先週の話。
9月の京都文フリで出る合同誌へ寄稿する文章、その提出期限がジリジリ迫っていて、しかしこれは確実に終わるだろう……と目途は立った。ような、気がした。気がしたから退勤後に、最寄り駅から少し離れた洋菓子店へと足を延ばした。珍しくケーキが食べたかったので。
すると店は臨時休業していた。
残念だけれどケーキは食べられなかった。
魂の半分抜けた目で張り紙を読んでいると、雨水が沁みたのか、靴下が妙に冷たく感じられた気がする。
部屋の奥から出てきた「高校生物」の教科書に、胚の原基分布図が載っていた。
歪んだ球体にしか見えない胚だが、部位ごとにどこがどの器官として分化するかが決まっていて、そのため「予定運命図」ともいう。授業の記憶を掘り返し、嗚呼なんて仰々しい名称なのだろう、と目を剥いた。
予定、運命!
私は無念のケーキを思い出す。
ケーキ、の言葉を頭に浮かべた時点で、果たしてそれがショートケーキなのかフルーツタルトなのかモンブランなのか、全く想定していなかった。ケーキの具体的な運命が決定されるのは、注文の瞬間である。
この未確定なケーキは抽象的な形のまま、私によってその店で食べられるまで、未練という衣を纏って胸の端に居座り続ける。
思い出すのは江國香織の言葉。
ケーキ、という言葉の喚起する、甘くささやかな幸福のイメージ。大切なのはそれであって、それは、具体的な一個のケーキとは、いっそ無関係といっていい。
(集英社文庫「とるにたらないものもの」(2006) 江國香織 p.68)
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引用部分を除いて約500文字
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