを半分くらい忘れている。ぐらぐら煮立ったお湯から抽出したばかりのお茶を前にしている時であっても。今の季節のように室温が低いとなおさら油断が生じるのかもしれない。さっきも少し勢いよく液体を吸い込んでしまって、口内の上顎の方が腫れた。

 夜のあいだ何かを読むための用意として、でも一般的には眠る前に推奨されるようなノンカフェインの飲み物が全く好きではないので、用意したのはシンガポールのお茶屋TWG Teaのジャスミンクイーン。

 緑茶ベースに茉莉花の香りづけを施したフレーバードティー。立ちのぼる香りはシャープ、はっきりとしていながら、味わいの方はどちらかというとまろやかで、より長めに蒸らして濃く出した方が私の場合はおいしいと感じる。TWGのジャスミン茶はなんというか雰囲気がやさしめ。ガツンと来るお茶よりも、リラックスできるお茶が好きな人にきっとおすすめできる。

 これを強めに吸い込んでしまったから口の中が熱で焼けたのだ。せっかちなので、抽出後にさっそく注いだ1杯目が十分に冷めるまで待てなかった。だって早めに飲むのがいちばん、美味。ぬるくなっても楽しめるお茶は確かにある、それもまずはあつあつの状態で飲んでみないと、温度が低い状態の風味と比べられない。

 ちなみにいわゆる猫舌を克服する方法として「舌先に熱い飲食物を触れさせない」とか「液体は啜るようにする」などという対策を耳にするのだが、残念なことに私にはあまり当てはまらないというか、とにかくある程度の温度を持つものを食べると、その食べ方はどうあれ否応なしに口の中を火傷したような状態になるので仕様がない。鋭い痛みとしての熱さを感じ、味覚が通常の状態に戻るまでもしばらくかかる。弱いらしい。強くなりたい。力さえ、あれば……。

 そういう時にどうするのかというと、冷蔵庫を探ってアイスクリームがあれば出し、食べる。今日はミルク味だった。バニラではない。金属のスプーンですくった、甘く冷たくてまだ硬さのある小さな塊を口の中でゆっくり溶かす。最後にその液を飲みこむ。アイスクリームの類、粘膜が火傷気味の方が、通常時よりも幾分かおいしく感じられるのは面白い。状態異常が治癒されているように感じられるからかもしれない。

 

 

 ジャスミンティーに、アイスクリームの方のミルクは合う。

 

はてなブログ 今週のお題「最近飲んでいるもの」

 

 

 

生活それ自体の哀しさ / そこに本が存在する喜び

 

 

 

 

 自分が純粋な「生活」の概念を苦手としているのは、例えば人間が存在して、寝たり、起きたり、働いたりしてまた眠り、目覚める、その繰り返しにこれといった意味を見出せないのが最たる要因だろうと思っていた。ときどき疲れてしまう。だから、単純に生活するだけではいくら頑張っても精神面の充足が得られず、あまり熱心に取り組む気になれないのだと……。

 加えて最近、生活の中でただ楽しむための料理(例:写真はそのうちのひとつ、カマンベールアヒージョ)をしばらく続けてみて、分かったことがある。この根本的な徒労の感覚について。

 徒労。

 より詳しく表現するなら、それなりに一生懸命作ったものが、食べてしまうとあっけなく目の前から消えてしまうことの、動かしがたい圧倒的な空虚さだ。これはとても大きい。本当に、心の底から哀しかった。完成した料理の味がまずければむしろ片付けに清々するのかもしれないが、おいしければおいしいほど、尚更しょんぼりとする。そして、調理器具や食器を洗っていると、その念はいや増してくる。

 だって、自分の行為の成果はあくまでもぼんやりとした「満腹感と満足感」としてしか残らず、しばらくすればまた人間のお腹は空く。まるで、全部が幻だったみたいに。

 この手の感覚は長く持続しない。しかも、繰り返さなくてはならない。洋服を着る、着ると汚れるので洗う、それで綺麗になったのをまた着ると汚れる、では再び洗う、そういった循環によく似ている。達成感は一体どこにあるというのだろう。何も見えない……。

 だから哀しくて、作った料理の写真をわざわざ撮るのかもしれなかった。家での食事でも外食でも、画として証拠が残るから。

 するとああ、自分にもきちんと何か作れたんだな、とか、今日はひとつ面白い経験を積み重ねたな、とか思えるので悪くはない。残した写真は物質であろうとデータであろうといつかは消えるが、それは別に他の事物と全く変わらないことで、感じる虚しさの種類は生活に対して抱く虚無感とまた少し異なる性質を持っている。

 せっかく作っても食べれば無くなってしまう料理を黙々と味わっているあいだ、もうひとつ感じるのは強い閉塞感。これに関しては、本を手に取って読んでいると幾分か軽減されていく印象がある。

 書物に記された事柄は作者からの問いかけにも似ていて、それは発行され世に出た時点で、読者の方へ投げかけられているもの。だから、どれほど時間や空間を隔てていても、感じる部分があれば何かを受け取ることができるので、驚くほどの広がりと多岐に渡る繋がりがあるのだった。

 誰かの知識、誰かの物語と、今を生きている自分の意識が文字通りに交差する場所があり、まるで部屋に居ながらにして違う場所を歩いているような気分にもなれる。素晴らしいことだった。

 一方で自分の料理と食事は、自分で食べるためのものを自分で作り、食べたらあっけなく終わってしまう、その時点でもうどこにも行けないのではないかという恐怖を感じさせる。手の届く範囲が著しく狭く、しかも前述したように、達成感とは程遠い終わり方だ。なぜならこのとき十分に満足できても、いずれまた空腹による食事が必要になるので、ふりだしに戻ってしまう。

 できる対策としては、これもまた証拠を残しておくことが最も有効で、そうすればある程度はきちんと区切りをつけられるしただの幻覚にならない。

 なぜ作ろうとしたのか。何を作ったのか。何を食べたのか。何を感じたのか。それが、何になったのか。残るなら、少しは料理を楽しめるようになる気がする。また記録を残すこと自体を動機にできれば、生活全般への意識、気の持ちようがずっとましなものになる。

 このごろよくやるのが、読んでいる本の中に登場する食べ物と近いものを食べてみる、という試み。パンとチーズが出てくればパンとチーズを食べ、焼き魚が出てくれば焼き魚を食べてみる、みたいなやり方で。

 きっかけがあって、特定のものを食べたいと感じる。その気持ちに必然性を見出せると、がぜん、もしかしたら今日の暮らしは良いものだったかもしれないと思える瞬間が生まれるのだった。

 

はてなブログ お題「自分しかわからない気持ち」

 

 

 

 

猛犬注意

 

 

 

 青森県、浅虫温泉に宿泊した、昨年の秋の話。

 

 水平線の手前に浮かぶこんもりとした島影を横目に、昨夜宿泊した辰巳館での朝食を済ませ、外に出て表通りを歩いていた。

 陸地の反対側で何にも遮られず広がる空に、細い指で千切られた綿の形の雲がなびいていて、時間が経つごとに徐々に数を増やしていく。この調子だと正午を迎える前には天気そのものが曇りになるかもしれなかった。

 海由来のものを口にして海のそばを歩いていると、どういうわけか身体の一部が沖から来る風とうっかり同化しそうになる。お茶を飲んで念入りに歯を磨いたとしても食材の奥底に隠された風味が、あるいはそれらが陸に上がる前に生きていた場所に満ちる水の残滓が、いまだ、元いたところへ帰ろうと強く働いている。

 朝食でまっさきに思い出すのは平たい貝殻。立ちのぼる強い潮の香り。火にかけられた貝の上にグラタンのごとく具材が煮えていて、あとから溶いた卵を流し込み、よくかき混ぜて食べる料理。柔らかい食感の……料理。最近、料理の「名前」というのが何も分からない。

 

 東京は墨田区にあるたばこと塩の博物館の、常設展示で言及されていた内容を振り返る。人間や他の生物が生存するのに、水だけではなく一定量の「塩」を必要とするのはまるで、私達がかつて生まれたとされる海に惹かれているようでもあると。だから月の満ち欠けと、潮の満ち引きに影響を受ける。

 人によっては失笑を買いそうな発言だが、私は "神秘に満ちた" この独特の感じや香りがあまり得意ではなく、だから普段はあまり魚や貝を食べない。それもあって、こうして稀に海の近くを訪れ、新鮮なものをいただくのがなおさら楽しみでもあった。当日、ここで採れた中でも厳選された種類のものを、ほんの少しだけ食べる。贅沢な話だ。

 贅沢なことが好きだった。

 

 大通りをぶらついていると、かつてはショーウインドウか何かだったのか、正面の一角が大きくガラス張りになった建物が道の片側に見えてくる。

 宿屋か雑貨屋か、飲食店か分からないけれど、とにかくもう営業をしているようではなく、ただ建物の奥の方が引き続き住居として使われているみたいな印象を受けた。ガラスの内側、手前には段ボールが置かれていたり、簡易的な椅子や机が見えたり。

 そこに1匹の犬がいた。

 床に身体を伏せた状態から首をもたげて、通りがかった私の影に反応するように顔を上げていた。体長は、丸まった状態で抱え上げられるかどうか判断に迷うくらい、いわば中型の成犬、毛は短くて真白い色。尻尾は細長くもふんわりと膨らむ。耳はぴんとした三角形で、鼻は桃色だった。表面がわずかに濡れて陽に当たり、光っていた。

 

 どちらかというとお年寄りに見える。日光浴でもしていたのか。ガラス壁のそばで、見えてはいる大通りから安全な場所に隔てられ、手足を畳むように軽く体を湾曲させて。そこでなんとなく視線を戸口の方に向けた私は、縦に細長いステッカーが貼られているのを見つける。

 鈍い銀色の地に黒い漢字4文字で、猛犬注意、と書いてあった。

 猛犬?

 足元の白い犬に目を戻す。射し込む午前の眩しさに黒い眼をわずかに眇めて、眼球をうるませ、静かにこちらを見返している様子は、とても「猛犬注意」という言葉が喚起するひとつの像からはかけ離れていた。あたかも今、目覚めたばかりだと言うみたいに、周囲に何があるのか把握しようとして思考を巡らせている(と、見ている側に思わせる)姿。

 三角の耳は立ち、開口部が前方に向けられている。風の音も話し声もガラス越しではかすかにしか届かないだろう。その糸口を掴むためになのか、そうではなく常に耳は建てた状態でいるものなのか、こちらからは伺えない。ただじっと、この世界を通り過ぎてゆく全ての足音を聞き、それら全ての持ち主である生命に思いを馳せていると信じたくなる表情で、犬はぱちりとどこか億劫なまばたきをした。

 とても、眩しそうに。一切の鳴き声を発することなく、完全に起き上がることもなく。

 私はその白い毛が反射する光の眩しさと、不可解な神々しさを前に、目を細めた。

 

 かつてこの老犬にも、激しく猛り暴れる犬だった時期があったのだろうか。

 それとも、あくまでも注意喚起の名目で貼られたステッカーが戸口にあるだけで、犬は昔からこうして穏やかな気質を隠さず過ごしていたのだろうか。偶然その前を行き過ぎただけでは真相など分からない。

 白い猛犬は、在りし日の夢をこちらに少しも開示する素振りを見せず、元あった位置にそうっと頭を戻して日光浴を続けた。そこからもう、私が立ち去るまで目と目が合うことはなかった。

 

 

 

 

 

週間日記・2023 10/2㈪~10/8㈰

 

 

 

月曜日に記事公開。その後、1日ずつ順次追加されます

 

週間日記・2023 10/2㈪~10/8㈰

 

10/2㈪「10月へようこそ」

 

 やっとこの時期がやって来た。

 10月の夜を愛している10月生まれだから、今が本当に過ごしやすくてずっと終わってほしくない。

 でも、たとえ10月の秋が過ぎ去ってしまったところで、「私達」にはそこまで影響がないのだ。頭の中にいつでもこの季節を飼っており、必要ならそこへ行くことができる。ただ、それにどれだけの労力を要するか、その違いが体感する現実との軋轢として現れてくる。そういう人間達にとっては。

 春や夏は本当に生きるのが大変な季節。花粉や猛暑に辟易しながら束の間の秋を思うのは、それはそれで楽しいこと。一方で冬は訪問。憧れていて、かねてより遊びに行きたいと願っていた子の家にようやく上がらせてもらうような気分で、外を歩ける。だから冬も好きだった。

 大きなティーポットに牛乳をなみなみ注いで、そこにアマレットを混ぜて、寝る前に飲む。杏仁豆腐の味だ。これはそのまま飲んでもおいしい。28度なのでさほど強いものではないけれど、それでもきちんと喉や舌がぴりぴりするリキュールは大好き。ときどき、アブサンや電気ブランが恋しくなる。あれらは良い。

 今日は2冊本を買った。

 小川洋子「密やかな結晶」講談社文庫

 ジョン・コナリー「失われたものたちの本」創元推理文庫

 最近、浴室に文庫本やKindle Paperwhiteを持ち込むことを覚えた(覚えてしまった)ので、新しい入浴剤と石鹸が欲しい。その時読んでいる作品ごとに変えられるよう、何かふさわしいものを複数用意できれば。

 読み終わった本を図書館へ返しに行くついでに買って、帰る計画を立てる。

 のぼせすぎると最悪死ぬ、でも適度に長めの入浴は体重や体型の維持にも効果があるので、ずーっと湯船に浸かっているのに書籍は大活躍。

 私は温泉が大好きなのに比較的早く上がってしまうのだけれど、その理由が、暇だから。入浴中でも空いている時間に何かしなければ無駄なような気分になって疲れてしまう。どう考えても病気の一種だが、本さえあればもちろん話は別。それがあるだけで、むしろ、お湯への浸かりすぎに気を配らないといけなくなる。

 

10/3㈫「羊飼いの寝台の下で」

 

 途中だったサリー・クルサード「羊の人類史」を読了。私にはとてもよい本であった。

 そのうちとある章では、かつて平地で用いられた移動式の羊飼い小屋について、種類ごとに説明がなされており、特に4つの車輪がついた小屋の記述が胸に刻まれた。前部には蝶番の扉、側面には雨天時でも内側から羊を監督できるようにシャッターが設けられ、中には羊飼いが夜に眠るための寝台がある。

 簡素なベッドの下には……そう、これが最も私の心を捕らえたもの……すなわち「囲い檻」なる設備が備わっていたという。では何を囲う檻なのかといえば、仔羊だ。元気がなかったり、負傷したりした仔羊を屋内に置いておくための、保護領域。

 これが、小屋の中のどこかではなくて羊飼いの寝台の下部にある。

 あまりにも素晴らしいので頭がくらくらした。囲い檻!

 私もそこに入りたい。潜り込みたい。草を食んでいる最中、岩にでもつまづいて脚を折るなり何なりし、傷に優しく軟膏を塗られ、さらに白樺の樹皮を上から巻いてもらおう。痛くはない。ともかく、怪我をしさえすれば魅惑の囲い檻に入れてもらえるのだから。

 狭い空間にうずくまる。外がすっかり暗くなると、いつも自分たちを見守ってくれている羊飼いが寝台に横たわる音がして、やがてこの上なく死に近い静謐な寝息が耳に届く。そこで、脚の折れた自分は、世界のどこにいるよりも安心して眠ることができる。

 薄目になってベッドの下からそっと移動式小屋の内部を観察した。折り畳み式テーブル、小型の鉄ストーブ、医薬品も一緒に収められた食器棚。ウイスキーの瓶が1本。明日になったらあれを数滴、舐めさせてはもらえないだろうか? 傷に効くかもしれないと切実に訴えて。

 人間の意識を取り戻してから自分の布団に寝転がって寝返りを打ち、枕の向こうにジッ……と耳を澄ますと、下で仔羊が身じろぎをする音が聞こえるような気がする。白い巻き毛に覆われた体躯が、床に触れる。その音を捉えるのに最適な夜だった。朝になったら雨が降っている、とはとても信じられない真夜中の天気。

 今日買った本は、伊井圭「啄木鳥探偵處」創元推理文庫。

 

10/4㈬「夜に住まうことができれば」

 

 まほやく(魔法使いの約束)のオーケストラコンサート、チケットが当選したので着て行ける服を買おうと思った。できればコートとマフラー、タイツさえあれば12月の寒気でも耐えられそうな素材のワンピースで、気に入った意匠のものが見つかるといい。最近腕時計も欲しくなって困っている。

 ところで、真夜中の特定の時間に目が覚めてしまうのは、どういう要因で引き起こされている現象なのだろう。人によって異なるので調べてみても仕方なく、きちんと自分の状態を鑑みないと分からない。

 決まった時間に布団に入ったら、そのまま決まった時間まで眠れて、さらに著しい困難を覚えることなく起床できる……果たしてそんな日は来るんだろうか。なんとなく来ない気がした。

 この前も「外に出よう」と決意し、どこへ行くかもきちんと考えていたのに、まったく体が動かず起きられない日があった。そうして夜になると自己嫌悪がひどくなる。起きてさえいればあれもできたし、これもできたのに、と虚しい感じが溢れてしまって救えない。

 どう行動を調整してみても眠れない日と寝すぎてしまう日が出てきて、一定の時間よりも早く目が覚めてしまうと、鬱々としてくる。朝日を浴びると世界を呪いたくなってしまう。習慣化されればこれも健康上よいものになるのだろうか、何というかとても信じられないけれど。夜に起きているとどこまでも集中できるのに、頑張って早く寝て、少しでも早い時間に覚醒しようとすると、そこからもう1日中だるいときもある。

 うまく言えないのだけれど、朝の時間帯はなぜなのか、ずっと気分が悪い。

 さらに、怖いことを沢山考えてしまう。だから苦手。

 夏目鏡子さん(漱石の妻)も「漱石の思い出」の中で私と似たようなことを述べている。朝型と夜型の人間は遺伝子に差異があるとする説も有力らしいし、やはり活動が得意な時間帯と向かない時間帯、というのはあるのだろう。世間に合わせやすいのは朝型かもしれないがどうしようもない。

 図書館で手に取った小森陽一「漱石を読みなおす」(岩波現代文庫)は偏りが少なくて、さらに著者の語り口に作品への誠実さが現れていて、同じ漱石好きとして楽しく読める本だった。新たになるほどと思えた示唆もいろいろある。名前の話など。

 そう、再来週にピーター・S・ビーグル「旅立ちのスーズ」が発売されたら同時に、その前作にあたる「最後のユニコーン」の電子版を買おう。これらは2冊一緒に読んでしまいたい。

 

10/5㈭「バス」

 

 時刻表と呼ばれる小さな看板の前に並んでいると、やがて横に長い大型の車が来る。

 それには料金を払うと乗ることができ、乗客は硬貨で支払いをするものもいれば、電子決済のカードを用いるものもいた。座席はだいたい後ろの方から埋まっていく。みんな黙々と、まるで遠い土地に住む知人の慰問に赴くような沈痛さを全身から醸し出しているが、ほとんどの人たちはただ家に帰るだけなのだ。

 満員になった車は発車した。アナウンスの声は、低く、窓や壁や床をびりびりと震わせる。それは乗客に、船が係留していた場所から広い海原に漕ぎ出す際のような不安を抱かせる。「つぎ とまります」という言葉の「つぎ」とは、どこだろう。もしかしたらバス停のことではなくて、どこかこことは異なる場所にある、とても怖いところを指しているのかもしれない。

 私は運転席に比較的近い側の座席に腰掛けて、自分の左斜め前方、ほとんど横と言ってもいいところに立っている誰かの靴を眺めていた。

 そしておや、ずいぶんと大きな靴だな、と思う。

 黒い革靴で、つま先の形はどちらかというと角ばっていた。何の変哲もない意匠の靴だ。ただ、規格外の大きさだけが印象に残る。顔を上げることはしない。私の視線も顔も、手元の本へと向けられていて、視界の端にはかろうじて、右側の窓の低い位置から外の様子が見えた。日没の時間に空がまだ明るく、橙や蒼に色づいていると、手前にある雲は灰色になって煙のようだった。

 大きな靴の持ち主は頭上でなにやらブツブツと呪文を唱えている。無意識に聞き取ろうとする意識を押しとどめて、文字の列を追う。もしも意味を解したら頭がおかしくなってしまうかもしれない。何かの間違いで人間のバスに入り込んできた、まったく別の存在が近くに立っていることを実感した。

 祈るような気持ちでいると、やがて薬局の前の停留所で、その靴は下車していった。少しも足音を立てることはなかった。ようやく顔を上げると保護者の腕に抱かれた幼子がいて、その肩に丸い顔を載せながら、不意にこちらを見て「エヘヘ」と笑った。なんて恐ろしい。

 家に帰るのは命がけの行為。街には、いろいろなものがいるから。

 

10/6㈮「幸福よりも、満足よりも」

 

 すすめられて「はじ繭2023summer」から入ったTRUMPシリーズのうち、ミュージカルを連続で視聴した。新旧リリウム、マリーゴールド、ヴェラキッカ。感想は後日、個別の記事にて。

 鑑賞しながら贅沢に爪を切っていた。

 爪をいつもより短めの長さに整えると、驚くほどキーボードを打ちやすい。あまりにも快適なのでびっくりした。本当はあと1~2ミリ程度指先から出るくらいが見た目にはいいのだけれど、色々と作業がしやすいので、しばらくはこのままでいると思う。

 それにしても生活を愛することができず、何もしていないでいるという状態に耐えられないのだが、身近な人間と話すとそれが色々な側面から浮き彫りになる。気が付かされるのは、意義や意味、価値、そういう「どうして自分が今の世に生きなければならないのか」という幻想を半ば脅迫的に求めていた方が、呼吸がしやすい人間も中にはいるということ……。

 例えば、何もせずともそこに存在してただ息をし淡々と心安く生活を送っているだけでよいのだ、と、言われても、楽になれるどころか苦しいだけだった。退屈でとにかくつまらなくてつまらなくって仕方がなかった。

 私の周囲にはそういう人が多い。

 そして、そういう退屈からどうにかして逃れようと、焦燥に突き動かされている人達が私は好き。世間がどれほど滑稽だと判断しても。お前に価値はあるのか、と友人たちに鋭く問われることは、すなわち存在を認められること。

 単に娯楽に耽溺するにしたって、どんなものを見ても、聞いても、体感しても無心にはならない。優れたものや好きなものに触れると、次は自分自身で描きたい風景がどんどん頭に浮かんでくる。それらを漠然とした状態から、少しずつでも文字の形にして「現実」に変えて、記録していかないとつまらない。私という個が何もせず生きることと、そんな状態をもうひとりの私の視点から観察することがつまらない。

 記録、記録、記録。大好きなのは記録することと記録されたもの。

 人間が無意味なことは知っている。各々が勝手に何かを見出しているだけで、そこに何かがあるわけではない。だから必死で生存価値を追い求める人を愛すると同時に、実際には存在しない「物語に登場する木こり」に対しても、ときどき強い思いを向けることになる。そういうのもいいな、と思うのは本心だ。でも……。

 ただ生きること、生活そのものを愛せればきっと人間は「幸福」になれるだろう。寝て起きて、それだけに満足する。だが、私は実は幸福になりたいのではなくて、常に満足することがないまま、何かし続けていたいのだとも思う。もしも満足したら、それは死に似ていて、心の何かが永劫に停滞し「終わって」しまうから。

 今日も100均で買った大きめのノートに架空の景色や、かつて見た情景や、感情を書き出していた。それらを読み返したり書き直したりするあいだ、やはり楽しかった。また明日、明後日、絶えずそこに書き足されるだろう。きちんと生きている。記録がされなければ、何者も生きていたことにはならない。

 少しも痕跡が残らなければ存在しないのと同じ。

 

10/7㈯「砂抜き」

 

 食べ物を口に入れて、咀嚼したとき、まれにとても嫌な音がする場合がある。

 実際、何が混じってしまっていたのかを確かめることはない。すぐに吐き出して捨ててしまうから。多分その音の出処は様々だが、まさに砂、としか形容しようのないじゃりじゃりした感触は共通していて、歯に当たれば一瞬で脳に伝わり全ての食欲を奪う。

 砂に似た食感の異物は必ずしも料理全体を蝕んでいるわけではないのに、混入していた箇所だけでなく、残りの部分までも食べようとする気がすっかり失せてしまうのは、人間に備わった危機を避けたがる習性のあらわれなんだろうか。

 この後に尾を引く独特の不快さは、食事だけではなく他の物事……例えば自分の情動や心境などを観察していても、ときどき得られてしまう。

 何かを楽しんでいる最中に入る邪魔。身体に干渉するのではなくて、思考の方に作用する要素とか。私はおいしいかき氷に舌鼓を打っているとき、目の前で「かき氷はまずい」「馬鹿舌」などと述べられたらすごく嫌だ。そういう場合、あ、砂を詰められた、と判断する。

 食べ物に混入した砂と同じで嫌な感触が残るから、何かを読んでいたなら続きを読むのが苦痛になるし、何かを視聴していたのなら、続きを見る気持ちが萎えてしまう。まったく無視して気にしないということができない。忘れることもできない。ただ、蓄積されていく。延々と。

 私は貝の砂抜きを思い出す。

 アサリやハマグリなどを調理する前に、しばらく水に漬けて砂を除去する行為。

 

※書いている途中で気絶したのでこの日はここまで

 

10/8㈰「カモのブローチ」

 

 本当のところ、自分が果たして何を感じ、どのように思っているのかを、自分自身では『確かめる』ことができない。恐ろしいものだ。私は誰で。どんな人間なのか。常に、私から見た『私なる対象』を前に尋ねる必要が生じていて、けれど、根本的に確認の達成は不可能である……という状況。

 以前は、心を持てば問いが始まるのだと思っていた。しばらく経ってから、心の在処やその存在の有無すら、どんな方法を用いたとしても確かめられないのだと理解して嘆息した。私には心が何か分からないし、他に分かる人間もこの世にはいない。ただ、問いだけがあらゆる事物に織り込まれるようにして、不可分な状態で在る。

 夕方、月曜日に買っておいた小川洋子の小説「密やかな結晶」を読み終わった。

 読んで私が考えたのは、1匹のカモのおはなし。机の上に置いてある、カモ(オスのマガモ)の形をしたブローチが、この部屋に流れ着くまで辿ってきた道筋の物語。

 ——水辺から離れた山道を歩いていたら、瀕死のカモが大樹の根元にうずくまっていた。

 大きな怪我のせいでその命はすでに失われようとしている。血が流され、小さな黒い瞳が乾き、瞼は永劫に閉じられようとしている。そのおはなしの中だと自分には少しの力があり、カモの傷を癒すことはできたけれど、どうやら延命を試みるには遅すぎたようだった。さらに厳しい規則で、死んでしまったものを蘇生させるのは禁じられている。

 そこで私は完全に臓器や精神の活動が停止する前に、カモをブローチへと変容させることにした。

 もたらされた結果として鼓動の音は消え、呼吸の息吹も感じられはしないけれど、カモの命そのものは失われるのではなくて形を異にして世界に固定された。

 ブローチになってもその羽毛のツヤは、釉薬の澄んだきらめきとして受け継がれていた。粘土で象った輪郭は怪我をしていた状態よりも幾分かふっくらとして、細い首はうなだれることなく、しゃんと芯をもって頭が前の方を向いている。首の白い輪には忠実さが宿っていた。黄色いくちばしには、誇りが宿っていた。

 自分がそれを身に着けて色々な場所に赴くほど、カモは多くの旅をすることになる。

 黒い眼の奥には、常に新しい風景が存在しない網膜から反転して、脳ではなく魂に映し出されるだろう。私は不安な時に、カモのブローチを指で触り、何度も撫でさする。感触が記憶に残りさえすれば永久に失われないのだと確かめように、むしろ願うようにして、粘土の羽を触っている。

 

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週間日記・2023 9/18㈪~9/24㈰

 

 

 

月曜日に記事公開。その後、1日ずつ順次追加されます

 

週間日記・2023 9/18㈪~9/24㈰

 

9/18㈪「もはや希死念慮の問題ではないのでは?」

 

 かつてないくらい死へ向かう意識が強くなっていて、自分に対して大変そうだなと思う。本当に。意味や理由のなさ(つまりは世界に存在するあらゆるものの宿命)が苦手なのと、自分が望む成果の出ない生活に価値を見出す才能が壊滅的にないので、もはや意識の側が問題なのではなく、単純に読む本の量を増やすのと、休まずに何かしていた方が良いのだと思う。

 嫌でも刺激を受ける場所にいないと起きて布団から出る理由が皆無になる。あと、友達と遊ぶ予定を入れた。楽しみ~。

 10代の頃に出会って影響を受けた学園・伝奇ものの小説があって、シリーズ大半の巻が加入しているサービスから読めるようだったため、再読を始めた。かつては電撃文庫、今はメディアワークス文庫から発刊されている「Missing」全13巻、著者は甲田学人。4巻まで進んだ。ついでに番外編という位置づけの「夜魔」も再読した。

 旧版から細やかに加筆修正されているようで、そのあたりの文章的な読みにくさを感じさせない手腕には感心する。

 そして本編自体は、たぶん、大人の視点からすると苦く感じる場面が多いと思う。私も十数年ぶりに手に取っていろいろ考えるところが増えた。同時にそれは重要な要素のひとつでもあり、この物語の中で主要登場人物が高校生であり、子供たちでもある部分は何より大切な部分なので、それも含めて再び結末を見届けることにする。

 電撃文庫版は翠川しん氏のコピックイラストも大好きだった。

 

購入した本:

カート・ヴォネガット「人みな眠りて」(人からのおすすめで)

大岡玲「新編 ワインという物語 聖書、神話、文学をワインでよむ

 

9/19㈫「世界の暴挙に抗うこと」

 

 レイ・ブラッドベリの「塵よりよみがえり」を読み終わった。同じ著者の「何かが道をやってくる」にも登場する〈秋の民〉の側から描かれた物語で、彼らに育てられたティモシーの様子や、最終的に彼が滅びを前にして何を感じたのかが印象深かった。

 そして、日記以下は上の物語と特に関係がない。

 何をやっても絵になってしまう人、また美しくなってしまう人、というのは確かに存在しており、そういう存在を目にするたび羨望を感じる。好きになる。同時に、私はできれば目にするものの全てを、実際にはどうであれことごとく「素敵なもの」に変えてしまいたいと願っている。見たものが嫌なものであったなら尚更。面白いものか、美しいものに、無理やりにでも変貌させてしまいたいのだ。記すことで。

 例えば、外で雨が降っていたからといって素直に「雨だった」と書く義理は別にないし、過去のある一点で体験した事柄を、さもさっき起こったように書くことも許されている。世界の側から私に。そのように記されたことしか本当にはならない。誰にも知られず、観測されなければ、ある事物は人間の前に存在することはできない。

 人知を超えた何かの存在を仮定するならば話は別である……。

 だとすれば、これは私自身の反抗なのかもしれない。世界に対する。あなたが私達へと勝手に与えたり、時には容赦なく奪ったりしてくる、そんな暴挙に対して、素直に従う理由などひとつもないと多分心の底で思っている。

 

9/20㈬「ようやく紅茶を買うことができた」

 

 頭の方が燃料切れを起こすと積極的に人生を続ける気力が衰退する。それ自体はあまりにどうでもよいことであるのに、気持ちの面で苦しいのは無駄、かつ著しい損害なので、図書館で規定の冊数いっぱいまで本を借りてきた。10冊あるので2週間はもつだろう。

 これまで、私はなるべく図書館の本を館内で読み切ってしまうことに心血を注いできた。帯出して家で紐解いたところで、あまり集中力が続かない気がしたし、別の場所にいるとまた別のやりたいことが浮かんできてしまうために。

 でも、それでは明確に「足りない」のだと最近分かってきた。心が飢える。何かを欲して。

 そして本を借り、返すことの身体的な利点というのも実際感じている。出不精なので仕事以外で外に出なくても良い日はできるだけ外に出ないのを選ぶところ、返却期限を迎えた図書は持参しなければならず、そこに体を動かす必要が生まれる。さらに、返却のために図書館をまた訪れれば、再び本を借りないわけにはいかない。横浜市中央図書館の166万以上の蔵書——その多くを無料で閲覧できる環境を前にして、何も借りない選択肢などないから。

 これを繰り返すと2週間ごとのサイクルができ、自分が毎日、常に興味のある物事についての書物に目を通している状況が、自然と形作られていく。かなり理想的ではないかと思った……。

 帰宅途中、横浜駅で紅茶を買う。TWGのシンガポール・ブレックファスト。ほんのりバニラの気配があるスパイシーなフレーバーなので、もう少し涼しくなったら頻繁に飲みたいのと、あと店頭に置いてあったおいしそうなクッキーも購入した。高島屋の一角にあるここのTWGはとても面積が小さいながら、店員さんも親切だし、選んだり買ったりしやすかった。茶葉によって50gから量り売り、あり。

 忘れずに立ち寄った京急線上りホームにある近沢レースの自販機では、お目当てのハンカチ製品が軒並み売り切れていたので、歯噛みする。しかしとても好きな試みなので、人気があるなら長く続いてくれるだろう。新商品が入荷したらまた見に行くことにする。

 それにしても連日の蒸し暑さよ。

 

9/21㈭「240円」

 

 小森陽一「漱石を読みなおす」を読了……思っていたよりもはるかに良かった。確実に、これまでより深い読解のための助けになった。

 著者の小森氏は作者と作品に対しての姿勢が真摯だと感じる。はなから分析しようとかかっていくのではなく、しっかり文章にあらわされたものを味わって、決めつけずにその暗がりへ分け入っている印象があり。

 私は夏目漱石の「道草」を手に取るまで彼の幼少期について漠然とした概要しか知らず、さらに目を通したあとは、そのあまりに理不尽かつ殺伐とした背景に恐れをなしていた。だから苦悩、とはいっても後期三部作に見られる個人的・精神的な苦悩の方に意識して注目していたのだけれど、やはりとある人間とその出自としての家とは切り離せないのだ。

 夏目家から塩原家へ、半ば隠匿されるように養子に出された末っ子の彼は、やがて夏目家の方の跡取りが次々と逝去したことでにわかに「利用価値」を与えられ、これまでの養育費という名目のもと今度は生家に買い戻される。

 その値段が、金弐百四拾円。

 当時の貨幣価値で、にひゃくよんじゅうえん、が、この時の彼の「値段」だった。ひどすぎる。

 元を辿れば「庚申(かのえさる)の日に生まれた子供は大泥棒になる」という迷信から、人様の金を盗ることがないように、と名付けられた夏目金之助。漱石の本名である。彼はもう本当に生まれた瞬間から金金金、と周囲の人間の思惑に振り回されてきた人だったのだ。

 その、根源的に懐疑を心に宿さざるを得ないような環境に思いを馳せて、泣きながらサブレを食べていた。神奈川県民の私は、甘いものが大好きだった漱石のところに鳩サブレーを持っていてあげたいのだ。

 

9/22㈮「生活の加工」

 

 久しぶりに意識の手綱を手放したこの感覚。いつ気絶したのか覚えていない。そんな風に朝まで睡眠せざるを得なかったので、実のところとても気分が良いのは皮肉な感じがした。かわりに頭痛が大変なことになっている。

 Fedibird(マストドン上のサーバーのひとつ)のタイムラインを眺めていたら読書タグで西加奈子「通天閣」を紹介している方がいて、これ、自分の部屋の本棚にもあるではないかと思って出してきた。読み始める。

 私が「描かれた生活」や「生活を描くこと」自体に多少なりと関心を向けられるようになったのはいつからだろう。昔は本当に興味がなかったけれど、今ではその些細な物事が丁寧に、豊かに、あるいは事細かに描写されているのを鑑賞するのは面白い。額縁の内側に目を向けているような感覚だから鑑賞と言ってもいいだろう。

 生活を生活そのものから切り離さず、しかしこれまでとはまた異なるもののように捉えられると、同じはずなのに幾分か印象を違えて感じられるから素晴らしい。起こったことをそのままにしておくのではなく、わずかに手を加えれば数段面白いものに変わる。

 別の目で捉え直す、という意味で、私は生活の加工に関心がある。生きる意思を持ち続ける工夫のひとつだと思う。

 誰かが生活の中で写真を撮ったり、それを公開したり、一日の中で遭遇した物事に対して感想を付与するのを見るのが好き。そしてどんな時間帯であっても誰かしらが起きていて、何かを考えていた奇跡が残っている、これが尊いのでインターネットやSNSの一側面を愛している。

 今、目の前にいない人間も確かにどこかで生きているのだ、と信じられるのが良いのかもしれない。奇跡みたいだから。ただ生きているだけでは会えなかった人たちに会うことができるから。

 Blueskyのアカウントを作成したので、そこをこれから少しずつ整備していく予定。物語を好んでいる人達の投稿を見る場所にしたい。オタクな話題が多くなりそう。

 

 

9/23㈯「星と購買意欲」

 

 大澤千恵子「〈児童文学ファンタジー〉の星図 アンデルセンと宮沢賢治」を読了。私はもともと賢治の「よだかの星」とアンデルセン「みにくいアヒルの子」の間に勝手に共通点(強い憧憬の描写……という点)を見出していたので、これらの類似点についての研究があるのだと知って、納得した。

 さらに復習した「銀河鉄道の夜」で列車の停車駅に南十字(サザンクロス)が登場したのを思い出し、そう、先々月の香川旅行で私もサザンクロスに立ち寄っていたと思い返して楽しくなる。日本列島は北半球にあるので南十字星を拝める場所が多くなく、八重山諸島の方まで下らないと難しい。

 これからしばらく、半年くらいは身辺を整えたり掃除をしたりして過ごしたいので遠出をする機会は減らすけれど、いつもは見られない特定の星座を目の当たりにするためだけに赴く旅行も面白そうだと考えていた。

 星は、好きだ。自分の腕時計にも太陽と月と星々、すべて広義の「星」があしらわれていて、窓から時間ごとに顔を出す。たとえ空に雲がかかっていようとも変わらず。

 ……そういえば中央図書館へ行くのに使った京急線の、横浜駅の上りホームの自販機の話。そこには近沢レースの製品が買えるところが1か所あって、季節ごとのラインナップを確かめるのを心待ちにしていたのが、いつのまにか秋の製品のうち1種類が売り切れになっていた。人気なのだな……。ちなみにレースのハンカチ。私は夏のものは2枚、持っている。「入道雲」と「カクレクマノミ」を。

 なんだか買い物をしたい。服と、文房具と、あとはこまごまとしたもの。部屋を片付け始めたからそんな気分になれるのかもしれない。物を買うことは〈選ぶこと〉で、さらに〈選んだものを手に入れること〉だから、何というか趣味にバッチリ合った行為だと思う。

 身の回りにあると嬉しいものだけを集めて、理想の部屋を作ろうとするのがきっと面白いのだ。物もそうだし、人間関係も同じ。

 

9/24㈰「実存が本質に先立ってくれない」

 

 これね。

 ただ生きているだけで尊いのではなく、生きて何をするのか、の方が存在そのものより重要だとされる私の世界では、常に実存は本質に先立ってくれない。むかし教科書で見たサルトルの顔が今度はくしゃくしゃになった紙の上に印刷されている。本質を定義しなければ意味の所在がなくなり、実存が薄れて、消える。すなわち何もしないのならば生きていないのと同じことになる。

 だから生活を愛する才能、資質がなくて、楽しみのために楽しむことが得意ではない。できないわけではなく、苦手。

 自分がそういう価値観を内面化して育ってきているのだと実感するのは、主に、身体的な理由ではなく精神的な理由で起き上がれないときだ。起き上がれないというのは比喩ではなくて、言葉そのままの意味である。起きる気すら起きなくなる。

 なぜかというと己のすることなすこと全てが「無駄」だと感じられるから……であり、どうせ無駄ならば死んだように横たわっている方が都合が良かろう、酸素や食料の消費が少ない、とおそらく意識の根本が判断しているから。最後はじゃあ死んだ方がよかろう、と感じるようになる。そこにいても何もしていないのだから死体とさほど変わりない。

 つまりは、意味のあることがしたいのだな、と他人事のように思った。お前はそんなに「意味」が、あるいは「価値」が好きなのか? 多分、好きなんだろう。実際、無意識であってもそういう基準に基づいて行動しているのだもの。で、意味と価値とはなんなの? 誰にも分からない。

 それゆえ他人と遊ぶのが好きなのかもしれなかった。

 私は自分自身の行動に意味や目的を見出さずにはいられなくて、けれど他人はこちらの力ではどうすることもできない存在のため、一緒に過ごしているとあらゆる要素を成り行きに任せることになる。自分ひとりだけでいると「報酬としての結果」を得るためにしか行動できない。でも、他人というのは私の方の目的のために都合よく扱うことができない性質を持っているから、誰かと関わるのは面白くて、数十年後の滅びへ向かう束の間の退屈が紛れる。

 そういうことなのかな。

 でもあまりにも意に沿わない存在と共にいるとむしろ煩わしく、私はこんな気持ちになるために生きているのではない、という念がどんどん膨らんでいって、最終的にその人とはこの世界で関わることがなくなる。適度に振り回されたいし、あまりにも干渉されていると判断すれば消したくなる。

 ……物語の中の木こりやまぼろしの草原を歩いている羊飼いたちは、今日も自分自身の本質や意味などを全く意に介することなく、ただ「生活のための生活」をしていて、生きるために生きていて、しかもそれが美しい。現実世界の人間とは大きく違って。

 心から憧れるし、そうなれれば良かったのに、と思いながら、別になりたくないとも思っている。

 

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週間日記・2023 9/4㈪~9/10㈰

 

 

 

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週間日記・2023 9/4㈪~9/10㈰

 

9/4㈪「深夜集会」

 

 昨日の夜に新潟県の糸魚川から帰ってきていた。そして、今朝は会社の人からの親切な電話で起こされた。驚いた。でもこれが本当に幸運なことで、さもなくば起きて出勤することが不可能だったために(恐ろしい)感謝するより他にない。

 ふと駅へ向かう路線バスの座席から外に視線を向けていたら、コンビニの駐車場と近隣のマンションを隔てる柵のところに、看板を見つけた。そこには《深夜の集会おことわり》と、書かれていたのだった。

 深夜の集会!

 いうまでもなく、看板の文字が意味するのは「迷惑なので夜遅くにここに集まってたむろしたり騒いだりするな」なのだけれど、そこを「深夜の集会」と表現されると、私はどうしてもヴァルプルギスの夜を連想させられてしまう。最近までPrime Videoで配信されていた映画の原作、プロイスラーの児童書「小さな魔女」を思い出す。

 後を引く残暑の夜、魔のブロッケン山ではなく深夜のコンビニで行われる集会には、ビーフジャーキーやチーズ鱈などがお決まりのように顔を覗かせているかもしれない。あるいはアイスバーが人々の片手にあるかもしれない。

 しかしそれはあくまでも「たむろ」ではなくて「深夜の集会」なので、みなお行儀よく姿を消し、声も響かせることなく、構築された結界の中で歌や踊りが行われる。帰宅して次の日に自宅のゴミ箱を覗くと、きっと持ち帰ってきた各種食べ物や飲み物の残骸だけがそこに横たわり、集会の記憶は消えている。

 家の近くの道路にまた蝉の亡骸が落ちていた。

 

さっき購入した本のメモ:

 小川洋子「」「薬指の標本

 三島由紀夫「仮面の告白

 原田マハ「モダン

 

9/5㈫「第三世代」

 

 ゆとり世代、さとり世代、iPhoneの世代にKindleの世代、ほか、世代とはとても身近な言葉だけれど、実はいま存在している地球に暮らす私達、全員に関係する要素として《第三世代》であることが挙げられるらしい。

 いったい何の話なのかというと、約138億年前(めまいがする)の宇宙開闢(ビックバン)による最初の元素の誕生が第一世代と仮定すれば、次の超新星爆発で増えた元素が集まり、形成した恒星が第二世代のもの。そして、それがさらに超新星爆発を起こした後にできた……という意味で、私達が生活している惑星を含めた太陽系は《第三世代》のものということだった。

 読んでいたのは、藤岡換太郎「三つの石で地球がわかる 岩石がひもとくこの星のなりたち」。岩や石について知りたかった。

 地球と呼ばれる惑星が、あらゆる岩石の骨格をなすケイ素(珪素)の豊富な星である理由は、この《第三世代》の太陽系ができるとき飛び散った元素の分布に関係しているみたい。原始太陽の引力に影響されて、重たい元素はよりそこに近い場所に留まり、反対に遠い場所には軽い水素やヘリウムが飛んでいった。だからこの太陽系では、太陽から遠い場所にある星ほど、軽い元素で構成されている。

 なるほど、天王星や海王星が巨大な氷の星であると聞いて、幼い頃からどきどきしていた気持ちを思い出した。あれらは、地球よりも大きい。

 暑いので、巨大に膨らませた想像上の手で、遠い惑星を触っていた。頭の中で星は機嫌のよいときの猫のように撫でられている。想像上の宇宙でなら呼吸は必要なく、マイナス数百度の大気や表面温度に、全身が一瞬で凍り付く心配もない。

 

9/6㈬「欲望について」

 

 レイ・ブラッドベリ「何かが道をやってくる」の、中村融氏による新訳が創元SF文庫から出ていて、7月下旬に買っていたのを読了した。

 感想は別途記事にまとめるけれど、どうしようもない古さと同時に、確かな良さを感じられたのが幸いだった。そもそも登場するモチーフ(移動遊園地関係……)が軒並み好きなので基本的には贔屓目だらけ。ページをめくっている間、作品からずっと塵の匂いがするような気がしていて、本棚に置いてある同じ作者の「塵よりよみがえり」をそろそろ終わりまで読んでしまうべきだと考える。

 ここから先に書くことは上の作品と何も関係ない。

 私は誰か、尊敬している人間や、魅力を感じた人間(便宜上「人間」と表記するけれど実在の者である場合も、何か物語の登場人物の場合も、ある)に対して「叶うなら友人になりたい」と強く思う性質がある。この強さは相当なもので、自分自身は「そういう種類の感情」が存在する事実を認めているのだけれど、なかなか《お外》では通じないことが多いのは難しい。

 他人にかかわる事柄で何かを希求する心、欲求は、性的なものや社会的関係を得るためのもの以外でも存在していて、しかし世の中では恋愛以外にそれが存在する余地をあまり与えられていない。

 誰かと友達になりたい、親しくなりたい、かかわりを持ちたいと願うのは「個別の」かつ「明確な」欲望だし、それを既存の枠に収容して勝手に名前を付けられるのも、ないものとして扱われるのも不本意だから、難しい。

 欲というのがあたかも一種類しか存在しないように見做されるのが、納得いかないのだろう。

 

9/7㈭「サイダー」

 

 日記を更新してみると、自分はわりと毎日、空白の期間を設けずに本を読んでいるじゃないかと意外に思った。このごろ普段は別のことをしていて、一定以上の空き時間ができた際に集中して一気に何かを読む……という仕方で書物と向かい合ってきた気分でいたから、これほどいつも一緒にいたっけかなと。実際、いたんだろう。

 9/4㈪に購入、と記載していた小川洋子「薬指の標本」を読了する。表題作と収録作「六角形の小部屋」の2編を。

 そのまま短編集「海」へと歩を進め、またしても作中に『サイダー』が出現したことと、巻末の著者インタビューで小川氏自身が「官能は私の最も苦手とする分野なので」と発言していた部分をしばらく咀嚼していた。興味深いと思う。

 読者から逃げ場を奪い、じわじわと確実に肉体的な感覚器官に訴えてくる、そういう意味で、この人の作品は官能の極致だなぁと思う瞬間が私にはあるので。

 また、根本的にサイダーという飲み物は性質からして官能的な気がする。炭酸飲料が大好きな人間だからこう判断するのかもしれないけれど、炭酸水がたとえば口内、舌の先や表面、歯茎、喉をぷつぷつと刺激する感覚や、栓を開けた瞬間の独特の香り、さらに気が抜けて時間が経った後の淡い風味も、すべてが身体的な神経に作用する。

「薬指の標本」で、サイダー製造工場での事故で失った指の柔らかな肉片を想起させる、たった数行、これをしても「官能は私の最も苦手とする分野」と言えてしまう作者が私はちょっと恐ろしいし好きだ。

 

9/8㈮「換羽」

 

 昨日に比べかなり気温の下がった1日で、それなのに湿度の方はあまり快適な数値に近付いてはくれず、ただ無為に病気になりそうな気候の変化だと考えていた。精神的にも身体的にもだ。どうせ会社に行く明日も、昼間は30℃を超えて暑くなる。

 とはいえ少しずつ世間で「衣替え」と呼ばれているものを自分も進めるべきで、これからの季節、特によく必要になりそうな衣服は箪笥の前面に、そうでもないものは奥へ……というローテーションを頭の中で繰り返した。この頭の中での想定をある程度行ってからでないと、ただ服を散乱させて部屋全体も散らかすだけになってしまう。整理整頓の才能がない。

 そうしながら、机の上に置いた貰いものの「カモのブローチ」を眺めていた。頭のところがあのティールグリーンで彩られているので、それはオスのマガモ。

 マガモは時期が来ればその全身を覆う羽を入れ替えて、いわば根本的な着替えを実行する。繁殖期用の衣装と普段着の違い、とでも言うべきか、ものすごく派手ないでたちとそのへんの風景に紛れるような部屋着的装いを入れ替える。面白い。

 それにしても繁殖期のオスのマガモ、あの深い緑色の頭は見れば見るほど綺麗だが、羽の色の分布が銀行強盗のマスクに思えてこなくもない。すっぽりとかぶってくちばしを出す、目出し帽ならぬくちばし出し帽……。

 もうすぐ彼らの一部はより寒い国からこちらに渡ってくるはず(渡りをせず、日本でずっと暮らしている種もいる)。この目で見られるのを楽しみにしている。

 

9/9㈯「頭のスポンジ」

 

 日付が変わったら文学フリマ大阪11の開催日。私は現地に行かないけれど、万事つつがなく始まり、それから終わるといい。

 今日は会社にいた。

 なぜだか知らないけれど非常に忙しく、退勤を渇望しながら「こんなんじゃ疲労で脳みそ枯れてシワシワになっちゃうよ~」と思い、その直後に「ウーン脳みそってどちらかというとシワシワの状態が普通、じゃない?」などと考え直すなど、知能指数や処理能力がだだ下がりの半日であった。もう自由。

 岩石の本を読んでいて一駅先に乗りすごしたのは、本文に数億年単位での太陽系や地球の変動について記されていたからで、時間の流れ方が変わってしまったからに違いない。いつもとは異なる駅で降りるとまるで知らない世界に迷い込んだ気分で怖い。

 電車をおりるとき、ドアが開く直前に降車口の前に立っている誰かの背中や肩がふと自分の視界に入って、その人の服の表面に小さな動物の絵がたくさん印刷されているのをなんとなく無心で眺める「あの数秒間」。今日もあった。服の絵柄は、カナリアのような小鳥。炭鉱のカナリアは地下鉄の車内で一声も鳴かない。

 それから気になったもの、「牽」という漢字。道路を走るトラックの後部に「牽引中」なる表示が見えて、何を牽引しているのかまでは分からなかったが、牽の字から牽牛を連想した。乞巧奠でよく知られる織女の恋した彦星だ。信号が青になったら彼方へ去っていく。

 そのへんを歩いているだけでたくさんの情報が視覚から頭に流れ込んでくる。

 

帰りに購入した本のメモ:

 グラフィック社『ちいさな手のひら事典』シリーズから3冊

」「魔女」「おとぎ話

 

9/10㈰「ドクニンジン」

 

 文フリ大阪、閉幕したようです。ありがとうございました。

 貧血の影響なんだろうけれど起き上がったり、動いたり作業したりという行為があまりにもできなくて、びっくりする。座るか寝転がるかして昨日買った「小さな手のひら事典」をめくることしかできない。今日は「魔女」を。小口染めとして金箔が施されているからきらきらしていて、眺めているのが楽しい。

 そのうちの『鍋のなかの秘薬』で毒ニンジンに言及されていたから、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説「九年目の魔法」を思った。あれは原題が《Fire and Hemlock》——ファイア・アンド・ヘムロックで、ヘムロック(Hemlock)とは毒ニンジンのことである。火とドクニンジン、というのが元のタイトル。

 作中に同名のアイテムも出てくる。

 微量でも人を無能にさせ、大量に摂取すれば死が訪れる。いつしか魔女などと呼ばれた賢き女たちが用いた薬草のうちのひとつがドクニンジン。そして厚生労働省のサイトには自然毒のリスクプロファイル、というページに「古代ギリシャでは、このエキスを罪人処刑(毒殺)に用いていた。哲学者ソクラテスが、この毒によって最期を遂げたことは有名。」と書かれていた。本当に昔から使われていたようだ。

 薬にも転ずる毒の強力な一滴で、この血液と内臓も活性化されればいいのに……。でも、ドクニンジンはどちらかというと鎮静剤だ。正反対だ。

 とにかく体調は芳しくない。あまりできていることもないし。何をするでもなく無為に生きるのを正当化するためには「物語に出てくるのブリキの木こり」か「まぼろしの草原の羊飼い」になる必要があって、それができない以上は何かをするしかない。

 今は、四谷シモン人形館を7月に訪れた時の記録ブログを書いている。そのうち上げる。

 

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週間日記・2023 8/14㈪~8/20㈰

 

 

 

月曜日に記事公開。その後、1日ずつ順次追加されます

 

週間日記・2023 8/14㈪~8/20㈰

 

8/14㈪「台風の名はラン」

 

 近畿・東海地方は台風7号「ラン」の影響で、これから相当な大雨になることが予測されている。こちら関東地方では今日特に目立った天気の移り変わりはなく、ただ不意に晴れたり、突然降水が再開したりと、確かにおかしな天候ではあった。

 明日は会社へ行かなくてはならないので雨脚が強まるのは非常にめんどくさい。手がふさがるのが嫌いなので、できるだけ外出時には傘を持ちたくない(それにしても近年の夏の陽射しよ! 雨でなくとも日傘を持って歩かなければ皮膚が死ぬ)。

 予測最大瞬間風速が5m程度に留まってくれているのはありがたいけれど、太陽が雲で隠されているのに気温30度超えとは、一体どういう了見なのだろう。自然現象に了見も何も無いのだと分かっていても容赦なく詰り倒したくなる。

 とかく参ってしまうのは強烈な湿気で、まるで風通しの良くない洞窟に閉じ込められ、退路を断たれ、延々と救難信号を打っているかのような気分になる……こうして屋内でキーボードを叩いているとだ。とても息苦しいし、汗がにじむ。

 私は自分の体調が気圧の影響を受けているのか否かについて、これまではっきりとした感触を掴めずにいた。天気が荒れているとなんとなく具合が悪くなるのには疑いがないのだが、それが「具体的にどの要因に依るものか」というのが、特定できないので。

 そもそも気分障害を患っているから、偶然にも台風接近時に鬱々とした精神状態の循環サイクルが回ってきているだけかもしれないし、あるいはまったく別の身体的な疾病や、慢性的な貧血がこの圧倒的な虚無感の核となっているのかもしれない。原因がよく分からないというのは実におさまりの悪いもので、けれど世の中の大抵の物事は、そこにすっきりとした因果関係を見出すというのが難しいらしい。

 台風の話に戻るが、今回日本列島に接近している7号に与えられた名前「ラン(LAN)」はマーシャル諸島の言語で「嵐」を指すものだという。渦を巻く雲は翻る衣服の裾にも似て、布団に入ってからじっと耳を澄ますと、脈拍と連動する頭痛の向こう側からランの笑い声が聞こえてくる。

 想像の中にしかいないその姿は魅力的だった。地球というまあるい玉の表面は気象の遊び場なのだろう。

 

8/15㈫「花・占い・好き・嫌い」

 

 珍しく頭がすっきりとしていて、身体も比較的軽く、あまり目立った苦痛を感じない1日であった。仮に望んだとしても容易に実現できない良好な状態がまったく不意にやって来てくれるのはありがたい。欲を言えば、いつでもできるだけこの「普通」の体調が保たれていてほしいのだけれど、どうしても難しいらしい。私にはもう普通が分からない。

 墓地や霊園のそばに建つコンビニエンスストアでは、仏花が売っている。

 今日の退勤後に見たとある店舗では軒下、野外ゴミ箱が設置されているのとは反対側の入口脇に、仏花がいくつかの束で陳列されている棚があって、小糠雨が降っていたせいか上から黒い紗のような覆いがかけられていた。その佇まいが、葬儀の際に目元を隠すヘッドドレスの網みたいで面白い。紗の下で花々は少しうつむいて、雨が止むまでじっとしているようだった。

 花。思えば花占いに「好き」と「嫌い」の選択肢しか存在しないというのは、改めて考えてみると、なんと潔癖な姿勢だろうかと感じる。子供たちが粛々とと興じる遊びに何よりもふさわしい。占いの対象を想定した時点で、「どちらでもない」は、彼らの世界には存在しなくなっている。

 そういう潔癖さ、一方では頑なさと言い換えてもよいものが出てくる物語といえば、まさしく先日読んだ『フラニーとズーイ』をはじめとするサリンジャーの小説。『ライ麦畑でつかまえて』『ナイン・ストーリーズ』の翻訳を手掛けた野崎孝氏の日本語訳がもしあれば、と書店に寄ったら村上春樹氏版の邦訳本しか取り扱われていなかったので、新しい捉え方を学ぶ気持ちでひとまずそちらを買った。

 作中に登場するベッシー(グラス家の母)の台詞は、まさに「好き」と「嫌い」の2択で事物や人物を認識しようとする息子、ズーイのまっすぐな目に言及している。

 

「おまえはね、誰かをすっかり気に入るか、あるいはぜんぜん受け付けないかどちらかだ」

(中略)

「そんなに好き嫌いが激しいまま、この世界で生きていくことはできないよ」。ミセス・グラスはバスマットに向かってこう言った。

 

(J・D・サリンジャー『フラニーとズーイ (2014)』新潮文庫 村上春樹訳 p.145-146)

 

 実のところこれくらいの「嗜好の苛烈さ」を抱いたまま、子供の心のままで生きていたいと、私は切に願う。

 

8/16㈬「古本」

 

 閑古鳥の鳴き声が聞こえてくるんじゃなかろうか、というほど職場が静かで、所謂お盆に世間の人が一斉に休日を迎えたり、また先日通過した台風の影響で何かが滞ったりしていることを意識させられた。体調は悪くない。

 カレンダー通りの出勤にならない勤務形態の会社にいるし、他の大多数と同じ日に休むとむしろ外界の混雑がひどいので(本当の本当に人混みが苦手だ)、全然年中行事と関係のない平日に旅行などできる点がかなり良いと思っている。そもそも、だからこそ今の会社にいるといっても過言ではないのでは。

 オフィスにいるはずなのにすることが発生しないから延々と新しく手に入れた本を読んでおり、今回は森博嗣「すべてがFになる」を冒頭から3分の2程度まで進めてしまえたことからも、どれほど暇だったのかが察せられる。あまりにもひどい暇。どうせまた忙しくなるので束の間の長閑を満喫する……。残りは帰宅してから読了した。

 それにしても、1996年にメフィスト賞を受賞した作品から、ここまで時代の隔たりを感じさせられるとは予測していなくて意外だった。私の生まれた平成初期はもう、令和からだいぶ遠い。

 他にも、最近購入した書籍がいくつかある。

 そのうちの半分は古書店で入手したもの。このごろ設けている古本(とりわけ50~100円など安価なもの)を購入するときの簡易ルールとして、カゴは使わず「両手がふさがるまでの冊数を選んだらそこでやめる」を設け実践しているのだけれど、買い過ぎを防ぐ効果はある程度出ている。「きりがない」とよく言われるように、実際きり、というものはこの世に存在せず、自分できりを作るしかないのだとようやく分かってきた。

 私は物理的な書籍を販売する書店にできるだけ長く存続してほしいから、新刊はもちろんのこと、どこかで安く購入できる古典作品の文庫などであっても、たとえば退勤時に駅の近くの本屋で買うようにはしている。

 けれど、幼少期から現在までに集めてきた本が並ぶ自宅の本棚を眺めてみると、それらのうちかなりの割合が古書店経由で手元にやってきた存在で、古本こそが自分を書の世界から弾き出さないでくれたよすがだと感じる。子供の頃は定価の本をあまり買えなかった。学校の図書室や公共図書館に行けば、私の方は無料で本が読めたけれど、お金を出して買う人がいなければお店は潰れてしまうと理解している。

 それにしても、お金が回らなければ何事も成り立たないとこんな風に普通に考えてしまえるような仕組みが社会を形成している現状に、長期的に見てもっと疑問を持ち変化を促せるだけの余白はあってくれよと思う。

 その場しのぎの「買って応援」とか「経済を回す」などという言葉では根本的に解決できない歪みとか、そういうものの話。

 

8/17㈭「万能アプリとかどうでもいい」

 

 ここのところ、MastodonInstagramのアカウントを徐々に弄ってみている。趣味の投稿でごくゆるく他人とかかわりを持ちたい気持ちが常にあり、今のところどちらも本当にゆるーくやっている。好きなものの話ができる場所が欲しいもので。ちなみにThreadsに関しては様子見。

 マストドンもインスタも全文検索ではなく「ハッシュタグ検索」が他の投稿と出会う鍵なので、慣れるまでは戸惑う瞬間もかなり訪れるのだけれど、だんだん楽しいタイムラインを構築したり目当てのものを探したりするコツは掴めてきた。

 ユーザーの層も話題やサーバーによって大きく異なるため、その一面だけを見て敬遠してしまうのは勿体ない。興味ある人はお試しあれ。

 ところで、少し前までTwitterという名称だったweb上のプラットフォーム(X)にはなんだか全然人がいなくて、かつては賑わっていたのに現在閑散としている、そういった意味では過疎状態を呈している。最新タイムラインの表示がちっとばかしイカれている影響もあるらしく、俗に言う「間引き」のせいで、せっかく誰かが呟いていることもこちらで見られていないのではないだろうか?

 よく意味が分からないのが、例えば「フォロー中」のタブに表示されるはずの、フォローしている人のツイート(ポスト、と言い直した方がいいの?)からいくつかが「おすすめ」タブに勝手に移されているようで、雑音の多い「おすすめ」タブを見ない自分の場合、その呟きは完全に取りこぼすことになる。

 私が好きだったのは不特定多数の人間が誰かしらいつでもそこにおり、何でもいいのでぶつぶつ呟いているとポツンと反応してもらえたり、単純に皆が書き込んでいることをぼんやり読んだりする楽しみがあったところなので、この自他の投稿が「そもそもタイムラインに表示されない」状態ではあまり覗く意味がなくなってしまうじゃんと頭をひねっているところ。

 私はXがまだTwitterだった時代にそこで出会ったフォロイー・フォロワーさん方が好きだし、普通に暮らしているだけではかかわりを持てない人達とやり取りできる場所を愛しているので、元に戻らないなりにこれ以上の改悪がされませんようにと願うばかり。まあもともと短文投稿サイトだったから、まさに今こうして短文投稿で誰かとかかわれる可能性が潰されている現状は残念でならないし、改悪は進められるに違いないけれど。

 最近「ビデオ・音声通話機能の追加予告」がなされたみたいに、このアプリケーションはイーロン・マスク氏が構想しているという「スーパーアプリ」化への過程で、例えばLINEのようにより身近な人間とやり取りしたり、決済や各種取引が可能になったりと「日常生活により踏み込んだ」代物になっていくのだろうとは思う。

 同時に、どうでもいいんだよな~そういうのは。とも思う。

 

8/18㈮「目が覚めているあいだ見ているものこそが夢」

 

 午後3時ごろ、ビルの窓越しに民家の屋根を視界に入れた。

 外で何か強烈な光を放っているものがある……、と思って視線をやったのだけれど、それは太陽の光線を反射している棟板金(屋根のてっぺんを細く覆っている一直線の金属部分)で、ほとんど橙か金に近い色で輝いていたのが恐怖とともに印象に刻まれた。あれ、一体どのくらいの表面温度になっているのだろう。想像しただけで身震いがする。肉が焼ける。いいや人間も外を歩けばまさにジリジリと灼かれている、単純に、文字通りに。

 もう数年前の話、アイスランドの首都・レイキャヴィーク付近で噴火した火山の溶岩で、学者がソーセージを焼いていた映像を思い出した。さながら夢想の一片のような風景。熱源があれば、ものは焼ける。出現したり消えたりする蜃気楼の向こう、遠く離れた時間の壁の先——過去の一点で、今日もバーベキューが行われている。

 日傘を差してもぐったり萎れている私とは対照的に、歩道の両脇から通路を塞ぐ形で伸び続ける草の繁茂はここ数週間だいぶ著しい。ほとんど異能じみた生長能力を感じる。場所によって歩道がほとんど通行困難になっているのは問題だと思っており、公の道に対するこの手の御意見はどこへ送るべきなのか、迷っていた。区役所とか、市役所とか?

 あとは夜間、街灯の光を遮っている木の枝葉も町内で見かけることがある。

 安全への影響もそうだし、風でその枝葉がゆらゆら揺れるたび、地面に落ちる影が別の生き物みたいでかなり怖いのだった。それにしても陽が落ちてから出歩くと、蒸し暑くはあっても、昼間の息苦しさとは対照的な気温の低さに驚かされる。

 雨の日と同じように湿度が高いと空気の中を泳いでいる感覚に囚われ、同時に夜は全体的に光量が少ないので、むしろ目に映るものの現実味が増してくる。すると……昼間というのはすなわち、嘘か幻の世界のことなのだと信じられてくる。

 現実味といえば、真夜中に覗き込む鏡は非常に説明しづらい存在だと思う。今日の午前2時ごろに見たものも、いつものごとくそうだった。

 睡眠から中途覚醒した時点では当然ながら、家中の電灯は消されている。水を飲みに行くにしろ、お手洗いへ向かうにしろ、そのために私が電気のスイッチに触れることはない。完全に目が覚めてしまうかもしれないので、ただ暗いままの部屋から廊下へと黙って進み出でる。できるだけ音を立てない。それで、布団に帰る前に手を石鹸で洗うとき、必ず洗面所の鏡をじいっと凝視する。

 明かりが点っていなくともそこは完全な暗闇ではないから、自分の輪郭も、周囲の事物もぼんやりと(でも、確かに)鏡には映る。その様相から醸し出される圧倒的な現実感には毎回、新鮮に驚かされるのだった。触れればガラスのつめたさではなくて、自分の体温をこそ感じそうだと、直感的にそう認識している。

 

8/19㈯「かえりみち」

 

 会社を辞して家に帰ってきて、日記を書けるまでの間に自分がプッツリ気絶するか、しないか、という仁義なき戦いがこの習慣を始めてから繰り広げられている。今日はもちろん気絶していた(この更新時間)。ところで近年は気絶する以外の方法であまり寝られていない気がする。切実に眠りたいときにはまったく寝られなくて、その代わり、気が付いたら意識がなくなっている。

 そしていざ眠りに入ると、今度は床から起き上がることができない。

 今日の心身状態は可もなく不可もなく、普通だった。あまりひどい苦痛は感じていない、ただ、いつものごとく朝起きるのがつらかっただけ。

 帰り道で、まるで食パンの化身のような色と毛並みをした散歩中の柴犬を3匹も見た。

 帰り道で、豊かな白い髭を胸の下あたりまでの長さに伸ばしたご老人が、バイクに跨ったご老人と道端で会話しているのを見た。白いTシャツを着ていた。

 帰り道(地下鉄の車内)で、高田大介「図書館の魔女」第4巻(講談社文庫)を読み終わった。次にあらかじめKindle端末にダウンロードしていた、川北稔「砂糖の世界史」(岩波ジュニア新書)のページをめくり始めた。

 帰宅の途についている時間はだいたい夕方特有の著しい空腹を感じているのだけれど、この空腹によって、知能指数って一体どのくらい低下するものなのだろう、と考えさせられる。お腹が空いていると本当に食べ物のことしか脳裏に浮かべることができないため、常に「ごはん♪ ごはん♪」のような歌が頭の中で流れているし、それは無事に晩餐にありつけるまで、延々と精神を蝕みながら流れ続ける。

 バスの窓から眺めたコンビニエンスストアの駐車場には今日もヤンキー達がたむろしていた。そういえば、私はコンビニでセルフサービスの飲み物(紙コップやプラコップ? に入ったコーヒーとか、カフェラテとか)を買う方法もよく分からない側の人間なのだよな、と唐突に実感した。あれ、今度友達に教えてもらいましょう。

 

8/20㈰「いつだって血に飢えている」

 

 寝た状態から起き上がる。もしくは座って、また、立ち上がる。

 それだけの動作で頭部からさあっと血の流れが引いていく感覚があり、貧血の気がわりと強い1日であった。単純な血液の量というよりも鉄分不足が原因で、それがあまり酸素を全身に行き渡らせてくれていない感じが恐ろしい。摂っても摂っても内臓に蓄積されてくれない感じがする鉄、それを(獲物さえ見つかれば)さくっと経口で摂取できる吸血鬼、ぶっちゃけ羨ましいのではないかとすら思えてきてしまう。

 私も吸血鬼たちくらい容易に鉄を体内に取り込めたら、もう少し頭のはっきりした時間を長く過ごせるに違いない。ごくごくと。当の獲物には家畜として犠牲を払ってもらうけれど、きちんとご飯をあげるし、自由時間も設ける。

 手放しで体調が良いと判断できない日が多すぎて、しかも8月下旬はこの気候なので呼吸もままならない。大抵の人が具合が悪いと言っているのがまだ救いというか、そもそも高温多湿の炎天下で実際に元気な人というのも珍しく、本人に自覚がないだけでわりと心身に負担はかかっているのではないかと考えていた。だから熱中症で搬送される人も多い。あと強い太陽の光を浴び過ぎるとどんどん気が滅入ってくる。セロトニンが鬱に効く? 知らないね。

 しばらく前、舞台TRUMPシリーズの入門編として「はじめての繭期2023 Summer」を視聴した感想をブログに上げた。そして今日はU-NEXT(ユーネクスト)にて再配信されている「LILIUM -少女純潔歌劇-」を視聴して、別途感想をまとめている。そのうち公開にする。来月これの「新約版」の円盤が発売になるので聞き比べたいと思った……。満足した。

 望みもしないのに永遠の命を得てしまう人達の物語、大好きだよ。

 U-NEXT(ユーネクスト)でリリウムを視聴後、他に見られるものを検索していたら、シャマラン監督の映画「VISIT(ヴィジット)」に目が止まる。これ……知ってる人、いるかな。世間的にあまり評価が高くないだけでなく、個人的にもまったく傑作だとは思わないのに、好みに合うか合わないかで判断させられたら間違いなく私の「好み」には入る系の映画。かなり前に見て以来ときどき思い出している。

 再生時間は90分程度と短いので、よければ見てみてほしい。その代わり好みに合わなくても私は責任を負わない。

 

【ヴィジット - U-NEXT(ユーネクスト)】

 

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エッセイを寄稿します:文学フリマ大阪11 2023年9月10日㈰ - 批評誌『Silence』Vol.2《病いとともに。》へ(試し読みあり)

 

 

 

 

 今回、マツさん(@matsurara)が制作・編集を手がける「批評誌『Silence』Vol.2 ~病いとともに。~」にエッセイを寄稿しました。

 タイトルは「記憶 - 病と病院、本にまつわる六つの章 -」になります。書きながらこれってどうなのだろう、と考える場面も多くありましたが、こころよく掲載してくださり本当に感謝しております! 内容は少々古くなりましたがぜひ皆様に読んでいただきたいものになりました。

 来月開催の文学フリマ大阪11、会場のK-53ブースにて頒布される予定です。

 

【日時・会場】
 ★9/10(日) 11:00〜17:00開催
 ★OMMビル2F A・B・Cホール
 ★天満橋駅直結
 ★入場無料

 

 以下、最初の一章の試し読みになりますので、参考にしていただければ幸いです。

 

 ◇     ◇     ◇

 

記憶

- 病と病院、本にまつわる六つの章 -

 

一、小児科

 

 伝説の大蛇にはじめて遭遇した場所は、病院。

 小児科の待合室だった。

 ごくうすいグレーがかった色の壁。子どもの病院だから、子ども向けの本でいっぱいの本棚がきちんと置かれている。そこから『にゃんたんのゲームブック:たいけつ! ヤマタノオロチ(ポプラ社)』を引き抜いて長椅子に腰掛け、膝の上でひらくと、ページの上にちゃんとヤマタノオロチがいた。白黒インクで印刷されて、すっかり酒びたしになった八つの頭を、緩慢にゆらして。かわいらしい娘、クシナダヒメが欲しいのだ。丸呑みにしてしまうために。

 でも、あげない。

 幼い私は、ネコのキャラクター「にゃんたん」に憑依してそう宣言する。それぞれ八つもある首と尾がふらりふらりとしているのが面白かったから、診察室に招かれるまで、ずっといっしょに遊んでいた。当時は私も熱を出していたせいで、あまり頭がおぼつかず、泥酔した大蛇とおそろいの状態だった。

 こういう思い出があるから、ヤマタノオロチの姿を脳裏によみがえらせようとするとき、必ず病院特有の……あの、清潔すぎて少し怖いような、鋭いにおいが鼻腔の奥のほうで漂う。そうして、名前が呼ばれる順番をおとなしく待っている、自分の目に映る景色もあざやかに浮かぶ。

 待合室の本棚にはほかに、シッダールタが出家をしたり、イエスがあら野で悪魔の誘惑を退けたりする様子が絵でわかる「学習漫画」もたくさん並べてあって、なかでもよく憶えているお話のひとつに、ギリシア神話のプロメテウスがあった。一説によれば、プロメテウスはゼウスによって何万年ものあいだカウカーソスの山頂に囚われ、生きたまま、大きなワシに肝臓をついばまれることになっていたのだという。都度、彼の内臓は復活し、不死ゆえに命も失われはしなかった。つまりは永劫にも匹敵する時のなかで、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わいながらも、死ねなかったのだ。

 

すると兀鷹が来てプロメテウスの肝臓を食いました。けれども肝臓は食われれば食われる後から、新らしくまたできました。
《T・ブルフィンチ(野上弥生子訳)「ギリシア・ローマ神話 付インド・北欧神話」岩波文庫、一九九八年、三九頁》


 今になって想像する。

 自分はといえば、何か、たとえば病がもたらす痛みや苦しみと向き合っているとき、うっすらと考えるのが「これもいつかは終わる」ということ。神話の住人とはちがって、特別に長い生を授けられたわけではないから、どれほどの苦痛でもきっと死んだら終わりにできる。と、愚直に信じている。それが本当かどうかもわからないのに。

 一方、プロメテウスはどんな風に思っていたのだろうか。

 実のところ、プロメテウスはその気になってゼウスの意向に従えば、すぐ解放されていたはずだとする説もあり、ならば彼にとっては単純に「我慢くらべ」のようなものだったのかもしれない。そう考えると苦痛を凌駕して、いかなる目に遭わされようとも屈してなるものか、という彼自身の、とても強い気概を感じる。私は皮膚のすき間からはみ出た、ツヤのある肝臓から視線をそらす。くだんの肝臓は、そのすべてを食われてしまってから、果実がなるような形で復活するのだろうか? もしくは、風船のように膨らむ? 切れた血管の先から……?

 いくら強靭な巨人神族といえども、ワシの嘴にはらわたを直接つつかれているあいだはやはり、身の毛もよだつような感覚を味わわされていたはずなのに、それに耐え抜いた精神力は驚嘆に値する。私には無理だ。内臓がぐるぐる回転するような吐き気に苦しんでいるだけで、ひと思いに全てを終わりにしたくなる。頭上のゼウスに対しても張り合おうとせず、もういい、勝手にしろ! いいから解放しろ! と言い放ってしまいたくなるだろう。

 人間の弱さ、矜持の欠如。

 それから。神話ではプロメテウスの処遇と、彼を襲う拷問の苦しみに、元となる「理由」があった。これは「罰」だ。ゼウスをあざむき、その意に沿わない結果をもたらしたがゆえに、生きたまま何万年も身体をつつかれ、肉を引きちぎられる状態に陥っていた。痛覚にもだえ、あえぐ彼はあくまでも因果の輪の内側にいたのだ。無差別的な通り魔のように理由もなく、いきなり不可解な現象に見舞われていたわけではない。何か、原因があってそうなった。

 理由がはっきりしていること。その神話の明快さには、かなり惹かれるものがある。
だって、わけもわからないまま苦しみを味わうのは嫌だ。せめて理由が知りたい。病気にかかるにしても、なぜ自分が罹患することになったのか。なぜ、ほかの人ではなく自分でなければならなかったのか。この病気にかかったことは、果たして何を意味しているのか。これまで人生で犯した罪に与えられた罰なのか、どうなのか。誰か、分かるのならばぜひとも教えてほしいものである。

 一体なぜなのか。どうして苦しまなければならないのか。何の意味があるのか。

 これは問いだが、もはや存在自体に惑い、右往左往する人間としての切実な叫びでもある。谷にこだまする狼の遠吠えと同じ。不幸な出来事の発生に関しては「理由がない」ことが一番の地獄であるのかもしれない、と考えていた。振り返ってみても、たとえば何かがうまくいかないときは「努力が足りないから」「弱いから」「見通しが甘いから」など、その原因が明瞭であればあるほど、どれだけ救いになるか。理由がない、というのはあまりにもつらすぎるではないか。

 因果応報も勧善懲悪も成立しない世界。それでは無為に苦しむ甲斐も、全然ない。裏を返せば、特別な理由もなく際限のない幸福に見舞われている人間も、世界には少なからずいる、ということになってしまうのだから。数々の不幸を尻目に。

 理由。意味。

 これらは見つけられるものだろうか。もう、神代の昔のようには世界を捉えられない、答えのない場所に放り投げられた近現代の人間には、難しいのかもしれない。

 

(試し読みここまで)

 

 ◇     ◇     ◇

 

 何卒よろしくお願いいたします。

 

主催のマツさんのブログ:

 

 

 

 

 

 

 また、関連して過去の寄稿記事も。

記録されなければ、痕跡が残らなければ、それは「無かったこと」になってしまうから

 

 

 

 

 この場合の「痕跡」というのは、なんと表現すればよいだろうか。

 文字や図画などはほとんど記録そのものだといえそうだけれど、例えば目に見える形で書き下されることのない口伝や、歌の旋律も、地形も、滅びてから土に埋まった生物の化石だって、おそらくはすべて痕跡だと表現して差し支えない。

 あるものが、確かにそこにあったと示すもの。

 仮に失われれば、確かに存在していたという証拠が揺らいでしまうもの。

 

 

 とりわけ文字を扱っていて思うのは、人間はやはり文字に寄生され、深く依存しているのだということ。もはやこれなしでは周囲のあらゆるものを認識できないほどに。

 されど、そうだとしても、どうしようもなく何かが記録されている事実は愛おしかった。「記録」が好きで、「記録」をしたいし、「記録」を読み、それに触れたい……是非とかどうでもよくて、理由もない。ただ、自分はそうせずにいられないというだけ。

 遠い昔を生きた人々の思考の軌跡が、一部でも書き残されて現代に受け継がれてきており、100年、1000年以上後に生まれた私でも手に取って読むことができる。もはや、感謝に似た念を抱くしかない。ヒト生物が文字に寄生されているのだとしても。

 感謝と同時に湧き上がるのは、この世界に対する憤りなのかもしれないと、考える。

 怒りとは少し違う。憤りだ。

 誰にも知られないことや、痕跡が残らなかったことは、世界の側から勝手に無かったことにされてしまうから。それが悲しくて、不本意で。

 書(描)かれなかったこと、残されなかったこと、語られなかったこと……また観測がなされず、誰もその存在を信じない事柄が、半ば自動的に存在しないとみなされてしまう現象に対して、でもこの世界というのは元よりそういうものなのだ、と納得することができないのはどうしてなのか。自分でもよく分からないし、知らない。

 

 図書館へ足を運ぶたび感じ入る。過去の誰かが手間をかけて何かを書き残さなければここにある本は存在しなかったし、触れたり読んだりすることもできなかったのだと。
書き残されなかったこと、痕跡が残らなかったことは消えてしまい、世界の側から勝手に無かったことにされてしまう。

 それが本当に嫌。

 何を見て、何に出会い、何を感じたか、それがどのようなものだったか、どのような変化がもたらされ、あるいは何ももたらされなかったのか、生きて認識したことのすべてがひとつ残らず克明に記録されて永久に消えることなく何処かに刻まれていてほしい。

 私は何にも消えてほしくない。

 すべてのものが存在した証が、知覚できなくてもどこかにきちんと残っていて欲しいと願っている。

 とはいえ、それが無理だとも知っている。人の生きた証は、完全には保存されない。

 でも、跡形もなく消えたら、それは無かったことになってしまう!

 はじめから存在しなかったことにされてしまうのだ!

 ずっと昔のことを今に生きる私達が推測できるのは、推測の材料として「何か」が伝わるか残されるかしているからで、たとえ砂の粒の大きさでもいいから、何かを残さないとつまらなくなってしまう。

 

 1枚の石板、1冊の書物に記された事柄が、たとえ気の遠くなる時間が流れても受け継がれる可能性を持つように、ひとりの人間が蓄積した知識や獲得した技術が、世襲ではない流れで継承される意味。血族でなくたって構わないのだ。家柄も他の肩書きも関係ない、ただ強く知識を求める者にこそ、それが与えられること。

 知の継承……思考の継承……こういうものに夢を見ているし、その夢がなければ自分はとても生きられない。

 人間存在の意味のなさに無意味さを上塗りするような真似はできなかった。

 

 何かを書いても残るかは分からない。

 けれど、もしも書かなければ、何かが残る可能性は低くなる。

 そういう単純な話だった。

 だから、どれほど些細なことでも書き続けよう。

 

 

 

 

 

月の印(しるし)の喫茶店 - café & antiques, 店内での写真撮影禁止|神奈川県・横須賀市

 

 

 

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 人に呼ばれて海の方まで行っていた。

 久里浜からバスで砂浜に出て、その帰りに今度は浦賀へ移動し、京急線を横須賀中央で降りる。このあたりには久しぶりに来た。気温30度越えで浜遊びなど無謀なのではないか、と家を出るまでは思っていたけれど、いざ街に足を踏み入れてみると、陽光を遮るものなど何もない海の方が涼しかったのには驚く。

 風があったからかもしれないし、それだけ都市部のアスファルトが熱を溜めこむから街は暑いのかもしれない。日陰を求めるように友達と連れ立ってしばらく歩いた。土曜日なのに、人通りは多くない。

 

 

 つめたいカフェ・アマレットは、炎天下の砂浜に3時間もかがみ込んで、無心でガラスの欠片を拾っていた身体によく沁みた。

 爽やかでほんのりと甘い。表面のクリームを落としてかき混ぜると、よりまろやかになる。その大きなグラスに浮かぶ砕氷が奇しくもシーグラスの形によく似ていた。

 お酒の入ったコーヒーといえば、冬場に飲んだカフェ・コアントローが身体を温めてくれて美味しかったのを思い出す。先日はこうして夏場に摂取するアマレットの良さを知ったので、次は寒い時期にでも、ホットコーヒーへ投入して楽しんでみたいもの。

 

 お酒が入っているからお水も沢山飲んで、と机に置かれた大きな水差しのガラスが、通りに面した窓から注ぐ光にきらめいた。決してうるさすぎない丁寧な接客は心地よい。

 

 横須賀で出会った喫茶店「月印」は店内での写真撮影禁止で、20歳未満の入店もできない。

 そんな、昔のパーマ店(白菊、と店内に看板が残っていた)を改装したアンティークショップ兼カフェ。奥まった路地にある。散歩していて偶然見つけたので入ってみたら、とても居心地が良くて落ち着いた時間を過ごせたのだった。

 年齢制限があるのはメニューのラインナップにアルコールの入った品が多いからなのか、あるいは喫煙ができるからなのか、雰囲気作りのためか。分からないけれどもその制限はお店の感じに合っている。

 

 内装は何ともレトロで、カウンターが昔よく見かけた「たばこ販売コーナー」のガラスケースを改造したみたいな趣だったのも個人的にそそった……土台の方に、赤い正方形の豆タイルが光っている。

 飲み物のおまけ(グラスのコースターに使われている銀のトレーに添えられているのが実に素敵なのだ)のクッキーとは別に、スコーンを注文してみた。下に添えられていたうすい紙を使って、手でじかに持ってかじりつくスタイル。焼き立てなのか温め直しているのか、猫舌には熱く感じられるくらいの温度でほくほくしていて、氷の浮かんだアイスコーヒーにとてもよく合った。

 そんなスコーンが乗っていた皿の模様は、少し前の時期に各所で咲いていた、蓮の花をモチーフにした絵柄。

 

 お昼にはランチメニューも提供してるみたいだったので、また異なる時間帯にも来たい。

 

 

 

 

脊髄反射的な「定型文」に対して感じる、半ば脊髄反射的な憤りとしての火炎

 

 

 

 

 いわゆる慣用句とはまた違った紋切り型の表現、要するに〈定型文〉に触れた瞬間、強烈に「嫌だ」と感じる場面がときどきある。

 

 具体的にいつ、どの言葉に対して、と特定することが難しい感覚だけれど、さっき明確に思い出されたものがあった。なかでも私が嫌いなのは、web上で特定の語句を入力して検索を行うと、結果の一番上にまるで広告のように厚生労働省の「自殺対策 - 電話相談」というページが自動的に出現する現象。

 タイトルからページの内容に飛ぶと、そこにはなんとかSOSとかなんとかホットラインとかこころの健康なんとか……など、いわばつらいときに相談する場所として「用意」された連絡先が羅列されている。

 こちらへどうぞ、と「誘導」するような形で。

 まるで、こちらに来さえすれば助けてあげますよ、と言わんばかりに。

 私がそれを求めているのではなくて、ある語句(しかも希死念慮とはそこまで関係のなさそうな言葉)の検索結果に、勝手に登場しただけなのに。内容自体も別に優れたものではない。

 

 あなたの気持ちを受け止めます、も、話を聞いて一緒に考えます、も、〈定型文〉の典型だ。

 とりあえず、そのように表現しておけば何かが説明できる、とどこかで判断している思想、脊髄反射のあらわれ。実際は責任をもって救うことなどできないのに、あたかも相手の話を聞くことで対象を救える可能性が増す、と錯覚させそうな表現には苛立ちを覚える。そんなことは誰にも分からないではないか。できないのだからまずはできない(もしくは難しい)と正直に言ってもらいたいのだが。

 でなければ腹を割って何かを話すこともできない。

 誰かが苦しいのはその人の抱えている問題が解決しないせいであり、その問題が実存に関する問題であった場合、極端な話、解決する手段など存在しえない。なのに定型文が通用する……という思想が未だあるせいで、こういうことが起きるのだろう。

 

 今、まさに海や川で溺れかけている人間の目の前で「あなたの気持ちを受け止めます」「話を聞いて一緒に考えます」「死なないで」「生きていさえすればどうにかなる」と陸から呼びかけ続ける者がいたら、確実に危ない。

 でも、そういうことが実際にまかり通っているのがこの社会なのだった。

 それらを眺めて感じる既視感は、まだ学生だった頃、周囲の大人に悩みを相談すると決まりきったように「カウンセリングに行ったら?」と返されることに対して抱いた不信感とかなり似ている。

 言葉それ自体もそうだし、考え方がもう特定の型にきちんと収められていて、彼らの中では「悩みを抱いている学生=カウンセリングを推奨するべき存在=相談できる者がいなくて悩んでいる」とすでにみなされている。決めつけであり、生徒ごとの内実から判断しているのでは、ない。

 

 つまりは半ば機械的な反応である(「自殺対策」のページが勝手に出てくるのとよく似ている……)のにもかかわらず、なぜか世間ではそれがとても親切な態度で良いことのように扱われており、納得がいかなかった。単純に個々が思っているならまだしも、それが世間的な当然として扱われはじめれば、やがて風潮になり、最後には常識という名前のものに変わる。鬱陶しいことこの上ない。

 そういう普通の人達がこれまた決まったように口にする言葉は、空虚を通り越してもはや「無」だった。無。自分がもっとも苦しかった時代、世の中で推奨されている「声かけ」の類に、一度たりとも救われたことなどなかった記憶が蘇る。

 決まったボタンを押したら、決まった答えを返してくる機械みたいだ。

 しかしながら……。

 定型文的な表現、また脊髄反射的な対応に際しては胸に激しい嫌悪感が湧き上がるのと同時に、確かに発生するのが一種の火炎であって、その憤りとも怒りとも呼べる何かが確実に「燃料」として心に油を注ぐのは皮肉なことだと思う。いや、ふざけるなよ、と思い、運が良いのか悪いのか言葉というものを持つ私は、言葉を練って残さずにはいられない。

 そういった身の内で燃え続ける暖炉の炎が自分を生かしているとするなら、ただ画面上に機械的に表示されるだけの無味乾燥な「なんとかSOS、なんとかホットライン、こころの健康なんとか」は、まさしく自死の防止に役立っているのではないかと考えて、本当に馬鹿馬鹿しいと思った。

 中途半端なことが嫌いなのだと実感する。

 真に誰かを助けたい、助ける、というのなら、しかも一般の人間ではなく行政という力を持った国の組織の一端がその意志を表明するのならば、本気でやってほしい。広告のように、とりあえず「自殺対策 - 電話相談」というページを、検索ワードに合わせてただ自動的に出現させるのではなく。

 私たちは何かしていますよ、という、ポーズだけではなく。

 

「ひとりで悩まず相談してください!」

 ……と、とりあえず言っておけば他人を救える、という軽い思想に憤りを感じて、暖炉で容赦なく燃やす。ああ指先が温かいなぁ、と思う。

 もちろんそれは皮肉な現象なのだった。