明治時代に建てられた監獄の敷地内に、茱萸(グミ)の実が落っこちていた。
もちろん忽然と出現したわけではなく、歩いていた通路近くの茂みにはその「元」となる樹が生えていたので、その枝から地面に落下してきたものなのだろう。
茱萸は5月から梅雨どきの6月頃にかけてが旬だとされているらしい。当時、私が7月初頭に滞在していたこの地方は、亜寒帯に属する場所。日本列島の配置は縦に長い。それゆえ、国内の他の場所より結実の全盛期は後ろ倒しになっていたのかもしれないと想像する。
鮮烈な色は浮くことなく、夏という時候にあまりにもよく溶け込んでいた。
実の、どきどきするほど張り詰めたうすい皮は光を透かして、同じように半透明の果肉を輝かせ、磨いた宝石そっくりの姿を見せている。ぷるぷる、つやつや。茎の先についたままの葉も、そういうアクセサリーのデザインのように思えてくる。
これを例えば耳などに吊り下げた、美しい妖精を見てみたい。多分そのあたりの森に普通に住んでいる。探して見つかるかどうかは分からない。
この手の美味しそうな果実、路上に生えているものを目にすると思い出されるのは、小学校の頃の記憶だった。
校庭の脇には桑(クワ)の樹があり、時期になると実をつけた。私達児童は学校にいる間、わりとおやつに飢えていて、ときどきその樹から実をもぎ取り、洗っては食べていた。田畑や森の多い地域にある田舎の学校。そこである年、種類は忘れたが、小型の蛾の毛虫が大量発生してしまい、殺虫剤を散布する運びとなったのだ。
結果どうなったのかというと、小学校内に植えられた樹木には薬品の影響を鑑みて、児童はそばに近づけなくなり、必然的にクワの実を食べる機会もなくなったのであった。
毛虫の被害に遭わずに済んだのが何より良かったけれど、すっかり夢幻と化した「小学校の桑の実」の味も忘れることができない。お菓子が持ち込めない小学校の敷地内で、空腹を軽減してくれる貴重な品だった。
もうお目にかかることができない幻の実……といえば、ここ数年間で読んだ本の中だと、必ず石井桃子「幻の朱い実」を胸に想起することになる。明子と蕗子、ふたりの人間と、交流のきっかけとなった烏瓜(からすうり)の実。そのうす緑の蔦が、檜葉の樹と門のところに絡まった小さな家。
ここであらすじをつらつら紹介する意味はなく、故にただ、印象に深く刻まれている台詞を引用するにとどめる。
「葉子、大津さんの烏瓜ね、この千倍も、万倍も美しかった! 千倍も万倍も! こんなもんじゃないのよ。あなたに見せたかった、そういうものも、この世にあるんだって!」
(石井桃子「幻の朱い実 下 (1994)」岩波現代文庫 p.399)
そういうものも、この世にあるんだって。
たとえ社会、世間、周囲がどれほど「そんなものはない」と看過したとしても、「あるものはある」と表現するしかないものは確かに存在しているのだと、彼女の言葉は自分の切実な気持ちまでもを拾い上げてくれたような気がする。
そして、石井桃子氏は「それ」を身をもって知っているのだと思うと、慰められた。見たことがない人は無いと言うだろう。けれど、それに出会ったことがある人は、在ると言える。言わずとも思う。
心のうちに結実した烏瓜は月日が経っても決して枯れず、色褪せることもない。そのような点においてのみ、これが現実離れした幻だ、と形容されるのも悪くはないような、否、やはり現実なのだと毅然として主張したいような、相反する欲求。感じた状態で筆を置く。
興味を惹かれた人は読んでみてほしい。