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彷徨する自由帖

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ひと粒のオリーブ、串焼き羊肉、朝食トレーに乗ったドライフルーツ:P・A・マキリップ《オドの魔法学校 (Od Magic)》

 

 

 

 物語の中には単に美味しそうなだけではなく、妙に気になる、あるいは場面や状況も含めて印象的に描かれた食べ物や飲み物がよくある。

 そういう、本の中に出てくる食べ物や、読んでいてお腹が空いてしまう箇所の話。

※原文のみの読解で日本語版は手元にありませんので、ここに載せている台詞の訳などは基本、私が個人的に行ったものです。

 

前回:

 

 先日手に取った《The Forgotten Beasts of Eld(邦題:妖女サイベルの呼び声)》の著者、パトリシア・A・マキリップ。世界、情景の繊細な描写や、魔法の背景に透ける考え方が自分の好みなので、他の作品も沢山手に取りたいと思っているところ。

 今回の《Od Magic(オドの魔法学校)》も良かった。絶版の日本語版は手に入らなかったので原著の電子書籍を購入し……。

 タイトルからも分かるようにボーム「オズの魔法使い」のオマージュがそこかしこに見られるのも楽しい。「サイベル」よりも全体的な調子は軽く、どこかコメディタッチな群像劇でありながら、未知のものを恐れて遠ざける心理と向き合う主題は一貫していて重みもあった。「既存の枠から外れたもの」への恐怖が、時に人の目を曇らせる、と言っている。

 そして「オド」は何より、ヌミス王国の都ケリオールに存在する区画のひとつ、トワイライト・クォーター(Twilight Quarter, 原島文世氏訳だと「歓楽街《黄昏区》」となっている)の描かれ方が最高に魅力的だった。

 

 

 地平線の向こうに太陽が沈んでから通りに灯りが点って、さっきまでいなかった人達が路地を闊歩する。

 不意に商店の扉が開いたら営業開始の合図で。

 複雑な香辛料の香り、また出来立てのパンや、火で焼かれる肉やら玉ねぎやらの匂いがふわふわ漂ってきたり、音楽が聞こえてきたり……目や耳や鼻がいくつあっても足りないだろう。

 

Smells of meat and onions sizzling on flames, freshly baked bread, kettles of hot soup mingled with the market scents of fruits and animals and exotic spices.

 

(McKillip, Patricia A.《Od Magic (English Edition)》p.39 Orion. Kindle版)

 

 切実にこの区画を歩きたい。

 

 

  • オリーブの実(種あり)

 川を見下ろせる屋敷に住んでいる歴史学者、セタ(Ceta)。

 北部領主の娘である彼女は、あまり意に沿わない政略結婚の伴侶が若くして亡くなってからというもの、再婚はせずに独身を貫き通している。そうしてひょんなことから縁を結んだのは魔法学校の教師、ヤール(Yar)だった。

 彼らはときどき、夕方になるとセタの家に集ってその日あった事柄を話すなどしながら、心安らぐ時間を過ごしていた。書物や巻物に囲まれ、古いカーペットの上で口にしている食べ物の数々(スパイスで味付けされた肉、塩漬けの野菜、平べったいパンの上に乗ったチーズ!)はこの上なく食欲をそそるが、なかでもたったひと粒のオリーブが持つ輝きは計り知れない。

 セタがその指先に摘まむのは、数多ある中でも「最もふっくらとしたオリーブ」で。

 

She picked out the plumpest olive, nibbled around its seed.
Yar leaned back, watching a gnat tangle itself in her drifting hair. ‘Is there a point,’ he inquired mildly, ‘to your tale?’
She spat the olive pit into her hand and tossed it out the window.

 

(McKillip, Patricia A.《Od Magic (English Edition)》p.30 Orion. Kindle版)

 

 種が取り除かれていないオリーブの粒。

 それをひとつ摘まみ上げ、果肉を少しずつ齧ったあとは種を窓から川へと投げてしまう。川面には夕方のケリオールの街、そこから発される光が映っていて、流れとともに細かく揺らいでいた。さらに高台から眺める空の方は黄昏の、ラベンダーを連想させる紫に染まっている。

 一日の仕事をほとんど終えて味わうひと粒のオリーブの実、どれほど滋味に溢れているだろうと想像せずにはいられなかった。

 

 

 

 

  • 串刺し羊肉

 ヌミス王国の北、田舎の村からはるばる王都にやってきたブレンダン・ヴェッチ(Brenden Vetch)。

 彼は魔法学校を創設した巨人〈オド〉に勧誘されて、そこで庭師を勤めることになっていた。物語の開始時点で彼が背負っていたものは重く、悲しい。村を襲った疫病で両親を失い、弟は旅立ち、さらに恋人メリッド(Meryd)にも去られてしまっていた。特に恋人との離別は、ブレンダンがあまりにも人間と接することに無頓着かつ不得手だったため、自分は彼に必要がないのだと思われてしまった結果。

 実はブレンダンの能力には秘密があるのだが、それを示す一端が、植物などの自然の声を聴くことができるというもの。しかしそんな彼なので、人間が多くいる場所ではどこか所在なさそうにしていたり、静かな場所を心の底で求めたりしていた。

 あるとき、街に下りた彼は「歓楽街《黄昏区》」へと向かう。見慣れぬ植物の名を知る手掛かりを探してのことで、途中の屋台では買い食いをした。

 

Wye had given him some money for his work; he spent a coin on mutton rolled around cloves of garlic and roasted on a skewer, another on a cup of ale. He ate watching a knife-thrower extinguish candles with his blades.

 

(McKillip, Patricia A.《Od Magic (English Edition)》p.151-152 Orion. Kindle版)

 

 1枚のコインと引き換えに得たのは、ニンニクの欠片を羊肉で巻いて串焼きにしたものと、コップ一杯のエール。

 加えてそれを味わいながら見ていたものとは、黄昏区で行われていたナイフ投げの出し物だった。松明の光で周辺は照らされ、夜は深まり、黒く閉ざされていく空と半比例するように華やかな音と色彩は門から溢れる。そして、頭上に輝く月……。

 あたかも街に満ちた熱気で焼かれたかのごとき羊肉のしょっぱさと、栄養満点のニンニクの香り。火照った身体を冷やしてくれる一杯のエール。読んでいると本当にお腹が鳴るから、もう絶対夜にページを開いてはいけない。

 

  • 巨大なトレーの上のドライフルーツ

 ヌミスの現国王ガーリン(Galin)の娘、スーリズ姫(Sulys)は誰にも己の話を聞いてもらえないことに悩み、憤っていた。彼女の婚約者ヴァローレン(Valoren)でさえも、「父である王の意思とあなたの意思は同じものであるはず」などと宣う始末で手に負えない。

 それに、彼女には外国出身の曾々祖母から密かに受け継いだ魔法を知る、という秘密があるのだ。

 この国では規制され、認められていない魔法を彼女が使えるとヴァローレンが知れば、必ずその檻の中に彼女を押し込めようとするだろう。ヌミスでは今、魔法学校で定められたことしか生徒には教えず、好奇心や探求心を抱く余地をすべて奪っていた。

 このままではいられない、と考えていたスーリズは、ヴァローレンの親戚であるセタを頼る機会を得る。少しずつ交流を深め、物語の後半では行き場をなくした彼女が、セタの家まで赴き朝食をとった。

 

She brooded silently, while Shera set an enormous tray laden with dense, spicy breads and cakes, dried fruit, soft cheeses, pickled eggs, and smoked fish onto a table in front of them.

 

(McKillip, Patricia A.《Od Magic (English Edition)》p.250 Orion. Kindle版)

 

 小間使いのシェラ(Shera)が机に置いていったのは巨大なトレーで、おそらくセタの家ではこれが普通の朝食なのだろう。

 それにしても豪華なこと……! トレーの上に「ぎっしり」という形容詞がふさわしいほどひしめいているのは、スパイス風味のパンやケーキ、ドライフルーツ、柔らかなチーズ、塩味の卵、そして魚の燻製まで。なんというご馳走か。

 これらのうち、会話しながらスーリズ姫が手に取っていたのがドライフルーツだった。父王がその妻、つまりは彼女の母と死別してから変わってしまったことと、おなじように兄の性格にも変化が訪れたこと、やりきれない思いを吐露するように言葉を紡ぐ。

 そんなスーリズを助けるように、セタは冷たい水を彼女のコップに注いであげた。これがまた普通の水ではなく、ミントの味と香りを移したものであるというからたまらない。

 

Ceta poured her a cup of cool water scented with mint; Sulys sipped it gratefully.

 

(McKillip, Patricia A.《Od Magic (English Edition)》p.251 Orion. Kindle版)

 

 スーリズはありがたくそれを飲むのだった。

 

 

 

 

 

魔法のソーダ水

 

 

 

 

 スーパーマーケットの、お菓子作りの材料が置いてある一角で見かける、「ケーキマジック」という商品を眺めるのが幼い頃から好きだった。

 特別な存在だった。

 私の家では台所が「子供は入ってはいけない聖域」だったから、なおさら料理に用いるもの全般が、いっそう神秘的な存在に思えていたのかもしれない。

 

 それは製菓用に売られているお酒で、楕円形をし、底だけが平たくなった取手付きのガラス瓶に、エプロンを着用したうさぎの絵のラベルが貼られている商品。中央上部に注ぎ口がある。

 ラムダーク、オレンジキュラソー、ブランデーにキルシュヴァッサー……

 数々の単語をまだ知らない子供の耳には、まるで呪文みたいに響く、魔法薬じみた名称に惹かれていた。そもそも「ケーキ『マジック』」と商品名に組み込まれているのだから、あながち的外れな連想、というわけでもない。

 

 決して巨大ではないガラスの瓶に入った、色つきの液体。

 大抵の場合、口にすることができる。

 これが魔法の産物でなければ何だろう。

 

 そういうものがとても好きだと感じていたから、何か不思議な力が溶け込んでいる飲み物としての「ソーダ水」に、魅力を感じるのは必然だった。色と味のついたシロップを、炭酸水に混ぜて作るもの。その割合や炭酸の強さによって、驚くほど舌触りが変わる。

 赤、青、黄、独特の風合い。

 まだLEDではなかった頃の信号機から発される、あのぼんやりした、光の加減に似た色味。

 液体だから、ガラスの容器に注ぐことで初めて具体的な形を獲得する、そういう流動性もソーダ水をさらに特別なものにしている。魔法の薬は宝石になる。小さな喫茶店のカウンターに座って、店主がシロップやソーダ水を量り、注ぐ。

 そうして出来上がったものを口にすることで1日、たった1日でも、どうにか生き永らえる護符を得る。

 

 

 

 

 

茱萸の実、桑の実、幻の烏瓜の実

 

 

 

 

 明治時代に建てられた監獄の敷地内に、茱萸(グミ)の実が落っこちていた。

 

 もちろん忽然と出現したわけではなく、歩いていた通路近くの茂みにはその「元」となる樹が生えていたので、その枝から地面に落下してきたものなのだろう。

 茱萸は5月から梅雨どきの6月頃にかけてが旬だとされているらしい。当時、私が7月初頭に滞在していたこの地方は、亜寒帯に属する場所。日本列島の配置は縦に長い。それゆえ、国内の他の場所より結実の全盛期は後ろ倒しになっていたのかもしれないと想像する。

 鮮烈な色は浮くことなく、夏という時候にあまりにもよく溶け込んでいた。

 実の、どきどきするほど張り詰めたうすい皮は光を透かして、同じように半透明の果肉を輝かせ、磨いた宝石そっくりの姿を見せている。ぷるぷる、つやつや。茎の先についたままの葉も、そういうアクセサリーのデザインのように思えてくる。

 これを例えば耳などに吊り下げた、美しい妖精を見てみたい。多分そのあたりの森に普通に住んでいる。探して見つかるかどうかは分からない。

 

 この手の美味しそうな果実、路上に生えているものを目にすると思い出されるのは、小学校の頃の記憶だった。

 校庭の脇には桑(クワ)の樹があり、時期になると実をつけた。私達児童は学校にいる間、わりとおやつに飢えていて、ときどきその樹から実をもぎ取り、洗っては食べていた。田畑や森の多い地域にある田舎の学校。そこである年、種類は忘れたが、小型の蛾の毛虫が大量発生してしまい、殺虫剤を散布する運びとなったのだ。

 結果どうなったのかというと、小学校内に植えられた樹木には薬品の影響を鑑みて、児童はそばに近づけなくなり、必然的にクワの実を食べる機会もなくなったのであった。

 毛虫の被害に遭わずに済んだのが何より良かったけれど、すっかり夢幻と化した「小学校の桑の実」の味も忘れることができない。お菓子が持ち込めない小学校の敷地内で、空腹を軽減してくれる貴重な品だった。

 

 もうお目にかかることができない幻の実……といえば、ここ数年間で読んだ本の中だと、必ず石井桃子「幻の朱い実」を胸に想起することになる。明子と蕗子、ふたりの人間と、交流のきっかけとなった烏瓜(からすうり)の実。そのうす緑の蔦が、檜葉の樹と門のところに絡まった小さな家。

 ここであらすじをつらつら紹介する意味はなく、故にただ、印象に深く刻まれている台詞を引用するにとどめる。

 

「葉子、大津さんの烏瓜ね、この千倍も、万倍も美しかった! 千倍も万倍も! こんなもんじゃないのよ。あなたに見せたかった、そういうものも、この世にあるんだって!」

 

(石井桃子「幻の朱い実 下 (1994)」岩波現代文庫 p.399)

 

 そういうものも、この世にあるんだって。

 たとえ社会、世間、周囲がどれほど「そんなものはない」と看過したとしても、「あるものはある」と表現するしかないものは確かに存在しているのだと、彼女の言葉は自分の切実な気持ちまでもを拾い上げてくれたような気がする。

 そして、石井桃子氏は「それ」を身をもって知っているのだと思うと、慰められた。見たことがない人は無いと言うだろう。けれど、それに出会ったことがある人は、在ると言える。言わずとも思う。

 心のうちに結実した烏瓜は月日が経っても決して枯れず、色褪せることもない。そのような点においてのみ、これが現実離れした幻だ、と形容されるのも悪くはないような、否、やはり現実なのだと毅然として主張したいような、相反する欲求。感じた状態で筆を置く。

 興味を惹かれた人は読んでみてほしい。

 

 

 

 

誇り高き魔術師と人を信じられなくなった王様《The Forgotten Beasts of Eld(妖女サイベルの呼び声)》P・A・マキリップの小説

 

 

 

 来年で原著の出版から50年を迎える作品、パトリシア・A・マキリップの《The Forgotten Beasts of Eld》を読んだ。

 第一回世界幻想文学大賞の、大賞受賞作。

 

 タイトルは安直に訳すると、「エルドの忘れられた獣たち」……に、なるだろうか。その通りに、作中にはとてもとても魅力的な、不思議な魔力と伝説を背景に持った賢い幻獣たちが登場するのだった。

 この記事で言及、引用するのは英語版だけれど、原著初版から5年後の1979年にはハヤカワ文庫FTからも日本語訳(佐藤高子訳『妖女サイベルの呼び声』)が発刊されていて、それが同文庫で扱われた記念すべき最初の翻訳作品でもあったらしい。

 2023年7月時点で紙の本はもう絶版になっており、電子版も存在しないが……。

 残念だけれど、原著の方なら電子版があり、オンラインで購入・ダウンロードすることができる。描写や表現が細やかで美しくも、どちらかといえば英語初心者にも理解しやすい言葉で書かれている物語だと思うので、何らかの英文に気軽に触れたい人にもおすすめ。

 

 

 

※原文のみの読解で日本語版は手元にありませんので、ここに載せている台詞の訳などは、私が個人的に行ったものです。

 

《The Forgotten Beasts of Eld》Patricia A. McKillip

  • あらすじ

 

 白い髪に黒い瞳のサイベルは、強い力を持った魔術師。

 彼女は同じく魔術師であった曾祖父ヒールド、祖父ミク、そして父オガムから、血と知識や蔵書、また不思議な幻獣たちを受け継いでいた。母はサイベルを生んですぐ亡くなっており、さらに16歳になってから父が逝去した後も、サイベルはひとりで白亜の石の屋敷に住んでいる。エルドウォルド王国——その王都モンドールからは離れた場所にある、〈エルド山〉の奥深くで。

 彼女は隠者のごとく、外界の出来事からは一線を引いた位置におり、水晶のドームの部屋で夜ごと精神を研ぎ澄まして遠方へと〈呼び声(call)〉を送っていた。

 伝説の白い鳥、ライラレンを手に入れるために。

 

She spoke its name softly to herself: Liralen; and, seated on the floor beneath the dome, with the book still open in her lap, she sent a first call forth into the vast Eldwold night for the bird whose name no one had spoken for centuries.

 

(McKillip, Patricia A.《The Forgotten Beasts of Eld (FANTASY MASTERWORKS)》p.4 Orion. Kindle版)

 

 作中におけるこの〈呼び声〉とは、術者の思念、心(マインド)から発される、命令……のようなもの。サイベルは幻獣たちの名前を「把握し」「呼び」「掌握する」ことで、強固な意思により、彼らの存在を縛り従属させている。そういう魔法を使えるのだった。

 いにしえの幻獣たちはそれぞれが強力な魔力や、叡智や、固有の伝承を持っている。

 けれど時が流れ、人間はその存在をすっかり忘れ、歴史書も風化していつしか誰にも語られなくなった。そんな彼らの「名」が再び呼ばれたことで、召喚されたけものたちは魔術師に従っている。

 ある日ライラレンを呼ぼうと試みていた最中、サイベルの邪魔をするものがあった。

 館の門を叩いたのは、エルドウォルド王国内のサール領から来た、コーレンという騎士の若者。彼は腕に抱えた赤子(名前はタムローン)がサイベルの遠縁なのだと告げ、彼を育ててくれないだろうか、と交渉する。

 タムローンを生んだのはサイベルの叔母、この国の王妃リアンナ。だが、リアンナの夫、王でもあるドリードの子供ではなくて、サール領のノレルとの間にできた赤子だという噂があるとかなんとか。

 どうやら色々と因縁があり、エルド山の下では権力を巡る戦争が勃発しているらしい。ノレルはそれで殺されていた。彼はコーレンの兄だという。

 

Rianna died of the child’s birth. If Drede finds the child, he will kill it out of revenge. There is no safe place for it in Sirle. There is no safe place for it anywhere but here, where Drede will not think to come.

 

(McKillip, Patricia A.《The Forgotten Beasts of Eld (FANTASY MASTERWORKS)》p.7 Orion. Kindle版)

 

 しかし、幻獣たちと静かに暮らしながら魔術の研鑽を続けるサイベルにとっては、遠い血縁者の赤ん坊など預かる義理はない。下界の権力や勢力図などもどうでもいい。しかもこのコーレンはといえば、「女性であるあなたなら子供の育て方は心得ているはずだ」などという、よく分からない言い分を押し付けてくる。

 当初、彼にあまり良い印象を抱けなかったのも当然だろう。

 毅然とあしらおうとした彼女だが、どういうわけかコーレンは人間にほとんど忘れられた幻獣たちそれぞれの名と物語を、ひとつと言わずいくつも知っているようだった。何かが琴線に触れるのを感じ、サイベルは最終的にタムローンを、その、柔らかく丸い頬をした生き物を、そっと腕に抱く。

 

 彼女はこれをきっかけに、冬の山に満ちる空気のような静謐な場所だけではなく、もっと異なるものも世界には存在していると知るのだった。

 そして、育てた赤子を深く愛した道の先で、幾度も胸の引き裂かれるような選択をすることになる。

 

‘My child, what is it?’ Maelga whispered.

‘What lies so frozen in your eyes that you cannot even weep?’ Her hand stroked the pale, gleaming hair again and again, until Sybel whispered, her voice dry and soft and distant, ‘Tam is leaving me. Do you have a spell for that?’

‘Oh, White One, in all the world there is no spell for that.’

 

(McKillip, Patricia A.《The Forgotten Beasts of Eld (FANTASY MASTERWORKS)》p.47 Orion. Kindle版)

「タムが、ここを出て行くって。何かいい呪文はない?」

「おお、白い娘よ。世界中どこを探しても、それを引き留める呪文はないのだよ」

 

 

 

 

 

※以下で物語の内容に言及しています。

 

  • 感想

魔術師サイベルとドリード王

 

 中盤の第6章で、王都モンドールの北にある塔におびき寄せられたサイベル。ドリードが強力な魔術師ミスランを雇って、彼女を意のままに動かせる傀儡にしようと試みたのだった。

 ここから展開する一連の流れというか、6章そのものが物語の中核をなしていると私には思えて、それ以降の彼女の葛藤やコーレンの存在がちょっと霞んでしまう印象はある。サイベルへの真摯な愛情を告白するコーレンの言葉(もちろん、彼にも多くの美点が存在するのだけれど!)よりも、サイベルとドリードの関係こそが心に深く深く刺さって、抜けなかった。

 鏡写しの像……というと少し違い、この2人の関係はまさに1枚のタペストリーの表と裏だと感じる。同じ性質を持つ糸をより合わせ、織り上げるのだとしても、そこにあらわれる図柄には必ず「面」がある。同じ布でもひっくり返せば風合いの違う姿に変化する、彼らはお話の中でそういう関係なのだと読み取れた。

 

She looked away from him, startled, and felt her face slowly warm with blood. He leaned forward, and she felt in his nearness a disturbing, unfamiliar power. His fingers touched her face lightly, turned it back to him.

 

(McKillip, Patricia A.《The Forgotten Beasts of Eld (FANTASY MASTERWORKS)》p.51 Orion. Kindle版)

 

 彼らが2度目に会った場面を思い出す。

 タムローンという息子を巡る会話の中で、さりげなくサイベルの手を取っていたドリードのことも。この温かな触れ合いが好きだった。

 暖炉のそばで「タムローンは愛らしい男の子で、強いものが好きで。だから、貴方にも惹きつけられたのでしょうね。隼のターに少し似ている」と語った彼女が、あとで王の方から何を思っているのか尋ねられ、使役している獣たち(獅子や、隼や、竜……)のことを考えている、と告げたとき。そこでドリードが「なら貴女もまた、強いものに惹かれるのだな」と言って微笑んだ瞬間、まず名状し難い何かが生まれていた。

 私は、この2人の共通点は「愛する資質(capability to  love)」にこそありそうだと感じている。

 ミスランがサイベルに告げた台詞も脳裏に浮かぶ。

 

‘You are capable of love. It is a dangerous quality.’

 

(McKillip, Patricia A.《The Forgotten Beasts of Eld (FANTASY MASTERWORKS)》p.87 Orion. Kindle版)

 

 実のところこれはドリードにも当てはまる要素だった。

 何かを愛する資質を持つ、というのは即ち傷つく資質を持つということでもあり、その点がサイベルとドリードに共通しているのに結構ぐっとくる。王様が作中でああなったのは、愛を抱ける心を持っていたからこそ。

 傷つくことができる可塑性の心を持ったドリードは、かつての王妃リアンナへ想いを捧げた過去のように、相手に自分の感情が受け入れられなければ「悲しい」と思う。そして、彼女が自分ではなくサール領のノレルを愛していると悟れば「苦しい」とも思う。
 この人は、そういう気持ちが分かる側の人、なのだ。どんなものにも感動できない類の冷たい心とは違う。欠片も慈悲など持たないと言い切れるミスランとも違う。

 けれど、それこそが彼を再起不能なまでに傷つけた。

 

His eyes closed, tightening. ‘I cannot – I trusted Rianna, and she betrayed me, smiling. She smiled at me, and kissed my palm, and betrayed me for a blue-eyed Sirle lordling. And you – you would marry me, and turn to Coren—’ ‘No!’

 

(McKillip, Patricia A.《The Forgotten Beasts of Eld (FANTASY MASTERWORKS)》p.91 Orion. Kindle版)

 

 ドリードがどこにいて何をしていても、過去の痛みは蘇ってくる。

 愛したものに裏切られるのは無論つらいことだ。だから王様はリアンナの不義を忘れられず、その恐怖と憎しみがどこへ行っても彼につきまとう。「もうこれ以上傷つきたくない」ので「自分が少しでも傷つく可能性を全て排除」しようとし、結果に魔術師ミスランを雇うという大失態を演じている。

 それでも塔で相対したサイベルは今、己を信じてみて、と叫んだのに、突き詰めると彼女でなく過去とリアンナという存在しか見ていない王。ゆえに、彼女は激昂した。

 サイベルがドリードへの復讐を容易に諦めなかった要因として、その稀有な誇り高さは確かに挙げられると思う。でも、プライドだけじゃない……。私は塔で彼女が ‘I was drawn to him a little . . .’ と実際に明言したところがすごく重要だと判断しており、その頑なさは、タムの父親であり確かに一度は惹かれた存在として、ドリードの信頼を得たかったサイベルのやるせなさが反映されているのだと感じる。

 

‘You – cannot ever be certain of those you love – that they will not hurt you, even loving you. But to make me certain to love you, will be to take away any love I might give you freely. That white bird’s name is Sybel. If you kill it, I will die and a ghost will look out of my eyes. Trust me. Let me live, and trust me.’

 

(McKillip, Patricia A.《The Forgotten Beasts of Eld (FANTASY MASTERWORKS)》p.91 Orion. Kindle版)

 

 タムローンが父へと向けた気持ちも切実だった。

 自分の存在を誇りに思ってほしい、不安があるなら打ち明けてほしい、と手を伸ばして届かなかった彼を思うと哀しみは募る。おこがましいが、どの登場人物の想いも少しずつ理解できるような錯覚に陥りもする。似て非なる「人間」として。

 

呪文としての「呼び声」と魔法

 

 一言で「魔法」といっても、簡単に分類することは不可能なくらい多くの種類がある。

 けれどここでは「何らかの方法で『世界』に働きかけるもの」……と整理してみれば、呼ぶ側の存在と答える側の存在、ふたつが確かに根本に横たわっている、と感じる。

 例えば、雨を降らせたい魔術師が呪文を発したり、術を発動したりする。世界の方が喜んでも、嫌々であっても、「応答」さえすれば雨は降る。それに値しないと判断されるか、術者の意思が届かなければ降らない。

 つまり雨を降らすのは世界であり、魔術師ではない、ということ。

 魔法を使う側が術を仕掛けた結果、実際に何かが起こったとするなら、それは魔術師の要請(call)に対して世界が応答(answer)したことの証左になる。ゆえに魔法は「私の声に応えるものはあるか」と、世界に対して問う試みなのだろう。

 命じるようにも、懇願するようにも。

 たとえ発されたその「声」が、山を動かしたり、川をせき止めたりすることが不可能であったとしても。誰かひとりでもそれに耳を傾け、響きに心を砕く存在がいたとするならば、魔法は働いたということになるはず。呼ぶ者がいて、答えを返すものがいる、図式の中に。

 サイベルの声に応えて、コーレンは来た。

 

…………

 

《The Forgotten Beasts of Eld(妖女サイベルの呼び声)》をタペストリーだと想定したとき、その表面にサイベルとライラレンが、そして裏面にはドリードとロマルブ(ブラモア)の図柄が織られているのだという気がした。

 ドリードがサイベルを通してリアンナを見ていたように、コーレンも一時、サイベルを通してノレルの存在を見ていたことを考える。もどかしかったし、難しい。まっさらな状態で恐れずに人を愛するというのはなかなかできないものなのだ。

 この織物の内外を縦横無尽に、自由に行き来するようになった存在が、最後に解き放たれた賢く美しい幻獣たちなのかもしれない。

 好きな物語だった。

 

 次は同作者の《Od Magic(オドの魔法学校)》原文へ進む予定。

 

 

 

 

 

 

夏目漱石と「莞爾vs苦笑」のフォトグラフ:随筆《硝子戸の中》の【二】より

 

 

 

 

 漱石は大正4年に「ニコニコ倶楽部」という雑誌社からの取材を受けていた。

 とはいっても写真を1枚提供しただけのことだが、それが疑惑の1枚となった。

 

 この「ニコニコ倶楽部」は「ニコニコ主義」なるものを提唱していたらしく、発行していた月刊雑誌の名前も、案の定『ニコニコ』という。カタカナ4文字だけを延々と眺めているとだんだん頭がおかしくなってくる。

 漱石は実際、過去にその雑誌『ニコニコ』を手に取ったことはあったが、わざとらしい笑顔の不快な印象が胸に刻まれていた……とまず「硝子戸の中」収録の(二)で語っていた。

 わりと辛辣である。

 

 あるとき彼は雑誌社の担当から電話を受け、大正4年1月号にぜひ、卯年生まれの人間の写真を掲載したいのだという旨を告げられる。確かに漱石は卯年生まれであった。

 ここできっぱり依頼を断ればいいのに、と読者の私などは思ってしまうが、「写真は困ります」とはじめは言っていたのにもかかわらず、最終的にまあ受けてやってもいいだろう、と考えるところなどは実に彼らしいなと感じる。

 事前の話では「笑わなくても構いません」との申し出であったが、取材当日、撮影に入ると、やはり「少しどうか笑って頂けますまいか」と頼まれた。

 

私はその時突然微かな滑稽を感じた。しかし同時に馬鹿な事をいう男だという気もした。私は「これで好いでしょう」と云ったなり先方の注文には取り合わなかった。彼が私を庭の木立の前に立たして、レンズを私の方へ向けた時もまた前と同じような鄭寧な調子で、「御約束ではございますが、少しどうか……」と同じ言葉を繰り返した。

 

――夏目漱石「硝子戸の中」より

 

 さて。

 これを拒否して笑わずにいた漱石だが、後日先方から送られてきた写真を見てみると、どうも笑っているような感じがするではないか。

 いわゆる「写真補筆」というのだろうか、現代でいう「フォトショ(photoshop)」的な加筆修正を手動で行うことは明治・大正期から普通に行われていた(見合い写真でも、一部の新聞記事でも)が、どうにもその手の加工がなされているように思えてならなかった。

 周囲の人間に見せてみても、やはりこの顔は修正されているような気がする、と皆が言う。漱石はそれを「気味のよくない苦笑」だと感じた。

 漱石の修正笑顔写真が掲載されていたのは大正4年1月号。私も実際に調べて参照してみると、机に肘をついた姿の彼は、確かに読者から見て右の口角をニッと上げ、わずかに目も細められているような……。えくぼ(に見える部分)も、薄墨で影をつけて、そう見えるように加工したものだろうか。

 

 このいきさつを朝日新聞上の「硝子戸の中」連載開始直後に載せるということは、よほど腹に据えかねていたのか、単純に最近起こった出来事として新鮮な題材だったからか、あるいは両方なのか定かでない。

 最後に彼が記した言葉も実に漱石らしく味わい深いもので、後世の私などは読んでいると思わずニヤニヤ、いや……ニコニコ、としてしまうのであった。

 

私は生れてから今日までに、人の前で笑いたくもないのに笑って見せた経験が何度となくある。その偽りが今この写真師のために復讐を受けたのかも知れない。

 

――夏目漱石「硝子戸の中」より

 

参考書籍:

 

 

 

火の国・火の山|文豪と手紙

 

 

 

 

 正岡子規が夏目漱石に対して、こんな風に頼んでいた手紙があった。

 

「人に見せては困ル、二度読マレテハ困ル」

「決して人に見せてくれ玉ふな。もし他人に見られてハ困ると思ふて書留にしたのだから」

「明治三十三年二月十二日 夜半過書す」

「僕自ラモ二度ト読ミ返スノハイヤダカラ読ンデ見ヌ、変ナ処ガ多いダロー」

 

(岩波文庫「漱石・子規往復書簡集」(2010) 和田茂樹編)

 

 まかり間違っても他人の目になど晒してくれるな。

 そう念を押す箇所を読むたびに、当の他人である私がしていることはまぎれもなく「窃視」なのだ、当の本人に何らの了承も得ず、後世に出版された書簡集をためらいなく貪る行為は……との自覚が増し、罪悪感と愉悦の両方をおぼえる。宛先の人物に対してだけ綴られたはずの文字が、こうしておおやけに晒されている、残虐さ。

 私はこの手の「覗き」を比較的愛好しているのだった。

 表に出てくるはずのなかった誰かの言葉に目を通し、内情に思いを馳せるというのは、単純に胸が躍ることであるので。もちろん良くない趣味であるけれど、良くないから尚更なのかもしれない。本当にこの手の覗きが嫌いだったら、他人が綴ったものなど多分読まない。

 まったく関係ないが、調べると覗色(のぞきいろ)という、とても心を落ち着かせてくれるような綺麗な柔らかい青色が世の中にはあるようだ。閑話休題。

 

 ごめんなさいね子規、ごめんね、ごめんね、生前のあなた方に何の関係もなかった赤の他人が読んでいるよこれを、しかも大喜びで、としばしば内心で謝りながら、岩波文庫「漱石・子規往復書簡集」(和田茂樹 編)の全てを読み終えて、表紙を見た。

 そこに1枚の絵(子規・画)があり、ひとつの句が添えられている。

 

あづま菊いけて置きけり火の国に住みける君の帰りくるかね

 

 上の手紙と同じ明治33年の6月中旬、子規が漱石に寄せた書簡に記されていたもの。

 差出人の住所は下谷区上根岸町(現在の東京都台東区)。そして、受取人の住所は熊本市北千反畑、旧文学精舎跡になっている。明治29年から熊本大学第五高等学校に勤務していた漱石が、現地で住んだいくつかの家のひとつがそこだった。彼は勤務期間の4年間で何度も引越しをしており、旧文学精舎跡は、6つあった居宅のうちの5つ目である。

 私がじっと見ていたのは、子規の句に使われている「火の国」という言葉。

 火の国とは、かつては九州の中央から北西側にかけての一地域を指した呼称であった。それが正確な年代は定かではないが、古代律令制以前、すでに肥前(長野県と佐賀県、しかし壱岐・対馬を除く)と肥後(熊本県)のふたつに分かたれている。(参考:今尾恵介「ふしぎ地名巡り」ちくま文庫)

 

 私が中学生時代の3年間お世話になった体育科の教師で、所属していた同校の剣道部顧問も兼任していた人の出身地が熊本だった影響なのか、その頃から「火の国」と聞くと反射的に、噴煙をあげる阿蘇五岳を連想していたのが今も記憶に鮮やかだ。まだ、自分では実際に足を運んだことはない。ただ想像の中だけで。

 てっきり、阿蘇の山々の火山活動が由来でできた呼称なのだと思い込んでいたが、あの有名な不知火説や、各天皇による命名説など、確かなことは分かっていないらしい。

 とにかく私の中に、

「火の国」は恩師の出身地・熊本。

 熊本といえば、阿蘇の火山。

 火山がある火の国。

 ……という単純な図式ができあがっていたせいなのか、あるとき耳にしたルイージ・デンツァ作曲「フニクリ・フニクラ」の日本語版(場合によって「登山電車」とも)の歌詞を、長年のあいだ間違って覚えていた。

 間違って、覚えていた。

 

 元のナポリ語歌詞はジュゼッペ・トゥルコ。恋心が副題材の歌。

 日本語版の歌詞は青木爽・清野協で、本来ならばそのサビはこう歌われる。

 

行こう行こう 火の山へ
行こう行こう 火の山へ

フニクリ フニクラ
フニクリ フニクラ

誰も乗るフニクリ フニクラ

 

【出典「Fnicli-fnicla フニクリ フニクラ」作曲:L. Denza 作詞:青木爽・清野協】

 

 そう、私は上の「火の山」の部分をどういうわけか、勝手に「火の国」だと思い込んで十何年も過ごしてきた。冷静に考えるとそんなわけはない。最近勘違いが正されて、間を置かずに漱石と子規の書簡集を手に取ったものだから、なんとなく「あづま菊~」の句がそれを思い出させた。

 フニクリ・フニクラは熊本県に観光客を誘致する歌ではなかったのだ。

 歌われているのは山。火の山。果たして再び噴火するのかしないのか、イタリアで今も微睡んでいるそのヴェスヴィオ火山にて、19世紀後期に運行していた登山電車……「フニコラーレ(ヴェズヴィアナ鋼索線)」の存在を周知するためにこの曲と歌は作られた。フニコラーレの愛称がフニクリ・フニクラというわけで。

 プロモーションというかコマーシャルというか、この手の音楽は的確に人間の耳に残るよう設計されているところがあって、感心する。今なんとなく脳裏に浮かべられるものだと、ハトヤホテルのCMとか、カステラの文明堂のCM(文明堂豆劇場)とか。もちろんフニクリ・フニクラも一度聞いたが最後、もう忘れることはできない。

 

 当の登山電車フニコラーレは、昭和19(1944)年に発生したヴェスヴィオ火山の噴火で被害を受け、運行を停止している。

 その曲や関連映像だけが残り、地上のどこかでフニクリ・フニクラが歌われるたび、歌い手と聞き手の意識はそこに持って行かれるのだった。もう存在していない登山電車に続々と乗り込む。逃れようと試みても決して逃れることはできず、最後は火口や山頂からの風景を、黙って見ることになる。壮観だ。

 もう夢にしか出てこない登山電車、あの急勾配を上り下りする、斜めの形をした車体。

 行こう。乗ろう。

 ずっと頭の中で曲が流れている。

 

 阿蘇山に登山電車は設置されていない(火口行シャトルバス有)が、もしも明治期の熊本にそれが存在していたとしたら、彼らもきっと乗ってみたがったことだろう……と私はつい考えてしまう。

 文明の申し子を憎みながらも愛していた夏目漱石と、日頃から彼と同じく旅行に心を寄せていた正岡子規。

 この記事で引用している手紙はいずれも明治33年のもので、当時、子規は病床にあった。東京の根岸で脊椎カリエスの病状に苦しみながらも、静岡県の興津に居を移して療養したい、と願った彼。

 その背景には留学先のイギリス・ロンドンにいた漱石や、フランス・パリへ渡った浅井忠など、遠方にいる友人の存在も影響していたのではないか、という見解が牧村健一郎「漱石と鉄道」に載っていてしんみりとした気持ちになる。

 もう旅行などままならない身だけれど、友達がそうしているのと同じように、自分も少し遠くへ行きたい。叶うなら温かい興津の地に。そんな風に思う心が子規の胸中にもあったのではないか、などと想像させられた。

 もちろんこれも手紙の窃視と同じで、趣味の悪い覗き見のようなもの。もういない誰かの心情へと勝手に首を突き込もうとする愚かさ。でも、やめられない。彼らのことが好きなのだ。

 

水の泡に消えぬものありて逝ける汝と留まる我とを繋ぐ。去れどこの消えぬもの亦年を逐ひ日をかさねて消えんとす。

(中略)

汝の心われを残して消えたる如く、吾の意識も世をすてて消る時来るべし。

 

(岩波文庫「漱石・子規往復書簡集」(2010) 和田茂樹編 p.423)

 

 渡航先で子規の訃報を耳にし、やがて帰国して、墓所に足を運んだ漱石が書き残した文章の一部。

 書簡集から読み取れるのは、忌憚のない率直なやり取りのうちに散見される、思わず微笑んでしまうような言葉たち。それから、とても涙なしでは読めないような、切実な感情の吐露。

 時にすれ違っても、意見が異なっても、強い絆で結ばれていた二人であった。

 

読んだ本:

 

 

 

 

アンナ・カヴァン《氷》極寒の世界の裏側でインドリ達が奏でる無垢な歌|ほぼ500文字の感想

 

 

 

 徹頭徹尾、作中の「私」にとって大切な何かが切実さを滲ませる筆致で綴られており、読者の私は主人公とそれを共有できないので、目まぐるしく移り変わる情景に置き去りにされたままページをめくる。

 そう、ずっと置き去り。

 何かがその人物にとって大切なことだけは伝わるが、どんな風に大切で、また、いかにしてそうなったのかは語られず、示唆もされない。

 

 アンナ・カヴァンの《氷》(山田和子訳)を読んでいた。

 

 白い魔にほぼ閉ざされた世界の物語といえば、カヴァンと同じ英国出身の作家・セローの「極北」が私には身近だけれど、趣は全然違う。

 いや、そもそも……と《氷》の内容を回想した。

 原題も"Ice"なので言葉から受ける印象は邦訳でも変わらず、それなのに読後の胸に残ったものといえば、雪原や氷山ではなく「赤道地帯のジャングルとインドリ」なのだから面白い。

 

「私」はジャングルで「より高き叡智、究極の真理、永遠」への扉を開きたいと望むが、結局は地上に留まる。氷と死の、超絶的な世界を選ぶ。

 ここでも読者は「分かる気がする」と「一体なぜなのか」の狭間に取り残される。

 

 生前、ヘロインを常用していた著者。

 彼女自身を最後まで地上に繋ぎとめていたものは、何だっただろうか。

 

 

  ◇   ◇   ◇

 

 約500文字

 以下のマストドン(Masodon)に掲載した文章です。

 

 

 

 

太宰治《津軽》をきっかけに津軽半島を縦断した秋の記憶、龍飛崎をめざした - 青森県旅行・回想(1)

 

 

 

 世間に流布している作家像というのは、得てして実態から大きく乖離したものになりがちである。

「彼」もすっかり大衆が持つ先入観の犠牲となっているうちの1人で、けれど、作品を知れば知るほどにその印象は変化していく。暗さと明るさ、いい加減さと誠実さ、痛みを覚えるほどに感じさせられる、ひたむきさ……。根底に流れている、人間存在への愛とでも呼べそうな何か。

 綴られてから年月が経ち、古くなった文字の羅列から、なお新しい何かを読み取るたびに、もう生きてはいない存在に少しだけ心を近付けられるような気がするのだった。

 

 

数年前、私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて、その返答に曰く、

汝を愛し、汝を憎む。

(中略)

私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であった。謂わば純血種の津軽人である。だから少しも遠慮無く、このように津軽の悪口を言うのである。他国の人が、もし私のこのような悪口を聞いて、そうして安易に津軽を見くびったら、私はやっぱり不愉快に思うだろう。
なんといっても、私は津軽を愛しているのだから。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.25) 

 

 生まれ、育った土地。いわば「故郷」について誰かが語るのを聞いたり、その様子があれこれと綴られた文章を読んだりするのは、とても面白い。生活しいて事あるごとに触れたくなるもののひとつ。愛着や懐旧、倦厭や嫌悪、いろいろと。

 語られるのはあくまでも特定の人物の立場から感じたこと、見たもの、また印象などであって、仮に住んでいたとしても、土地の客観的な特徴までもをその人が把握しているとは限らないのは興味深いところ。

 このような場合、故郷と聞いて各人が思い浮かべる場所というのは、実のところ私達が立っている地球の上にではなく、誰かの心の中にだけ存在する……ということになる。たとえ地図上の名では同じ土地であったとしても。

 特に、幼少の頃にいくばくかの時間を過ごしてから故郷を離れた人にとっては、かつて暮らした家や近隣の情景、また関わった人々が、なんともいえない温度を持って胸のうちに生き続けているような部分があるのではないだろうか。土壌に染み込んだ雨水みたいだと、ときどき思う。結果どんな草花を育むのかは分からない。

 

 

 昨年の秋、ふと太宰治の「津軽」を手に取ってから、実際の津軽地方に足を運んでみたい気持ちが強まった。それで間を置かず(つまり衝動の熱が変質してしまう前)に行ってみた。羽田から青森へ飛ぶとなんと1時間半程度で着いてしまう。青森空港のガラス壁に、黒石市の名産品、こけし(同市に「津軽こけし館」も存在する)をモチーフにした図柄が装飾として採用されていた。

「津軽」は紀行文のような体裁を取っているが、読んでみると虚実入り交じる内容と、かなり大幅に手を加え再構成されているのであろう、旅行自体や途中の出来事の流れに意識が向く(にもかかわらず、本文の最後「私は虚飾を行わなかった」とわざわざ書かれているのもそれらしい)。

 作家が手掛けるものならむしろそうあってほしいと私は思っている。反対に何か、より現実に即したものを読みたいのならば、情報ができるだけ正確に記された別の資料を当たるべきなのだ。

 まっすぐ知りたいことを追いかける行為とは異なり、わざわざ紀行文風の小説を選んで読むとき、事実、というものへの興味は比較的うすくなる。決してないがしろにされてよいわけではないから、皆無とまではいかずとも……。今は調べ物をしたいわけではない。単純に、お話としても面白いものが読みたい。

 個人的な記憶、抱いた所感、視界に入ったもの、多くの人間に理解されるかどうかが重要ではないもの、おそらく二度とは再現できない瞬間。その作家——この場合は太宰治になるが——の、人生の一端を「覗いてみたい」と欲望する。一定の尺度で測られる物事ではなく、あなたの、あなたにとっての真実にこの指を以て触れたいと、大層な理由もなく願ってしまう。おかしなくらい強く。

 

 朝、青森到着後に空港を出て、脇目も振らずに五所川原市の金木町へ。

 なにしろ時間がないのだ。このあと浅虫温泉に寄って1泊する、そうしたら明日の午後には家に帰らなければならない。

 

 

「津惣(つそう)」の名で津軽一円に知られた、地主の家。屋号はヤマゲン(⋀源)。

 その6男として太宰治、本名・津島修治は生まれた。明治42(1909)年のことだった。

 

私は、中学校にはいるまでは、この五所川原と金木と、二つの町の他は、津軽の町に就いて、ほとんど何も知らなかったと言ってよい。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.6)

 

 

「津軽」執筆のために帰省した太宰。

 現在この屋敷は「斜陽館」と呼ばれ、一般見学客にも門戸が開かれている。

 

金木の生家に着いて、まず仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。それから、常居という家族の居間にさがって、改めて嫂に挨拶した。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.136)

 

訪問記録:

 

 そして上の生家から、疎開時代の家(津島家離れ)へも。

 第二次世界大戦の折、三鷹の家が被害を受けて青森に戻ってきた太宰は、まさにこの場所に座って数々の作品を執筆していた。一度は勘当されたものの、この昭和20年には帰省を許されていたが故に。

 疎開生活は1年と数か月に及んだ。

 

 

「金木も、しかし、活気を呈して来ました」と、私はぽつんと言った。

「そうですか」お婿さんも、少し疲れたらしい。もの憂そうに、そう言った。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.158) 

 

訪問記録:

 

 また、「津軽」の中で紹介されている芦野公園駅の逸話は面白い。そして描かれたある乗客の少女の姿も魅力的である。

 津軽鉄道、芦野公園駅は金木駅の隣に位置し、木造の洋風駅舎は昭和初期の竣工当時から使われている建物そのままなのだった。今は喫茶店として管理・運営されており、誰でも利用することができる。

 座っているとときどき、鮮やかなオレンジ色をした「走れメロス号」がプラットフォームに停車するのが窓から見える。

 

窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥えたまま改札口に走って来て、眼を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.193) 

 

 

訪問記録:

 

 駅舎の喫茶店で食べたりんごカレーはとても味わい深かった。

 

 こんな風にまず、疾風怒涛の勢いで駆け抜けた、太宰ゆかりの3つの地点。でも、各施設では職員さんによる丁寧な解説も聞けた。振り返って思う。はじめに作品「津軽」に感化され、それからかつて作者が息づいていた場所を次々と訪れてみて、自分の方は一体何をどうしたいというのか……。

 具体的には別にどうもしない。行ってみたくて行くだけ。

 気が向いたら今度は読み手の私がぼんやりと周囲の波動を感じ、それを基にまた何かを考えたり、喋ったりする。ゆえに帰宅してから回想する場所はもはや実際には存在していない、私の記憶の中にだけある土地となり、ほとんど保存された状態で記憶の中にだけ残り続ける。誰かの故郷を求め、最終的に、自分にとってはそうでない場所についての話を延々とすることになる。現在、こうして画面に向かっているように。

 金木町を出るとき、美味しい栗のソフトクリームを食べていた。

 こんなになめらかで美味しい栗ソフトなぞ、太宰が金木周辺にいた頃にはまだ無かったはずである。しかし津軽の郷土料理に「栗飯」があるから、きっと秋に、つややかな栗の実自体は彼の口へも運ばれたことだろうと思う。しばらく明治、大正、昭和と過去の時代を彷徨っていた頭の中身が、ソフトクリームをじっくり味わうために現代に戻ってきて、考えた。

 

 

 

 

 

 作品に記された作家の旅程を、単にそのまま辿ることには魅力を感じない。でも、折角ここまで来たならば、津軽半島の突端、あの「龍飛崎(たっぴざき)」から海を視界に収めた後に温泉へ向かいたくなった。表記や呼び方は "竜"飛崎、龍飛"岬"、たっぴみさき、とかいろいろあるが、ここでは龍飛崎を採用させてもらう。

 そもそも、地名の音にあてられた漢字の字面からしてずいぶん魅力的ではないか。目でなぞるとにわかに耳の奥で雷鳴が轟き、瞼の裏には強烈な稲光も反射する。またたくまに足下の地面の色を変える、龍が呼んだ雨の到来だった。

 龍……飛……崎。

 読んだままの印象からすると龍が空を舞う地、らしい。龍!

 そのうち動き疲れ、人目につかないところですやすやと眠っている、その龍の広い背中や長いひげを撫でるか、こっそりと上に乗るかしてみたい。どこまで飛んで行くことができるのだろう。対岸の北海道・函館か、その先か。あるいは反対側である南の方角か。想像すると愛おしくて涙が流れそうになる。寄る辺なく、しかし力強く空を飛んだり、地を駆けたり、航海に臨んだりする存在を思うと、いつもそうなる。乗り物であっても動物であってもみな、勇敢な旅人に見えて。

 金木から龍飛崎への道すがら、東半分が中泊に面した大きな湖、十三湖(十三潟)の姿が望める展望台に上った。道の駅の敷地内だった。十三湖に関しては、「津軽」の本文でも言及されている箇所がある。「浅い真珠貝に水を盛ったような……」って、良いな。

 

やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでいない。ひっそりしていて、そうして、なかなかひろい。

 

(新潮文庫「津軽」(2022) 太宰治 p.195) 

 

 展望台の脇からは使用中止となっている滑り台が伸びていた。

 それから、道の駅の看板部分に黒い牛の像があしらわれていたのがとても気になった。結構大きいので道路や駐車場からでも目立つ。晴れの日も、雨の日も、あの牛は遠くの山を見据え続けているのだろう。

 私は牛さんを眺めるのも、じっくりと味わって食べるのも好きである。

 

 

 全く知らなかったのだけれど、十三湖ではシジミが取れるらしい。しかも、とても美味しいらしい。検索すると「日本有数のヤマトシジミの産地」……と出てくる。普段はまったくと言っていいほど口にする機会がない貝なのだが、気になってきた。黒っぽい貝殻の中で、宝物のように守られている、ぷるぷるのシジミの本体。

 その湖は西端が日本海に繋がっている汽水湖。繋がる河川のうち、岩木川をなぞればやがてあの白神山地に辿り着くのだと思うと感慨深いものだった。地図上に記された川の形というのは、それこそ龍が地面に横たわっているように見える瞬間がある。

 展望台に立って首を伸ばし、視線を向けた遠くの方で水面が太陽の光を反射して、それが自分の網膜にまで届くと、内容は理解できないまでも「呼びかけられている感じ」がしてくるのだった。不思議な信号みたい。招かれているのか、実は拒まれているのか……。近付いてみたい気もする、しかしながら今日は龍飛崎へと向かうことになっているので、ご挨拶だけ。

 

 

 うねうねと蛇行する国道339号線、竜泊ライン。写真下は岬へ行く途中で経由する中間地点の鳥瞰台。

 漂う空気や色彩、風の音が美しいと感じられる天候に感謝しつつ、心のどこかで大嵐や大時化の風景を目の当たりにしたい――と人に渇望させる要素が、海沿いの高台には確かにあった。悪天候時の崖上に取り残されたら本当に肝が冷えるはず、けれども(だからこそ?)奇妙な憧憬とともに、昼の夢に見る情景。それと、波間に揺れる船のように胸を震わせる、何か人間ならざる者の歌声が聞こえてくる錯覚。

 何度かまばたきをしてみると、眼前には再び、さっきと同じように晴れた日の夕方の風景が広がるだけなのだけれど。あるいは、風力発電用の風車のブレードが。

 当時、10月の末。東北地方北部は既にまあまあ肌寒くなっただろう、と思って一応コートを持ち、初秋を意識した服装で行ったのに、昼間は結構暑かった。あの日差しよ。さすがに陽が落ちれば、ある程度は空気も冷たくなったけれども。

 周辺を歩いてみると、場所柄か「密出入国 許すな!」の看板が沢山ある。海はそのまま外国まで広がり続いている。いろいろ考えながらウロウロしているうちに、身体は灯台の下へとやって来た。ここが龍飛岬、本州西側の北のはずれ。

 

 

 対岸に北海道が見える。

 もう少ししたら今度は函館に行く予定のため、それまでどうかいなくならないで、待っていてほしい、と思った。消えないで。あんなに大きな陸地が短期間で消えるわけない、と内心で呟くものの、星の光でさえ地表に届くまでに恐ろしいほど時間がかかるのだから、北海道の大きな島が知らないうちに姿をくらましていても、まったく不思議ではないと怖くなる。

 今視界に入っているものも、霧が姿を変えて見せている幻かもしれない。見えてはいても辿り着いたらなくなっているかもしれない。実際に上陸してみるまで、それが本当にそこに在るのかどうかは分からない。

 ところで、龍飛崎に来たら絶対にやりたかった行為のひとつに、「赤いボタンを押す」があった。

 果たして何のボタンなのか、といえば、それは「津軽海峡・冬景色 歌謡碑」に組み込まれているボタンである――。

 

 

 石川さゆりの歌唱で有名なこの歌、その歌詞が石板に刻まれている歌謡碑。おそらくは波を象っているのだろうが、下部の装飾はロールケーキのように見える。

 青森県内に存在する歌謡碑には2種類あり、ひとつは青森駅近くの八甲田丸前に設置してある人感センサー式のもの、そして、この龍飛崎にあるのは押ボタン式のものになる。どちらも「津軽海峡冬景色」を大音量で再生し、遠くにいても歌が聞こえるため、歌詞に描かれている情景の理解を深めたい人におすすめ。

 灯台近くの丘の上に立っていても、誰かが来るたびに風の向こうからイントロが聞こえてくる。かなり面白い。

 私は念願かなって赤いボタンを押すことができ、大いに満足した。元を辿れば太宰の「津軽」が私をここまで連れて来てくれた。

 

 この旅行のきっかけは彼の作品であったけれど、私自身の青森見聞録(2022)はまだ終わらない。

 翌日の午後に帰るまで、触れられるだけのものに触れてからまた飛行機に乗った。その内容や過程を、未来の地点からできるだけはっきりと思い出そうとする、毎度ながらそういう試みで回想や訪問証拠を記していく。

 

つづきは青森県旅行回想(2) へ

 

 

浅虫温泉での宿泊記録は以下:

 

 

 

 

運命が決定される前の抽象的なケーキについて|ほぼ500文字の回想

 

 

 

 

 先週の話。

 9月の京都文フリで出る合同誌へ寄稿する文章、その提出期限がジリジリ迫っていて、しかしこれは確実に終わるだろう……と目途は立った。ような、気がした。気がしたから退勤後に、最寄り駅から少し離れた洋菓子店へと足を延ばした。珍しくケーキが食べたかったので。

 すると店は臨時休業していた。

 残念だけれどケーキは食べられなかった。

 魂の半分抜けた目で張り紙を読んでいると、雨水が沁みたのか、靴下が妙に冷たく感じられた気がする。

 

 部屋の奥から出てきた「高校生物」の教科書に、胚の原基分布図が載っていた。

 歪んだ球体にしか見えない胚だが、部位ごとにどこがどの器官として分化するかが決まっていて、そのため「予定運命図」ともいう。授業の記憶を掘り返し、嗚呼なんて仰々しい名称なのだろう、と目を剥いた。

 予定、運命!

 

 私は無念のケーキを思い出す。

 ケーキ、の言葉を頭に浮かべた時点で、果たしてそれがショートケーキなのかフルーツタルトなのかモンブランなのか、全く想定していなかった。ケーキの具体的な運命が決定されるのは、注文の瞬間である。

 この未確定なケーキは抽象的な形のまま、私によってその店で食べられるまで、未練という衣を纏って胸の端に居座り続ける。

 

 思い出すのは江國香織の言葉。

 

ケーキ、という言葉の喚起する、甘くささやかな幸福のイメージ。大切なのはそれであって、それは、具体的な一個のケーキとは、いっそ無関係といっていい。

 

(集英社文庫「とるにたらないものもの」(2006) 江國香織 p.68)

 

 

  ◇   ◇   ◇

 

 引用部分を除いて約500文字

 以下のマストドン(Masodon)に掲載した文章です。

 

 

 

 

【本紹介】《明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記》著者が当時の “はみ出し者” たちへと向ける敬愛

 

 

 

 

 6月12日に発売される書籍で、自分が日頃抱いている関心と重なるものをお送りいただいたため、ここで紹介する。

 当ブログの読者諸氏、特に近代遺産を愛好している方々におすすめである。

 

《平山亜佐子「明治大正昭和  化け込み婦人記者奮闘記」左右社》

 

 

【概要(出版社より)】

日本の新聞黎明期。女だからと侮られ、回ってくるのは雑用ばかり。婦人記者たちは己の体一つで、変装潜入ルポ〈化け込み記事〉へと向かっていった——

◇   ◇   ◇

著者:平山亜佐子
出版社:左右社
ISBN-13 ‏ : 978-4865283730
発売⽇: 2023/06/12
サイズ ‏ : 2.8 x 13 x 18.5 cm, 288ページ

 

平山亜佐子「明治大正昭和  化け込み婦人記者奮闘記」感想

 

 鉄道、郵便、電話……

 人間や物資の運搬、そして、情報の伝達に用いられる手段が軒並み発達し、これまでにないほど高速化を遂げた近代の世界。当時の西ヨーロッパ各国を主な参考とし、技術や思想を取り込みながら追随してきた日本社会も、その例外ではなかった。

 なかでも明治初期に登場した日刊新聞の存在と、新聞記者なる新たな職業の誕生は見逃せない。

 物体としての形を持たない「情報」というものが、従来よりも大々的に、大衆に向けた売り物——歴とした「商品」となりうる時代がついに訪れたのだった。

 

 私はこれらについて考えを巡らせるとき、いつも夢野久作が昭和4年に発表した短編小説「空を飛ぶパラソル」を思い出す。

 大正期に父、杉山茂丸の保護下で九州日報社に勤務していた作家は、この作品の語り手として「夏枯れの時期に『特別記事(トクダネ)』を探す新聞記者」を主人公に据えた。彼は序盤でとある事故現場に遭遇し、わずか数時間の後に夕刊へ掲載する文面を仕上げては、後に出た他社の紙面に比べて俺のレポの方がはるかに詳細だ……と悦に浸る。

 作中の描写からは、新聞記者の男が自らの足を使い、常にうまいネタは転がっていないものかと探していた様子が伺える。よりセンセーショナルな材料が手に入るほど手の込んだ料理ができ、完成した品がうまく大衆の気を引けば、飛ぶように売れたのだ。

 

 現代においてもそうかもしれないが、報道の役割はひとつではなかった。未だ人口に膾炙していない問題を世に知らしめ、その是非や社会正義を問うような記事がある一方、ワイドショー的に読み手の興味を満足させることを主目的とした記事も存在し、それを書いた記者の思想や動向も千差万別である。

 当時、特に記者として「仕事を得る」「売れる」「生き残る」ためには、場合によってかなり尖った企画に身を投じる必要もあった。そもそも新聞記者の社会的地位自体も低かった。さらに、そんな記者として働く「女」……とくれば、眼前に立ちはだかっていた偏見の壁の厚さには閉口の意を禁じ得ない。

 今では考えられないほどに数の少なかった女性記者たちは、各人によって全く異なる方面で活躍をし、一部は賛否両論の大旋風を巻き起こしていたという。その姿が、各種の記録を元にまとめられた「明治大正昭和  化け込み婦人記者奮闘記」には鮮やかに描き出されていた。

 

教師ですら結婚できない女性の仕事と見られていた時代。

(中略)

女性は夫や子どもがいて初めて社会で尊敬される。「若い独身者」は軽んじられて当然なのである。況んや若い婦人記者においてをや!

ともあれ、新聞社に入る前には周囲に反対される、入れば男性記者に馬鹿にされる、世間からは生意気だと言われる、板挟みになりながら薄給で慣れない仕事をする婦人記者たちが数年で辞めてしまうのも致し方ないと思われる。

 

(左右社「明治大正昭和  化け込み婦人記者奮闘記」(2023) 平山亜佐子 p.81-82)

 

 下山京子、中平文子、北村兼子、そして小川好子など。本書で紹介されている明治・大正・昭和期の女性記者たちは、それぞれが現代の読者の興味もそそる、実に面白い経歴を持っていた。

 なかでも私がアツい眼差しを注がざるを得なかったのは北村兼子で、彼女はわずか27歳(享年28)で夭折しているのだが、これが現在の私の年齢と同じである。まるで追い立てられているようにも感じられるほど熱心に記者の仕事に打ち込み、複数の著作も発表していながら、自ら飛行機でヨーロッパへと渡る夢(!)は果たせず彼岸へと旅立ってしまった。

 漢文や外国語に堪能で、仕事に対する意欲も旺盛。勧誘を受け「大阪朝日新聞」に入社してからカフェーの女給として〈化け込み〉潜入取材を実行するも、来店した学生たちにより何かを察せられてしまったのか、本当は何者なのかと問い詰められたり付きまとわれたりする。その物腰や語り口から理知的な魅力が滲み出ていたのではないだろうか。

 正直なところ、私も彼女の跡をつけたりファンレターを出したりしてみたいもの。可能であるなら、ぜひともお友達になりたいものである。

 

 ……と、まあ、そのあたりは本当にごく個人的な私の嗜好と感想であって、これ以上に本書を際立たせている要素はといえば、著者・平山氏が「はみ出し者」だった彼女たちに向ける尊敬と愛情のこもった眼差しではないかと思う。

 お騒がせ女性記者らの意志の強さ、旺盛な行動力や、自己顕示欲。

 時に一般的な社会規範のレールから逸れ、ともすれば「それってちょっとどうなのか」と周囲に眉を顰められてしまいそうな行動であっても、本書ではその背景にあった事情や労働環境も含めて、資料をもとに幅広い考察がなされている。お行儀のよい、体裁を重視した記録からは容易にはじかれ、存在が軽視されたり無かったことにされてしまったりする恐れのある箇所も、著者は拾う。

 いわゆる優等生だけではなく、色々なタイプの人間の存在があってこそ多様な報道の形が実現するはず……と語られるが、これは決して報道やメディアの世界に限った話ではないだろう。

 蔑視の風潮、あるいは先入観から「けしからん」と抑えつけられてきた者たちの声が拾われ、書籍として発行されることで、彼女たちは確かにそこに居て生きていたのだと教えられる。出版された時点で既に意味を持つ本、という気がした。

 

 ほか、番外編の資料欄の中には「女優養成所」へと化け込み取材に赴いた記者の記録もあり、個人的に川上貞奴(日本の女優第一号と言われる)の生前の活動にはかなり興味を持っているため、関連しているそれも面白く読んだ。

 これから他の職業や文化風俗の背景を調べる際にも参照することになると思う。

 明治・大正・昭和の女性記者たちと一緒に東奔西走、知っているようで実はほとんど知らない世間の裏路地を覗いてみるような気持ちで、ページをめくる。時代ごとの艱難辛苦を背負って、しかし逞しく生き抜いた女性記者たちの名前を、今後も忘れることはないだろう。

 

 

 

はてなブログ 今週のお題「読みたい本」

H・C・アンデルセンとヘンリエッテ・ウルフの友情 - 燃え盛る炎にも、逆巻く海にも、隔てられない場所で

 

 

 

ウルフの一ばん上の令嬢ヘンリエッテが、当時私の詩を理解してくれた唯一の人であった。彼女は快活な天才的少女であった。そして、最後の日まで、時の移りかわりをこえて、姉のように親切なまことの友のひとりとなった。

 

(岩波文庫「アンデルセン自伝 -わが生涯の物語-」(2020) H・C・アンデルセン、大畑末吉訳 p.111)

 

 

 19世紀デンマークに生まれた作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805-1875)

 

 ……もとい、ホー・セー・アナスン。写真に向かって会釈をしつつ、この記事では彼のことをアンデルセン、と呼ばせてもらう。

 14歳の頃、夢を抱いて故郷オーデンセから首都コペンハーゲンへと赴いた彼の生涯が、それからもずっと「旅」と共にあったのはよく知られている事実。作家活動の最初期に自費出版した国内散策記『ホルメンス運河からアマー島東端への徒歩旅行』が評判を呼んだほか、肝臓の病で命を落とすまで、合計29回の外国旅行にも出掛けていた。

 旅することは生きること、と作家は語る。

 数々の経験がアンデルセンの人格形成、また作品の内容にも大いに反映されていたのが、その小説、童話、随筆に触れていると如実に伝わってくる。

 

 

 

 彼の旅行鞄には太く長い「ロープ」が入れられていたのも有名な話だ。

 ロープ自体は色々な用途に使えるものだが、特にアンデルセンの場合、よく言及されるのは「火災時の脱出道具」……として。

 宿泊している建物のどこかで火の手が上がった際、窓からロープを伝って階下に逃げるためだという。気持ちは分かる。けれど、これほどかさばる縄をよく持ち歩いていたものである。

 他にも、突然の雨に備えて黒いこうもり傘を手放さなかったこと然り、生きたまま埋葬されるのを恐れて就寝中の枕元に置いていたメモ(『私は死んでいるように見えるだけです』と書かれている!)」然り、常にもしもの事態に備えようとしていたアンデルセンの、ちょっと脅迫的な心配性が数々の品物からは伺える。

 

 あるとき図書館でその軌跡を辿っていて、彼がかねてより抱いていた「火災への恐怖」を幾重にも増幅させたばかりか、強烈な「長い船旅への恐怖」までもを植え付けたとても悲しい出来事が、1858年に起こっていたのだと知ることになる。

 36年の長きに渡り強固な絆を育んできた、大切な友人の事故死。

 彼女の名をヘンリエッテ・ウルフ(Henriette Wulff, 1804-58)という。

 家族や友人など、親しい人間からはジェッテ(Jette)の愛称でも呼ばれていた。

 

 1858年9月13日……ヨーロッパからアメリカ大陸・ニューヨークへと渡る途中の蒸気船〈オーストリア〉が、その燻蒸装置が原因なのか大西洋上で炎上し、火はデッキにまで燃え広がる。鎮火はできず、最終的には船全体が、乗客もろとも海の底に沈没した。このような事故があった。

 実は、そこにヘンリエッテが乗っていた。

 全乗客のうち、辛くも生き残った数十人の中に彼女は含まれておらず、二度と祖国の土もアメリカの土も踏むことはなかった……。彼女の棺は海となる。

 この出来事にアンデルセンはたいへんな衝撃を受け、それまで地図を見ながらコツコツと練っていたアメリカ旅行の構想を、すべて取りやめる。多くの人から誘いを受けており、自身でも多大な興味を持っていたにもかかわらず。

 事故の悪夢だけでなく、もともと船酔いの傾向があったのも影響してか、健康を考慮し、もう50代半ばに差し掛かった作家が船で大西洋を越える計画はついに実行されるに至らなかった。

 そう、アンデルセンはアメリカに行かなかった。

 

 事故と同年の10月、アンデルセンは亡きヘンリエッテに追悼詩を捧げた。

 そこに込められた思いに、また表現の壮絶さに、私は驚く。

 同時に胸を打たれた。ああ、なんとも彼らしいトーンだ……と思って。

 

追悼詩の全文(リンク先):

 

【Mindedigt over Henriette Wulff(一部抜粋)】

 

I det brændende Skib paa det rullende Hav,

I Rædsler, som ei vi udholde at høre,

Har Du lidt, har Du endt, har Du fundet din Grav,

Dødsmaaden og Kampen naae aldrig vort Øre!

 

抜粋の日本語訳

 

逆巻く海の上 燃え盛る船の中

聞くに堪えない恐怖の叫びに包まれ

あなたは苦しみ 事切れ

墓となる場所を見つけた

その死の間際の闘いは

ついぞ 我々の耳に届くことはなかった!

 

 デンマークで海軍大将の娘に生まれたヘンリエッテは、両親の死後、アメリカ大陸で残りの人生を送ることを切望していた。黄熱のため、かつて命を落とした彼女の弟も埋葬されている土地で。

 そうして蒸気船に乗ったわけだが、結果、こうして悲しい運命に見舞われてしまう。

 出発の直前、アンデルセン宛てに書かれた「最後の手紙」が以下で読める。

 9月1日にハンブルクから出発する船に乗る予定だ、と記載されている。

 

 

 彼ら自身が表現していたように、まるで「魂の姉弟」であったともいえるこの大切な庇護者であり友人を失い、アンデルセンがどれほど嘆いたかは想像に難くない。

 日記にもその深い悲しみは記されていた。おそらくは同時に、炎で焼け死ぬことや、大量の水で溺れ死ぬことへの恐れも、決定的にその心に刻み込まれたのだろう。気が付くと事故のことを考えてしまう彼の苦しみが文面からは伝わってくる。

 私はふと、彼が手掛けた中に、船が沈没する場面の出てくる物語があったのを思い出した。

「アンネ・リスベット」。

 

 

 この物語が書かれたのは1859年。すなわち、ヘンリエッテが亡くなった次の年。

 お話の内容自体はアンデルセン自身の母(アンネ・マリー)とその私生児、彼にとって異父姉であったカーレンの存在を彷彿とさせるものだが、死んだ子供の乗っていた船が沈む描写には、確かにヘンリエッテの事故を受けて想像した世界が反映されていると感じる。

 逆巻く海。水底を棺とした人々。

 

船は、海の底にある大きな岩に、ぶつかったのです。そして、村の沼にしずんでいる、古靴みたいに、海の底にしずんでしまいました。

(中略)

船のしずんでいくありさまを見ていたのは、ただ、鳴きさけぶカモメと、水の中の、さかなたちだけでした。けれども、そのカモメやさかなたちも、ほんとうは、よくは見ていなかったのです。なぜって、みんなは、水がどっと、船の中に流れこんで、船がしずんだとき、びっくりして、わきへ逃げてしまったのですから。

 

 

 

 とりわけ対女性関係だと、どうしても「失恋を繰り返していた」側面が取り沙汰されるアンデルセン。確かに数ある事実のひとつではある。恋してはみたものの思い届かず、結果的に「友人」にとどまったリボアやルーイサ(ルイーザ)、リンドへの感情は、特に創作物にも顕著な影響を及ぼした。

 でも、彼の周囲を取り巻いていたのはそれだけではない。

 恋愛感情を向けた女性たちや、同性の友人たちとだけではなく、支援者の娘だったヘンリエッテ・ウルフとの間に築いたような種類の異性関係も確かにあったのだ。

 もちろん本人達が実際のところ、互いをどう思っていたのか……初めから作家とパトロンとして、あるいは文化的な感覚を共有できる仲間として関係を育んでいたのか、それとも時には何か違った感情を抱いていたのかどうかは定かではない。研究者の間でも見解は分かれているし、別にどちらでも良いような気がする。

 

彼女は私の新しい詩にあらわれた諧謔を理解し、私を元気づけてくれた。私は彼女に全幅の信頼をよせ、私が彼女の仲間でしばしばちょっとした攻撃、とくに、人身攻撃にさらされると、断乎として私を守ってくれた。

 

(岩波文庫「アンデルセン自伝 わが生涯の物語」(2020) H・C・アンデルセン、大畑末吉訳 p.111)

 

 とにかく、アンデルセンとヘンリエッテ・ウルフの精神的な距離はとても近かった。

 赤の他人の目からすると、例えば手紙の上で交わされていた互いに忌憚のない物言いが、率直すぎて厳しく思えてしまうほどには。アンデルセンが名誉を誇示しようとして、ヘンリエッテが窘める場面もあれば、酷評される作品と作者の前に彼女が立ち、味方として庇ってくれた場面もある。

 時には心の深い場所にある不安も吐露できた。

 

ハンスの詩が載った「フリューネ・ポスト誌」が出た晩のことです。ハンスはウルフ家にいました。ウルフ* がポスト誌を手に持って部屋へはいってきました。「これにはすばらしい詩がふたつ載っているよ。H――とあるからハイベルの作にちがいない」といって、朗読しました。日ごろ親しい話し相手になっているヘンリエッテ・ウルフがすかさず、「それを書いたのは、アンデルセンよ」といいました。彼女だけがハンスの秘密を知っていたのでした。

 

* ヘンリエッテの父

 

(Kindle版 角川文庫「絵のない絵本」H・C・アンデルセン、川崎芳隆訳 Kindle の位置No.1712-1716) 

 

 ちなみにヘンリエッテ・ウルフは、しばしば「親指姫」の着想元になったのではないかと囁かれるほど小柄な人物で、さらには背骨に抱えた問題のせいでかなり猫背だったらしい。

 虚弱な体質は彼女が家の外で活発に動くのを阻んだが、旅を好んだヘンリエッテの性格は明るく、意志も強かった。

 同じように身体、容姿へのコンプレックス(細身で身長が高すぎる、等)を感じていたアンデルセンとはその点でも通じるものがあったのかもしれないし、手紙などの文書として残されていない部分に関しては、ただ想像をたくましくするしかない。

 

 私は今回、色々な書籍を手に取り彼らの友情について知った後で、ウェブ上にはそれを示す日本語のページがあまりにも少ないことに気が付いた。かなり驚いたし、勿体ないと思った。なので個人的に調べたことをこうしてブログに残しておく。

 親友の事故死に衝撃を受け、長い船旅を恐れたアンデルセン自身は大西洋を越えられなかったが、その作品は土地も海も時代も超越して現代の読者まで届けられている。

 

※Henriette Wulffのカタカナ表記に関しては他に「ヘンリエッテ・ヴルフ」や「ヘンリエテ・ヴルフ」等もあったが、当記事では岩波文庫「アンデルセン自伝 -わが生涯の物語-」の大畑末吉訳に準拠した。

 

参考サイト・書籍:

 

 

 

夏目漱石《夢十夜》第一夜 より:百合の花の香で思い出すこと

 

 

 

 

 最近訪れた温泉旅館で、「ユリ根」を使った料理が提供された。

 

 初めて見るそれは文字通り植物の「『百合』の根っこ」であるらしく、人間でもこういうものが食べられるのだとは今まで全く知らなかったので、詳細を教えられながら味わった。小鉢の中央におこわが盛られ、その丘の頂上にユリ根の切片がふたつかみっつ、まとめて乗せられているもの……。

 温かく、やわらかな食感がよく蒸したじゃがいもに似ていて美味しかった。印象や形がにんにくにも近いというのは後から調べて気付いて、なるほど確かにそういう感じだったかもしれない、と回想する。

 きちんと味を知ってしまったので、もしもこれから先に見る夢のなかに百合の花が出てくるとするなら、きっと私は真っ先にその根を喰らおうとするに違いない。手足のない虫に姿を変えて、土に潜って、陽光の及ばない場所で宝物のように守られている根を目の当たりにしては恍惚とする運命にあるのだと思う。

 表面に歯を立てずにはいられない。たとえまだ蒸されても、煮られてもおらず、硬いままの根っこであったとしても。

 それは生々しく、不安になる白さで、たいそう綺麗な見目をしているはずだと想像を膨らませた。実際とは違う想像上のユリ根を。どこかの屋敷からふと気まぐれに庭に出てきた深窓の住人と同じく、普段は隠されているものがいきなり自分の眼前に晒されると、否応なしに連れ出してみたくなるような気分に近いものを感じさせられる。

 

 百合といって、根ではなく花の方から真っ先に連想させられるものといえば、私にとっては夏目漱石の小説《夢十夜》の第一夜に登場する一文かもしれない。

 作中の「自分」によって、「真白な百合」が「鼻の先で骨に徹(こた)えるほど匂った。」と述べられる部分。

 骨にこたえるほど……。

 

 

 かつて高校現代文の授業で取り扱われなければきちんと身を入れて読んだかあやしく、当時、題も内容も一応把握したのにこれといった印象を抱かなかったから、初めて《夢十夜》に触れた時の自分はおそらく何とも思わなかったのであろう。

 漱石が遺したものを知り、すっかり大好きになった今ではとても考えられない、実に勿体ないことであるのだが。閑話休題。

 

「真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った」という描写、この箇所を読むたび、私の脳裏に閃くのは教室だ。そう、片側が廊下に面し、もう片側には校庭に面する窓が一列に並んでいた、以前通っていた小学校の教室。2022年で創立150周年を迎えたわりと古い学校なのだが、私の在学中の校舎の新しさはまあまあだった。

 小学4年、当時のクラス担任がとても植物の好きな人で、季節ごとに異なる種類の花を花瓶に活けて飾っていた。

 その中のひとつには百合もあった。だいたい、色は白いものだったと記憶している。桃色のではなく、花弁の表面にそばかすを思わせる斑点がついているものとも、オニユリのように鮮やかなものとも異なっていた、白くて大きな百合。

 私はその香がとても好きだった。

 独特かつ強くて、百合が花瓶にさしてある時には教室いっぱいに漂っていた、あの感じ。振り返ると実は苦手だった子も多くいたのではないかと思うくらい、百合の香には固有の癖が、本当の本当に「骨の芯まで浸透してくるような」湿度がある。感触自体は柔らかいのに、こちら側がどれほど身構えていても、いざそれを吸わされると何もかも根本から挫かれてしまうような。

 窓から教室へと風が吹き込むたび、花の本体から発された香が千々になって、空間に漂う。

《夢十夜》に描かれた「百合の匂い」はなんと的確なのだろう。

 それから無視できないのは、花全体の造形もそうだ。たおやかでありながら弱々しさとは無縁で、けれど、どこか放ってはおけない感じが醸し出されている。むしろ、百合という植物自体が積極的にそれを演出している……とでも表現できそうな雰囲気。

 

真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。
そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。

 

(新潮文庫「文鳥・夢十夜」(2003) 夏目漱石 p.33)

 

 本当なら露がひとつ(どれほど高い場所からこぼれた雫であっても)落ちたくらいで百合の花や茎は揺らがない印象なのに、わざと、作中で「自分」という人物が目の前にいるからこそ、百合は自らを「ふらふらとさせて見せた」のだと思わずにはいられない。

 実際にはある種の「弱さ」も持つ花なのかもしれないが、私にはどうしてもそのように思えてしまう。ずっと、この植物が醸し出す芯の強い感じにこそ注意を向けさせられてきた。

 存在を無視できない。

 その匂いに惹かれて静かな教室で、百合の雄蕊の茶色い花粉をちょっぴりつついて落としてみたり、時には雌蕊の方の先端の、ぬらりとした粘液でつややかに覆われた部分をこれまたちょっぴり枝や葉でつついてみたりと、構わずにはいられなかった。授業中でも変わらず気になったし、魅了されていた。

 

 友達に百合の香の話をしてみたら「その強さゆえに、食事のテーブルを飾るのには向かないとされる花」なのだと言われて、室内の置く場所で花を分類するやり方が確かにあったことを改めて思い出したというか(私は普段、結構そういうことを忘れている)やはり一般的にも香りが強いと認識されている花なのだ、百合とは、と思った。

 同時に少しだけ残念だった。

 あのあまりに鮮烈な匂いが、もしも「自分にだけ知覚できるもの」であったなら、多分今でも十分に好きな百合の花をもっと好きになっていただろう。百合の凄艶な感じは別に、私にだけ理解できる類のものではなく、わりと皆がその魅力を知っている……ということらしかった。

 

 

 

 

 

 

 

お題「部屋に置く観葉植物を教えてください。育てやすくおしゃれなものがいいかなと思っています。」

エッセイ集《一杯のおいしい紅茶》当時のイギリス情勢が生々しく伝わる灰色の味 - ジョージ・オーウェルの本

 

 

 

 作者名と並べてみた時に、これほど受ける印象が変わってしまうタイトルも珍しくないか……!?

 と思って、ちょっと笑いながら読み始めた。イギリス出身の人間が「紅茶」と口にする時は少しばかり身構えざるをえない。一体、何が飛び出してくるのやら、と半ばわくわくしながらも。

 先日読んだジョージ・オーウェルの随筆集。

 なんというか全体的に味のある古さをひしひしと感じるし、それは中身が当時の『イブニング・スタンダード』紙(新聞)などに掲載されていた随筆が多いというのもおそらくあって、なおさら生々しい。灰色の風味がした。おなじみの、作ってから時間が経って冷めたミルクティーの味。

 

 ふと思ったのが、これと同著者の小説「1984年」を並べてみた時にどちらが好みだと思うかは、読者によって真っ二つに割れるだろうということだった。

 もしも選ぶとしたら私は随筆が断然好きで。彼が自分の実体験をもとに撚り合わせた糸で紡いだ『お話』より、新聞や雑誌の仕事で書いていた『思想』そのものの方が、ずっと高濃度で興味深いと感じさせられた。

 同じ事柄を書くのでも、小説にすることで抽出され純度が高まる場合は多くあるけれど、「1984年」はむしろ薄まっているというか、希釈されている感じがする。目安よりも沢山水を加えたカルピスみたい(?)

 例えば「スポーツを利用した『闘争』がある種の憎悪を生む」という言説は、当時の英ソ関係に注目していた彼だからこそ考えられた事柄が含まれていて、フィクションに仮託するよりも史実を綴り具体性を持たせた方がずっと説得力がある。

 でも、今気が付いた。「実際にある事柄を見聞きしたように語れず、大声で批判もできなかった場所」が確かにあったからこその、希釈なのだなと……。これはもちろんイギリス国内に限らず。

 

 あとは1945年、英字紙『トリビューン』に掲載された随筆「暖炉の火」も収録されていて、読むと同じ暖炉好きとしていろいろ感じるところがあった。

 私は暖炉と薪ストーブを愛している。

 

 

 オーウェルが語る暖炉の良さのひとつ、団欒の場を形成する点で他の暖房設備より優れている……という主張にはまあ、確かにそうかもしれないね、と軽く頷く程度に留まるのだけれど。

 ふたつ目の「火の魅力」についてはそうそう! まさにこれ! と同意するばかり。

 マントルピースに囲まれた領域、そこに「本物の火」を灯すことで得られる悦楽はよく分かる。時に薪や炭を足し、部屋を換気し、発生する煤も頻繁に掃除しなければならない煩雑さのなんと楽しいことか。

 

 ちぎった新聞紙を燃やしてみる。

 たまに、理由もなくつついてみる。

 

 そうして、ゆらゆらする本物の火を飽かずに眺める楽しさが、手間と引き換えに得られること。

 他が面倒でもこれなら耐えられると思えてしまう。

 

どんなに貧弱な火だろうと、たとえ顔は煤だらけになり、しじゅう掻きたてていなくてはならない火だろうと、ないよりはましなのだ。

 

(G・オーウェル「一杯のおいしい紅茶」 (2021) 収録『暖炉の火』より 編訳:小野寺健 中公文庫 p.44)

 

 

 

 

それなりに可哀想なヒンドリーと「もういないはずの者」の名を持つ魔物 - エミリー・ブロンテ《嵐が丘》Ⅱ|19世紀イギリスの文学

 

 

 

 

 

 何年も前に書いた「嵐が丘」の感想の一部を読み返した。

 そうしたら全体的に良くない意味でぼんやりしていて(作品のどこに惹かれたのかは一応伝わってくるものの)ちょっとな……と懸念を抱いたのと、やはり折に触れて再読するほど新しい発見がある古典なので、別の視点から感じた事柄もきちんと書き残しておこうと思った。

 ブログで最初に書いた感想はこれ:

 

 

 私は当時から、ヒースとキャシーの激情が大好きだったみたいだ。

 今回は登場人物「ヒンドリー」を出発点にしていろいろ考えてみる。

 

参考書籍:

嵐が丘(著:エミリー・ブロンテ / 訳:鴻巣友季子 / 新潮文庫)

ブロンテ姉妹と15人の男たちの肖像(著:岩上はる子、惣谷美智子 / ミネルヴァ書房)

ブロンテ姉妹の食生活:生涯、作品、社会をもとに(著:宇田和子 / 開文社出版)

 

訪れたヨークシャーの風景

 

 ヒンドリー・アーンショウ。

 キャサリン・アーンショウの兄であり、フランセスと結婚してヘアトン・アーンショウの父となった人物……。

 妻が亡くなってから、すっかり飲んだくれになってしまった暴力男。

 

 実のところ、ヒンドリーに対する自分の感覚にはずっと疑問を抱いていた。普段なら多分、私は「嵐が丘」という作品に描かれた彼の姿を、「かなり同情されるべき存在」として捉えていたと思う。不運で不遇な者、かつ悲劇に巻き込まれた側であると認識して。

 もちろんヒンドリーはいわゆる良い人ではない。全然。

 節度のない賭け事、自暴自棄な生活。最終的にああいう境遇に陥ってしまったのには、彼自身の人格と性質の方にも大いに問題がある。あまり、好感のたぐいを持つことはできそうにない。

 ただ……ヒンドリーの凋落の発端、すべての悲劇の「始まり」は一体どこの何だったのか、を突き詰めていくと、結局は「ヒースクリフという存在の侵入」に辿り着く。月並みな表現を採用すると本当にそのまま、お前さえいなければ、というやつである。

 

そのころにはヒンドリー坊ちゃんも、お父様を味方ではなく圧政者と見るようになってまして、ヒースクリフのことも、父親からの愛情と、息子としての特権を横取りした不逞なやつだというんで、こうした侮辱の数々を思いつめては、恨みつらみをつのらせていたようです。

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.78)

 

 ポケットの中で粉々になった、お土産のヴァイオリンの残骸。

 何の咎もなく、いきなり父親からの愛情をかっさらわれたに近いヒンドリーは、幼少期からけっこう可哀想なのだ。しかも作中で死を迎えた時点で、まだせいぜい27歳かそこら(ネリーと同い年)だと。読み返してみて驚いた。

 どんな風に説明すべきか迷うけれど、ヒンドリーの立場から見た「嵐が丘」の物語は、もはやある種の妖怪譚にも近いものがある。

 父はあるとき拾ってきた孤児(という異物)に心を奪われ、自分への当たりは妙に強くなり、数年もすると母が死んでしまった。謎の子供が家に入り込んだ瞬間から何かがおかしい。得体の知れないあいつは一体誰で、何者なのだろう。

 やがて父が逝き、最愛の妻が逝き、今度は妹も次々に逝き、幾年が経ったのか。気が付けば脳髄まで酒とギャンブルに浸っている……。

 

 ヒンドリーの父、先代のアーンショウ氏に「この孤児を拾って育てよう」とリヴァプールで決意させた要因は、ヒースクリフの何だったのか。

 薄汚れて、英語かどうかも判然としない言葉を発する子供の、境遇か、まなざしか、仕草か。あるいは他のものか。

 ちなみに、そのあたりの不可解さに対して「ヒースクリフがアーンショウ氏の隠し子、私生児説」も時に囁かれることがあるが、あくまでも「そういう可能性が考えられなくもないので面白い」くらいの位置に留まっているらしい。

 

【「嵐が丘」における伝統と個性 - 杉山洋子|関西学院大学リポジトリ】

 

 でもその説を採用したら、また、別の興味深い物語も生まれそう。読んでみたい。

 ……閑話休題。

 

 ともあれヒースクリフは、巧みにアーンショウ家に入り込み、養子としての地位を一度は確立した。初めは彼自身にもその意図がなかったにせよ。

 しかも与えられた名は、「幼くして死んだアーンショウ氏の息子につけられていたもの」なのである! 過去に亡くなった子の名を後から生まれた子に与える、これ自体は比較的よくある話。でも、ヒンドリーが巻き込まれた奇譚、その悲劇的な人生舞台の幕開として考えると、なんとなく不気味な感じがすると私は思う。

 早逝した息子(=長男)の名が拾い子のヒースクリフに与えられることで、疑似的な「家督の乗っ取り」が発生している恐ろしさ。

 この世を去ったはずの「もういない者」が戻ってきた、という図式。

 そして実際、洗礼名を得たヒースクリフはやがて成長した後にも屋敷と土地——ワザリング・ハイツ――を去り、今度は復讐のために「また」戻ってくる。

 この反復。悪夢のような、特定の形式に則ったおとぎ話のような……。

 

 

 

 

 

 件のヒースクリフは、どういうわけか他人を惹きつける。

 

旦那様はふしぎとヒースクリフをかわいがられ、この子の云うことはなんでも信用なさいますし(それをいったら、この子はほんのちょっぴりしか喋らないんですが、おおむね云うことに嘘はありませんでした)、キャシーより、よっぽどお気に召しておいででした。

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.77)

 

 安易にこういう言葉を使っているとは思わないでほしいのだが、アーンショウ家にやって来たヒースクリフという異物は、かなり魔性の(i.e. 性質がヒトよりも「魔」寄りの)存在なのではないかと思わされる部分が多くある。

 参考書籍に挙げた「ブロンテ姉妹と15人の男たちの肖像」の中でも彼の「非人間的な人物造形」に言及されていて、そこで大喜びしてしまった。物語の中で、およそ人間らしい、と他の登場人物や読者に言わしめる要素が少ない。在り方がずいぶん唐突で、きちんとその世界に実在しているのかどうかすら疑わしくもなってくる。

 嵐が丘を離れていた間の行動の不明瞭さも。

 かくいう私も、最初にこの作品を手に取った時には拒絶感(人間同士の尽きぬ罵り合いや、狭すぎる世界へ感じる嫌悪)の方が強く、どちらかというと「ドン引き」するような意識で一部始終を眺めていたはずなのだが……。

 いつの間にか、ヒースクリフという存在にすっかり注視させられていた。実はそれなりに可哀想なヒンドリーよりも。正直、彼にはちょっと申し訳ないと思っている。

 

この土地の人間は概して、よその人たちには気を許さないものなんですよ、ロックウッドさん、まずむこうから打ち解けてこないかぎり。

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.93)

 

 独断で「外」から連れて帰り、かつて死んだ息子の名をつけたヒースクリフに魅入られて、月日が経つとアーンショウ氏は徐々に衰弱していった。

 その病と拾い子との間に、これといった因果関係など別にないのでは……と思えるのは作中の出来事を俯瞰して見られるからであって、当事者のヒンドリーからすればすべての原因はそこにあるとしか思えなかったはず。

 ネリー(エレン・ディーン)はどちらかというとヒンドリーに同情的。なので、作中で語りの大部分を担っている彼女の目を通して見るならば、読者の私もヒースクリフとキャサリンに対して反発する気持ちの方が大きくなりそうだが、最終的にそうはならなかった。むしろ、彼らのことがとても好きになってしまった。

 ある種の魔に魅入られた、というならそうなのだろう。だって、どういうわけか味方をしてあげたくなってしまうのだ。とりわけ身分的、教育的な「格差」がなければ埋められたかもしれない、ヒースクリフとキャサリンの間の溝、引き起こされたすれ違いを思うと一層。

 

そう、あの意地悪なヒンドリーがヒースクリフをあんなに格下げしなければ、エドガーとの結婚なんて考えもするもんですか。
でも、いまヒースクリフと結婚したら、わたし落ちぶれることになるでしょ。

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.168)

 

 父が死んでからヒンドリーがヒースクリフに対して行った仕打ち、いつか必ず復讐してやる、と彼に決意させた行為は、生活の中で教育を受ける機会や、知性を育むことができるであろう場面を徹底的に奪うこと。それにより家族の一員としては扱わず、「ひとつ格下の世界」へと落としてしまうことだった。

 ヒンドリーからしてみれば、そうあるべき世界から異物を排除するための「正当な」行為にすぎない。彼は自分が当然保持するべきだった権利を取り戻したかっただけだ。

 もちろん、ヒースクリフにとってその意味は大きく違う。

 

 アーンショウ氏が存命の間にヒースクリフが受けた、さまざまな待遇の成果を台無しにする重労働。働きづめにさせられて、衰えていく知識欲。

 結果的にだんだんと身なりにも構わなくなり、リントン家に出入りするようになったキャサリンとの差も開いていった彼がかつて、ネリーに「きちんとした格好させてくれよ」と言っていたところなどは切ない。

 格下だと侮られたり、馬鹿にされたりすることへの嫌厭。

 

「あーあ、俺にもあんな金髪と白い肌があったらなあ。あんな服を着て、行儀もよくて、あいつみたいに金持ちの家に生まれついてたらなあ!」

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.117)

 

 ヒースクリフが意図的にそこから弾き出された「教育の系譜」、さらにヘアトンへ向かった復讐の一環の矛先。その象徴として、文中に繰り返し登場する「本」というものの重要性が挙げられるようだった。

 そのあたりは最初に読んでいた時には全然気が付かず、関連書籍に触れて改めて面白いと感じさせられた部分だったので、また次のブログにでもまとめる。

 ……やっぱりヒンドリーってちょっと不遇で、ちょっと可哀想。子供時代の彼らのやり取りを見るに、先代のアーンショウ氏も、皆を本当の意味で平等に愛してあげられていれば……とつい考えてしまうけれど、まあ不毛な想像だった。

 

 

 

 

 

宇田和子《ブロンテ姉妹の食生活:生涯、作品、社会をもとに》プディング、は料理かデザートか?|ほぼ500文字の感想

 

 

 

 1834年11月24日。

 かの「嵐が丘」の著者エミリー・ブロンテは「シャーロットはプディングを完璧に作ったと言っていた」と自身の日誌に書いていた。

 シャーロットというのは彼女の姉で、小説「ジェイン・エア」の著者である。

 

 このイギリス文学に頻繁に登場するプディング(pudding)とは一体何なのか。

 物語の舞台や年代によって、それは肉料理であったり、デザートであったりする。基本的に「蒸した料理の総称」であるプディングはどちらの姿でもあり得る。

 以前、私が現地で食べたヨークシャー・プディングはローストビーフの付け合わせで、まるでふわふわしたパンのようだった様子を思い出せる。

 

 その歴史を見てみると、最初期のプディングの代表例は、動物の胃に肉、牛脂、カラスムギ、調味料などを入れて茹でたもの。

 やがてデンプンをひろく用いるようになってからは、肉や野菜をデンプン粉と混ぜるか、その皮に入れて蒸した……らしい。

 

 さて、シャーロットが作ったプディングの種類。

 エミリーの日記を読み進めると「アップルプディングのためにリンゴをむいた」とある。食卓には他に茹でた牛肉、カブ、ポテトが並んだと書いてあるから、このアップルプディングはデザートだ。

「完璧なプディング」の味、ぜひとも知りたいものである。

 

 

 約500文字

 以下のマストドン(Masodon)に掲載した文章です。