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彷徨する自由帖

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H・C・アンデルセンとヘンリエッテ・ウルフの友情 - 燃え盛る炎にも、逆巻く海にも、隔てられない場所で

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ウルフの一ばん上の令嬢ヘンリエッテが、当時私の詩を理解してくれた唯一の人であった。彼女は快活な天才的少女であった。そして、最後の日まで、時の移りかわりをこえて、姉のように親切なまことの友のひとりとなった。

 

(岩波文庫「アンデルセン自伝 -わが生涯の物語-」(2020) H・C・アンデルセン、大畑末吉訳 p.111)

 

 

 19世紀デンマークに生まれた作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805-1875)

 

 ……もとい、ホー・セー・アナスン。写真に向かって会釈をしつつ、この記事では彼のことをアンデルセン、と呼ばせてもらう。

 14歳の頃、夢を抱いて故郷オーデンセから首都コペンハーゲンへと赴いた彼の生涯が、それからもずっと「旅」と共にあったのはよく知られている事実。作家活動の最初期に自費出版した国内散策記『ホルメンス運河からアマー島東端への徒歩旅行』が評判を呼んだほか、肝臓の病で命を落とすまで、合計29回の外国旅行にも出掛けていた。

 旅することは生きること、と作家は語る。

 数々の経験がアンデルセンの人格形成、また作品の内容にも大いに反映されていたのが、その小説、童話、随筆に触れていると如実に伝わってくる。

 

 

 

 彼の旅行鞄には太く長い「ロープ」が入れられていたのも有名な話だ。

 ロープ自体は色々な用途に使えるものだが、特にアンデルセンの場合、よく言及されるのは「火災時の脱出道具」……として。

 宿泊している建物のどこかで火の手が上がった際、窓からロープを伝って階下に逃げるためだという。気持ちは分かる。けれど、これほどかさばる縄をよく持ち歩いていたものである。

 他にも、突然の雨に備えて黒いこうもり傘を手放さなかったこと然り、生きたまま埋葬されるのを恐れて就寝中の枕元に置いていたメモ(『私は死んでいるように見えるだけです』と書かれている!)」然り、常にもしもの事態に備えようとしていたアンデルセンの、ちょっと脅迫的な心配性が数々の品物からは伺える。

 

 あるとき図書館でその軌跡を辿っていて、彼がかねてより抱いていた「火災への恐怖」を幾重にも増幅させたばかりか、強烈な「長い船旅への恐怖」までもを植え付けたとても悲しい出来事が、1858年に起こっていたのだと知ることになる。

 36年の長きに渡り強固な絆を育んできた、大切な友人の事故死。

 彼女の名をヘンリエッテ・ウルフ(Henriette Wulff, 1804-58)という。

 家族や友人など、親しい人間からはジェッテ(Jette)の愛称でも呼ばれていた。

 

 1858年9月13日……ヨーロッパからアメリカ大陸・ニューヨークへと渡る途中の蒸気船〈オーストリア〉が、その燻蒸装置が原因なのか大西洋上で炎上し、火はデッキにまで燃え広がる。鎮火はできず、最終的には船全体が、乗客もろとも海の底に沈没した。このような事故があった。

 実は、そこにヘンリエッテが乗っていた。

 全乗客のうち、辛くも生き残った数十人の中に彼女は含まれておらず、二度と祖国の土もアメリカの土も踏むことはなかった……。彼女の棺は海となる。

 この出来事にアンデルセンはたいへんな衝撃を受け、それまで地図を見ながらコツコツと練っていたアメリカ旅行の構想を、すべて取りやめる。多くの人から誘いを受けており、自身でも多大な興味を持っていたにもかかわらず。

 事故の悪夢だけでなく、もともと船酔いの傾向があったのも影響してか、健康を考慮し、もう50代半ばに差し掛かった作家が船で大西洋を越える計画はついに実行されるに至らなかった。

 そう、アンデルセンはアメリカに行かなかった。

 

 事故と同年の10月、アンデルセンは亡きヘンリエッテに追悼詩を捧げた。

 そこに込められた思いに、また表現の壮絶さに、私は驚く。

 同時に胸を打たれた。ああ、なんとも彼らしいトーンだ……と思って。

 

追悼詩の全文(リンク先):

 

【Mindedigt over Henriette Wulff(一部抜粋)】

 

I det brændende Skib paa det rullende Hav,

I Rædsler, som ei vi udholde at høre,

Har Du lidt, har Du endt, har Du fundet din Grav,

Dødsmaaden og Kampen naae aldrig vort Øre!

 

抜粋の日本語訳

 

逆巻く海の上 燃え盛る船の中

聞くに堪えない恐怖の叫びに包まれ

あなたは苦しみ 事切れ

墓となる場所を見つけた

その死の間際の闘いは

ついぞ 我々の耳に届くことはなかった!

 

 デンマークで海軍大将の娘に生まれたヘンリエッテは、両親の死後、アメリカ大陸で残りの人生を送ることを切望していた。黄熱のため、かつて命を落とした彼女の弟も埋葬されている土地で。

 そうして蒸気船に乗ったわけだが、結果、こうして悲しい運命に見舞われてしまう。

 出発の直前、アンデルセン宛てに書かれた「最後の手紙」が以下で読める。

 9月1日にハンブルクから出発する船に乗る予定だ、と記載されている。

 

 

 彼ら自身が表現していたように、まるで「魂の姉弟」であったともいえるこの大切な庇護者であり友人を失い、アンデルセンがどれほど嘆いたかは想像に難くない。

 日記にもその深い悲しみは記されていた。おそらくは同時に、炎で焼け死ぬことや、大量の水で溺れ死ぬことへの恐れも、決定的にその心に刻み込まれたのだろう。気が付くと事故のことを考えてしまう彼の苦しみが文面からは伝わってくる。

 私はふと、彼が手掛けた中に、船が沈没する場面の出てくる物語があったのを思い出した。

「アンネ・リスベット」。

 

 

 この物語が書かれたのは1859年。すなわち、ヘンリエッテが亡くなった次の年。

 お話の内容自体はアンデルセン自身の母(アンネ・マリー)とその私生児、彼にとって異父姉であったカーレンの存在を彷彿とさせるものだが、死んだ子供の乗っていた船が沈む描写には、確かにヘンリエッテの事故を受けて想像した世界が反映されていると感じる。

 逆巻く海。水底を棺とした人々。

 

船は、海の底にある大きな岩に、ぶつかったのです。そして、村の沼にしずんでいる、古靴みたいに、海の底にしずんでしまいました。

(中略)

船のしずんでいくありさまを見ていたのは、ただ、鳴きさけぶカモメと、水の中の、さかなたちだけでした。けれども、そのカモメやさかなたちも、ほんとうは、よくは見ていなかったのです。なぜって、みんなは、水がどっと、船の中に流れこんで、船がしずんだとき、びっくりして、わきへ逃げてしまったのですから。

 

 

 

 とりわけ対女性関係だと、どうしても「失恋を繰り返していた」側面が取り沙汰されるアンデルセン。確かに数ある事実のひとつではある。恋してはみたものの思い届かず、結果的に「友人」にとどまったリボアやルーイサ(ルイーザ)、リンドへの感情は、特に創作物にも顕著な影響を及ぼした。

 でも、彼の周囲を取り巻いていたのはそれだけではない。

 恋愛感情を向けた女性たちや、同性の友人たちとだけではなく、支援者の娘だったヘンリエッテ・ウルフとの間に築いたような種類の異性関係も確かにあったのだ。

 もちろん本人達が実際のところ、互いをどう思っていたのか……初めから作家とパトロンとして、あるいは文化的な感覚を共有できる仲間として関係を育んでいたのか、それとも時には何か違った感情を抱いていたのかどうかは定かではない。研究者の間でも見解は分かれているし、別にどちらでも良いような気がする。

 

彼女は私の新しい詩にあらわれた諧謔を理解し、私を元気づけてくれた。私は彼女に全幅の信頼をよせ、私が彼女の仲間でしばしばちょっとした攻撃、とくに、人身攻撃にさらされると、断乎として私を守ってくれた。

 

(岩波文庫「アンデルセン自伝 わが生涯の物語」(2020) H・C・アンデルセン、大畑末吉訳 p.111)

 

 とにかく、アンデルセンとヘンリエッテ・ウルフの精神的な距離はとても近かった。

 赤の他人の目からすると、例えば手紙の上で交わされていた互いに忌憚のない物言いが、率直すぎて厳しく思えてしまうほどには。アンデルセンが名誉を誇示しようとして、ヘンリエッテが窘める場面もあれば、酷評される作品と作者の前に彼女が立ち、味方として庇ってくれた場面もある。

 時には心の深い場所にある不安も吐露できた。

 

ハンスの詩が載った「フリューネ・ポスト誌」が出た晩のことです。ハンスはウルフ家にいました。ウルフ* がポスト誌を手に持って部屋へはいってきました。「これにはすばらしい詩がふたつ載っているよ。H――とあるからハイベルの作にちがいない」といって、朗読しました。日ごろ親しい話し相手になっているヘンリエッテ・ウルフがすかさず、「それを書いたのは、アンデルセンよ」といいました。彼女だけがハンスの秘密を知っていたのでした。

 

* ヘンリエッテの父

 

(Kindle版 角川文庫「絵のない絵本」H・C・アンデルセン、川崎芳隆訳 Kindle の位置No.1712-1716) 

 

 ちなみにヘンリエッテ・ウルフは、しばしば「親指姫」の着想元になったのではないかと囁かれるほど小柄な人物で、さらには背骨に抱えた問題のせいでかなり猫背だったらしい。

 虚弱な体質は彼女が家の外で活発に動くのを阻んだが、旅を好んだヘンリエッテの性格は明るく、意志も強かった。

 同じように身体、容姿へのコンプレックス(細身で身長が高すぎる、等)を感じていたアンデルセンとはその点でも通じるものがあったのかもしれないし、手紙などの文書として残されていない部分に関しては、ただ想像をたくましくするしかない。

 

 私は今回、色々な書籍を手に取り彼らの友情について知った後で、ウェブ上にはそれを示す日本語のページがあまりにも少ないことに気が付いた。かなり驚いたし、勿体ないと思った。なので個人的に調べたことをこうしてブログに残しておく。

 親友の事故死に衝撃を受け、長い船旅を恐れたアンデルセン自身は大西洋を越えられなかったが、その作品は土地も海も時代も超越して現代の読者まで届けられている。

 

※Henriette Wulffのカタカナ表記に関しては他に「ヘンリエッテ・ヴルフ」や「ヘンリエテ・ヴルフ」等もあったが、当記事では岩波文庫「アンデルセン自伝 -わが生涯の物語-」の大畑末吉訳に準拠した。

 

参考サイト・書籍: