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彷徨する自由帖

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週間日記・2023 8/14㈪~8/20㈰

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月曜日に記事公開。その後、1日ずつ順次追加されます

 

週間日記・2023 8/14㈪~8/20㈰

 

8/14㈪「台風の名はラン」

 

 近畿・東海地方は台風7号「ラン」の影響で、これから相当な大雨になることが予測されている。こちら関東地方では今日特に目立った天気の移り変わりはなく、ただ不意に晴れたり、突然降水が再開したりと、確かにおかしな天候ではあった。

 明日は会社へ行かなくてはならないので雨脚が強まるのは非常にめんどくさい。手がふさがるのが嫌いなので、できるだけ外出時には傘を持ちたくない(それにしても近年の夏の陽射しよ! 雨でなくとも日傘を持って歩かなければ皮膚が死ぬ)。

 予測最大瞬間風速が5m程度に留まってくれているのはありがたいけれど、太陽が雲で隠されているのに気温30度超えとは、一体どういう了見なのだろう。自然現象に了見も何も無いのだと分かっていても容赦なく詰り倒したくなる。

 とかく参ってしまうのは強烈な湿気で、まるで風通しの良くない洞窟に閉じ込められ、退路を断たれ、延々と救難信号を打っているかのような気分になる……こうして屋内でキーボードを叩いているとだ。とても息苦しいし、汗がにじむ。

 私は自分の体調が気圧の影響を受けているのか否かについて、これまではっきりとした感触を掴めずにいた。天気が荒れているとなんとなく具合が悪くなるのには疑いがないのだが、それが「具体的にどの要因に依るものか」というのが、特定できないので。

 そもそも気分障害を患っているから、偶然にも台風接近時に鬱々とした精神状態の循環サイクルが回ってきているだけかもしれないし、あるいはまったく別の身体的な疾病や、慢性的な貧血がこの圧倒的な虚無感の核となっているのかもしれない。原因がよく分からないというのは実におさまりの悪いもので、けれど世の中の大抵の物事は、そこにすっきりとした因果関係を見出すというのが難しいらしい。

 台風の話に戻るが、今回日本列島に接近している7号に与えられた名前「ラン(LAN)」はマーシャル諸島の言語で「嵐」を指すものだという。渦を巻く雲は翻る衣服の裾にも似て、布団に入ってからじっと耳を澄ますと、脈拍と連動する頭痛の向こう側からランの笑い声が聞こえてくる。

 想像の中にしかいないその姿は魅力的だった。地球というまあるい玉の表面は気象の遊び場なのだろう。

 

8/15㈫「花・占い・好き・嫌い」

 

 珍しく頭がすっきりとしていて、身体も比較的軽く、あまり目立った苦痛を感じない1日であった。仮に望んだとしても容易に実現できない良好な状態がまったく不意にやって来てくれるのはありがたい。欲を言えば、いつでもできるだけこの「普通」の体調が保たれていてほしいのだけれど、どうしても難しいらしい。私にはもう普通が分からない。

 墓地や霊園のそばに建つコンビニエンスストアでは、仏花が売っている。

 今日の退勤後に見たとある店舗では軒下、野外ゴミ箱が設置されているのとは反対側の入口脇に、仏花がいくつかの束で陳列されている棚があって、小糠雨が降っていたせいか上から黒い紗のような覆いがかけられていた。その佇まいが、葬儀の際に目元を隠すヘッドドレスの網みたいで面白い。紗の下で花々は少しうつむいて、雨が止むまでじっとしているようだった。

 花。思えば花占いに「好き」と「嫌い」の選択肢しか存在しないというのは、改めて考えてみると、なんと潔癖な姿勢だろうかと感じる。子供たちが粛々とと興じる遊びに何よりもふさわしい。占いの対象を想定した時点で、「どちらでもない」は、彼らの世界には存在しなくなっている。

 そういう潔癖さ、一方では頑なさと言い換えてもよいものが出てくる物語といえば、まさしく先日読んだ『フラニーとズーイ』をはじめとするサリンジャーの小説。『ライ麦畑でつかまえて』『ナイン・ストーリーズ』の翻訳を手掛けた野崎孝氏の日本語訳がもしあれば、と書店に寄ったら村上春樹氏版の邦訳本しか取り扱われていなかったので、新しい捉え方を学ぶ気持ちでひとまずそちらを買った。

 作中に登場するベッシー(グラス家の母)の台詞は、まさに「好き」と「嫌い」の2択で事物や人物を認識しようとする息子、ズーイのまっすぐな目に言及している。

 

「おまえはね、誰かをすっかり気に入るか、あるいはぜんぜん受け付けないかどちらかだ」

(中略)

「そんなに好き嫌いが激しいまま、この世界で生きていくことはできないよ」。ミセス・グラスはバスマットに向かってこう言った。

 

(J・D・サリンジャー『フラニーとズーイ (2014)』新潮文庫 村上春樹訳 p.145-146)

 

 実のところこれくらいの「嗜好の苛烈さ」を抱いたまま、子供の心のままで生きていたいと、私は切に願う。

 

8/16㈬「古本」

 

 閑古鳥の鳴き声が聞こえてくるんじゃなかろうか、というほど職場が静かで、所謂お盆に世間の人が一斉に休日を迎えたり、また先日通過した台風の影響で何かが滞ったりしていることを意識させられた。体調は悪くない。

 カレンダー通りの出勤にならない勤務形態の会社にいるし、他の大多数と同じ日に休むとむしろ外界の混雑がひどいので(本当の本当に人混みが苦手だ)、全然年中行事と関係のない平日に旅行などできる点がかなり良いと思っている。そもそも、だからこそ今の会社にいるといっても過言ではないのでは。

 オフィスにいるはずなのにすることが発生しないから延々と新しく手に入れた本を読んでおり、今回は森博嗣「すべてがFになる」を冒頭から3分の2程度まで進めてしまえたことからも、どれほど暇だったのかが察せられる。あまりにもひどい暇。どうせまた忙しくなるので束の間の長閑を満喫する……。残りは帰宅してから読了した。

 それにしても、1996年にメフィスト賞を受賞した作品から、ここまで時代の隔たりを感じさせられるとは予測していなくて意外だった。私の生まれた平成初期はもう、令和からだいぶ遠い。

 他にも、最近購入した書籍がいくつかある。

 そのうちの半分は古書店で入手したもの。このごろ設けている古本(とりわけ50~100円など安価なもの)を購入するときの簡易ルールとして、カゴは使わず「両手がふさがるまでの冊数を選んだらそこでやめる」を設け実践しているのだけれど、買い過ぎを防ぐ効果はある程度出ている。「きりがない」とよく言われるように、実際きり、というものはこの世に存在せず、自分できりを作るしかないのだとようやく分かってきた。

 私は物理的な書籍を販売する書店にできるだけ長く存続してほしいから、新刊はもちろんのこと、どこかで安く購入できる古典作品の文庫などであっても、たとえば退勤時に駅の近くの本屋で買うようにはしている。

 けれど、幼少期から現在までに集めてきた本が並ぶ自宅の本棚を眺めてみると、それらのうちかなりの割合が古書店経由で手元にやってきた存在で、古本こそが自分を書の世界から弾き出さないでくれたよすがだと感じる。子供の頃は定価の本をあまり買えなかった。学校の図書室や公共図書館に行けば、私の方は無料で本が読めたけれど、お金を出して買う人がいなければお店は潰れてしまうと理解している。

 それにしても、お金が回らなければ何事も成り立たないとこんな風に普通に考えてしまえるような仕組みが社会を形成している現状に、長期的に見てもっと疑問を持ち変化を促せるだけの余白はあってくれよと思う。

 その場しのぎの「買って応援」とか「経済を回す」などという言葉では根本的に解決できない歪みとか、そういうものの話。

 

8/17㈭「万能アプリとかどうでもいい」

 

 ここのところ、MastodonInstagramのアカウントを徐々に弄ってみている。趣味の投稿でごくゆるく他人とかかわりを持ちたい気持ちが常にあり、今のところどちらも本当にゆるーくやっている。好きなものの話ができる場所が欲しいもので。ちなみにThreadsに関しては様子見。

 マストドンもインスタも全文検索ではなく「ハッシュタグ検索」が他の投稿と出会う鍵なので、慣れるまでは戸惑う瞬間もかなり訪れるのだけれど、だんだん楽しいタイムラインを構築したり目当てのものを探したりするコツは掴めてきた。

 ユーザーの層も話題やサーバーによって大きく異なるため、その一面だけを見て敬遠してしまうのは勿体ない。興味ある人はお試しあれ。

 ところで、少し前までTwitterという名称だったweb上のプラットフォーム(X)にはなんだか全然人がいなくて、かつては賑わっていたのに現在閑散としている、そういった意味では過疎状態を呈している。最新タイムラインの表示がちっとばかしイカれている影響もあるらしく、俗に言う「間引き」のせいで、せっかく誰かが呟いていることもこちらで見られていないのではないだろうか?

 よく意味が分からないのが、例えば「フォロー中」のタブに表示されるはずの、フォローしている人のツイート(ポスト、と言い直した方がいいの?)からいくつかが「おすすめ」タブに勝手に移されているようで、雑音の多い「おすすめ」タブを見ない自分の場合、その呟きは完全に取りこぼすことになる。

 私が好きだったのは不特定多数の人間が誰かしらいつでもそこにおり、何でもいいのでぶつぶつ呟いているとポツンと反応してもらえたり、単純に皆が書き込んでいることをぼんやり読んだりする楽しみがあったところなので、この自他の投稿が「そもそもタイムラインに表示されない」状態ではあまり覗く意味がなくなってしまうじゃんと頭をひねっているところ。

 私はXがまだTwitterだった時代にそこで出会ったフォロイー・フォロワーさん方が好きだし、普通に暮らしているだけではかかわりを持てない人達とやり取りできる場所を愛しているので、元に戻らないなりにこれ以上の改悪がされませんようにと願うばかり。まあもともと短文投稿サイトだったから、まさに今こうして短文投稿で誰かとかかわれる可能性が潰されている現状は残念でならないし、改悪は進められるに違いないけれど。

 最近「ビデオ・音声通話機能の追加予告」がなされたみたいに、このアプリケーションはイーロン・マスク氏が構想しているという「スーパーアプリ」化への過程で、例えばLINEのようにより身近な人間とやり取りしたり、決済や各種取引が可能になったりと「日常生活により踏み込んだ」代物になっていくのだろうとは思う。

 同時に、どうでもいいんだよな~そういうのは。とも思う。

 

8/18㈮「目が覚めているあいだ見ているものこそが夢」

 

 午後3時ごろ、ビルの窓越しに民家の屋根を視界に入れた。

 外で何か強烈な光を放っているものがある……、と思って視線をやったのだけれど、それは太陽の光線を反射している棟板金(屋根のてっぺんを細く覆っている一直線の金属部分)で、ほとんど橙か金に近い色で輝いていたのが恐怖とともに印象に刻まれた。あれ、一体どのくらいの表面温度になっているのだろう。想像しただけで身震いがする。肉が焼ける。いいや人間も外を歩けばまさにジリジリと灼かれている、単純に、文字通りに。

 もう数年前の話、アイスランドの首都・レイキャヴィーク付近で噴火した火山の溶岩で、学者がソーセージを焼いていた映像を思い出した。さながら夢想の一片のような風景。熱源があれば、ものは焼ける。出現したり消えたりする蜃気楼の向こう、遠く離れた時間の壁の先——過去の一点で、今日もバーベキューが行われている。

 日傘を差してもぐったり萎れている私とは対照的に、歩道の両脇から通路を塞ぐ形で伸び続ける草の繁茂はここ数週間だいぶ著しい。ほとんど異能じみた生長能力を感じる。場所によって歩道がほとんど通行困難になっているのは問題だと思っており、公の道に対するこの手の御意見はどこへ送るべきなのか、迷っていた。区役所とか、市役所とか?

 あとは夜間、街灯の光を遮っている木の枝葉も町内で見かけることがある。

 安全への影響もそうだし、風でその枝葉がゆらゆら揺れるたび、地面に落ちる影が別の生き物みたいでかなり怖いのだった。それにしても陽が落ちてから出歩くと、蒸し暑くはあっても、昼間の息苦しさとは対照的な気温の低さに驚かされる。

 雨の日と同じように湿度が高いと空気の中を泳いでいる感覚に囚われ、同時に夜は全体的に光量が少ないので、むしろ目に映るものの現実味が増してくる。すると……昼間というのはすなわち、嘘か幻の世界のことなのだと信じられてくる。

 現実味といえば、真夜中に覗き込む鏡は非常に説明しづらい存在だと思う。今日の午前2時ごろに見たものも、いつものごとくそうだった。

 睡眠から中途覚醒した時点では当然ながら、家中の電灯は消されている。水を飲みに行くにしろ、お手洗いへ向かうにしろ、そのために私が電気のスイッチに触れることはない。完全に目が覚めてしまうかもしれないので、ただ暗いままの部屋から廊下へと黙って進み出でる。できるだけ音を立てない。それで、布団に帰る前に手を石鹸で洗うとき、必ず洗面所の鏡をじいっと凝視する。

 明かりが点っていなくともそこは完全な暗闇ではないから、自分の輪郭も、周囲の事物もぼんやりと(でも、確かに)鏡には映る。その様相から醸し出される圧倒的な現実感には毎回、新鮮に驚かされるのだった。触れればガラスのつめたさではなくて、自分の体温をこそ感じそうだと、直感的にそう認識している。

 

8/19㈯「かえりみち」

 

 会社を辞して家に帰ってきて、日記を書けるまでの間に自分がプッツリ気絶するか、しないか、という仁義なき戦いがこの習慣を始めてから繰り広げられている。今日はもちろん気絶していた(この更新時間)。ところで近年は気絶する以外の方法であまり寝られていない気がする。切実に眠りたいときにはまったく寝られなくて、その代わり、気が付いたら意識がなくなっている。

 そしていざ眠りに入ると、今度は床から起き上がることができない。

 今日の心身状態は可もなく不可もなく、普通だった。あまりひどい苦痛は感じていない、ただ、いつものごとく朝起きるのがつらかっただけ。

 帰り道で、まるで食パンの化身のような色と毛並みをした散歩中の柴犬を3匹も見た。

 帰り道で、豊かな白い髭を胸の下あたりまでの長さに伸ばしたご老人が、バイクに跨ったご老人と道端で会話しているのを見た。白いTシャツを着ていた。

 帰り道(地下鉄の車内)で、高田大介「図書館の魔女」第4巻(講談社文庫)を読み終わった。次にあらかじめKindle端末にダウンロードしていた、川北稔「砂糖の世界史」(岩波ジュニア新書)のページをめくり始めた。

 帰宅の途についている時間はだいたい夕方特有の著しい空腹を感じているのだけれど、この空腹によって、知能指数って一体どのくらい低下するものなのだろう、と考えさせられる。お腹が空いていると本当に食べ物のことしか脳裏に浮かべることができないため、常に「ごはん♪ ごはん♪」のような歌が頭の中で流れているし、それは無事に晩餐にありつけるまで、延々と精神を蝕みながら流れ続ける。

 バスの窓から眺めたコンビニエンスストアの駐車場には今日もヤンキー達がたむろしていた。そういえば、私はコンビニでセルフサービスの飲み物(紙コップやプラコップ? に入ったコーヒーとか、カフェラテとか)を買う方法もよく分からない側の人間なのだよな、と唐突に実感した。あれ、今度友達に教えてもらいましょう。

 

8/20㈰「いつだって血に飢えている」

 

 寝た状態から起き上がる。もしくは座って、また、立ち上がる。

 それだけの動作で頭部からさあっと血の流れが引いていく感覚があり、貧血の気がわりと強い1日であった。単純な血液の量というよりも鉄分不足が原因で、それがあまり酸素を全身に行き渡らせてくれていない感じが恐ろしい。摂っても摂っても内臓に蓄積されてくれない感じがする鉄、それを(獲物さえ見つかれば)さくっと経口で摂取できる吸血鬼、ぶっちゃけ羨ましいのではないかとすら思えてきてしまう。

 私も吸血鬼たちくらい容易に鉄を体内に取り込めたら、もう少し頭のはっきりした時間を長く過ごせるに違いない。ごくごくと。当の獲物には家畜として犠牲を払ってもらうけれど、きちんとご飯をあげるし、自由時間も設ける。

 手放しで体調が良いと判断できない日が多すぎて、しかも8月下旬はこの気候なので呼吸もままならない。大抵の人が具合が悪いと言っているのがまだ救いというか、そもそも高温多湿の炎天下で実際に元気な人というのも珍しく、本人に自覚がないだけでわりと心身に負担はかかっているのではないかと考えていた。だから熱中症で搬送される人も多い。あと強い太陽の光を浴び過ぎるとどんどん気が滅入ってくる。セロトニンが鬱に効く? 知らないね。

 しばらく前、舞台TRUMPシリーズの入門編として「はじめての繭期2023 Summer」を視聴した感想をブログに上げた。そして今日はU-NEXT(ユーネクスト)にて再配信されている「LILIUM -少女純潔歌劇-」を視聴して、別途感想をまとめている。そのうち公開にする。来月これの「新約版」の円盤が発売になるので聞き比べたいと思った……。満足した。

 望みもしないのに永遠の命を得てしまう人達の物語、大好きだよ。

 U-NEXT(ユーネクスト)でリリウムを視聴後、他に見られるものを検索していたら、シャマラン監督の映画「VISIT(ヴィジット)」に目が止まる。これ……知ってる人、いるかな。世間的にあまり評価が高くないだけでなく、個人的にもまったく傑作だとは思わないのに、好みに合うか合わないかで判断させられたら間違いなく私の「好み」には入る系の映画。かなり前に見て以来ときどき思い出している。

 再生時間は90分程度と短いので、よければ見てみてほしい。その代わり好みに合わなくても私は責任を負わない。

 

【ヴィジット - U-NEXT(ユーネクスト)】

 

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