今回、マツさん(@matsurara)が制作・編集を手がける「批評誌『Silence』Vol.2 ~病いとともに。~」にエッセイを寄稿しました。
タイトルは「記憶 - 病と病院、本にまつわる六つの章 -」になります。書きながらこれってどうなのだろう、と考える場面も多くありましたが、こころよく掲載してくださり本当に感謝しております! 内容は少々古くなりましたがぜひ皆様に読んでいただきたいものになりました。
来月開催の文学フリマ大阪11、会場のK-53ブースにて頒布される予定です。
【日時・会場】
★9/10(日) 11:00〜17:00開催
★OMMビル2F A・B・Cホール
★天満橋駅直結
★入場無料
以下、最初の一章の試し読みになりますので、参考にしていただければ幸いです。
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記憶
- 病と病院、本にまつわる六つの章 -
一、小児科
伝説の大蛇にはじめて遭遇した場所は、病院。
小児科の待合室だった。
ごくうすいグレーがかった色の壁。子どもの病院だから、子ども向けの本でいっぱいの本棚がきちんと置かれている。そこから『にゃんたんのゲームブック:たいけつ! ヤマタノオロチ(ポプラ社)』を引き抜いて長椅子に腰掛け、膝の上でひらくと、ページの上にちゃんとヤマタノオロチがいた。白黒インクで印刷されて、すっかり酒びたしになった八つの頭を、緩慢にゆらして。かわいらしい娘、クシナダヒメが欲しいのだ。丸呑みにしてしまうために。
でも、あげない。
幼い私は、ネコのキャラクター「にゃんたん」に憑依してそう宣言する。それぞれ八つもある首と尾がふらりふらりとしているのが面白かったから、診察室に招かれるまで、ずっといっしょに遊んでいた。当時は私も熱を出していたせいで、あまり頭がおぼつかず、泥酔した大蛇とおそろいの状態だった。
こういう思い出があるから、ヤマタノオロチの姿を脳裏によみがえらせようとするとき、必ず病院特有の……あの、清潔すぎて少し怖いような、鋭いにおいが鼻腔の奥のほうで漂う。そうして、名前が呼ばれる順番をおとなしく待っている、自分の目に映る景色もあざやかに浮かぶ。
待合室の本棚にはほかに、シッダールタが出家をしたり、イエスがあら野で悪魔の誘惑を退けたりする様子が絵でわかる「学習漫画」もたくさん並べてあって、なかでもよく憶えているお話のひとつに、ギリシア神話のプロメテウスがあった。一説によれば、プロメテウスはゼウスによって何万年ものあいだカウカーソスの山頂に囚われ、生きたまま、大きなワシに肝臓をついばまれることになっていたのだという。都度、彼の内臓は復活し、不死ゆえに命も失われはしなかった。つまりは永劫にも匹敵する時のなかで、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わいながらも、死ねなかったのだ。
すると兀鷹が来てプロメテウスの肝臓を食いました。けれども肝臓は食われれば食われる後から、新らしくまたできました。
《T・ブルフィンチ(野上弥生子訳)「ギリシア・ローマ神話 付インド・北欧神話」岩波文庫、一九九八年、三九頁》
今になって想像する。
自分はといえば、何か、たとえば病がもたらす痛みや苦しみと向き合っているとき、うっすらと考えるのが「これもいつかは終わる」ということ。神話の住人とはちがって、特別に長い生を授けられたわけではないから、どれほどの苦痛でもきっと死んだら終わりにできる。と、愚直に信じている。それが本当かどうかもわからないのに。
一方、プロメテウスはどんな風に思っていたのだろうか。
実のところ、プロメテウスはその気になってゼウスの意向に従えば、すぐ解放されていたはずだとする説もあり、ならば彼にとっては単純に「我慢くらべ」のようなものだったのかもしれない。そう考えると苦痛を凌駕して、いかなる目に遭わされようとも屈してなるものか、という彼自身の、とても強い気概を感じる。私は皮膚のすき間からはみ出た、ツヤのある肝臓から視線をそらす。くだんの肝臓は、そのすべてを食われてしまってから、果実がなるような形で復活するのだろうか? もしくは、風船のように膨らむ? 切れた血管の先から……?
いくら強靭な巨人神族といえども、ワシの嘴にはらわたを直接つつかれているあいだはやはり、身の毛もよだつような感覚を味わわされていたはずなのに、それに耐え抜いた精神力は驚嘆に値する。私には無理だ。内臓がぐるぐる回転するような吐き気に苦しんでいるだけで、ひと思いに全てを終わりにしたくなる。頭上のゼウスに対しても張り合おうとせず、もういい、勝手にしろ! いいから解放しろ! と言い放ってしまいたくなるだろう。
人間の弱さ、矜持の欠如。
それから。神話ではプロメテウスの処遇と、彼を襲う拷問の苦しみに、元となる「理由」があった。これは「罰」だ。ゼウスをあざむき、その意に沿わない結果をもたらしたがゆえに、生きたまま何万年も身体をつつかれ、肉を引きちぎられる状態に陥っていた。痛覚にもだえ、あえぐ彼はあくまでも因果の輪の内側にいたのだ。無差別的な通り魔のように理由もなく、いきなり不可解な現象に見舞われていたわけではない。何か、原因があってそうなった。
理由がはっきりしていること。その神話の明快さには、かなり惹かれるものがある。
だって、わけもわからないまま苦しみを味わうのは嫌だ。せめて理由が知りたい。病気にかかるにしても、なぜ自分が罹患することになったのか。なぜ、ほかの人ではなく自分でなければならなかったのか。この病気にかかったことは、果たして何を意味しているのか。これまで人生で犯した罪に与えられた罰なのか、どうなのか。誰か、分かるのならばぜひとも教えてほしいものである。
一体なぜなのか。どうして苦しまなければならないのか。何の意味があるのか。
これは問いだが、もはや存在自体に惑い、右往左往する人間としての切実な叫びでもある。谷にこだまする狼の遠吠えと同じ。不幸な出来事の発生に関しては「理由がない」ことが一番の地獄であるのかもしれない、と考えていた。振り返ってみても、たとえば何かがうまくいかないときは「努力が足りないから」「弱いから」「見通しが甘いから」など、その原因が明瞭であればあるほど、どれだけ救いになるか。理由がない、というのはあまりにもつらすぎるではないか。
因果応報も勧善懲悪も成立しない世界。それでは無為に苦しむ甲斐も、全然ない。裏を返せば、特別な理由もなく際限のない幸福に見舞われている人間も、世界には少なからずいる、ということになってしまうのだから。数々の不幸を尻目に。
理由。意味。
これらは見つけられるものだろうか。もう、神代の昔のようには世界を捉えられない、答えのない場所に放り投げられた近現代の人間には、難しいのかもしれない。
(試し読みここまで)
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何卒よろしくお願いいたします。
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また、関連して過去の寄稿記事も。