物語の中には単に美味しそうなだけではなく、妙に気になる、あるいは場面や状況も含めて印象的に描かれた食べ物や飲み物がよくある。周囲からすすめられて原著と日本語訳両方を手に取った、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説「九年目の魔法(Fire and Hemlock)」にも、数々の心に残る飲食物が登場していた。
最近この作品を思い出す機会が多いのは、ブログを書いている今、10月も終わろうとしているから。
刻々と近付く万聖節の、あるいはケルトのサウィン(万霊節)の前夜祭であるハロウィーンは「こちらの世界」と「向こうの世界」を繋ぐ門が開く日だと言われている。
「九年目の魔法」では、各章の扉で「詩人トーマス」と「タム・リンのバラッド」から1節ずつが引用されており、パラパラめくればひとつひとつがお話を読み解く助けになると分かるのだが、特に元のタム・リンの物語でもハロウィーンは重要な生贄の日だ。妖精女王が地獄へ捧げる10分の1税。果して囚われ人は、その運命から逃れることができるのか……。
イギリスの架空の町、ミドルトンに住む少女ポーリィが経験した出来事と「いつのまにか2重になっていた記憶」は一体どこへ向かうのか、最後まで息をもつかせぬ展開と描写で、読者の心を掻き立てる作品だった。
そんな本の中に出てきた食べ物の話。
ちなみに、冒頭に描かれるポーリィのお祖母ちゃん宅の台所からして、もうすでに美味しそうな雰囲気が漂っているのである。
そこは「ナッツとバターを思わせるビスケットの匂いがして、よその台所とはとても違っている」のだ、とポーリィは述懐する。また、当のお祖母ちゃん本人からもそんな印象を抱く……とのことだった。1度は訪問してみたいもの。
お祖母ちゃんはいつも、ポーリィにビスケットを連想させた。
さらっと乾いた、ショートブレッド風な口当たりで、隠し味があとから効いてくる。
(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ「九年目の魔法 (創元推理文庫)」Kindle版 (位置No.139-140) 株式会社東京創元社)
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ミルクセーキ
ハロウィーンの日にお葬式を出していたお屋敷、ハンズドン館。仮装をして遊んでいた親友のニーナを追っていて、うっかりその中に入り込んでしまったポーリィが知り合ったのは、リンさんという男の人だった。
ポーリィの家族に警戒されながらも親睦を深める2人は、一緒に考えた空想物語の舞台のひとつ、コッツウォルズの町「ストウ・オン・ザ・ウォーター」(これは実在するストウ・オン・ザ・ウォルドとボートン・オン・ザ・ウォーターのもじりだろう)へと出かける。
そこのカフェ(喫茶室)で彼らが注文したもののなかに「鮮やかな緑色のミルクセーキ」があった。そう、鮮やかな緑色をしているのである。
ウェイトレスがお盆を持って戻ってきたが、顔に「あたしのせいじゃないわよ。注文通りなんだから」と書いてあった。
テーブルに並べたのはソフトクリーム二本、チーズ・ホットケーキ二つ、鮮やかな緑色のミルクセーキ二つ、そしてオートミール・ビスケットが一つ。
(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ「九年目の魔法 (創元推理文庫)」Kindle版 (位置No.1878-1880) 株式会社東京創元社)
具体的にどういう味なのか、は本文に書かれていないので推測してみるしかない。
ポーリィのお祖母ちゃんの家で飼われている猫の名前が「ミントチョコ」なので、もしかしたらこのミルクセーキも関連するチョコミント味なのかもしれない。
後の場面でリンさんが最悪な運転能力を披露したところでも、揺れる車内で吐き気を感じたポーリィが「喉の奥に緑色のミルクセーキの味をほのかにこみ上げさせ」ているなど、強烈な色以外にもなかなか頭に残る飲み物のひとつだった。
正直、飲んでみたい。
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コーヒー(2度目の)
作中でポーリィがコーヒーを飲む場面に、印象的なものが3つある。
ここで挙げるのはいわば2度目に登場したコーヒー。初めに彼女がそれを苦手だと言っていた1度目とは、飲み物に対する印象もそうだが、ポーリィ自身の抱く心情もほとんど反対になっているのだった。
アンが「コーヒー飲む?」と言った。
ポーリィはいまだにコーヒーが好きでなかったが、はにかみながらうなずいた。するとアンは鞄から魔法瓶をひっぱり出し、一杯注いでくれた。温かくて黒っぽくて甘く、意外においしいのを知る。
(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ「九年目の魔法 (創元推理文庫)」Kindle版 (位置No.3485-3487) 株式会社東京創元社)
チェロ奏者であるリンさんの結成したカルテットの一員、アン・エイブラハムが分けてくれたコーヒー。それは黒っぽくて甘く……とあるので、牛乳などは混ざっておらず、おそらくは砂糖かシロップで味が付けてあるものだっただろう。美味しそうだし、温かさも安心を誘う。
物語で最初に登場するコーヒーは、ポーリィにとってあまり良いものではなかった。
苦手だっただけではなく、リンさんと一緒にいたメアリという女性が少し意地悪で、まだ子供だった彼女はふたりの会話にもうまく入れなかったのだ。だからなおさら苦い思い出とともにあったこの飲み物は、アン達との交流を経て味の印象を変える。それからコーヒーを好きになった。
さらに良い味を出しているのが、近くにいたカルテットの一員、サム・レンスキーが分けてくれた「チーズのサンドイッチ」ではないだろうか。
ラップで包まれており、しばらくズボンのポケットにねじ込まれていたせいか、折れ曲がっているのが面白い。いつもお腹を空かせて食べ物を隠し持っているという彼も、他のメンバーと同じく、ポーリィに親切にしてくれた。
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オレンジエード
どこかで改竄されたポーリィの記憶と、リンさんとの出会い。そして「九年目の魔法」の物語そのもの……すべての発端はハンズドン館だった。
ハロウィーン当日、女司祭に扮した仮装で黒い服を着ていたために、お葬式の行われていた館に入り込んでもポーリィは門前払いされることがなかったのだ。運が良かったのか、悪かったのか。
内部に迷い込んだ彼女は、そこで給仕の男性に「シェリー酒にはまだ早い年齢のようだから」と、オレンジエードのグラスが載ったお盆を差し出された。
ポーリィは女王さまになった気がした。
いささか汚れた手をさしのべ、オレンジエードのグラスを取る。氷と本物のオレンジが一切れ入っていた。「ありがとう」と威厳のある女王らしい口調で言う。
(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ「九年目の魔法 (創元推理文庫)」Kindle版 (位置No.199-201) 株式会社東京創元社)
エード、という言葉にはあまり馴染みがないかもしれない。これはいわゆるジュースとは違い、果汁をうすめて味をつけ、さらに甘くするなどして味を調えた飲み物。日本では昭和期にサントリー社が「オレンジエード」を販売していたこともあり、どこか懐かしい響きだと感じる層の人もいるだろう。
緑のミルクセーキと同じく詳しい味の描写はなされていない……のも当然で、ポーリィはこのとき、オレンジエードを一切口にしていない。
それでも上の引用部分を読んだだけで、グラスに満ちた、透明感のあるつめたいオレンジエードを構成する果汁の舌触りに思いを馳せないわけにはいかない。ひと切れ添えられた本物のオレンジも視覚的に印象深い。氷の入ったそれを、思わず唇に近づけたくなってしまう。
夢のような気分がとたんに消え去り、飲み物の中の氷が鳴るとともに、自分がどこにいるのか、何をしてしまったのかがわかった。ここはハンズドン館、ニーナとふたりで霊柩車を見かけた場所。
(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ「九年目の魔法 (創元推理文庫)」Kindle版 (位置No.226-228) 株式会社東京創元社)
オレンジエードの氷は、遺言の読み上げを聞いているポーリィの緊張の高まりと反比例してどんどん融解し、ついには完全に溶け去る。
読者の私は不思議と、どこか自分の喉も乾いているような気がすることに思い至る。ほんのりと甘いであろう液体の味と冷たさ、ひと欠片の果肉の生々しさ、胸に刻まれたその印象は物語後半でよみがえり、誰かの台詞と共に「やっぱり口にしてはならなかったのかもしれない」と納得することになるだろう。
日本のヨモツヘグイの伝承と同じで、死者のいる冥界に限らず、妖精の国など「別の世界に足を踏み入れたなら、そこに関係するものを食べてはいけない」言い伝えは西洋にもある。
いわばお約束、といってもいい要素なのだった。