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彷徨する自由帖

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週間日記・2023 9/4㈪~9/10㈰

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月曜日に記事公開。その後、1日ずつ順次追加されます

 

週間日記・2023 9/4㈪~9/10㈰

 

9/4㈪「深夜集会」

 

 昨日の夜に新潟県の糸魚川から帰ってきていた。そして、今朝は会社の人からの親切な電話で起こされた。驚いた。でもこれが本当に幸運なことで、さもなくば起きて出勤することが不可能だったために(恐ろしい)感謝するより他にない。

 ふと駅へ向かう路線バスの座席から外に視線を向けていたら、コンビニの駐車場と近隣のマンションを隔てる柵のところに、看板を見つけた。そこには《深夜の集会おことわり》と、書かれていたのだった。

 深夜の集会!

 いうまでもなく、看板の文字が意味するのは「迷惑なので夜遅くにここに集まってたむろしたり騒いだりするな」なのだけれど、そこを「深夜の集会」と表現されると、私はどうしてもヴァルプルギスの夜を連想させられてしまう。最近までPrime Videoで配信されていた映画の原作、プロイスラーの児童書「小さな魔女」を思い出す。

 後を引く残暑の夜、魔のブロッケン山ではなく深夜のコンビニで行われる集会には、ビーフジャーキーやチーズ鱈などがお決まりのように顔を覗かせているかもしれない。あるいはアイスバーが人々の片手にあるかもしれない。

 しかしそれはあくまでも「たむろ」ではなくて「深夜の集会」なので、みなお行儀よく姿を消し、声も響かせることなく、構築された結界の中で歌や踊りが行われる。帰宅して次の日に自宅のゴミ箱を覗くと、きっと持ち帰ってきた各種食べ物や飲み物の残骸だけがそこに横たわり、集会の記憶は消えている。

 家の近くの道路にまた蝉の亡骸が落ちていた。

 

さっき購入した本のメモ:

 小川洋子「」「薬指の標本

 三島由紀夫「仮面の告白

 原田マハ「モダン

 

9/5㈫「第三世代」

 

 ゆとり世代、さとり世代、iPhoneの世代にKindleの世代、ほか、世代とはとても身近な言葉だけれど、実はいま存在している地球に暮らす私達、全員に関係する要素として《第三世代》であることが挙げられるらしい。

 いったい何の話なのかというと、約138億年前(めまいがする)の宇宙開闢(ビックバン)による最初の元素の誕生が第一世代と仮定すれば、次の超新星爆発で増えた元素が集まり、形成した恒星が第二世代のもの。そして、それがさらに超新星爆発を起こした後にできた……という意味で、私達が生活している惑星を含めた太陽系は《第三世代》のものということだった。

 読んでいたのは、藤岡換太郎「三つの石で地球がわかる 岩石がひもとくこの星のなりたち」。岩や石について知りたかった。

 地球と呼ばれる惑星が、あらゆる岩石の骨格をなすケイ素(珪素)の豊富な星である理由は、この《第三世代》の太陽系ができるとき飛び散った元素の分布に関係しているみたい。原始太陽の引力に影響されて、重たい元素はよりそこに近い場所に留まり、反対に遠い場所には軽い水素やヘリウムが飛んでいった。だからこの太陽系では、太陽から遠い場所にある星ほど、軽い元素で構成されている。

 なるほど、天王星や海王星が巨大な氷の星であると聞いて、幼い頃からどきどきしていた気持ちを思い出した。あれらは、地球よりも大きい。

 暑いので、巨大に膨らませた想像上の手で、遠い惑星を触っていた。頭の中で星は機嫌のよいときの猫のように撫でられている。想像上の宇宙でなら呼吸は必要なく、マイナス数百度の大気や表面温度に、全身が一瞬で凍り付く心配もない。

 

9/6㈬「欲望について」

 

 レイ・ブラッドベリ「何かが道をやってくる」の、中村融氏による新訳が創元SF文庫から出ていて、7月下旬に買っていたのを読了した。

 感想は別途記事にまとめるけれど、どうしようもない古さと同時に、確かな良さを感じられたのが幸いだった。そもそも登場するモチーフ(移動遊園地関係……)が軒並み好きなので基本的には贔屓目だらけ。ページをめくっている間、作品からずっと塵の匂いがするような気がしていて、本棚に置いてある同じ作者の「塵よりよみがえり」をそろそろ終わりまで読んでしまうべきだと考える。

 ここから先に書くことは上の作品と何も関係ない。

 私は誰か、尊敬している人間や、魅力を感じた人間(便宜上「人間」と表記するけれど実在の者である場合も、何か物語の登場人物の場合も、ある)に対して「叶うなら友人になりたい」と強く思う性質がある。この強さは相当なもので、自分自身は「そういう種類の感情」が存在する事実を認めているのだけれど、なかなか《お外》では通じないことが多いのは難しい。

 他人にかかわる事柄で何かを希求する心、欲求は、性的なものや社会的関係を得るためのもの以外でも存在していて、しかし世の中では恋愛以外にそれが存在する余地をあまり与えられていない。

 誰かと友達になりたい、親しくなりたい、かかわりを持ちたいと願うのは「個別の」かつ「明確な」欲望だし、それを既存の枠に収容して勝手に名前を付けられるのも、ないものとして扱われるのも不本意だから、難しい。

 欲というのがあたかも一種類しか存在しないように見做されるのが、納得いかないのだろう。

 

9/7㈭「サイダー」

 

 日記を更新してみると、自分はわりと毎日、空白の期間を設けずに本を読んでいるじゃないかと意外に思った。このごろ普段は別のことをしていて、一定以上の空き時間ができた際に集中して一気に何かを読む……という仕方で書物と向かい合ってきた気分でいたから、これほどいつも一緒にいたっけかなと。実際、いたんだろう。

 9/4㈪に購入、と記載していた小川洋子「薬指の標本」を読了する。表題作と収録作「六角形の小部屋」の2編を。

 そのまま短編集「海」へと歩を進め、またしても作中に『サイダー』が出現したことと、巻末の著者インタビューで小川氏自身が「官能は私の最も苦手とする分野なので」と発言していた部分をしばらく咀嚼していた。興味深いと思う。

 読者から逃げ場を奪い、じわじわと確実に肉体的な感覚器官に訴えてくる、そういう意味で、この人の作品は官能の極致だなぁと思う瞬間が私にはあるので。

 また、根本的にサイダーという飲み物は性質からして官能的な気がする。炭酸飲料が大好きな人間だからこう判断するのかもしれないけれど、炭酸水がたとえば口内、舌の先や表面、歯茎、喉をぷつぷつと刺激する感覚や、栓を開けた瞬間の独特の香り、さらに気が抜けて時間が経った後の淡い風味も、すべてが身体的な神経に作用する。

「薬指の標本」で、サイダー製造工場での事故で失った指の柔らかな肉片を想起させる、たった数行、これをしても「官能は私の最も苦手とする分野」と言えてしまう作者が私はちょっと恐ろしいし好きだ。

 

9/8㈮「換羽」

 

 昨日に比べかなり気温の下がった1日で、それなのに湿度の方はあまり快適な数値に近付いてはくれず、ただ無為に病気になりそうな気候の変化だと考えていた。精神的にも身体的にもだ。どうせ会社に行く明日も、昼間は30℃を超えて暑くなる。

 とはいえ少しずつ世間で「衣替え」と呼ばれているものを自分も進めるべきで、これからの季節、特によく必要になりそうな衣服は箪笥の前面に、そうでもないものは奥へ……というローテーションを頭の中で繰り返した。この頭の中での想定をある程度行ってからでないと、ただ服を散乱させて部屋全体も散らかすだけになってしまう。整理整頓の才能がない。

 そうしながら、机の上に置いた貰いものの「カモのブローチ」を眺めていた。頭のところがあのティールグリーンで彩られているので、それはオスのマガモ。

 マガモは時期が来ればその全身を覆う羽を入れ替えて、いわば根本的な着替えを実行する。繁殖期用の衣装と普段着の違い、とでも言うべきか、ものすごく派手ないでたちとそのへんの風景に紛れるような部屋着的装いを入れ替える。面白い。

 それにしても繁殖期のオスのマガモ、あの深い緑色の頭は見れば見るほど綺麗だが、羽の色の分布が銀行強盗のマスクに思えてこなくもない。すっぽりとかぶってくちばしを出す、目出し帽ならぬくちばし出し帽……。

 もうすぐ彼らの一部はより寒い国からこちらに渡ってくるはず(渡りをせず、日本でずっと暮らしている種もいる)。この目で見られるのを楽しみにしている。

 

9/9㈯「頭のスポンジ」

 

 日付が変わったら文学フリマ大阪11の開催日。私は現地に行かないけれど、万事つつがなく始まり、それから終わるといい。

 今日は会社にいた。

 なぜだか知らないけれど非常に忙しく、退勤を渇望しながら「こんなんじゃ疲労で脳みそ枯れてシワシワになっちゃうよ~」と思い、その直後に「ウーン脳みそってどちらかというとシワシワの状態が普通、じゃない?」などと考え直すなど、知能指数や処理能力がだだ下がりの半日であった。もう自由。

 岩石の本を読んでいて一駅先に乗りすごしたのは、本文に数億年単位での太陽系や地球の変動について記されていたからで、時間の流れ方が変わってしまったからに違いない。いつもとは異なる駅で降りるとまるで知らない世界に迷い込んだ気分で怖い。

 電車をおりるとき、ドアが開く直前に降車口の前に立っている誰かの背中や肩がふと自分の視界に入って、その人の服の表面に小さな動物の絵がたくさん印刷されているのをなんとなく無心で眺める「あの数秒間」。今日もあった。服の絵柄は、カナリアのような小鳥。炭鉱のカナリアは地下鉄の車内で一声も鳴かない。

 それから気になったもの、「牽」という漢字。道路を走るトラックの後部に「牽引中」なる表示が見えて、何を牽引しているのかまでは分からなかったが、牽の字から牽牛を連想した。乞巧奠でよく知られる織女の恋した彦星だ。信号が青になったら彼方へ去っていく。

 そのへんを歩いているだけでたくさんの情報が視覚から頭に流れ込んでくる。

 

帰りに購入した本のメモ:

 グラフィック社『ちいさな手のひら事典』シリーズから3冊

」「魔女」「おとぎ話

 

9/10㈰「ドクニンジン」

 

 文フリ大阪、閉幕したようです。ありがとうございました。

 貧血の影響なんだろうけれど起き上がったり、動いたり作業したりという行為があまりにもできなくて、びっくりする。座るか寝転がるかして昨日買った「小さな手のひら事典」をめくることしかできない。今日は「魔女」を。小口染めとして金箔が施されているからきらきらしていて、眺めているのが楽しい。

 そのうちの『鍋のなかの秘薬』で毒ニンジンに言及されていたから、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説「九年目の魔法」を思った。あれは原題が《Fire and Hemlock》——ファイア・アンド・ヘムロックで、ヘムロック(Hemlock)とは毒ニンジンのことである。火とドクニンジン、というのが元のタイトル。

 作中に同名のアイテムも出てくる。

 微量でも人を無能にさせ、大量に摂取すれば死が訪れる。いつしか魔女などと呼ばれた賢き女たちが用いた薬草のうちのひとつがドクニンジン。そして厚生労働省のサイトには自然毒のリスクプロファイル、というページに「古代ギリシャでは、このエキスを罪人処刑(毒殺)に用いていた。哲学者ソクラテスが、この毒によって最期を遂げたことは有名。」と書かれていた。本当に昔から使われていたようだ。

 薬にも転ずる毒の強力な一滴で、この血液と内臓も活性化されればいいのに……。でも、ドクニンジンはどちらかというと鎮静剤だ。正反対だ。

 とにかく体調は芳しくない。あまりできていることもないし。何をするでもなく無為に生きるのを正当化するためには「物語に出てくるのブリキの木こり」か「まぼろしの草原の羊飼い」になる必要があって、それができない以上は何かをするしかない。

 今は、四谷シモン人形館を7月に訪れた時の記録ブログを書いている。そのうち上げる。

 

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