この場合の「痕跡」というのは、なんと表現すればよいだろうか。
文字や図画などはほとんど記録そのものだといえそうだけれど、例えば目に見える形で書き下されることのない口伝や、歌の旋律も、地形も、滅びてから土に埋まった生物の化石だって、おそらくはすべて痕跡だと表現して差し支えない。
あるものが、確かにそこにあったと示すもの。
仮に失われれば、確かに存在していたという証拠が揺らいでしまうもの。
とりわけ文字を扱っていて思うのは、人間はやはり文字に寄生され、深く依存しているのだということ。もはやこれなしでは周囲のあらゆるものを認識できないほどに。
されど、そうだとしても、どうしようもなく何かが記録されている事実は愛おしかった。「記録」が好きで、「記録」をしたいし、「記録」を読み、それに触れたい……是非とかどうでもよくて、理由もない。ただ、自分はそうせずにいられないというだけ。
遠い昔を生きた人々の思考の軌跡が、一部でも書き残されて現代に受け継がれてきており、100年、1000年以上後に生まれた私でも手に取って読むことができる。もはや、感謝に似た念を抱くしかない。ヒト生物が文字に寄生されているのだとしても。
感謝と同時に湧き上がるのは、この世界に対する憤りなのかもしれないと、考える。
怒りとは少し違う。憤りだ。
誰にも知られないことや、痕跡が残らなかったことは、世界の側から勝手に無かったことにされてしまうから。それが悲しくて、不本意で。
書(描)かれなかったこと、残されなかったこと、語られなかったこと……また観測がなされず、誰もその存在を信じない事柄が、半ば自動的に存在しないとみなされてしまう現象に対して、でもこの世界というのは元よりそういうものなのだ、と納得することができないのはどうしてなのか。自分でもよく分からないし、知らない。
図書館へ足を運ぶたび感じ入る。過去の誰かが手間をかけて何かを書き残さなければここにある本は存在しなかったし、触れたり読んだりすることもできなかったのだと。
書き残されなかったこと、痕跡が残らなかったことは消えてしまい、世界の側から勝手に無かったことにされてしまう。
それが本当に嫌。
何を見て、何に出会い、何を感じたか、それがどのようなものだったか、どのような変化がもたらされ、あるいは何ももたらされなかったのか、生きて認識したことのすべてがひとつ残らず克明に記録されて永久に消えることなく何処かに刻まれていてほしい。
私は何にも消えてほしくない。
すべてのものが存在した証が、知覚できなくてもどこかにきちんと残っていて欲しいと願っている。
とはいえ、それが無理だとも知っている。人の生きた証は、完全には保存されない。
でも、跡形もなく消えたら、それは無かったことになってしまう!
はじめから存在しなかったことにされてしまうのだ!
ずっと昔のことを今に生きる私達が推測できるのは、推測の材料として「何か」が伝わるか残されるかしているからで、たとえ砂の粒の大きさでもいいから、何かを残さないとつまらなくなってしまう。
1枚の石板、1冊の書物に記された事柄が、たとえ気の遠くなる時間が流れても受け継がれる可能性を持つように、ひとりの人間が蓄積した知識や獲得した技術が、世襲ではない流れで継承される意味。血族でなくたって構わないのだ。家柄も他の肩書きも関係ない、ただ強く知識を求める者にこそ、それが与えられること。
知の継承……思考の継承……こういうものに夢を見ているし、その夢がなければ自分はとても生きられない。
人間存在の意味のなさに無意味さを上塗りするような真似はできなかった。
何かを書いても残るかは分からない。
けれど、もしも書かなければ、何かが残る可能性は低くなる。
そういう単純な話だった。
だから、どれほど些細なことでも書き続けよう。