いわゆる慣用句とはまた違った紋切り型の表現、要するに〈定型文〉に触れた瞬間、強烈に「嫌だ」と感じる場面がときどきある。
具体的にいつ、どの言葉に対して、と特定することが難しい感覚だけれど、さっき明確に思い出されたものがあった。なかでも私が嫌いなのは、web上で特定の語句を入力して検索を行うと、結果の一番上にまるで広告のように厚生労働省の「自殺対策 - 電話相談」というページが自動的に出現する現象。
タイトルからページの内容に飛ぶと、そこにはなんとかSOSとかなんとかホットラインとかこころの健康なんとか……など、いわばつらいときに相談する場所として「用意」された連絡先が羅列されている。
こちらへどうぞ、と「誘導」するような形で。
まるで、こちらに来さえすれば助けてあげますよ、と言わんばかりに。
私がそれを求めているのではなくて、ある語句(しかも希死念慮とはそこまで関係のなさそうな言葉)の検索結果に、勝手に登場しただけなのに。内容自体も別に優れたものではない。
あなたの気持ちを受け止めます、も、話を聞いて一緒に考えます、も、〈定型文〉の典型だ。
とりあえず、そのように表現しておけば何かが説明できる、とどこかで判断している思想、脊髄反射のあらわれ。実際は責任をもって救うことなどできないのに、あたかも相手の話を聞くことで対象を救える可能性が増す、と錯覚させそうな表現には苛立ちを覚える。そんなことは誰にも分からないではないか。できないのだからまずはできない(もしくは難しい)と正直に言ってもらいたいのだが。
でなければ腹を割って何かを話すこともできない。
誰かが苦しいのはその人の抱えている問題が解決しないせいであり、その問題が実存に関する問題であった場合、極端な話、解決する手段など存在しえない。なのに定型文が通用する……という思想が未だあるせいで、こういうことが起きるのだろう。
今、まさに海や川で溺れかけている人間の目の前で「あなたの気持ちを受け止めます」「話を聞いて一緒に考えます」「死なないで」「生きていさえすればどうにかなる」と陸から呼びかけ続ける者がいたら、確実に危ない。
でも、そういうことが実際にまかり通っているのがこの社会なのだった。
それらを眺めて感じる既視感は、まだ学生だった頃、周囲の大人に悩みを相談すると決まりきったように「カウンセリングに行ったら?」と返されることに対して抱いた不信感とかなり似ている。
言葉それ自体もそうだし、考え方がもう特定の型にきちんと収められていて、彼らの中では「悩みを抱いている学生=カウンセリングを推奨するべき存在=相談できる者がいなくて悩んでいる」とすでにみなされている。決めつけであり、生徒ごとの内実から判断しているのでは、ない。
つまりは半ば機械的な反応である(「自殺対策」のページが勝手に出てくるのとよく似ている……)のにもかかわらず、なぜか世間ではそれがとても親切な態度で良いことのように扱われており、納得がいかなかった。単純に個々が思っているならまだしも、それが世間的な当然として扱われはじめれば、やがて風潮になり、最後には常識という名前のものに変わる。鬱陶しいことこの上ない。
そういう普通の人達がこれまた決まったように口にする言葉は、空虚を通り越してもはや「無」だった。無。自分がもっとも苦しかった時代、世の中で推奨されている「声かけ」の類に、一度たりとも救われたことなどなかった記憶が蘇る。
決まったボタンを押したら、決まった答えを返してくる機械みたいだ。
しかしながら……。
定型文的な表現、また脊髄反射的な対応に際しては胸に激しい嫌悪感が湧き上がるのと同時に、確かに発生するのが一種の火炎であって、その憤りとも怒りとも呼べる何かが確実に「燃料」として心に油を注ぐのは皮肉なことだと思う。いや、ふざけるなよ、と思い、運が良いのか悪いのか言葉というものを持つ私は、言葉を練って残さずにはいられない。
そういった身の内で燃え続ける暖炉の炎が自分を生かしているとするなら、ただ画面上に機械的に表示されるだけの無味乾燥な「なんとかSOS、なんとかホットライン、こころの健康なんとか」は、まさしく自死の防止に役立っているのではないかと考えて、本当に馬鹿馬鹿しいと思った。
中途半端なことが嫌いなのだと実感する。
真に誰かを助けたい、助ける、というのなら、しかも一般の人間ではなく行政という力を持った国の組織の一端がその意志を表明するのならば、本気でやってほしい。広告のように、とりあえず「自殺対策 - 電話相談」というページを、検索ワードに合わせてただ自動的に出現させるのではなく。
私たちは何かしていますよ、という、ポーズだけではなく。
「ひとりで悩まず相談してください!」
……と、とりあえず言っておけば他人を救える、という軽い思想に憤りを感じて、暖炉で容赦なく燃やす。ああ指先が温かいなぁ、と思う。
もちろんそれは皮肉な現象なのだった。