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文明と「非人情」とつやつやの羊羹 - 夏目漱石《草枕》日本の近代文学

 

 

 

 Adobe Illustratorというソフトがある。

 バージョン(おそらくCC 2017以降のもの)によっては、ワークスペース上でテキストボックスを作成する際、サンプル文章が自動挿入される機能がついており、実はそれに使われているのが夏目漱石の小説「草枕」だった。

 

 この作品の冒頭は至るところで引用されているため、よく目に付く。

 

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.6)

 

 そう、上の箇所は特に。

 

 確かに印象的で共感を呼ぶことには同意するし、実際上の引用を含めた「草枕」最初の(一)の区切り(「非人情がちと強すぎたようだ。」まで)は結構きれいに独立させられるというか、作品の根幹にある要素が凝縮されてはいる。

 ……が、せっかく「草枕」が全体を通して大変にキレッキレで面白い文章の集積である事実を考えると、冒頭だけが切り取られて流布し、肝心の内容が知られていないのはかなり惜しい。

 私がより好きなのは別の部分なので、なおさらそのように思うのかもしれない。

 

「草枕」が素晴らしいのは、とりわけ最後。

 主人公の画工(えかき)が、あくまでも「非人情」の視点から、一定の距離を保ち観察しようと努めていた(にもかかわらず、結局かなり翻弄されてしまった)対象の女性に対して、まるで「意趣返し」のようにある台詞を言い放つところ。

 漱石の他作品に登場する美禰子、藤尾、そしてお延といった魅力的な人物像に並ぶ特徴を持っているのが、この「草枕」における志保田の娘、お那美さんなのだ。

 

 パブリックドメインの作品です。

草枕 - 夏目漱石(青空文庫)

 

目次:

 

読んで楽しい「草枕」

  • 概要(仮)

 そもそも「草枕」に「筋書き」は存在するだろうか?

 漱石先生に尋ねれば、もしかしたら否、と返されるかもしれない。

 この作品は著者本人が「『俳句的小説』である」と述べているように、いわゆる「何か一つの出来事にまつわる起承転結や、順序だった展開」というものはない。

 

余が嬉しいと感ずる心裏の状況には時間はあるかも知れないが、時間の流れに沿うて、逓次に展開すべき出来事の内容がない。一が去り、二が来り、二が消えて三が生まるるがために嬉しいのではない。初から窈然として同所に把住する趣で嬉しいのである。

(中略)

このムードは時間の制限を受けて、順次に進捗する出来事の助けを藉らずとも、単純に空間的なる絵画上の要件を充たしさえすれば、言語をもって描き得るものと思う。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.72-73)

 

 反対に一般的な小説とは何か、に関する漱石自身の基本姿勢を知りたければ、別の作品「坑夫」への言及が参考になるかもしれない。それか、短編「一夜」の最後の段落なども。

 筋書きのようなものがない……となれば、ここで私が勝手に「あらすじ」という言葉を使ってしまうと厳密には不適当な気がした。だって文字通りに筋はないのだから。物語というより一幅の絵であり、一篇の詩でもある、既に存在し展開されているものをいかに写すかの点に注力されている、著者が言うところの俳句的小説。

 でも、主人公は具体的に何かを成したり事件に巻き込まれたりすることこそないけれど、きちんと生きて周囲の事物を見、聞いて、感じている。出掛ければ人に会うし、話すし、また風景も眺めてそれに対する所感を述べる。確かに「展開」の動きはないが、人物も自然もごく普通に動いている。

 ここは「あらすじ」ではなく「概要(仮)」とさせてもらい、表面のみをなぞって、おおまかに作品を説明した気分にさせてもらおう。漱石先生……すみませんが、よろしくお願いします。

 

   ❀    ❀    ❀

 

 画工の主人公は、那古井(なこい)の温泉地にしばらく逗留するつもりで山を越えて来た。

 ちなみに那古井のモデルは熊本県にある小天温泉だと言われており、地名としては架空のものだが、作品にちなんだ「那古井館」という老舗旅館(明治元年創業)が小天に存在する。

 そして「草枕」作中で主人公が赴いた志保田という宿屋の描写、こちらは同じ小天温泉で漱石自身も宿泊した、前田家(前田案山子)別邸のつくりと一致するようだった。半地下に掘り込んで設けられた浴場は、当時には珍しくセメント造りであったようで、建物としても見どころがある。見学したい……閑話休題。

 

「また寝ていらっしゃるか、昨夕は御迷惑で御座んしたろう。何返も御邪魔をして、ほほほほ」と笑う。臆した景色も、隠す景色も――恥ずる景色は無論ない。ただこちらが先を越されたのみである。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.48)

 

 温泉地で画工は、ひとりの謎めいた女性に出会う。それが志保田の娘・那美だった。

 彼女はかつて2人の男から妻にと望まれ、結局は親が決めた城下の物持ちの方へと嫁に行ったものの、折悪しく結婚相手の勤めていた銀行が潰れてしまったらしい。それで出戻りを果たしたわけなのだが、周囲からはそれが薄情だと言われたり、あるいは奇矯な言動のために「気狂い」などと陰口を叩かれる場面もあったよう。

 主人公はこのあたりの詳しい事情にあえて突っ込もうとせず、できるだけ温泉地滞在中に触れるものを他人事と捉え、後述する「非人情」の目で観察しようとしている。ゆえに読者にも限られた情報しか開示されないのが、むしろ味になっているのだった。

 

 さて、深入りはしないと意気込んではいるものの、画工の余はお那美さんに情緒を揺さぶられてばかり。

 夜に歌っている声を聞いたり、作った俳句のノートを広げて置いておいたら脇に新しく句を追加されたり……果ては無為に絢爛な振袖を着て、刃物を持ち、宿の廊下を芝居のようにスルスル歩いているのを目撃したりと、枚挙にいとまがない。

 臆することを知らず、打てば響く会話のできる回転の速い頭で、常人ならばしないようなことを易々とやってのける気風がお那美さんにはあった。極めつけに「私が身を投げて川に浮いているところ(その安らかな死に顔)を絵にしてみて下さいな」と画工に告げ、びっくりしている顔を見て、彼女はたいそう喜ぶ……。

 

憐れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である。

御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟の衝動で、この情があの女の眉宇にひらめいた瞬時に、わが画は成就するであろう。しかし――いつそれが見られるか解らない。

あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微笑と、勝とう、勝とうと焦る八の字のみである。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.112)

 

 ある日、主人公は寺の裏道から行ける「鏡が池」へ赴いた。紅椿の落ちる凄艶な水面を目にして、例えば美しいお那美さんをモデルにした人物を(ミレイの「オフィーリア」さながら)ここへ描き込んだら、さぞ面白い絵が描けるだろうと空想する。

 だが、どんな表情をさせたらよいのかが問題だ。

 嫉妬でも、怒りでも、恨みでもない。最もふさわしそうな「憐憫」の感情は一体いつ、どこでなら彼女の顔に浮かぶのか?

 その疑問が最後に氷解する。

 

   ❀    ❀    ❀

 

「草枕」の後半、那美の従兄弟・久一という青年が徴兵されたのを見送るため、山を越えるより楽な川船で鉄道駅(停車場・ステーション)まで足を延ばした一行。

 駅名が吉田とされているが、これも那古井と同じく架空の名前で、もしかしたら上熊本駅の前身であった「池田駅」あたりが想定されていたのかもしれない。なら、川というのは井芹川だろうか。そんな気がするが真相は不明。

 そこでとある人物(風貌から「野武士」と描写される。実はお那美さんの元夫)が発車間際の汽車から顔を出し、彼女と目を合わせた。どういうわけか久一と同じ便で那古井を去るところだったのだ。瞬間、初めて那美は「憐れ」を面に出し、結果として画工の心には明らかに「意趣返し」の気持ちが浮かんだと思う。

 そういう色が台詞に乗っている。

 あれほど自分を意のままに翻弄してきた勝気な女性が、平たく言えば相手を負かすのではなく、ある意味では反対に何かを挫かれた時の表情をようやく目の当たりにすることができたのだから、当然かもしれない。

 

「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.154)

 

 画工として、最後に非人情な立場(つまり、相手をあくまでも「描写する対象」として観察できる心境)を取り戻せた主人公の顔に浮かんでいたのは、おそらくかつて彼女が見せたのと同じような、「ああ、わたしの勝ちですね」……という表情であったに違いない。

 さぞ悔しかったことだろう。ずっと、相手の方が明らかに精神的優位に立っていた状況は。

 

 コミュニケーションにおける優劣と勝敗の関係は、この「草枕」では少々コミカルに描かれているが、後の「明暗」に至ってより深刻かつ根本的な問いの喚起へと繋げられる。

 そちらも気になれば読んでみてほしい。

 

 

 

 

  • 非人情の視点とは

「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」

「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.100)

 

 これまで何度も登場した言葉「非人情」は「草枕」の主題であるとも言ってよい要素だが、具体的にそれはどういったもので、また、どんな状態を指しているのだろうか。

 留意してもらいたいのは、これと「不人情」というのは全く別の意味を持つ言葉である点。例えば何かに対して「人情味がない」と表現するとき、それが指すのはおそらく不人情寄りのもので、どちらかというと「情に欠けた、思いやりのないさま」を形容しているはず。

 だが「非人情」はそうではない。

 もはや現実にある人間の感情や事情、それらの一切を介在させず考慮もせずに物事を観察するとき、その境地に至れる。作中の文章を引くならまず冒頭のこのあたりか。

 

こう山の中へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。

(中略)

しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.10-11)

 

 そして、以下のように続く。

 

これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。

それすら、普通の芝居や小説では人情を免れぬ。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.11)

 

 要するに、周囲で起こることや出会うものをことごとく他人事として捉え、一枚の膜を隔てて、直接関係のないものとして世界を見ること。

 その膜の向こうに何が展開していようと自分には影響を及ぼさない、額縁の中の世界を覗くように、あるいは観客として舞台の演目などを鑑賞するように、常に第三者として接する状態。

 では同化(感情移入)は……というと、これもしない。少なくともしないように努める。仮にキャンバス上でどんな人間模様が繰り広げられていようと、人間の情緒・精神をいたずらに活動させるようなものとは、徹底的に距離をとるのが非人情のやり方である。

 自分のことのように受け止めてしまったら、物事を単純に楽しめなくなるからだ。

 

苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。

余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.11-22)

 

 当記事の概要(仮)で言及したように、温泉地逗留中はとにかく非人情を徹底し「安全地帯にいよう」と試みる主人公の前に立ちはだかった存在が、まさにお那美さんなのであった。

 だからこそ、最後の台詞にあの感情が乗せられるのである。

 そして読み手の私は那美のような登場人物が大好きなのだった。

 

  • 心躍る描写

 筋書きに重きが置かれないというのなら、なおさら注目したいのが作品に登場する各要素、人や物、それらを描写する言葉の面白さ。

 しっとりとした「文鳥」の感触とはまた異なる趣がある、漱石の巧みな(時に笑える)筆致を味わおう。

 

文明の申し子たち

1. カメラ

 

ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁(ぎょうきこんだく)の俗界を清くうららかに収め得れば足る。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.6-7)

 

 文芸雑誌「新小説」に「草枕」が発表されたのは、明治39(1906)年9月のこと。

 となると文中にカメラという道具が登場するのは必然的ではあるのだが、下に引用した「心のカメラ」などの言い回しは、所によっては現代でも通用するように思えるから興味深い。

 実際、過去に私も使ったことがある気がする。心のカメラに収めた、とかなんとか……。

 

余の席からは婆さんの顔がほとんど真むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.18)

 

 本棚にあった「世界写真史(美術出版社)」のページをめくってみた。

 1960~70年代に日本を訪れ、幕末・維新期の風景や文化風俗を撮影した人物にフェリーチェ・ベアトがいる。それの影響を受けて、日本の写真家も外国人向けの「横浜写真」を作るなど、当初は主に外国人向けの観光産業として発展していたらしい。

 そして文久2(1862)年、下岡蓮杖が横浜で、また上野彦馬が長崎で、初めて写真の営業スタジオを開始。英単語"photography"の訳語として「写真」が定着したのもこの頃だったというから、そこから数十年を経る中で、徐々にカメラという語も一般に使われるようになったのだろう。

 草枕に登場する表現「心のカメラ」はその延長線上にある。

 

2. 懐中時計(袂時計)

 

括り枕のしたから、袂時計を出して見ると、一時十分過ぎである。再び枕の下へ押し込んで考え出した。よもや化物ではあるまい。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.32)

 

 懐中時計は他の作品、例えば「虞美人草」などでも「恩賜の銀時計」が印象的なアイテムとして使われたのに加えて、漱石本人にとっても身近なものだったに違いない。どこへ行くのにも持ち歩いていた様子が、随筆などから伺える。

 近代日本で定時法に基づいた西洋時計が普及したきっかけは、まず明治5(1872)年の改暦を受けてその実用化が促進されたのがひとつと、重ねて明治19(1886)年に発せられた「本初子午線の勅令」が決定的だった。

 非人情を追求しに幽玄の雰囲気漂う那古井の温泉へ来たのに、結局は、近代的時間秩序に紐づけられた懐中時計を持参しないと不都合な主人公の姿は興味深い。

 まあ私達もそうだろう。癒しを求めて赴いた遠出の目的地であっても、そこで一度も時計を見ない状況……というのは、もはや考えられない。

 

何にしてもなかなか寝られない。枕の下にある時計までがちくちく口をきく。
今まで懐中時計の音の気になった事はないが、今夜に限って、さあ考えろ、さあ考えろと催促するごとく、寝るな寝るなと忠告するごとく口をきく。怪しからん。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.32)

 

3. 汽車

 

 上のふたつに続いて、作品の最後に登場する点でもかなり象徴的なのが汽車の存在。

 温泉逗留中、時折耳に入る戦争の話題を除いて、那古井と外界を結び付けるものは決して多くなかった。それがここに来て「鉄道」という、文字通りにソトと地続きになった停車場の前に、主人公一行は立つ。

 ちなみに日本で営業用鉄道が開業したのは明治5(1872)年(上の「懐中時計」で述べた改暦の年と一緒!)で、それが新橋停車場(後に汐留駅と改称する)と横浜駅を結ぶ区間だった。

 

いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。

汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまって、そうして、同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.150)

 

 もしも「草枕」に登場する「吉田の停車場」のモデルが池田停車場なら、ここは明治24(1891)年に設置されたものになるはずだ。前述したように、現在は「上熊本駅」になっている。

 牧村健一郎「漱石と鉄道(朝日選書)」でも語られていたことだが、漱石は鉄道、ひいては文明の生み出した道具とその性質を、ある意味では憎みながらも愛していた節がある。ごく個人的にそういうところがアンデルセンとの共通点だと思っている……。

 汽車の車両に乗り込む人と、ホームに留まる人とを繋ぐ何かしらの糸が、ひとたび車輪が回れば切れてしまう感覚。ましてや久一がこれから往くのは遠い戦場だという。果たして、生きて帰って来られるのかどうかも分からない。

 

人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。

人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。

汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.150-151)

 

 

 

猛烈なる髪結床

 作中で主人公が髪結床(かみゆいどこ)に赴き、髭を剃ってもらう場面があるのだが、どうも親方が酒を飲んでいたらしいのに加えて手つきも乱暴だったらしく(刃物を使う職業なのに恐ろしい……)施術を受けている彼は心の中でブツクサと文句を言う。

 面白いのはその文句のバリエーションで、単純に一言で「へたくそ」だと片付けてしまうことをせず、持てる語彙を駆使して心境と状況を述べるのだった。「どうです、好い心持でしょう」と親方に問われて「非常な辣腕(らつわん)だ」と返す台詞なども抱腹絶倒である。

 もう初めの部分からして面白い。

 

彼は髪剃を揮うに当って、毫も文明の法則を解しておらん。

頬にあたる時はがりりと音がした。揉み上あげの所ではぞきりと動脈が鳴った。顋のあたりに利刃がひらめく時分にはごりごり、ごりごりと霜柱を踏みつけるような怪しい声が出た。しかも本人は日本一の手腕を有する親方をもって自任している。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.56)

 

 ちなみに髪結床……転じて「床屋」といえば、現代では「〇〇屋」という語が放送禁止、あるいは差別用語として扱われる場合があるのをご存じだろうか。私は学生時代に知って、未だに腑に落ちていない。

 何といっても祖母の職業が「床屋」で、この呼称自体身近でよく使われていたものだから、尚更そう思うのかもしれない。

 

 

 上のページを読んでみると、これがたびたび議論されてきた問題であるのが分かる。閑話休題。

 床屋だった私の祖母も散髪をはじめ、「草枕」で描かれた髪結床のようにお客さんの髭を剃る場面もきっとあった。できればその手際が敏腕なもので、こんな風に「猛烈な」やり方は決して採用していなかったであろう、と信じたい。

 

親方は垢の溜まった十本の爪を、遠慮なく、余が頭蓋骨の上に並べて、断わりもなく、前後に猛烈なる運動を開始した。

(中略)

余が頭に何十万本の髪の毛が生えているか知らんが、ありとある毛がことごとく根こぎにされて、残る地面がべた一面に蚯蚓腫にふくれ上った上、余勢が地磐を通して、骨から脳味噌まで震盪を感じたくらい烈しく、親方は余の頭を掻き廻わした。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.59)

 

つやつやの羊羹

 漱石は甘いものが好きだった。

「大」がつくほどに好きだった。

 羊羹(ようかん)もそのうちのひとつで、あるとき鏡子さん(漱石の妻)が胃病にはよくないから……といつもの棚ではなく、別の場所に羊羹を隠しておいたところ、執念深く探し続けたという証言が残っている。最終的には娘に頼んで隠し場所を教えてもらったらしいから、相当だ。

 

菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。

余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。

ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉と蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.48)

 

 そんな彼が「草枕」で描写する羊羹には魅力が詰まっている。

 主人公の画工は漱石本人ではないので、引用だと「別段食いたくはない」と言っているが、実際にはこの箇所を書きながらお腹が空いていたのではなかろうか。もしかしたら、本当に食べながらペンを走らせていたかもしれない。情景ははっきりと思い浮かべられる。

 この場面以外にも、後にお寺でのお茶に呼ばれて骨董が披露された際、画工は凝った意匠の硯を前にして羊羹と石の質感を重ねたのだった。

 

形容して見ると紫色の蒸羊羹の奥に、隠元豆を、透いて見えるほどの深さに嵌め込んだようなものである。眼と云えば一個二個でも大変に珍重される。九個と云ったら、ほとんど類はあるまい。

しかもその九個が整然と同距離に按排されて、あたかも人造のねりものと見違えらるるに至ってはもとより天下の逸品をもって許さざるを得ない。

 

(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.94)

 

 うん、綺麗だし、硯なのにとても美味しそう……。

 

   ❀    ❀    ❀

 

 パブリックドメイン作品なので、以下のリンクから全文が読めます。

草枕 - 夏目漱石|青空文庫

 紙の書籍はこちら:

 

 

ダイアナ・ウィン・ジョーンズ《牢の中の貴婦人》私達も格子の内側から世界を見ている|ほぼ500文字の感想

 

 

 

 

 突然、ここではない別の世界、いわゆる異世界に迷い込む。

 

 そこでは誰も自分を知らず、特に誰かから呼び出されたわけでもない身の上は、周囲の何にとっても些細な存在として扱われる。何かの「役割」もなければ、特殊な「能力」もない。

 近現代(と想定される)イギリスから、言葉も文化も奇妙に異なる国へ入り込んでしまったエミリーは、不運にも「貴族の女性の身代わり」にされ収監されてしまうのだった。

 彼女は囚人となり、獄中で与えられたペンを使い、様々な事柄を紙に書き綴る……。

 

 ダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説「牢の中の貴婦人 (The True State of Affairs)」はかなり面白かった。事前に後味が悪いとか、不完全燃焼だとかいう評判を耳にしてから臨んだけれど、別にそんなことはなく、独立した物語として楽しんで読めた。

 私達の目に見えるものや、周囲に展開している光景の裏側、事情、また去来する人々の内実。

 これらの全てを自分の感覚だけで把握し、捉えることは不可能だ。

 でも知覚できる要素の他に判断材料が与えられない以上、エミリーはそれに基づき「予想」をするしかない。

 

考えれば考えるほど、わたしはただ、あの人の牢獄の近くにいて、ほかにはけ口のない感情をそそぎこむ対象にすぎなかった、ということがありありと見えてくるからだ。

いつでもそういうものなんだろうか。

それ以上深く人を知ることは、誰にもできないんだろうか。神々にしかわからないことだ。

 

(D・W・ジョーンズ「牢の中の貴婦人」訳:原島文世 (2008) 創元推理文庫 p.226)

 

 牢の鉄格子越しに世界を観測する彼女の姿は、実のところ人間の普遍的な状態をも表している。私達だってみな、自分という檻の中から、必死に外側の情報をかき集めて生きているようなものだと思わされる。

 結局、真実とは一体何なのかも、誰かの心に秘められた本音も、手にとってじっくり矯めつ眇めつする……というわけにはいかないのだ。

 

 

 引用部分を除いて約500文字

 以下のマストドン(Masodon)に掲載した文章です。

 

 

 

 

夢野久作《鉄鎚》など彼の作品に「電話」が与えた影響と魅力と - 門司電気通信レトロ館(旧逓信省の建物)|日本の近代文学

 

 

……リンリン、リリリン……リンリン、リリリン……リンリン、リリリリリリリリ……

そんな風に繰り返して断続するベルの音を、青年は何となく緊張した態度で見守っていた。そのベルの継続のし方が、ちょうど鉄道か警察の呼出信号に似ていたからであったろう。

 

(角川文庫 短編集「少女地獄」(2012) より「女坑主」夢野久作 p.248)

 

参考:

田畑暁生「メディア・シンドロームと夢野久作の世界 」NTT出版

門司電気通信レトロ館|NTT西日本

 

 

 

 市内一通話、一圓。

 

 

 こういった自働電話で料金が「紙幣でも差支えありません」と書いてあるのは初めて見た。

 明治の頃、多くは10銭や5銭の硬貨が投入口に落ちる音の高低を交換手が聞き分け、相手に繋ぐ手順があったのだが、後の時代になって登場したお札も投入できるタイプの場合はかなり判別が困難だったはず。

 実際、昭和15年に「新硬貨」が登場した際も混乱があった。従来の硬貨と重さが違うので、音が変わってしまうために。

 タヌキやキツネが葉っぱを入れても分からなかったのではないだろうか。

 

 電話という道具、通信の手段は、100年前に比べれば随分と身近になった。電波の届く場所でならほとんど、いつでも誰とでも会話できる便利な状況が、むしろ煩わしく感じられる程度には。

 現代に存在する電話を嫌いな人の数は少なくない。会社にいるとき頻繁に利用する私も、別に好きではない。

 けれど改めてこの「奇妙な道具」自体の性質について深く考えてみると、面白い要素を沢山挙げることができるのだった。特に電話開通から間もない頃、まだそれがどちらかというと「特別な存在」であった時代の文学作品を通して見れば、なおさら。

 

 

 近代日本の表舞台に登場した電気通信関係の技術は、電話もさることながら、これに先立つ「電信(明治初期には現在の「電報」とほぼ同義で使われていた言葉。テレガラフ)」も含めて、一般市民からは妖しい存在だと思われていた。

 飛田良文「明治生まれの日本語」には電信に対する人々の不信感や、その結果、電信柱や架線に対して破壊行為を実行に移した彼らの様子や証言が載せられている。

 

明治四年八月には電信寮が設置され、[...] 五年九月には東西京間の通信ができるようになった。この間には、電信に対する妄想から電信線を切る騒ぎがあいついだ。

(中略)

「切支丹の邪法」とか「処女を強奪し、其生血を取て之を架線に塗らんとする」など、今日では信じられない話である。

 

(角川ソフィア文庫「明治生まれの日本語」(2019) 飛田良文 p.30-31)

 

 電信技術や設備が当時どのように認識されていたかを知って読むと、電話の登場する近代文学はさらに楽しめる。

 なかでも夢野久作の「鉄鎚」はとても好きな作品なので、著者の出身地へ赴き、そこで何か参考になるものを見られないかと探した。

 

 

 九州は福岡県、門司港に「門司電気通信レトロ館」がある。

 

 大正13(1924)年に建てられた逓信省(ていしんしょう)門司郵便局電話課庁舎、現NTT西日本九州支店の1階に展示物を並べ、無料で一般に公開されている小規模の資料館(「逓信」とは駅逓と電信から1文字ずつ取って造られた言葉)。

 鉄筋コンクリート造3階建ての目を引く佇まい、垂直の線に細長い窓が挟まれた印象に残る外観は竣工当時のままで、通信機器に必要な設備も大正時代から受け継がれてきている魅力的な近代建築だった。通常の官庁や邸宅などの建物よりも重視されていた要素は、例えば防火装置や、防塵に秀でた内装など。

 ここに新型交換機が導入され、袴を身に着けた交換手たちが日々の仕事に励んでいたのだという。「先進的な感じ」がかなり人気の職業であったらしい。

 

 

 夢野久作が福岡県に生まれたのは、明治22(1889)年のこと。その翌年、東京と横浜の間に電話線が開通しており、彼の生涯はまさに電話発達の初期段階とともにあった。

 短編「鉄鎚」に登場する児島愛太郎は、父から生前「悪魔だ」と繰り返し聞かされていた叔父の店に引き取られ、簿記の学校を出てからそこで働かされることになるのだが……

 彼が最も得意としていたのは他でもない、電話だった。

 

 

 

 

叔父に電話をかけて来るお客の声を、モシモシのモの字一字で聞き分けたり、受話機の外し工合で男か女かを察したり、両方から一時に混線して来た用向きを別々に聞き分けて飲み込んだりする位の事はお茶の子サイサイであった。世間の人間はみんな嘘を吐く中に、電話だけは決して嘘を伝えない。

(中略)

それは誰に話しても本当にしてくれまいと思われる電話の魔力であった。

 

(角川文庫 短編集「瓶詰の地獄」(2011) より「鉄鎚」夢野久作 p.128)

 

 生身の人間の声や仕草からは読み取れないものまで、電話は炙り出してくれる。そういう魔力がある、と愛太郎は思う。空想・想像に長けた彼には特に、その機微を読み取る素質が備わっていた。

 考えてみれば、電話において相手に聞こえる音というのは人間の喉からの声ではなく、スピーカーの振動である。受話器越しの声を「肉声」と表現される場合もあるが、厳密には違う。一度は別の波形に変換されて、電線を伝わり、再び吐き出され誰かの耳に届いている音……。

 なかなか亡霊じみている。目の前にはいない人間の声、正確には声の模造品を聞く、ということは。

 

 

 田畑暁生「メディア・シンドロームと夢野久作の世界」でも、電話コミュニケーションにおける虚構性、つまりは生の声ではないシミュラークルをやり取りしている事実に触れられている。

 電話越しの声から情報を読み取る特技を活かして、雇い主である叔父の財産を増やし、自分の俸給も上げ、部屋に帰るとますます空想の世界にのめり込んでいく愛太郎だったが、これまた「ある一本の電話」をきっかけに彼の人生とその周辺人物は大きく動かされることになる。

 

「あの……あなたは……失礼ですけど……愛太郎さんでいらっしゃいますか……」
「ハイ……児島愛太郎です……あなたは……」
「……オホホホホホホホホ……」
 ……受話機のかかる音がした。
 私も受話機をかけたが、そのまま電話口のニッケル・カヴァーを見つめてボンヤリと突立っていた。私の電話に対する敏感さをスッカリ面喰らわされてしまったまま……。

 

(角川文庫 短編集「瓶詰の地獄」(2011) より「鉄鎚」夢野久作 p.139)

 

 虚構の世界に半身を投じた彼が、最後に直面した「真実」とは何なのか。

 それが「鉄鎚」という物語の終局に待ち構えているのだった。

 

 

 ちなみに前回投稿した「女坑主」に関するブログ記事内では触れていない要素に、電話を用いた逮捕劇から受ける印象、ある種の「スピード感」があった。

 維倉門太郎から話を聞いた後、すぐに電話をかけてダイナマイトを手配するフリを見せた新張眉香子。偽装された倉庫主任への電話、そして警察へと瞬時に伝わった意図により成された維倉青年の確保は、のろしや手紙しか遠隔意思疎通の手段がなかった時代であれば、考えられない速度で行われている。

 また「少女地獄」を構成する一編「何んでも無い」の姫草ユリ子に目を向けると、作中で他の人物によりこう表現されているのが印象に残った。

 

「ところがユリ子は、その日の午後には病院にいなかったそうです。昨夜、君の病院の看護婦に電話で問合わせてみたのですが、何でも君が出かけられると間もなく横浜駅から自動電話がかかって、直ぐに身支度をして横浜駅に来いと命ぜられたそうですが……」
「ヘエ。驚きましたな。あの女は少々電話マニアの気味があるのです。よく電話を応用して虚構を吐きます。そんな電話が実際にかかっているように受け答えするらしいのです」

 

(角川文庫 短編集「少女地獄」(2012) より「何んでも無い」夢野久作 p.87)

 

 肉声、生の声、ひいては真実を扱うように見せかけて、実のところその存在こそが虚構じみた道具、電話。

 電信や電線が妖術の権化のように扱われていた時代から、間もない頃に書かれていた小説に描かれる姿は、現代の電話よりも幾分かおどろおどろしいだけに魅力も増して見えるのであった。

 

 

 

 

 

柳広司「トーキョー・プリズン」人間の《本質》という儚い幻想への憧憬|ほぼ500文字の感想

 

 

 

 

 J・ロンドン「白い牙」からの流れで柳広司「トーキョー・プリズン」を手に取ると、試されている気分になる。

 もちろん自分が勝手にそう感じているだけ。

 

“イツオは、あるいはキジマは、私であったかもしれない。
(中略)
そうならなかったのは、ごくささいな偶然の積み重ねの結果にすぎなかった。”

 

(柳広司「トーキョー・プリズン」(2009) 角川文庫 p.409)

 

 状況が変われば、人はあらゆることを実行できてしまう。「狂気」という言葉は便宜的に使われるが、では「正気」とは?

 何がそれを定義できるというのだろう。

 100人のうち1人だけが正気であるとするならば、その1人はなんと、狂っていることになるのである。

 

 環境と、環境に影響される生物の性格を頑なに切り離したい意識は消えかけても自分の内側に残っている。

 以前はそれが「本当に高貴な心を持った人間なら、どれほど過酷な目に遭わせたとしても高貴な心を失うことはない(すなわち途中で気高さを失った者は、本質から気高い人間ではなかった)」という暴論に繋がっていたのが問題だった。

 不変のものへの憧憬と実際とを、ある程度切り離せれば、あるいは……。

 登場する要素「キジマの記憶喪失」と「世界五分前仮説」の組み合わせは、単純に「現実とは何か」を説明するのは誰にもできず、絶対も存在し得ないことを示している。

 

 ところで「机を兼ねている蓋付き洗面台と椅子兼便座」を見られる監獄は、現在でもどこかにあるのだろうか?

 あるなら見学したい。

 

 

 引用部分を除いて約500文字

 以下のマストドン(Masodon)に掲載した文章です。

 

 

 

 

 

J・P・ホーガン「星を継ぐもの」かつては現実に思えた夢の名残り|ほぼ500文字の感想

 

 

 

 本棚から創元SF文庫「星を継ぐもの」が出てきた。

 J・P・ホーガンの著作で日本語訳は池央耿。《巨人たちの星シリーズ》3部作の、第1部だった(しかし、かなり後になって新しく第4部が発行されている。さらにそれ以降の続刊は日本語に訳されていない)。

 

 読むと、この作品が「SF」であり「推理・ミステリ」でもあると評されている理由が分かった。

 同時に、なんて地味なんだろう……としみじみ思い、考えるほどに嬉しくなる。

 扱われる問題は壮大なのに、物語の仕掛けとして使われている叙述の手法自体はすごく、ものすごく地味、なのが実に良かった。読者は中盤で気付きを得て、最後の結論に至り、またプロローグに戻って納得する。あの流れ。

 

 基本的な筋書き以外の部分では、ハント博士の述懐が印象に残る。

 彼は現実を「相対的な〈量〉」だと感じるようになる。確固たる絶対的な現実が、そこに帰ればいつでも同じようにあるのではなく、その時己の身を取り巻いているものと、対峙しているものだけが現実でありうるのだと。

 慣れ親しんだ地球を離れた瞬間に、生まれた時から慣れ親しんでいたその海も大地も、もはや現実ではなくなる。再びそこに戻るまでは。

 戻ることがなければ……地球は(たとえ客観的には存在していたとしても)、未来永劫に「かつては現実だと思えた夢の名残り」となる。

 

 

 引用部分を除いて約500文字

 以下のマストドン(Masodon)に掲載した文章です。

 

 

〈……この先ネタバレ……〉

 

 

 他の人の感想を検索したら「プロローグでコリエルが『巨人』と呼ばれていた理由が分からない」もしくは「なぜあの時点で月面にチャーリー(仮称)が巨人といたのか」というものが散見された。

 それは物語の後半をよく読めばおのずと理解できてくる要素で、プロローグの描写はいわゆる「叙述トリック」になっている。

 ダンチェッカー教授とハント博士の会話を見てみよう。

 ルナリアン語で書かれた文章に登場する〈巨人〉の語は慣用句的なもので、超大な力や卓越した知識など、普通の人間よりも優れたものを指すときに使われているのだった。だから疲れを知らないように見えるコリエルをチャーリー(仮称)は巨人と呼んでいた。プロローグは彼らの視点で描かれているから、その慣用句が読者には最初理解できない。読み進めるうちに分かってくる。

 ゆえに、コリエルはガニメアン種の巨人ではなく人類(ミネルヴァで生まれ育ったルナリアン)であり、後に作中世界の地球に降り立って、私達の祖先となった存在である。

 

 

 

 

 

 

 

夢野久作《女坑主》口先で弄する虚無より遥かな深淵を覗いたら|日本の近代文学

 

 

 

 物語に名前が登場する新張琢磨のモデルはきっと、実在した伊藤伝右衛門のような、明治大正期の炭坑成金なのだろう……と思う。

 

新張家の豪華を極めた応接室の中央と四隅のシャンデリアには、数知れない切子球に屈折された、蒼白な電光が煌々と輝き満ちている。
その中央の大卓子の上にはトテモ炭坑地方とは思えない立派な洋食の皿と、高価な酒瓶が並んでいる。

 

(角川文庫「少女地獄」(2012) より「女坑主」夢野久作 p.252)

 

 いかにも気弱そうな青年と凄艶な女坑主とが、絢爛な応接間で向かい合い、会話をしている。紙上に展開する空間は、冒頭から余剰を感じさせるほどにきらびやかで、それでいて、どこかうす暗い雰囲気にも包まれているのだった。

 昭和初期に発表された夢野久作の「女坑主」は、文庫にして約20数ページという短さに収まる。

 その中ではじめに場面が切り替わり、意表を突く要素が描かれたかと思えば、今度は重ねるようにして一気に力の関係が転換させられる。出し抜く方と出し抜かれた方……2人の人物が収められた画の構図は、ひとつ前の場面と比べるとまったく主従が反対になっている風にも見えた。

 一連の展開は、いわゆるスパイ物語から抜き出したもののようで疾走感があり、読んでいて単純にわくわくさせられる。最近の小説だと柳広司の「ジョーカー・ゲーム」シリーズも連想した。

 そして筋書き以外にも魅力的なのは情景描写に加えて、ほんの束の間だけ顔を合わせてやり取りした2人、青年と女坑主・新張眉香子の人物造形。彼らが自身の口から語り、あるいは実際に行動で示してみせた「虚無」への姿勢の味わい深さが、そこにはある。

 

書籍:

短編集 少女地獄(著:夢野久作 / 角川文庫)

 

 

※以下で物語の内容やその詳細に言及しています。

 

 

 応接室でぎこちない受け答えをする、純真そうな青年。

 彼は実のところ、虎視眈々と望む筋書きのために冷静に思考を巡らせ、ダイナマイトを手に入れて遁走しようと画策していた某党の九州執行委員長だった。

 本当は上海にある党の本部へ仲間と共に逃げ込むつもりなのに、それを偽って「今後の日本政府のためエチオピア(スエズ)で爆破事件を起こし、イギリスとイタリアの戦争を引き起こす」と言い、眉香子の興味をそそる。12人いる仲間のうち5人は東亜会つながりの軍事探偵で、これまで世界各国に散らばり、情報収集をしていたのだ……と。

 青年が語る「虚無観」は、そんな彼の作り話に端を発して述べられる。

 いわく、ダイナマイトの爆薬を使って水雷を完成させたら、くじ引きで決めた数人が水雷を持ってイギリスの軍艦のそばまで行く。あとは人間もろとも玉砕させる算段だが、これはどうしても計画を完遂するために必要な犠牲なのだ、と言う。

 

 話を聞き、尊い若者の犠牲があまりにも惜しいと嘆く眉香子。

 彼女に対して青年は、そもそも生きている実感など自分達にはなく、ただ衰えていくよりは使えるうち、できるだけ派手に命を使ってしまいたいと返すのだった。一般に情熱を傾けられそうな恋愛なども、結局は空虚な約束事であり、この世の真実とは空っぽであると語る。

「だから何もかもブチ壊してやりたくなる」のだと。

 

「世界中のありとあらゆる夢よりも、僕の心に巣喰っている虚無の方がズット深くて強いんですからね……明日になったらキット醒めちゃうんですから……」

 

(角川文庫「少女地獄」(2012) より「女坑主」夢野久作 p.255)

 

 だから、爆弾で死ぬことなど厭わない。

 そこへ眉香子はこう告げた。

 貴方に、死ぬのをイヤにならせて見せましょうか。

 

「理屈を言ったって駄目よ。明日になって見なくちゃわからないじゃないの。醒めようたって醒め切れない強い印象を貴方の脳髄の歯車の間に残して上げるわ……あたしの力で英、伊戦争を喰い止めてお眼にかけるわ」

 

(角川文庫「少女地獄」(2012) より「女坑主」夢野久作 p.255)

 

 この台詞が、鮮やかなまでに最後の場面にかかってくる。

 

 

 

 

 

 物語の初めに、眉香子という人物の背景にあるのがどのような経緯だったのか、概略が叙述されていたことをしみじみ思う。

 映画女優から福岡の筑豊における炭坑王・新張琢磨の妾となり、もとの正妻を押しのけて自分がその座についたかと思えば、遭遇したのは夫の急死。彼女が受け継いだ新張炭鉱には2千余人の労働者、内には前科者も含まれている中で、炭坑の元締めとして立派に君臨し周囲を失望させずにいるのが新張眉香子という人物なのだった。

 彼女が約40年の人生を通して、一体どのような人間の闇に対峙してきたのかは想像することしかできない。

 だが終盤で「人間を棄ててしまった女優上り、サンザしたい放題のことをしてきた虚無主義のブルジョア、惜しい浮世などない」と自身を称しているところからしても、一般市民には及ばない領域で数知れぬ物事を垣間見てきたはずだと思わされる。

 

「アンタ……それじゃ虚無主義者ね」
「そうですよ。虚無主義者でなくちゃ僕等みたいな思い切った仕事は出来ないんです」

 

(角川文庫「少女地獄」(2012) より「女坑主」夢野久作 p.254)

 

 この応接間で交わされた会話とは反対に、一切の夢も理想も掲げず、世の中など所詮はこんなものだと冷めきり、社会と人間存在の虚無をジッと見据えているのはむしろ眉香子の方ではないかと唸らざるを得ない。

 青年と眉香子は応接室で、相互に虚偽の人物を演じていた。

 

 青年の方に目を向けてみよう。実は某党員として上海の本部へ遁走しようとしていた彼だが、警察によって畳に転がされ、眉香子に「覚えておれ」「殺してやる」と吐き捨てた様子からは虚無的な様子など欠片も伺えない。当然だろう。所属している組織のために働き、いずれはその党の理想を実現させることこそが、おそらくは彼の抱いていた種類の「夢」だったのだから。

 仮に青年が真に虚無的な人間であれば、すべてを成り行きに任せ、別にいつ死のうが変わらない……と自分自身の状況すら諦念をもって静観するだろう。「プロ(プロレタリア)の闘士」たる青年が最後に見せたのは、そういう態度ではなかった。

「僕の心に巣喰っている虚無の方がズット深くて強い」と嘯いた面影など、もう欠片もない。

 

 出し抜こうとして、出し抜かれる。

 そういう水面下で展開した嘘と不人情の応酬、口先で弄された虚無感。けれど物語を通してたった一点、その厚い演技の仮面をはぎ取るとまでは行かずとも、何か真実のようなものを垣間見られる場面が作中には確かに存在した。

 見よ、と、誰にともなく強く促されたあの場面。

 草木の一本、犬の一匹、人間の一人も存在しない「寂寞無人の厳粛な地獄絵図」。

 

それは一本の木も草もない、荒涼たる硬炭焼滓だらけの起伏と、煙墨だらけの煉瓦や、石塊や、廃材等々々が作る、陰惨な投影の大集団であった。人間の影一つ、犬コロ一匹通っていない真の寂莫無人の厳粛な地獄絵図としか見えなかった。
その片隅に、もう消えかかったガラ焼の焔と煙が、ヌラヌラメラメラと古綿のように、または腐った花びらのように捩れ合っているのであった。

 

(角川文庫「少女地獄」(2012) より「女坑主」夢野久作 p.257)

 

 こんな「地獄絵図」たる新張炭鉱こそ、現在の眉香子の持ち物。

 うろたえた様子もすぐに霧散し、応接室を出てからは冷静に振る舞っていた青年の胸にだって、間違いなく強烈な印象を刻んだだろう。もちろん読者の胸にも。

 ぼんやり「瓶詰地獄」や「少女地獄」など、夢野久作の代表作が題に冠しているそれぞれの地獄のことを考えた。この世のあちこち、時には足元に、それらが口を開けている。

 

 パブリックドメイン作品なので、以下のリンクから全文が読める。

夢野久作 - 女坑主 全文|青空文庫

 紙媒体の購入はこちら。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 次に読む本に「坑主」ではなく「坑夫」の物語はどうですか?

 

 

 

 

吟鳥子《きみを死なせないための物語》生命に優先順位をつける「愛」の差別的側面を浮き彫りにした社会契約制度

 

 

 

「きょう すること なんにもない
 あしたも すること なんにもない
 誰もジジが必要じゃない

(中略)

 これは 死んでるのと
 どうちがうの」

 

(吟鳥子「きみを死なせないための物語」第5巻 epi.22『The Cold Logistic Equations』より ジジの台詞)

 

 

 元日に漫画「きみを死なせないための物語(ストーリア)」を読んでいた。

 

 作者は吟鳥子氏で、作画協力は中澤泉汰氏、また宇宙考証協力に首都大学東京の佐原宏典氏が迎えられているSF作品。表面上の分類は少女漫画になる。

 秋田書店のサイトSouffleにて、2023年1月31日まで開催されているキャンペーンの一環で1~2巻の内容が無料公開されており、実際に読んでみてから全9巻の電子版を買った。

 それもあってか、冒頭から「電子化されていないご本は秘密のご本なの」という台詞を目にしてなんだか落ち着かなくなった。作中社会の設定では禁忌とされた、紙の書籍で買ってもよかったかもしれない。

 

 

 私は外見が若いのに長い時間を生きている不老長寿の存在と孤独論が大好きなので、場合によっては数百年も生きることがある人間の突然変異……ネオテニイ(幼形成熟)と呼ばれる新人類が登場するこの作品も、そのあたりの萌えをはじめに期待して手に取った。長命種の孤独萌え。好き。

 けれど実際に読んでみると「きみを死なせないための物語」の本当の面白さは、そことはわりと異なる場所にあったのが以外だった。

 宇宙から見た人類そのものの存在と、愛の概念、また関係の話を味わった。

 作中では、人と人との間にある関係に徹底した名付けを強制される社会が描かれたことで、そこから零れ落ちるものの顕在化が可能になり、時に歓喜し時に苦悩する作中人物たちを通して固定観念の解体が試みられている。

 

 地球にいられなくなった人類の宇宙居住施設「コクーン」。

 内部ではその特殊な環境、容積と資源の限られた閉鎖空間に多くの人間が暮らす点への対策から、一般市民は特殊な社会道徳を遵守することになっていた。とりわけ人間関係に適用されるルールは物語中でもかなり重要な要素で、例えばある者とパートナー契約を結んでいない者との、契約に含まれていない範囲での接触は禁忌だった。

 代表的なのは成長の段階に応じて作られる第一(キッズ)パートナー、第二(キッシング)パートナー、第三(サード)パートナー。それらの社会パートナーとはまた別に、生殖パートナー、またワーキング・パートナーやシティ・フレンドといった社会契約もある。とにかく何でもある。

 要するに、相互の同意のもとで「私はこの人とこのような関係を構築します」とあらかじめ定めて他者とかかわり、場合によってはふたたび同意のもと、契約を解消する……。

 

 子孫を残せるのは生殖パートナーと契約を結び申請を行って、ゲノムの審査後に許可が下りた者たちのみで、誰でもできるわけではない。なぜなら厳しく人口の管理を行わなければ、狭いコクーンはすぐに人間で溢れかえり、破綻してしまうから。

 ゆえに「生存に値する基準を満たさず、社会への貢献度が低い」と上層部から判断された者は「リストイン」され、次に生まれてくる生命へと席を譲り渡すための、安楽死の通知が行われる。

 そんな世界で生きる者たちの話が描かれるのだった。

 

 詳細なあらすじは色々なところに掲載されているので、割愛して感想の方を書こう。

 

 

※以下で作品の内容、登場人物や、物語の核心などに言及しています。

 

 

 

「それじゃ ターラは寿命の長さや
 肉体の欠点で 愛する人を替えるの
 そんなことで気持ちを変えられるの!?」

 

(吟鳥子「きみを死なせないための物語」第1巻 epi.4より ルイの台詞)

 

 コクーン社会の一般常識では「愛」や「恋」が猥雑でいかがわしいものだとされている。

 この認識が幅を利かせる環境で育った主人公「アラタ」たち4人のネオテニイは、奇病のダフネー症を患った祇園という女性や、彼女と同じ症状に侵されている少女ジジとの出会いを経て、それまでとは違った課題に遭遇し、傷を負いながら思考する。

 読みながらずっと、作品のタイトルがぐるぐると頭の中を巡り、消えなかった。いったい誰が誰を死なせないための物語、なのかが。

 あらゆる登場人物が誰かを大切に思い、死なせたくないと思っている。そして、何かを特別に大切だと思う感情は「ある対象とそれ以外の生命に差異を見出し、優先順位に基づいて選別すること」に他ならないのだった。

 多くの人々がこの残酷な事実から目を逸らしている。

 

「…………かつて人類は……
 人間関係のもつれで殺人すら
 犯したと聞くわ…」

 

(吟鳥子「きみを死なせないための物語」第1巻 epi.15『自己中心的な世界で愛を叫んだけだもの』より ターラの台詞)

 

 愛は残酷だ。

 人間も、それ以外の対象も、選ぶ。

 すなわち愛した対象を、明確に他と区別する。

 

 "私は、あなたが一番好き。

 つまり、私は『他の誰かよりもあなたが好き』だということ。

 だから私にとって『あなたの優先順位は、その他の存在よりも上』になる。

 あなたは特別なの。"

 

 深く何かを愛したとき、いとも簡単に行われる選別。個々の認識の中で、命は決して価値を等しくしない、残酷な事実。想像してみよう。有事の際、大抵の人間は真っ先に大切な人を助けるだろう。大切な人以外の人間よりも。

 この感情が差別的でなくて、何だろうか?

 そう問いかけられている気がする。

 さらに第7巻では、デリーコクーンの内部にあるタージ・マハルのモニュメントを前にした幼いアラタとターラが会話し、かつてあったムガル帝国の王の逸話を例に挙げ「不平等の権化としての愛」に言及する場面があった。

 

「他にも妃がいたのに
 王様はそのお妃だけを特別扱いしたんでしょ
 シャー・ジャハーンは そのあとも
 長男だけを溺『愛』して戦争になったりするし

(中略)

『愛』は本質的に不平等な感情で
 人類の平等をめざすなら
 じゃまなものだし」

 

(吟鳥子「きみを死なせないための物語」第7巻 epi.34『Let sleeping dragons lie.』より アラタの台詞)

 

 とても面白い。これら「愛」という主題以外にも、印象的な問いは沢山投げかけられた。

 なかでも気になったのは「意味」という言葉や「価値」などの概念。ひとつの社会、ごく狭い共同体が定義するものから離れた、種としての人類を俯瞰する視点をもってしても(だからこそ?)そこから逃れることはできないのかもしれない。

 とある意味と価値の支配から逃れようとすると、結局のところ自由ではなく、また別の意味と価値の支配する領域に辿り着いてしまう。完全に枷を外すのが不可能だと理解して、しかし抗い続けるしかないのか……読んでいてそういう閉塞感がずっと残っていた。

 答えの存在しない問いであるからこそ。

 

 また、大きく感情を揺さぶられた場面のひとつに、ダフネー症のマリィとラリック教授との面会がある。

 ここは本当につらかった。あまりにも「キツい」と感じた。

 

「マリィね 先生といる時だけが
 生きてるって気がするの……
 先生といる時だけは
 生きててもいいんだって……
 マリィが生きてても怒られないんだなって
 そう思うの……」

 

(吟鳥子「きみを死なせないための物語」第3巻 epi.13『愛は種のさだめ』より マリィの台詞)

 

 キャラクター萌え的な話をすると、アラタの叔父であり優秀な研究者だった倣麒麟(ファン・チーリン)博士、通称ジラフが非常に可愛いと思った。レオーネ・サヴィ教授、通称ライオンと彼との関係も味わい深くて大好き。

 彼らのなんでもない一日をまとめた分厚い本が欲しい、と念じたほんの一部が第9巻で叶えられたのは、かなり僥倖だったといえる。

 ちなみに第9巻は「番外編」の位置づけとなっているようだけれど、本編の一部として考え、そこまできちんと読んでから各キャラごとの視点でもう一度読み返すのが個人的には楽しかった。

 

 

※以下で第9巻の内容を踏まえた登場人物や、物語の核心、描写などに言及しています。
 ネタバレ等。

 

 

 

「……あの 猥雑な恋の記憶
 なぜこの社会が恋愛を猥雑としながらも
 必須システムとしてパートナー制度を導入したのか
 いまは理解しているような気がする」

 

(吟鳥子「きみを死なせないための物語」第9巻 Extra.4『ここがキリンヤガなら、きみは』より キュヴィエのモノローグ)

 

 本多大地が嘘つきだと表現されているのを受けて、第1巻の時点からぼんやり彼へ抱いていた印象にすっかり納得してしまった。ほらっやっぱり「こういう奴」だったじゃん……っ!

 やたらと兄への距離が近いのはいったい何なのか、と思っていたら、第二パートナーとの接触に慣れすぎたか、やばい、などと番外編で述懐しており。この話には本物の生魚も登場し、人口抑制を目的にして普段の食事に生殖本能を抑える何かが混ぜられているのでは、と示唆される部分もあって、いろいろドキドキさせられた。

 もちろん、ふたりの触れ合いにもだ。

 大地の言葉に赤面したキュヴィエの表情と、ターラが顔を赤くした時の表情、とてもよく似ていた。血筋を感じた。

 

 あと、うまく言えないのだけれど、ネオテニイの始祖ソウイチロウに関しては「少女革命ウテナ」に登場する鳳暁生を強く想起させる部分があって、けれども彼が人類という種のくくりで「皆」を死なせないようにしている以上、性質はディオス寄りなのかもしれないと勝手に考えていた。

 ウテナをご存じない方には全然通じない例え話で申し訳ない……と思いつつ……。

 

「……生命がただ遺伝子の歴史の一片をあずかるだけの
 宇宙の大いなる変化のごく一片を一時的に
 管理するだけの存在なのだとしても

 俺は 愛してる」

 

(吟鳥子「きみを死なせないための物語」第9巻 Extra.5『明日も、今日もまた満ち足りた日を』より ソウイチロウの台詞)

 

 長命ゆえに短命の個人への執着を忌避するが、何かを愛さずにはいられない。だから人類という種そのものを溺愛している……ソウイチロウをそう表現したジラフの評を咀嚼する。

 決して愛がない心ではなく、むしろそれを抱ける心を持ってしまったから、苦しみもあるのだった。かつての妻、海果の面影を胸に抱き続け「人類ってのは卵子や精子のことじゃないって身に染みてわかる」彼だから。

 ここで最終話の夜が投げかけた「じゃあ きみの守りたい『人類』ってなに?」の問いが効いてくる。

 

 プロキシマ・ケンタウリへ向かうアラタたちは今、宇宙のどのあたりを航行しているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

恩田陸「私の家では何も起こらない」古の聖なる丘のその上に|ほぼ500文字の感想

 

 

 

 古い時代の祭祀の痕跡。

 なかでも、いわゆる「高台」に存在する遺構のことをなんとなく考えていた。元から自然の丘陵があって築かれたものもあれば、平地か斜面に土を盛って、人工の丘を形成してから作られたものもある。

 どちらにせよ「周囲より一段階高い位置にあること」自体が、そこでは祭祀の場として重要な意味を持っていたと推察されるのだった。

 

“何かがいる場所というのはあるもんさ。「何か」は分からんけど。

あの屋敷がいつから建ってるのかは知らん。かなり古いということしか。よりによってあんな場所に。丘の真上に。”


(角川文庫「私の家では何も起こらない」(2022) 恩田陸 p.115)

 

 先史時代からあるらしい丘の上に建つ、2階建ての館。この物語に登場した。

 そこで、土地に蓄積された過去の全ての記憶がデジャ・ビュとして現れ、「幽霊」に似た姿で観測される現象。

 聖地か墓地か不明だが、とにかく特別な場所だったのだろう、と作中で語られる丘の描写から私が連想したのは、先日訪れた青森県の小牧野遺跡だった。大規模な工事で作られた丘の上に、縄文時代の環状列石が残っている。

 偶然にも小説の著者の恩田陸は青森生まれの作家である。

 

 昔の遺跡は「そこに人がいた」ことを示唆する。

 時間を超えて幾人もが訪れ、去り、私もまた丘を訪れて去った。それらの記憶はどこかに蓄積されている。あるいは丘の上のさらにその上、あまねく事物を俯瞰するように、何かがこちらを見ている。

 向こうでは姿を見られることを忌避しながら、夜毎、斜面を徘徊して。

 

 

 引用部分を除いて約500文字

 以下のマストドン(Mastodon)に掲載した文章です。

 

 

 

 

西行法師の人造人間と反魂の秘術

 

 

 

 

「……あるとき遠くへ行ってしまった友人のことが恋しく、ひどく寂しい思いをしていたので、必要な材料を集めて『友人そっくりの存在』を造ろうとした。……」

 

 こんな話がどこかに載っていたような気がして、探したのだけれどなかなか見つからない。もしかしたら「今昔物語集」だったか、他の説話集だったか……頭を捻りつつ、端から本棚を浚ってみたら、全然違うところにあった。怪異集「山峡奇談」(河出文庫)の中で紹介されていた。

 その説話「西行の人造人間」の出典は、13世紀頃に成立したとされる撰集抄で、作者不詳。また、信憑性についてもはっきりしたことは言えない。

 私はこの話の醸し出す何かが好きで、だからきっと、記憶のどこかに引っかかっていたのだろう。

 

 西行は平安時代末期に生まれて鎌倉時代後期に没した武士、かつ著名な歌人であり、出家してからは僧侶でもあった。

 彼がとても親しかった友との別れを嘆いていたとき、偶然にも「鬼が人間の骨を集めて人を造った」旨の噂を耳にし、それで自分dも真似をしてみたのだとか。

 人造人間を制作する方法は当然ながら奇怪なものだった。死人の骨(一体どこから拾ってくるのだろう)を基礎として、砒霜という薬を塗ったり、藤の若葉の糸で骨をからげて洗ったり、色々な植物の葉を揉みこんだり灰にしてつけたり。その締めくくりが、沈と香を焚く「反魂の秘術」だった。

 残念ながら西行の人造人間製作は失敗に終わったのだが。

 

 できあがった「何か」は、彼の友人に似ていないどころか、そもそも人間とも言い難いものだった。

 全体的に色が悪く、吹き損じた笛の音のような声しか発さず、内側には心もない。西行は考えた。どうにかしてしまいたいが、人の形に形成してしまった以上、壊せば殺人になってしまう気もする。悩んだ末に、それを人里離れた高野山の奥へと置いてきてしまった。

 私は想像する。深い森の奥で、人間に似たよく分からないものが何をするでもなく、ただ不思議な「吹き損じた笛の音のような」音をヒョロヒョロ発しながら彷徨っている様子を。

 春夏秋冬、周囲の色が移り変わる中でひとりぼっち、心を持たずにうろついているよく分からないものを想像する。西行が放置した、彼(仮)の姿を。

 

 しばらくして、西行は伏見の前中納言師仲卿を訪ねた。

 師仲卿は自分も過去に人間を造ったことがあり、しかもその者はいま卿相(公卿大臣)の地位にあるのだと言い、人造人間に心を与える西行の術がうまくいかなかった理由を教えてくれた。

 どうやら香には魔のたぐいを祓い遠ざけ、聖衆(生死を忌む)を集める効果があるため、最終的には焚かない方がよいのだそうだ。反魂の秘術には代わりに沈と乳を焚くべきであると言う。そして執り行う者も、7日のあいだ、飲まず食わずの状態になってから臨むのが適切なのだとも語った。

 有益な助言を得た西行だが、なんとなく無意味なことであると思い直し、以後は人造人間の製作に手を伸ばす機会もなかったらしい。

 

 この一連の流れから脳裏に浮かぶ情景や、勝手に推測できる西行の心情は、とても良い。

 まず「人造人間でも構わないから傍にいてほしい」と思えるくらい大切だった友人が、彼の心を占めていた事実に感情を動かされる。寂しかったのだろう。多くの事柄について語り合い、短くない時間を共に過ごしたその人が、突然遠くへ行ってしまって。

 また、こちらの感覚からすると生命を造るというのは一大事であり、実行する前には相当葛藤するか、結果的にやらない選択肢を選ぶだろうに、ちょうど関連する話を聞いたからということであっさり行動に移してしまえるところは面白かった。

 失敗してしまった後も、ソレを山奥に放置してきてしまうし、師仲卿の助言を耳に入れた後の反応も「人間を造るなんてまったく無益だったなぁ」のように随分とドライな感じで。

 

 この「西行と人造人間」の話を知ってから、私の心の高野山の奥地にはずっと、失敗の末に生まれた「彼」が棲みついている。

 夜な夜な、耳を澄ますと奇妙な声が聞こえてくる。

 

 

 

 

 

デイルマーク王国史4部作〈1〉Cart and Cwidder 感想|ダイアナ・ウィン・ジョーンズ作品 - イギリス文学

 

 

 

「人生みたいなものだ」そう、クレネンは言った。

「時には『この内側でいったい何が起こっているのか?』と、疑問に思うかもしれない。だが実のところ重要なのは、外からどんな風に見えるのか、そして我々がどうやって観客に見せるのか、だ。

よく覚えておきなさい」

 

“It’s like life,” Clennen said.

“You may wonder what goes on inside, but what matters is the look of it and the kind of performance we give. Remember that.”

 

(Cart and Cwidder (Dalemark Quartet) p.3 D. W. Jones Kindle版 HarperCollins)

 

 ダイアナ・ウィン・ジョーンズ著《Dalemark Quartet》4部作。

 先日、その第1巻である〈Cart and Cwidder (1975)〉の原著、電子版を買って読んだ。過去に創元推理文庫から「デイルマーク王国史」として日本語訳が刊行されていたのだが、残念ながら現在は絶版で手に入らなかったので。

 この巻は田村美佐子氏によって「詩人(うたびと)たちの旅」と翻訳されている。デイルマークにおける詩人(singer)とは、馬に引かせた荷車に乗って各領地を渡り歩く、吟遊詩人の呼称だった。

 

 5人家族の次男、モリルの視点で物語は進む。

 単純に歌や楽器の演奏を生業とするだけではなく、土地から土地へニュースや伝言を運ぶ役割も担っている詩人の彼らは、デイルマーク南部から北部へ至る過程の依頼で、キアランという名の人物を荷台に乗せることになり……やがて何かの陰謀に巻き込まれてしまったと知る。

 

 複雑に絡み合う糸を解き、あるいは意図的に絡ませたり、巧みに結んだりする作風の重厚なファンタジー作品で知られるダイアナ・ウィン・ジョーンズ。

 この〈Cart and Cwidder〉は4部作の序章ということもあってか、基本的に1本道だ。読者は緊張しながらもどこか安心して、物語世界に分け入っていける。たとえ起伏が大きく、あるところでは左右に曲がりくねり、ときどき遮蔽物が横たわって行く手を塞いでいる道でも。彼らの暮らす荷車(カート)の通った道筋を辿るように、歩いたり走ったりして、筋書きの先を追いかける。

 原著のタイトルにあるカート(cart)ではない方の名詞、クィダー(cwidder)は、どこかマンドリンやリュートにも似たデイルマークの弦楽器。最初は弦を爪弾くのでハープのようなものかと予想していたけれど、読み進めるうちにより正確な形が掴めてきた。

 その音色だけでなく、表面に施された装飾の描写も綺麗で神秘的。

 

The inlaid patterns on the front and arm, made of pearl and ivory and various colored woods, puzzled him by their strangeness.

 

(Cart and Cwidder (Dalemark Quartet) p.21 D. W. Jones Kindle版 HarperCollins)

 

 第1巻の見どころはいくつも挙げられるが、なかでも単純なようでまったく単純ではない人間の心模様や、人物同士の関係の描写は、やはり著者の他作品と同じように際立っていると感じる。

 たとえば自分が視界に入れている相手が、仮にこれまで長い時間を共に過ごしてきた、よく見知った存在であったとしても、内実までまるっきり目に映る通りであるとは限らない。

 言葉にしないことは他人に聞こえないもの。それゆえ徹底して態度に出さなければ、周囲の誰かに、何かを勘付かれることもほとんどないのだ。

 

 父、母、長男、長女、次男。

 常に一家5人で旅をするモリルたちの会話や様子を見ていると、改めて家族という「他人の集まり」の面白さと奇妙さを実感させられ、冒頭に引用した「人生は観客からどう見えるか、自分がどう演じるかが重要」だというクレネン(モリルたちの父)の台詞がいっそう味わい深くなる。

 今まで知らなかった家族の一面を知るのは、場合によっては恐ろしい。

 特にそれが、長らく頼りにしてきた存在、例えば両親などの実情であれば尚更ではないだろうか。いかに家族集団に属し、特定の肩書きを与えられていても、それ以前に彼らが各々別の人格を持つ一個人であるのは変わらない。

 人間にはさまざまな側面がある。長所と短所は表裏一体の関係にあり、どちらかだけをあげつらってその人の本質だと言い切る材料にはできないから、自体は常にややこしい様相を見せる……。

 明かされた真実に衝撃を受け、悲しみ、混乱し、憤っても、困難から抜け出す糸口を探そうと奮闘するモリルや姉のブリッド、兄のダグナーの描写はとても切実で生々しい。これはその世界にある、まぎれもない現実の物語だ。ページをめくる私たちにとってはフィクションのファンタジーである、と油断していると四方八方からやられる。

 

 現実というなら、作中の冒頭では夢見がちでぼうっとしていると皆に評されているモリルも、実のところ常に五感や第六感を働かせて誰より子細に周囲を見ているのだった。言葉や音を聞き、色を認識し、空気の手触りも匂いも感じている。

 時にはそこに「あるように見えるもの」よりも、ずっと多くを。

 そう、彼はしっかりと現実に目を向けているのだが、他の人間と同じような方法によって、ではない。後に同乗者のキアランがこう指摘する。

 

「大多数の人間に比べて6倍は意識がはっきりしてるんだよ、モリルは。

 さっきから俺たちが話していたことも、一言一句漏らさずちゃんと聞いていたはずだ。そうだろ?」

 

“He’s about six times as awake as most people, really. I bet he heard every word we said—didn’t you, Moril?”

 

(Cart and Cwidder (Dalemark Quartet) p.147 D. W. Jones Kindle版 HarperCollins)

 

 そんなモリルがクレネンから託された、特別な大きいクィダー。

 遠い昔、デイルマーク最後の王であったアドンの友人にして、偉大な詩人であり、魔術師でもあったオスファメロンの遺物と伝えられている楽器。鋭敏な感覚を持つ彼は、今後、それをうまく使いこなせるようになるだろうか。また、得た力をどのように行使するのだろうか。

 

 国全体を納める「王」が長らく不在で、現在は各領地の長が伯爵として、さらにそれを細分化した土地ごとに領主が権力を握っているデイルマーク。

 4部作は第2巻の〈Drowned Ammet〉に続く。

 原題だと「溺れた(沈んだ?)アメット」とでもなりそうなこの巻のタイトルは、田村美佐子氏翻訳の創元推理文庫版では「聖なる島々へ」となっていた。さて、アメットとはいったい何(あるいは誰)なのだろう。疑問とわくわくを抱いて次の巻へ!

 

 

 

 

 

 

小野不由美「緑の我が家 Home, Green Home」家という空間に入り込んでくるもの|ほぼ500文字の感想

 

 

 

 先日文庫化した小野不由美の小説「緑の我が家」を読み、以下を思い出した。

 

“文化的記号としての『家』はかつて、安全の象徴だったはずである。近代以前において、恐怖は家の外、あるいは町の外にあった。

恐怖の対象は城であり、廃屋となった修道院であり、森であったかもしれない”


(加藤耕一「『幽霊屋敷』の文化史」講談社現代新書 p.120)

 

 かつてはある種の聖域のようであったが、もはや安全の象徴ではなくなった、家という場所。

 それは18世紀、エティエンヌ・ロベールソンが幻灯機 [ラテルナ・マギカ] を用いて行った公演の、広告に書かれた文言を思わせる。彼は持ち運べる機械で室内の壁に亡霊(主に故人となった政界の著名人など)の姿を映し出すパフォーマンスを行っていた。まさに、幽霊は「いついかなるときにも、誰の家にも」現れるようになったのだ。

 しかし、それは機械によって壁に映し出される像の話。

 小説「緑の我が家」の中で切実に家を求める少年、浩志にとって、彼の現実に侵入しそれを脅かす存在は幻などではありえない。彼は家という箱が欲しいのではなく、きちんと帰ることのできる——身の置ける——場所を探している。

 

「ぼくの家」

「ぼくの帰る場所」

「ぼくの帰るべき場所」

「ぼくの帰りたい場所」……

 これらが意味するものは、全て異なっている。

 さらに浩志を脅かす怪異たちは、幻灯の虚像とは異なり、その土地と建物に根付いている。

 

 思えば「緑の我が家」のサブタイトル"Home, Green Home"は、きっとイギリスの民謡 "Home, Sweet Home" を意識したものだろう。

 後者は「埴生の宿」として知られているが、時に「楽しき我が家」と訳されることもあるのだった。その皮肉にどきどきする。

 

 

 引用部分を除いて約500文字

 以下のマストドン(Mastodon)に掲載した文章です。

 

 

 

 

ジャック・ロンドン「白い牙 (White Fang)」環境は性格に影響する、認めたくなくても|ほぼ500文字の感想

 

 

 

 環境によって生物の性格が形成されることに、反感のような念を抱いていた時期があったのを思い出した。例えば「あんな風に育ったのは周りが良くなかった」という言説が、とても嫌いだったのだ。

 そのものが持っているはずの本性、また本質、とでも呼べる何かの存在を、ずいぶん信捧していた気がする……高潔なものはいつ、いかなるときでも高潔で、その反対も然り……と、信じたかったのかもしれない。

 今はもう、そう考えてはいない。

 

 作中では「粘土の性質」「粘土の性格」といった言葉が繰り返し、印象的に使われていた。では、その粘土が何によって形作られるのかといえば、世界や社会によってなのだった。

 イヌの血を引くオオカミのホワイト・ファングは、誕生してから森、人間のキャンプ、街、家、など生活する環境を次々に変え、それぞれの場所で適応力を示しながら、より胸に深く刻まれている過去の経験を常に行動の基盤にしている。

 主に恐れと、厳しさと、孤独とを。

 優しく温かな環境で育たなかった彼は、仮にそのような性質を持っていたとしても、表に出すことはなかった。ほとんど不可能だったのだ。

 生物という粘土が世界(外的要因)の手で捏ね回されるとき、顕現した形の中に、どのくらい「元」から持っていた先天的な素質が反映されているのかは、どうしても確かめようがないのだった。

 

 ゆえに、本当は優しい、とか、本当は残忍だ、などの「性格の本質」にまつわる論はすべからく不毛で、幻想に過ぎないものになってしまう。

 もとの素質を凌駕する環境は、性格に大きく影響する。私が認めたくなくても。

 

 

 約500文字

 以下のマストドン(Mastodon)に掲載した文章です。

 

 

 

 

「夏目漱石が "I love you" を『月が綺麗ですね』と訳した」という伝説には典拠となるものがない - 曖昧なまま広まらないでほしい文豪エピソード

 

 

 

 

 

 読者の方々がすでに知っているように、このブログの管理者は夏目漱石作品を愛読していて、それらを世に送り出した作家本人にも並々ならぬ興味を持っている。とても、好きなのだ。漱石先生が。

 だからいつも残念に思っている。

 実際に漱石がそのような発言をした、という記録がどこにも残っていないのに、かなりの人々がその根拠を確かめないまま、不確かな情報の拡散に加担してしまっている事柄があることを。

 

「夏目漱石が "I Love You" を『月が綺麗ですね』と訳した」という伝説には、その典拠となる文献が、ない。

 現時点でどこにも見つかっていない。

 

・国立国会図書館のレファレンス協同データベース

 

 

 しつこいようだがもう一度書く。

「夏目漱石が、英語における "I love you" を『月が綺麗ですね』と日本語に訳した」という言説には、出典がない。

 現時点でどこにも見つかっていない。

 

 彼がいつ、どこで、さらにどのような場面でその発言をしたのかはいかなる文献にも残されておらず、ただ後世の人間が勝手に「このエピソードは有名だが……」と色々な場所で言っているだけなのだった。信憑性を担保するものが何もないために。

 単なる伝説、俗説である。

 どこにも証拠がない事柄を、さも「真実」であるかのように吹聴するのは、果たしてよいことだろうか。

 

 この出典の存在しない逸話について、定期的にそれを理解している人達が「そんな発言の記録は残されていない」と言ってくれるのは救いだった。私は漱石先生とその作品が好きな側の人間であり、ことの真偽がどうでもいいとは欠片も思わないため、いい加減にしてくださいと言いたくなる場面が多々ある。

 本来であれば他愛もない、証拠がなく噂の域を出ないはずの話が、あたかも実際にあったエピソードのように扱われ、さらにあまりにも人口に膾炙しているのである。

 自分自身も作家の残した作品以外、いわゆる文豪面白エピソードに言及(要するに消費)することがある立場であるものの、せめてそれが事実に基づいた逸話なのか、根も葉もない噂の上に重ねられたものなのかくらいは、都度調べたい。

 真偽が不明なら不明な旨を明記しなければ、出典不明の説が真実としてまかり通る。どんなことでも本当だと言い放題になってしまう。

 ありもしないことを「あった」と断言したり豪語したりはできない。

 

 なまじそれらしいだけの逸話を捏造し「有名な〜」と根拠なく話題に挙げてしまうと、驚くほど簡単に人口に膾炙する、嫌な一例。どうしてこんなにも根強いのか……。

 しかもこれ、大抵は漱石先生のことが別に好きなわけでもなんでもない人たちが拡散に加担しているから、泣いてしまう。

 出典のない逸話を広めるくらいなら、実際に残っている著作物や書簡や講義の記録から、夏目漱石自身や漱石の小説に出てくる登場人物の言葉を探してみてほしい。

 その上で、例の翻訳が彼らしいエピソードだと感じるどうかはもちろん読者の自由だ。勝手に証拠があると思い込まなければ。

 

 

 

 

 

お題「披露する機会がないけど語りたい薀蓄(うんちく)教えてください。」

辻仁成「海峡の光」と青函連絡船|ほぼ500文字の感想

 

 

 

 昔、青函連絡船として運行していた八甲田丸。

 青森旅行の際、現在はメモリアルシップとして保存されているその船内を見学することができたので、小説「海峡の光」を読み返した。作中では、八甲田丸と同じ連絡船だった羊蹄丸の様子が、連絡船すべての終航の象徴として描かれていた。

 

“長いこと危険だからと禁止されていた紙テープがその日は許可され、桟橋の空を華麗に舞った。船の甲板から大空目がけて投擲された色とりどりのテープは、別れを惜しむ羊蹄丸の触手のようで、……(後略)”


(新潮文庫「海峡の光」(2003) 辻仁成 p.136)

 

 八甲田丸船内のシアターでは当時の映像を見ることができ、改めて列車と貨物、人間を運搬し続けた80年の歩みを思った。

 連絡船の終航は1988年。青森―函館間の海底に、青函トンネルが開通したのが主な理由だった。

 

 作中の登場人物で頭を離れないのは、傷害事件を起こして函館少年刑務所に収監された、花井修。

 彼は模範囚として刑務所内で過ごしていたが、仮釈放や恩赦の折に問題を起こし、それを撤回される。試験にも、わざと落第する。刑務所の外にはもう出ていきたくなかったからだ。

 外の世界よりも、壁の内側に留まり規律に従う快適さと自由。そして、明確な秩序を切実に求めた彼の歪みと願いは胸を打つ。俗世からの断絶といっても、仏門に下ったり、聖職者として働いたりすることは、彼の場合は駄目だったのだ。

 刑務所という檻の中でなければ、理想の世界を実現できなかった。

 

 

 引用部分を除いて約500文字

 以下のマストドン(Mastodon)に掲載した文章です。

 

 

 

 

緑色のミルクセーキ、甘いコーヒー、氷入りのオレンジエード:D・W・ジョーンズ《九年目の魔法 (Fire and Hemlock)》

 

 

 

 物語の中には単に美味しそうなだけではなく、妙に気になる、あるいは場面や状況も含めて印象的に描かれた食べ物や飲み物がよくある。周囲からすすめられて原著と日本語訳両方を手に取った、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説「九年目の魔法(Fire and Hemlock)」にも、数々の心に残る飲食物が登場していた。

 最近この作品を思い出す機会が多いのは、ブログを書いている今、10月も終わろうとしているから。

 刻々と近付く万聖節の、あるいはケルトのサウィン(万霊節)の前夜祭であるハロウィーンは「こちらの世界」と「向こうの世界」を繋ぐ門が開く日だと言われている。

「九年目の魔法」では、各章の扉で「詩人トーマス」と「タム・リンのバラッド」から1節ずつが引用されており、パラパラめくればひとつひとつがお話を読み解く助けになると分かるのだが、特に元のタム・リンの物語でもハロウィーンは重要な生贄の日だ。妖精女王が地獄へ捧げる10分の1税。果して囚われ人は、その運命から逃れることができるのか……。

 イギリスの架空の町、ミドルトンに住む少女ポーリィが経験した出来事と「いつのまにか2重になっていた記憶」は一体どこへ向かうのか、最後まで息をもつかせぬ展開と描写で、読者の心を掻き立てる作品だった。

 そんな本の中に出てきた食べ物の話。

 

 

 

 

 ちなみに、冒頭に描かれるポーリィのお祖母ちゃん宅の台所からして、もうすでに美味しそうな雰囲気が漂っているのである。

 そこは「ナッツとバターを思わせるビスケットの匂いがして、よその台所とはとても違っている」のだ、とポーリィは述懐する。また、当のお祖母ちゃん本人からもそんな印象を抱く……とのことだった。1度は訪問してみたいもの。

 

お祖母ちゃんはいつも、ポーリィにビスケットを連想させた。
さらっと乾いた、ショートブレッド風な口当たりで、隠し味があとから効いてくる。

 

(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ「九年目の魔法 (創元推理文庫)」Kindle版 (位置No.139-140) 株式会社東京創元社) 

 

  • ミルクセーキ

 ハロウィーンの日にお葬式を出していたお屋敷、ハンズドン館。仮装をして遊んでいた親友のニーナを追っていて、うっかりその中に入り込んでしまったポーリィが知り合ったのは、リンさんという男の人だった。

 ポーリィの家族に警戒されながらも親睦を深める2人は、一緒に考えた空想物語の舞台のひとつ、コッツウォルズの町「ストウ・オン・ザ・ウォーター」(これは実在するストウ・オン・ザ・ウォルドとボートン・オン・ザ・ウォーターのもじりだろう)へと出かける。

 そこのカフェ(喫茶室)で彼らが注文したもののなかに「鮮やかな緑色のミルクセーキ」があった。そう、鮮やかな緑色をしているのである。

 

ウェイトレスがお盆を持って戻ってきたが、顔に「あたしのせいじゃないわよ。注文通りなんだから」と書いてあった。
テーブルに並べたのはソフトクリーム二本、チーズ・ホットケーキ二つ、鮮やかな緑色のミルクセーキ二つ、そしてオートミール・ビスケットが一つ。

 

(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ「九年目の魔法 (創元推理文庫)」Kindle版 (位置No.1878-1880) 株式会社東京創元社)

 

 具体的にどういう味なのか、は本文に書かれていないので推測してみるしかない。

 ポーリィのお祖母ちゃんの家で飼われている猫の名前が「ミントチョコ」なので、もしかしたらこのミルクセーキも関連するチョコミント味なのかもしれない。

 後の場面でリンさんが最悪な運転能力を披露したところでも、揺れる車内で吐き気を感じたポーリィが「喉の奥に緑色のミルクセーキの味をほのかにこみ上げさせ」ているなど、強烈な色以外にもなかなか頭に残る飲み物のひとつだった。

 正直、飲んでみたい。

 

 

 

 

  • コーヒー(2度目の)

 作中でポーリィがコーヒーを飲む場面に、印象的なものが3つある。

 ここで挙げるのはいわば2度目に登場したコーヒー。初めに彼女がそれを苦手だと言っていた1度目とは、飲み物に対する印象もそうだが、ポーリィ自身の抱く心情もほとんど反対になっているのだった。

 

アンが「コーヒー飲む?」と言った。
ポーリィはいまだにコーヒーが好きでなかったが、はにかみながらうなずいた。するとアンは鞄から魔法瓶をひっぱり出し、一杯注いでくれた。温かくて黒っぽくて甘く、意外においしいのを知る。

 

(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ「九年目の魔法 (創元推理文庫)」Kindle版 (位置No.3485-3487) 株式会社東京創元社)

 

 チェロ奏者であるリンさんの結成したカルテットの一員、アン・エイブラハムが分けてくれたコーヒー。それは黒っぽくて甘く……とあるので、牛乳などは混ざっておらず、おそらくは砂糖かシロップで味が付けてあるものだっただろう。美味しそうだし、温かさも安心を誘う。

 物語で最初に登場するコーヒーは、ポーリィにとってあまり良いものではなかった。

 苦手だっただけではなく、リンさんと一緒にいたメアリという女性が少し意地悪で、まだ子供だった彼女はふたりの会話にもうまく入れなかったのだ。だからなおさら苦い思い出とともにあったこの飲み物は、アン達との交流を経て味の印象を変える。それからコーヒーを好きになった。

 さらに良い味を出しているのが、近くにいたカルテットの一員、サム・レンスキーが分けてくれた「チーズのサンドイッチ」ではないだろうか。

 ラップで包まれており、しばらくズボンのポケットにねじ込まれていたせいか、折れ曲がっているのが面白い。いつもお腹を空かせて食べ物を隠し持っているという彼も、他のメンバーと同じく、ポーリィに親切にしてくれた。

 

  • オレンジエード

 どこかで改竄されたポーリィの記憶と、リンさんとの出会い。そして「九年目の魔法」の物語そのもの……すべての発端はハンズドン館だった。

 ハロウィーン当日、女司祭に扮した仮装で黒い服を着ていたために、お葬式の行われていた館に入り込んでもポーリィは門前払いされることがなかったのだ。運が良かったのか、悪かったのか。

 内部に迷い込んだ彼女は、そこで給仕の男性に「シェリー酒にはまだ早い年齢のようだから」と、オレンジエードのグラスが載ったお盆を差し出された。

 

ポーリィは女王さまになった気がした。
いささか汚れた手をさしのべ、オレンジエードのグラスを取る。氷と本物のオレンジが一切れ入っていた。「ありがとう」と威厳のある女王らしい口調で言う。

 

(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ「九年目の魔法 (創元推理文庫)」Kindle版 (位置No.199-201) 株式会社東京創元社)

 

 エード、という言葉にはあまり馴染みがないかもしれない。これはいわゆるジュースとは違い、果汁をうすめて味をつけ、さらに甘くするなどして味を調えた飲み物。日本では昭和期にサントリー社が「オレンジエード」を販売していたこともあり、どこか懐かしい響きだと感じる層の人もいるだろう。

 緑のミルクセーキと同じく詳しい味の描写はなされていない……のも当然で、ポーリィはこのとき、オレンジエードを一切口にしていない。

 それでも上の引用部分を読んだだけで、グラスに満ちた、透明感のあるつめたいオレンジエードを構成する果汁の舌触りに思いを馳せないわけにはいかない。ひと切れ添えられた本物のオレンジも視覚的に印象深い。氷の入ったそれを、思わず唇に近づけたくなってしまう。

 

夢のような気分がとたんに消え去り、飲み物の中の氷が鳴るとともに、自分がどこにいるのか、何をしてしまったのかがわかった。ここはハンズドン館、ニーナとふたりで霊柩車を見かけた場所。 

 

(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ「九年目の魔法 (創元推理文庫)」Kindle版 (位置No.226-228) 株式会社東京創元社)

 

 オレンジエードの氷は、遺言の読み上げを聞いているポーリィの緊張の高まりと反比例してどんどん融解し、ついには完全に溶け去る。

 読者の私は不思議と、どこか自分の喉も乾いているような気がすることに思い至る。ほんのりと甘いであろう液体の味と冷たさ、ひと欠片の果肉の生々しさ、胸に刻まれたその印象は物語後半でよみがえり、誰かの台詞と共に「やっぱり口にしてはならなかったのかもしれない」と納得することになるだろう。

 日本のヨモツヘグイの伝承と同じで、死者のいる冥界に限らず、妖精の国など「別の世界に足を踏み入れたなら、そこに関係するものを食べてはいけない」言い伝えは西洋にもある。

 いわばお約束、といってもいい要素なのだった。