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彷徨する自由帖

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お話に登場する木こりの規則正しい生活、その健全さに感じるフェティシズム

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 生活上のルーティーン、なかでも一般的に健全だとされているものに対して私が抱く印象は、実のところまったく倒錯したものだと認めざるをえない。

 正直、劣情にも似た感覚が胸に湧く。規則正しい毎日や、人間がそんな日々を送る行為には。

 人間にではなく、行為自体の方に、だ。だからフェティシズムになる。

 

 とはいっても、もちろん規則という言葉が指す事柄は千差万別、かつ色々な性質を持っているはずで、ここでは特に「朝型で余裕のある労働者の生活」をそう呼ぼう。

 全てではないにしろ、とにかく多くの場所で、かなり多くの人間が「模範的で健全」だと考えているような種類の生活の話。早寝早起き、適切な量の食事と運動、身体に悪そうなことは一切しない……みたいなのを。

 そう、強いて言うならば古くて平和なお話に出てくる、坦々とした木こりの一日でも想像してみてほしい。

 

 そもそも、誰かが何らかの秩序に則っている状態そのものが、自ら進んで拘束具に身を委ねている風に見えるときがある。

 一種の盟約や契約のように。

 ただし、本人がそれを苦痛に思っているならその限りではないのだが。

 たとえば私は会社に行く日、いつもだいたい朝の同じ時間に目を覚まして家を出、昼間は働いて、問題が無ければ夕方のほぼ同じ時間に帰宅しているものの、基本は夜型の人間なのでこれではひどく具合が悪くなるだけだ。

 無理矢理何かをさせられている、という感覚が拭えないし、全然官能の入り込む余地はない。そういう意味ではつまらない……。

 

 だからふと、質実剛健な木こりのことを考える。いろいろな物語に登場する彼ら。

 その人たちは別に、ここで私が言うところの規則正しい生活を熱望しているわけではないだろう。単純に、それが最も理に適っているからそうしているだけで。

 こちらからすると、その精神性にこそ、何か「たまらない」感覚を煽られる。

 

 森のはずれにある小屋。

 早朝の空気は湿っていて、濡れた草の匂いを外から感じ、木こりはぱちりと目を覚ます。窓を開けると清らかな風が吹き込んできた。今日は、雨ではない。必要ならば花壇の花に水をやる。

 それから火を熾すだろうか。朝食を作るための炎で、お湯も沸かすかもしれない。水が沸騰するまでの間、着替えて、仕事の前の準備運動をする。

 素朴ではあるがきちんと必要な栄養素が含まれ、身体を重くしない量の食事は、そのまま彼を構成する要素になる。

 丘を越えた先で毎日の仕事に励み、適切に鍛えられる腕や脚には過剰なものが何もない。そんな風にちょうどよく、文字通りに健全な肉体を携えて生活を営む彼のいる風景が、驚くほど艶めかしかった。

 それで、伐採や加工の仕事ができないときは、街に下りて書物を買うのだ。

 夜が更けたらランプか蝋燭に火を灯して、本を読む。しばらくすると燃料の不足を生まないために、また、翌日の活動にあまり響かないように、適切なところで切り上げて眠るのだった。

 

 こんな毎日をごく自然に繰り返している、物語の中の木こり。

 彼の一連の行動の様子は心のどこか、劣情に関係する部分を、あまりにも繊細に刺激してくる。時に少し困ってしまうほどに。

 規則正しい生活で着実に作られる健康な身体と健康な精神。太陽の下、草原の上にそういう人間が立っていると、最高にぞくぞくする。本人ではなくて光景に対して抱く、精神の高揚。

 だから私には、一般的に模範的で健全だと言われる系統の生活が、ぜんぜん健全なんかじゃないと思える。いやむしろ、健全であるからこそ生じる、まぎれもない拘束へのフェティシズムがそこにある。

 規則正しい、また過不足ない、ということ——。

 

 かくいう私は夜が大好きで、世間からすれば変な時間に寝て起きて、気が向いたときにだけ何かを食べたい、と日頃より強く思っている方。

 さらに贅沢という概念もこよなく愛しているものだから、尚更こう感じるのかもしれなかった。

 生活の健全さには、ひどく劣情を煽られる。