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それなりに可哀想なヒンドリーと「もういないはずの者」の名を持つ魔物 - エミリー・ブロンテ《嵐が丘》Ⅱ|19世紀イギリスの文学

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 何年も前に書いた「嵐が丘」の感想の一部を読み返した。

 そうしたら全体的に良くない意味でぼんやりしていて(作品のどこに惹かれたのかは一応伝わってくるものの)ちょっとな……と懸念を抱いたのと、やはり折に触れて再読するほど新しい発見がある古典なので、別の視点から感じた事柄もきちんと書き残しておこうと思った。

 ブログで最初に書いた感想はこれ:

 

 

 私は当時から、ヒースとキャシーの激情が大好きだったみたいだ。

 今回は登場人物「ヒンドリー」を出発点にしていろいろ考えてみる。

 

参考書籍:

嵐が丘(著:エミリー・ブロンテ / 訳:鴻巣友季子 / 新潮文庫)

ブロンテ姉妹と15人の男たちの肖像(著:岩上はる子、惣谷美智子 / ミネルヴァ書房)

ブロンテ姉妹の食生活:生涯、作品、社会をもとに(著:宇田和子 / 開文社出版)

 

訪れたヨークシャーの風景

 

 ヒンドリー・アーンショウ。

 キャサリン・アーンショウの兄であり、フランセスと結婚してヘアトン・アーンショウの父となった人物……。

 妻が亡くなってから、すっかり飲んだくれになってしまった暴力男。

 

 実のところ、ヒンドリーに対する自分の感覚にはずっと疑問を抱いていた。普段なら多分、私は「嵐が丘」という作品に描かれた彼の姿を、「かなり同情されるべき存在」として捉えていたと思う。不運で不遇な者、かつ悲劇に巻き込まれた側であると認識して。

 もちろんヒンドリーはいわゆる良い人ではない。全然。

 節度のない賭け事、自暴自棄な生活。最終的にああいう境遇に陥ってしまったのには、彼自身の人格と性質の方にも大いに問題がある。あまり、好感のたぐいを持つことはできそうにない。

 ただ……ヒンドリーの凋落の発端、すべての悲劇の「始まり」は一体どこの何だったのか、を突き詰めていくと、結局は「ヒースクリフという存在の侵入」に辿り着く。月並みな表現を採用すると本当にそのまま、お前さえいなければ、というやつである。

 

そのころにはヒンドリー坊ちゃんも、お父様を味方ではなく圧政者と見るようになってまして、ヒースクリフのことも、父親からの愛情と、息子としての特権を横取りした不逞なやつだというんで、こうした侮辱の数々を思いつめては、恨みつらみをつのらせていたようです。

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.78)

 

 ポケットの中で粉々になった、お土産のヴァイオリンの残骸。

 何の咎もなく、いきなり父親からの愛情をかっさらわれたに近いヒンドリーは、幼少期からけっこう可哀想なのだ。しかも作中で死を迎えた時点で、まだせいぜい27歳かそこら(ネリーと同い年)だと。読み返してみて驚いた。

 どんな風に説明すべきか迷うけれど、ヒンドリーの立場から見た「嵐が丘」の物語は、もはやある種の妖怪譚にも近いものがある。

 父はあるとき拾ってきた孤児(という異物)に心を奪われ、自分への当たりは妙に強くなり、数年もすると母が死んでしまった。謎の子供が家に入り込んだ瞬間から何かがおかしい。得体の知れないあいつは一体誰で、何者なのだろう。

 やがて父が逝き、最愛の妻が逝き、今度は妹も次々に逝き、幾年が経ったのか。気が付けば脳髄まで酒とギャンブルに浸っている……。

 

 ヒンドリーの父、先代のアーンショウ氏に「この孤児を拾って育てよう」とリヴァプールで決意させた要因は、ヒースクリフの何だったのか。

 薄汚れて、英語かどうかも判然としない言葉を発する子供の、境遇か、まなざしか、仕草か。あるいは他のものか。

 ちなみに、そのあたりの不可解さに対して「ヒースクリフがアーンショウ氏の隠し子、私生児説」も時に囁かれることがあるが、あくまでも「そういう可能性が考えられなくもないので面白い」くらいの位置に留まっているらしい。

 

【「嵐が丘」における伝統と個性 - 杉山洋子|関西学院大学リポジトリ】

 

 でもその説を採用したら、また、別の興味深い物語も生まれそう。読んでみたい。

 ……閑話休題。

 

 ともあれヒースクリフは、巧みにアーンショウ家に入り込み、養子としての地位を一度は確立した。初めは彼自身にもその意図がなかったにせよ。

 しかも与えられた名は、「幼くして死んだアーンショウ氏の息子につけられていたもの」なのである! 過去に亡くなった子の名を後から生まれた子に与える、これ自体は比較的よくある話。でも、ヒンドリーが巻き込まれた奇譚、その悲劇的な人生舞台の幕開として考えると、なんとなく不気味な感じがすると私は思う。

 早逝した息子(=長男)の名が拾い子のヒースクリフに与えられることで、疑似的な「家督の乗っ取り」が発生している恐ろしさ。

 この世を去ったはずの「もういない者」が戻ってきた、という図式。

 そして実際、洗礼名を得たヒースクリフはやがて成長した後にも屋敷と土地——ワザリング・ハイツ――を去り、今度は復讐のために「また」戻ってくる。

 この反復。悪夢のような、特定の形式に則ったおとぎ話のような……。

 

 

 

 

 

 件のヒースクリフは、どういうわけか他人を惹きつける。

 

旦那様はふしぎとヒースクリフをかわいがられ、この子の云うことはなんでも信用なさいますし(それをいったら、この子はほんのちょっぴりしか喋らないんですが、おおむね云うことに嘘はありませんでした)、キャシーより、よっぽどお気に召しておいででした。

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.77)

 

 安易にこういう言葉を使っているとは思わないでほしいのだが、アーンショウ家にやって来たヒースクリフという異物は、かなり魔性の(i.e. 性質がヒトよりも「魔」寄りの)存在なのではないかと思わされる部分が多くある。

 参考書籍に挙げた「ブロンテ姉妹と15人の男たちの肖像」の中でも彼の「非人間的な人物造形」に言及されていて、そこで大喜びしてしまった。物語の中で、およそ人間らしい、と他の登場人物や読者に言わしめる要素が少ない。在り方がずいぶん唐突で、きちんとその世界に実在しているのかどうかすら疑わしくもなってくる。

 嵐が丘を離れていた間の行動の不明瞭さも。

 かくいう私も、最初にこの作品を手に取った時には拒絶感(人間同士の尽きぬ罵り合いや、狭すぎる世界へ感じる嫌悪)の方が強く、どちらかというと「ドン引き」するような意識で一部始終を眺めていたはずなのだが……。

 いつの間にか、ヒースクリフという存在にすっかり注視させられていた。実はそれなりに可哀想なヒンドリーよりも。正直、彼にはちょっと申し訳ないと思っている。

 

この土地の人間は概して、よその人たちには気を許さないものなんですよ、ロックウッドさん、まずむこうから打ち解けてこないかぎり。

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.93)

 

 独断で「外」から連れて帰り、かつて死んだ息子の名をつけたヒースクリフに魅入られて、月日が経つとアーンショウ氏は徐々に衰弱していった。

 その病と拾い子との間に、これといった因果関係など別にないのでは……と思えるのは作中の出来事を俯瞰して見られるからであって、当事者のヒンドリーからすればすべての原因はそこにあるとしか思えなかったはず。

 ネリー(エレン・ディーン)はどちらかというとヒンドリーに同情的。なので、作中で語りの大部分を担っている彼女の目を通して見るならば、読者の私もヒースクリフとキャサリンに対して反発する気持ちの方が大きくなりそうだが、最終的にそうはならなかった。むしろ、彼らのことがとても好きになってしまった。

 ある種の魔に魅入られた、というならそうなのだろう。だって、どういうわけか味方をしてあげたくなってしまうのだ。とりわけ身分的、教育的な「格差」がなければ埋められたかもしれない、ヒースクリフとキャサリンの間の溝、引き起こされたすれ違いを思うと一層。

 

そう、あの意地悪なヒンドリーがヒースクリフをあんなに格下げしなければ、エドガーとの結婚なんて考えもするもんですか。
でも、いまヒースクリフと結婚したら、わたし落ちぶれることになるでしょ。

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.168)

 

 父が死んでからヒンドリーがヒースクリフに対して行った仕打ち、いつか必ず復讐してやる、と彼に決意させた行為は、生活の中で教育を受ける機会や、知性を育むことができるであろう場面を徹底的に奪うこと。それにより家族の一員としては扱わず、「ひとつ格下の世界」へと落としてしまうことだった。

 ヒンドリーからしてみれば、そうあるべき世界から異物を排除するための「正当な」行為にすぎない。彼は自分が当然保持するべきだった権利を取り戻したかっただけだ。

 もちろん、ヒースクリフにとってその意味は大きく違う。

 

 アーンショウ氏が存命の間にヒースクリフが受けた、さまざまな待遇の成果を台無しにする重労働。働きづめにさせられて、衰えていく知識欲。

 結果的にだんだんと身なりにも構わなくなり、リントン家に出入りするようになったキャサリンとの差も開いていった彼がかつて、ネリーに「きちんとした格好させてくれよ」と言っていたところなどは切ない。

 格下だと侮られたり、馬鹿にされたりすることへの嫌厭。

 

「あーあ、俺にもあんな金髪と白い肌があったらなあ。あんな服を着て、行儀もよくて、あいつみたいに金持ちの家に生まれついてたらなあ!」

 

(新潮文庫「嵐が丘」(2003) 著:エミリー・ブロンテ 訳:鴻巣友季子 p.117)

 

 ヒースクリフが意図的にそこから弾き出された「教育の系譜」、さらにヘアトンへ向かった復讐の一環の矛先。その象徴として、文中に繰り返し登場する「本」というものの重要性が挙げられるようだった。

 そのあたりは最初に読んでいた時には全然気が付かず、関連書籍に触れて改めて面白いと感じさせられた部分だったので、また次のブログにでもまとめる。

 ……やっぱりヒンドリーってちょっと不遇で、ちょっと可哀想。子供時代の彼らのやり取りを見るに、先代のアーンショウ氏も、皆を本当の意味で平等に愛してあげられていれば……とつい考えてしまうけれど、まあ不毛な想像だった。