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彷徨する自由帖

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【はじめての繭期 2023SUMMER】感想 - 舞台TRUMPシリーズ初見(&漫画版)

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※このブログ記事では物語の内容に言及しています。
 所謂ネタバレを避けたい人は注意してください~

 

 

 はじめての繭期とは、脚本家の末満健一氏が手掛けるオリジナルの舞台「TRUMPシリーズ」から、数作品が不定期に無料配信される企画。

 

吸血種と人間種が共存する社会で、不死を失った吸血種《ヴァンプ》たちが、永遠の命を持つとされる吸血種《トランプ》の不死伝説に翻弄されていく様を描く。

――「TRUMPシリーズ Official Web Site」より

 

 まだ作品を知らない人への入口として、気軽に内容に触れる機会を設けてくれているのは大変ありがたい……! 私は友達に「好きそう」とすすめられたことで今回視聴する運びになったのだけれど、そういったきっかけがなければ突然DVDやBlu-rayなどを購入する勇気もなかなか湧かないので、やはりお試しというのは効果的で偉大な宣伝方法だと感じた次第。

 現にすっかり魅了された。配信期間中の5日間、夜がずっと楽しみだった。

 

 それにしても自分、またか、と思う。

 また、また、またもや何百年・何千年も生きているタイプの不老長寿キャラクターやそれにまつわる設定に惹かれてしまうのか!! と、自分の嗜好というか、もはや「業」のようなものを見つめざるを得ない。前世で不老長寿のものと関わったり、助けられたり、殺されたりしたからこんなに惹かれてしまうんだろうか?

 私には私がもう分からない。そういう人たちが好きということしか。

 もっと世界に浸りたかったので、はまぐり氏が作画を担当しているコミックス版のTRUMP(通称コミンプ)も買った。

 

 

 

 漫画の方も併せて読んでみて感じたのは、これはシリーズ最初のタイトル《TRUMP》を単純にコミカライズしているというよりは、後で語られる《COCOON 月/星》などに組み込まれている要素もかなり加味して再構成されているんじゃないだろうか、という印象。キャラクターのヴィジュアル面でも……?

 2巻のウルと4巻のラファエロの瞳の色がきちんと同じに統一してあるの、背景事情を鑑みるほどに何とも言えない気分になる。

 なので物語の繋がりとして、今回配信後のタイミングで買ってみてよかった。絵柄も素敵。

 

「はじ繭」2023年夏の配信タイトル:

 

〈Dステ12th『TRUMP』REVERSE(2013年上演)〉

 

 起点となるはじまりの物語。シリーズ年表ではここが±0に据えられている。

 この「TRUTH」や「REVERSE」の違いは一体何なのだろう、と疑問に思っていたら友達が教えてくれた。作中で対になるキャラクターを演じるキャストが入れ替わっているらしく、なるほどそれは見応えがある……。役者さんが変われば、登場人物が見せるちょっとした表情や、仕草の意味もまた変わってくるはずで。

 ともかく私の初見はこのREVERSE Ver.になった。

 

 永遠と刹那の対比は美しい。

 アレンという圧倒的な星の光、それに魂を灼かれたが故に己が手を伸ばしてしまったクラウスを思うたび、こんなにおいしいものが世界にあっていいのか、と悦に浸るしかない。かつて紛れもない諦念と共に「欲しいものなどありません」と一度は言った人が……。まだ明かされぬ理由で不死となり、かつてあった吸血種の楽園を手放してから〈血の戦争〉も経験したようなこの数千年間、どれほどの失望と共に生きてきたのか。

 永劫の時間からすればたった一瞬の出会いが、文字通りにすべてを変えてしまう。いやもう、過去形だ。変えてしまった。砂時計の砂を戻すことはできない。

 星は星でも、アレンの存在は半ば恒常的に空にある星ではなくて彗星、要するに「流れ星」の性質を持っていたのだろう。遥かな時の流れを生きているTRUMP〈True of Vamp〉にとって、大抵の者は自分の前をただ通り過ぎていくものであったはずだけれど、彼の存在と輝きは長く尾を引き、まばゆい姿は烙印のごとく心に焼き付いてしまった。そのあまりに鮮烈なこと!

 2人のダンスで私の魂のすみっこも真っ黒に焦がされた。こういうの大好きだよ。

 人間、短命のダンピール、あるいはただの吸血種であったならば、彼がもたらした余韻を胸に抱いて「これも仕方がない運命」と瞼を閉じられるところ、トランプは永遠を生きる〈不死〉の存在なので、何かに満足して死ぬ……ということができない。たとえ一度手に入れたものでも必ず指の間からすり抜けていくから、心の器はずっと満たされず、光に焦がれたまま再び荒野に彷徨い出でるしかない。

 あらゆるものは彼の前を淡々と流れていく。それに耐えて生き続けることは、際限なく苦しむこと。

 ソフィを前にしたクラウスは可能性を諦められず、抗えずに手を伸ばした。アレンがかつて「手を伸ばせばあの星にも届くかも」「もっと欲張りにならなくちゃ」と言ったとおりに。なんという皮肉……でも惨ければ惨いほどにたまらなくて笑顔になってしまう。「星の轍」の中毒性が増す。

 

 トランプ一個体の状態が他の多くの吸血種に影響してしまうの、作中で「神」にも例えられているが、私は並行して「天災」を脳裏に浮かべている。

 地震や台風などの自然災害みたいな。

 そういう点においてのみモーム『月と六ペンス』のチャールズ・ストリックランドを連想できるものの、クラウスは不老不死なので、仮に自分が望んでも終われない。

 

〈Patch stage vol.6『SPECTER』(2015年上演)〉

 

 いきなり終盤への言及から始めるのは恐縮なのだが(いいえ、クラウスが猫を拾ったシーンの方ではありません)村人たちのイニシアチブを掌握したローザがシャドに向かって言い放つ「もうお前でいいや」の台詞って、まさに前作《TRUMP》のラストで展開された光景、それと相似の関係にある図を表しているじゃないかとぼんやり考えていた。

 最悪で最高、この順番で観劇できてよかった~。もちろんそれを考慮しての配信順だったのだろうけれど。

 ソフィを噛んだクラウスが内心で何を感じていたにしろ、実際に表出した行為の根幹にあるものは、「もうお前でいいや」に他ならない。

 彼はその昔、アレンを噛んで自分と同じ不老不死にしたかった。でも、本人が拒んだのでできなかった。もうアレンはいない。後悔と執念を抱えて生き続け、巡り合ったアレンの血を引く存在(しかも死に瀕している、このままではまた失われてしまう)を前にして、ついに「アレンじゃないけどいいや」をやってしまった結果がそこにある。

 そんなソフィの外見がルルミナ(旧メリーベル)に似ていると前作で分かるの、本当に嫌で、観客として大喜びした。ネブラ村の創始者とは彼女のことだったのね。

 

 今回初見だったので、クラナッハとクラウスの外見および名前が意図的に似せられているところ、もしかしたら同一人物なのではないかと新鮮にドキドキさせられたところも得がたい観劇体験だった。そして、永遠に枯れない百合のような花……の台詞、これはきっと、私がまだ触れていない《LILIUM》の物語に繋がっていく糸の一本なのだろう。

 このPatch stage vol.6公演では最初の場面にクラウスが出てこず(クラン脱出時のヒューゴたちと鉢合わせするシーンが一番最後に持ってこられている)それが他と異なるバージョンなのだと知って、うまいなあと感じた。

 次の配信作《グランギニョル》とも共通しているのは、血筋もさることながら〈名前〉というものが脈々と受け継がれていく現象の妙かもしれない。ネブラ村を訪れたヴァンパイアハンターのひとり、臥萬里がかつてソフィと呼ばれ、リリーなる妻がいた過去。そのソフィの名がハリエットの子に与えられ、さらにコードネーム・臥萬里の方はノームへと渡された。そして再び……。

 血も名も受け継がれていく。それがどのような形であれ、確かに。

 

 短剣による臥萬里メッタ刺しシーンを鑑賞している時の私の顔、多分虚を突かれて呆然とし本当にひどかったはずので、PC画面の周囲に鏡が一枚もなくてよかった。

 

 

 

 

〈ピースピット2017年本公演『グランギニョル』(2017年上演)〉

 

 観劇中に感じていた要素は沢山ある中、まず思い出されるのはジャック・ブレアに扮していた服部武雄さんの演技をとても楽しんだこと。本当にこういうキャラクターが現実に存在しているかのように思えてくるから、役者というのはすごい。

 フリーダ様&スーの造形や、やり取りも良かったね。

 また、おそらくは世の主流といささかずれた感想を抱いているのが申し訳なくなってくるような部分、私はダリ・デリコ卿がコクーンの投薬による「疑似的な繭期」で錯乱している場面を見るのがちょっと異常なくらい好きだということだ……。

 どうしてそう思うのか突き詰めてみると、ダリはTRUMPシリーズにおける「多面的な意味での〈大人〉」なのだという部分が影響しているらしかった。繭期はいうなれば青年期の、まだ子供と大人の境にある吸血種が陥る状態であるのに対し、すでに〈越繭〉して久しい吸血種の個体にとってはもう過去の話(人によっては恥ずかしくて思い出したくない時期でもあり……)となる。

 それが薬の影響でいわば揺り戻しに遭い、まさに大人の象徴であるがごときダリ卿が幻覚に苛まれたり、唐突に調子の外れた笑い声や奇声を上げたりしているのは見ていてものすごく心地いい。愉悦を感じる。そう思っていたら作中で、本人が吐き捨てる「年甲斐もなく繭期だよ」という台詞を聞けてしまったからさあ……!!

 大満足だった。閑話休題。

 

 ダリ卿は自立した成人として貴族として、自らの意思をもって「こうあるべき/こうであろう」という姿を体現していた『大人』のキャラクターだと思っている。繭期の子らとは対照的な(デリコパンチとか言っている仕草もご愛敬である)。

 選んだわけではない環境に生まれて、意に沿わないことがあっても、受け入れて生きると決めた矜持がある。

 気になるのは周囲の誰もがすぐそのような心境に至れるわけではなく、特に息子のラファエロに対しては「俺の息子なのだから分かる(できる)だろう」と言外に語るような様子を見せていた面で、そこに紛れもない優しさも愛情も介在するからこそ彼らの関係は複雑になっていると感じずにはいられない……何をどうすればよかったと片付けられる種類の問題ではないように思う。

 皆それぞれに考えていて一生懸命なだけ、時に一方通行でも。例えば「デリコの家名を傷つけるな」とダリが繰り返し言うのは、巡り巡って、それがラファエロやウルが吸血種社会(完全に階級がものを言う世界)で生きていく上での利益になるからだ。ただし、その理屈で息子たちの心を正しく救えるかどうかは分からない。

 ラファエロは守護者としての意識を獲得する前、《COCOON 月の翳り》で一度は「自由になりたい」と呟いた。また、ウルには短い命という宿命があった。彼ら自身が父の考える幸福ではなく、単純に優しい言葉とか、自分らしく在ることとか、別の何かを欲しがっていたらどうする?

 

 前回の配信作《SPECTER》で、TRUMPシリーズでは脈々と血や名前が受け継がれているのを意識した。ここでは名もそうだし、呪いも祝福も、時代を超越して存在し続けていくことが改めて示された。

 それにしたって「死の影に怯えて生きろ……絶望し続けるんだ」と「負けるな」を同時にぶつけてくるのはあまりにも・オブ・あまりにもだし、これらが刺繍糸さながら針に通され絡み合ってウル・デリコをさまざまな意味で縛り苛んでいくことの残酷さ。

「グランギニョル」のラストはすごくよかったし、ゆえにその反動で、やがて訪れる悲劇にも本当に嬉しくなってしまう。

 イーッヒッヒッって感じ。

 

〈『COCOON』月の翳り(2019年上演)〉

 

 あまりに純度の高い感情の発露を浴びられてかなり素晴らしい気分になった。舞台がおなじみのクランに戻るのもあって、はじまりの「TRUMP」を補完する要素を拾って楽しもう位の心構えで臨んだところ、思い切り右頬も左頬も張り飛ばされてみぞおちも蹴っ飛ばされたみたいな感覚。

 前作の感想を引き継ぐと、《グランギニョル》で双璧をなしたダリとゲルハルトが『大人』であったのと比較して、ラファエロもアンジェリコも含め、《COCCON 月の翳り》でクランに在籍しているのは当然ながらみんな繭期の『子供たち』。

 各登場人物が抱えているもの、背負い込んでいる事柄の重さはもちろん比較できないのだけれど、成長して分別を身に着けた大人の辛苦と同じくらい、なりふり構わない子供の叫び、というのはおかしなくらい私の胸に刺さるのだ。大好きで……。

 もっともっと見たい、もっともっとそれを見せてくれ~と思う。

 ……おや、遠回しに繭期中毒のドナテルロと似たようなこと言ってない? 怖い怖い。彼、かつて自分が潰したのとは反対の片目を抉られたおかげで晴れてグスタフと「鏡写しのおそろい」になれたわけだけれど、その状態で発する言葉が「(月が)血で翳ってやがる」なのにはしみじみと感ずるものがある。

 

生まれる者はその血を選ぶことができない。
誰しもがそう 血の下に生まれ血の下に死す

――「『COCOON』月の翳り」より

 

 そしてディエゴ、ソフィ・アンダーソンと同じ養護院にいたのだなあ……。「あの子の軽蔑の眼差しに耐えきれなかったのか養護院を逃げ出すダンピールまで出る始末で……」がここで回収されるとは思わなかった。脚本家なんという仕打ちを!!

 一般庶民の家に生まれて日々普通に自分の道を模索している私には、この《月の翳り》序盤から中盤にかけてのディエゴの言葉には共感できる部分が多くて、さらに「外部要因に左右されない確固たる己の自由を求めた先でどんどん空っぽになっていく」描写にはとても分かると頷けたのだけれど。

 でも……そこから彼自身の行動の根幹、置かれた状況に目を向けるほど、その嘆きがおいしく食べられる。

 ヘルクラン送りが決まったディエゴは早々に父(偽)のイニシアチブを解除したのか、それとも維持ができなくなったのか、どっちかな。何にせよダンピールゆえの短命からは逃れられそうもない。

 

 舞台上で彼と対比されるアンジェリコ(彼の絶叫、大好き!!)が、自分の背負った血に逆らわず宿命を受け入れ、枠の外の自由を求めず、責務として貴族然とした振る舞いを貫こうとするプライドの描写にもつらさが増した。

 自分なりに『大人』になろうとして、なりきれないでいる。彼が発するノブレス・オブリージュの言葉の意味と使い方は根本的に間違っていて、それを基盤にしているせいで、貴族以外の吸血種やダンピールを激しく差別する意識が生まれているのもきつい。

 振り返れば彼には父ゲルハルト(即ちフラ家)の血は流れていないし、単純にマルコ・ヴァニタス(スーの幼馴染のウル/ダミアン・ストーンに意識を乗っ取られる/ゲルハルトの妻マリアと子を生す)との繋がりで考えれば《TRUMP》のウルとアンジェリコは異母兄弟ということになる。

 ラファエロに対して「僕を選べ」「ウルさえいなければ」と思ったアンジェリコ、トランプに向かって「僕を選んでくれ」「ソフィさえいなければ」と言ったウル、こんな些細な共通点でしんどくなれる兄弟よ……。

 そして刺されて床に倒れ込んだ瞬間のエミールの表情、再び役者はすごい、と思ったところ。あとカメラの位置。

 

〈『COCOON』星ひとつ(2019年上演)〉

 

《TRUMP》でソフィの側から観測していたウルは当初、どこかふわふわした感じの雰囲気も持っていた。育ちが良くてお行儀のよい側面が前面に出ていたのが、観劇中に段々と変化していくような印象。

 でも《COCOON 星ひとつ》では彼の内実、かねてより胸に抱えていたものが冒頭から隠されずに表出していて、彼がどれほど死を恐れていたのか、同時にどれほど生きたがっていたのかが痛々しいくらい分かる。

 とにかくところどころで半狂乱になるウルを見ているのがつらく、でも愉悦を感じて、「ご立派なもんだよデリコの家名はサァ!!」とか兄のラファエロを罵っているのを聞くと泣きながら思わず微笑んでしまうのをやめられないのだった。

 

 それにしてもどんな風に表現するべきか、作中で「君は僕であり、僕は君だ」という台詞が出てくるたびに、私はそれも突き詰めると《SPECTER》に登場した「もうお前でいいや」の変奏になるのではないかと少し蒸し返してみたくなる。

 目の前にいるたった一人の存在自体、を求めているのであれば、仮に相手が自分の望んだものではなくなったとしてもそれでよしと思えるはず。相手が相手であることには相違ないのだから。でも実際、この言葉は「自分がなりたい自分であるために、目の前の相手にもこうであってほしいと望む姿」を定義するのに使われていて、それが皆の感情が一方通行になる所以である。

 あなたがいい、という以上に、理想にかなう存在であるからあなたで構わない、という理屈。かなり説明が難しく複雑だが……。

 例えばソフィとの接触に際して「僕の家柄とか、君が何者だとか、関係ない」と最初語ったウルにしろ、実のところ「ソフィが自分と同じダンピールであるのに世を儚まず生きている姿」に滅茶苦茶こだわりと執着を感じているわけだから、相手が何者なのか全然関係なくはない、のだ。ダンピールじゃなかったらウルはソフィにここまで興味持たなかったよね? という。また彼は後半に至ると今度「ソフィはトランプなのかもしれない疑念」に執心し始める。

 でも、繭期の『子供たち』はその一方通行な思いをどこまでも強く増幅することができて、しかも(恐ろしいことに)その情景は美しい。

 だいたい人間でも吸血種であっても、一方的ではない情念など抱き得るだろうか? 無理だと思う。ゲルハルトなど『大人たち』の方は社会性というか分別を獲得しているから、「君は僕であり僕は君」と口にしつつ身勝手さを巧妙に隠蔽するのは得意だけど、厚い膜を剥がしてみれば根本にあるのは同じもので。

 まだこのブログに感想を書いていない小説にチェンバーズの「おれの墓で踊れ」があり、その中に出てきた「唯一の親友」を求める気持ちと、これは似ている。気になる人いたら読んでみてほしい。

 

 誰しも己が捉えたいように相手の像を捉え、その都度勝手に好意やら、仲間意識やら、嫌悪やらを抱いては、自分ではない者の真相を確かめようもないので死ぬまでの刹那踊り続ける。生まれてからほんの数十年のあいだ。ここまで書いて「あ、何千年も死ねない存在もいるじゃん」と再度実感して嘆いた。

 もはやここまでだ、とピリオドを打てないのはつらい。

 勝手といえば、おそらくは別に望んでもいなさそうな残酷劇をダミアン・ストーンから捧げ続けられている〈TRUMP〉クラウス、あまりにも・オブ・あまりにも。

 ここにも「一方的な感情」がある。もはやダミアンもトランプその人というより、トランプに死を捧げたい自分自身のために残酷劇を上演しているのだろうし。それにしても血族がヴラド機関を創設した、というニコ・ヴラドも含めた交友関係は過去にどういう形で破綻した(あるいは間接的にまだ続いている)のか、今回《COCOON 星ひとつ》ではダリとの会話の中でニコの名前が出ただけだけれども気になるのであった。

 時系列では「グランギニョル」後の「デリコズ・ナーサリー」がアニメ化するみたいで……最終的に行き着く先がここなのを分かっていて過去話を鑑賞するの結構つらいのでは? 楽しいね。

 

 舞台上に展開される理不尽な悲劇は悔しくなるくらい美しい。

 誰より強く生きたい、と願った者には容赦なく死がもたらされ、片や、自らの終焉を願う者はいつまでたっても死ねない。あの「グランギニョル」のラストが「TRUMP」や「COCOON」に繋がっていく苦しさにはやめられない魅力がある。

 はじめての繭期ありがとう。

 

 ところで今回の【はじ繭2023SUMMER】視聴後、周囲からしきりに「今回は『綺麗なソフィ』しかいなかったね!」と言われてぶるぶる震えている。

 ねえ綺麗なソフィって何……!?

 まあ勿論このあと色々なことが起こるのは分かる、彼、不老不死になっちゃったし、長い時間の中で辿るのだろう道筋もなんとなくは想像できる(だってこれでグレないはずがない)けれど、まだ心の準備ができてない。想像を超える残酷劇が展開されるんだろうな。それらの物語もみな、残酷であると同時に美しいものなのだろうな……。

 

 次にみた方がいいタイトルをおすすめしてください。