外側の世界で生きる難しさに、必要以上に親切な人間だと思われてしまうと破滅する可能性が高くなる、というものがひとつ数えられる。
脳裏に、陽当たりのよい高台に建つ小さな家の、中でもいちばん大きな窓がある白い部屋を想像した。内側の世界にはないものを。
そこでは丁寧に6等分した円形のパイが皿に乗り、四角い机の中央部に置かれている。ほとんど感じられないほどかすかに発酵バターの香りがする。果物でも肉でも魚でも、鉱石でも織物でも、紙に記された事柄でも……都度、異なる中身が生地の格子でできた牢の内側に詰め込まれ、閉じ込められている。
6等分ならばその数に対応する6人か、余りが出るそれ以下の人数でパイ片を分けるのが、きっとちょうどいい。困らなくて。そう思うのに、なぜかこの世界では、それを必ず7人か8人程度で取り合わなくてはならないような環境に置かれるのが常だった。理由など知らない。ただ、6切れのパイを分けるのが6人であってはならない、と、不可解なことを言われる。
誰に? 人……に。
それで呼び集められた人間たちがどうにかこうにかしてパイの切れ端を奪い合い、理由があれば譲り合い、最終的にあぶれた1人か2人の人間はいつのまにか「いなくなって」しまう。消えてしまう。外の、世界から。
あまり親切な人間だと思われてはいけない、というのはそれに似た状況で消されてしまわないために役立つ知恵。
他人から親切だと評価されることによって、自分の像は「他が駄目でもこの人になら何かを頼んでもいい」「他が無理でもこの人になら許してもらえるかもしれない」などの印象と結びつき、どこかで大きく歪められて「この人にだったら何でも遠慮なく要求していい」が石板に刻み込まれる。紙の表面にインクで書くよりも深いところへ、強固に。
そうすると、いつも丁寧に切り分けている(もしくは細かく砕いたり、それからひとつずつ配ったりしている)心のかけらを、なぜか断りもなく勝手に持って行かれそうになる。
一度に全部がなくなると心は場に存在できなくなってしまう。
数に限りのあるそれらを、誰に対して・どのように分配するかは私の裁量で決められるはずで、他人が欲しいときに欲しいだけ奪えるようなものではない。本来なら。そんなことを試みた者の方も、勿論ただではすまされない。
しかし親切という印象が胸に油断を抱かせるのか、人間に対する態度を誤った度合いまで軟化させると、境界線の内側に踏み込もうとする靴だか素足だかの先が闇の向こうから見えてくる。なので、適度に自分が決して善良ではなく、意識によって武装しており、保身としての防衛を第一に考えていますよと示すことで、盗難の被害に遭う機会を未然につぶせるのだった。
私は「あなたに」「何かをしてあげるために」「存在している」のではなく、そうでなくても、ここにいる。自分が大事、優しくありません。あまり寛容でも温厚でもありません。場合によっては、嫌だと感じたら、誰かを見捨てる時もあります。容易に手の届かない場所まで去り、いつか気が変わるまで戻りません。
そう、わざわざ看板を立てておかないと、いけないのだろうか。言葉にするまでもなく当然のことを……。
でも、もっとも厄介なのは、相手から要求されることではない。そう思う。
厄介で恐ろしいのは、強制的にではなく自発的に、心の一部なら進んで差し出してもいい、と思わされてしまうこと。加えて、そう思わされる状況に置かれることの方……だから広義の恋は劇物なのだ。何かに心を傾ける。この世界に存在しているものの中で、ある特定の何かを、時にはひとつではなくいくつもある何かを気に入って、意識を割く。いつの間にか自分自身ではなくて、対象のことを考えている。
それは劇的に、甚だしく、一方ではゆっくりと蝕む毒のように回り切り、たまに生物の息の根すら止めてしまう。当然の帰結として。普段あれだけ慎重に配分している「心」を、際限なく注いでいれば、その献身の持ち主はもちろん沢山のエネルギーを消費する。自覚のあるなしにかかわらず。
多少は自分を損なってもいいから、相手に捧げてみたい、そういった衝動に一瞬でも身を任せたくなる情動の恐ろしさ。輪をかけて恐ろしいのは、それがとても美しく見えるからで、何かのために生きるのはそこまで怖いことではないのかもしれないという淡い錯覚を抱かせる。それは違う。実際に恐ろしいし、とても怖いことだ。自分と向き合う時間が減ることは。
ただそれを理解し、道なき道に分け入る覚悟を持ってそうするか、あるいは無自覚に迷い込んでしまうか、の差異があるだけ。
心は、外野からよこせ、と言われれば「嫌だ」とはっきり反発できるけれど、自分の内から湧き上がってくる「あげてもいいかもしれない」は、どうにも抑えることができない。
残酷な話。こんな残酷な話が、あっていいわけがないのだが。
だから、何かを好きになることは文字通りの敗北なのだった。