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彷徨する自由帖

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生活それ自体の哀しさ / そこに本が存在する喜び

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 自分が純粋な「生活」の概念を苦手としているのは、例えば人間が存在して、寝たり、起きたり、働いたりしてまた眠り、目覚める、その繰り返しにこれといった意味を見出せないのが最たる要因だろうと思っていた。ときどき疲れてしまう。だから、単純に生活するだけではいくら頑張っても精神面の充足が得られず、あまり熱心に取り組む気になれないのだと……。

 加えて最近、生活の中でただ楽しむための料理(例:写真はそのうちのひとつ、カマンベールアヒージョ)をしばらく続けてみて、分かったことがある。この根本的な徒労の感覚について。

 徒労。

 より詳しく表現するなら、それなりに一生懸命作ったものが、食べてしまうとあっけなく目の前から消えてしまうことの、動かしがたい圧倒的な空虚さだ。これはとても大きい。本当に、心の底から哀しかった。完成した料理の味がまずければむしろ片付けに清々するのかもしれないが、おいしければおいしいほど、尚更しょんぼりとする。そして、調理器具や食器を洗っていると、その念はいや増してくる。

 だって、自分の行為の成果はあくまでもぼんやりとした「満腹感と満足感」としてしか残らず、しばらくすればまた人間のお腹は空く。まるで、全部が幻だったみたいに。

 この手の感覚は長く持続しない。しかも、繰り返さなくてはならない。洋服を着る、着ると汚れるので洗う、それで綺麗になったのをまた着ると汚れる、では再び洗う、そういった循環によく似ている。達成感は一体どこにあるというのだろう。何も見えない……。

 だから哀しくて、作った料理の写真をわざわざ撮るのかもしれなかった。家での食事でも外食でも、画として証拠が残るから。

 するとああ、自分にもきちんと何か作れたんだな、とか、今日はひとつ面白い経験を積み重ねたな、とか思えるので悪くはない。残した写真は物質であろうとデータであろうといつかは消えるが、それは別に他の事物と全く変わらないことで、感じる虚しさの種類は生活に対して抱く虚無感とまた少し異なる性質を持っている。

 せっかく作っても食べれば無くなってしまう料理を黙々と味わっているあいだ、もうひとつ感じるのは強い閉塞感。これに関しては、本を手に取って読んでいると幾分か軽減されていく印象がある。

 書物に記された事柄は作者からの問いかけにも似ていて、それは発行され世に出た時点で、読者の方へ投げかけられているもの。だから、どれほど時間や空間を隔てていても、感じる部分があれば何かを受け取ることができるので、驚くほどの広がりと多岐に渡る繋がりがあるのだった。

 誰かの知識、誰かの物語と、今を生きている自分の意識が文字通りに交差する場所があり、まるで部屋に居ながらにして違う場所を歩いているような気分にもなれる。素晴らしいことだった。

 一方で自分の料理と食事は、自分で食べるためのものを自分で作り、食べたらあっけなく終わってしまう、その時点でもうどこにも行けないのではないかという恐怖を感じさせる。手の届く範囲が著しく狭く、しかも前述したように、達成感とは程遠い終わり方だ。なぜならこのとき十分に満足できても、いずれまた空腹による食事が必要になるので、ふりだしに戻ってしまう。

 できる対策としては、これもまた証拠を残しておくことが最も有効で、そうすればある程度はきちんと区切りをつけられるしただの幻覚にならない。

 なぜ作ろうとしたのか。何を作ったのか。何を食べたのか。何を感じたのか。それが、何になったのか。残るなら、少しは料理を楽しめるようになる気がする。また記録を残すこと自体を動機にできれば、生活全般への意識、気の持ちようがずっとましなものになる。

 このごろよくやるのが、読んでいる本の中に登場する食べ物と近いものを食べてみる、という試み。パンとチーズが出てくればパンとチーズを食べ、焼き魚が出てくれば焼き魚を食べてみる、みたいなやり方で。

 きっかけがあって、特定のものを食べたいと感じる。その気持ちに必然性を見出せると、がぜん、もしかしたら今日の暮らしは良いものだったかもしれないと思える瞬間が生まれるのだった。

 

はてなブログ お題「自分しかわからない気持ち」