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彷徨する自由帖

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火の国・火の山|文豪と手紙

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 正岡子規が夏目漱石に対して、こんな風に頼んでいた手紙があった。

 

「人に見せては困ル、二度読マレテハ困ル」

「決して人に見せてくれ玉ふな。もし他人に見られてハ困ると思ふて書留にしたのだから」

「明治三十三年二月十二日 夜半過書す」

「僕自ラモ二度ト読ミ返スノハイヤダカラ読ンデ見ヌ、変ナ処ガ多いダロー」

 

(岩波文庫「漱石・子規往復書簡集」(2010) 和田茂樹編)

 

 まかり間違っても他人の目になど晒してくれるな。

 そう念を押す箇所を読むたびに、当の他人である私がしていることはまぎれもなく「窃視」なのだ、当の本人に何らの了承も得ず、後世に出版された書簡集をためらいなく貪る行為は……との自覚が増し、罪悪感と愉悦の両方をおぼえる。宛先の人物に対してだけ綴られたはずの文字が、こうしておおやけに晒されている、残虐さ。

 私はこの手の「覗き」を比較的愛好しているのだった。

 表に出てくるはずのなかった誰かの言葉に目を通し、内情に思いを馳せるというのは、単純に胸が躍ることであるので。もちろん良くない趣味であるけれど、良くないから尚更なのかもしれない。本当にこの手の覗きが嫌いだったら、他人が綴ったものなど多分読まない。

 まったく関係ないが、調べると覗色(のぞきいろ)という、とても心を落ち着かせてくれるような綺麗な柔らかい青色が世の中にはあるようだ。閑話休題。

 

 ごめんなさいね子規、ごめんね、ごめんね、生前のあなた方に何の関係もなかった赤の他人が読んでいるよこれを、しかも大喜びで、としばしば内心で謝りながら、岩波文庫「漱石・子規往復書簡集」(和田茂樹 編)の全てを読み終えて、表紙を見た。

 そこに1枚の絵(子規・画)があり、ひとつの句が添えられている。

 

あづま菊いけて置きけり火の国に住みける君の帰りくるかね

 

 上の手紙と同じ明治33年の6月中旬、子規が漱石に寄せた書簡に記されていたもの。

 差出人の住所は下谷区上根岸町(現在の東京都台東区)。そして、受取人の住所は熊本市北千反畑、旧文学精舎跡になっている。明治29年から熊本大学第五高等学校に勤務していた漱石が、現地で住んだいくつかの家のひとつがそこだった。彼は勤務期間の4年間で何度も引越しをしており、旧文学精舎跡は、6つあった居宅のうちの5つ目である。

 私がじっと見ていたのは、子規の句に使われている「火の国」という言葉。

 火の国とは、かつては九州の中央から北西側にかけての一地域を指した呼称であった。それが正確な年代は定かではないが、古代律令制以前、すでに肥前(長野県と佐賀県、しかし壱岐・対馬を除く)と肥後(熊本県)のふたつに分かたれている。(参考:今尾恵介「ふしぎ地名巡り」ちくま文庫)

 

 私が中学生時代の3年間お世話になった体育科の教師で、所属していた同校の剣道部顧問も兼任していた人の出身地が熊本だった影響なのか、その頃から「火の国」と聞くと反射的に、噴煙をあげる阿蘇五岳を連想していたのが今も記憶に鮮やかだ。まだ、自分では実際に足を運んだことはない。ただ想像の中だけで。

 てっきり、阿蘇の山々の火山活動が由来でできた呼称なのだと思い込んでいたが、あの有名な不知火説や、各天皇による命名説など、確かなことは分かっていないらしい。

 とにかく私の中に、

「火の国」は恩師の出身地・熊本。

 熊本といえば、阿蘇の火山。

 火山がある火の国。

 ……という単純な図式ができあがっていたせいなのか、あるとき耳にしたルイージ・デンツァ作曲「フニクリ・フニクラ」の日本語版(場合によって「登山電車」とも)の歌詞を、長年のあいだ間違って覚えていた。

 間違って、覚えていた。

 

 元のナポリ語歌詞はジュゼッペ・トゥルコ。恋心が副題材の歌。

 日本語版の歌詞は青木爽・清野協で、本来ならばそのサビはこう歌われる。

 

行こう行こう 火の山へ
行こう行こう 火の山へ

フニクリ フニクラ
フニクリ フニクラ

誰も乗るフニクリ フニクラ

 

【出典「Fnicli-fnicla フニクリ フニクラ」作曲:L. Denza 作詞:青木爽・清野協】

 

 そう、私は上の「火の山」の部分をどういうわけか、勝手に「火の国」だと思い込んで十何年も過ごしてきた。冷静に考えるとそんなわけはない。最近勘違いが正されて、間を置かずに漱石と子規の書簡集を手に取ったものだから、なんとなく「あづま菊~」の句がそれを思い出させた。

 フニクリ・フニクラは熊本県に観光客を誘致する歌ではなかったのだ。

 歌われているのは山。火の山。果たして再び噴火するのかしないのか、イタリアで今も微睡んでいるそのヴェスヴィオ火山にて、19世紀後期に運行していた登山電車……「フニコラーレ(ヴェズヴィアナ鋼索線)」の存在を周知するためにこの曲と歌は作られた。フニコラーレの愛称がフニクリ・フニクラというわけで。

 プロモーションというかコマーシャルというか、この手の音楽は的確に人間の耳に残るよう設計されているところがあって、感心する。今なんとなく脳裏に浮かべられるものだと、ハトヤホテルのCMとか、カステラの文明堂のCM(文明堂豆劇場)とか。もちろんフニクリ・フニクラも一度聞いたが最後、もう忘れることはできない。

 

 当の登山電車フニコラーレは、昭和19(1944)年に発生したヴェスヴィオ火山の噴火で被害を受け、運行を停止している。

 その曲や関連映像だけが残り、地上のどこかでフニクリ・フニクラが歌われるたび、歌い手と聞き手の意識はそこに持って行かれるのだった。もう存在していない登山電車に続々と乗り込む。逃れようと試みても決して逃れることはできず、最後は火口や山頂からの風景を、黙って見ることになる。壮観だ。

 もう夢にしか出てこない登山電車、あの急勾配を上り下りする、斜めの形をした車体。

 行こう。乗ろう。

 ずっと頭の中で曲が流れている。

 

 阿蘇山に登山電車は設置されていない(火口行シャトルバス有)が、もしも明治期の熊本にそれが存在していたとしたら、彼らもきっと乗ってみたがったことだろう……と私はつい考えてしまう。

 文明の申し子を憎みながらも愛していた夏目漱石と、日頃から彼と同じく旅行に心を寄せていた正岡子規。

 この記事で引用している手紙はいずれも明治33年のもので、当時、子規は病床にあった。東京の根岸で脊椎カリエスの病状に苦しみながらも、静岡県の興津に居を移して療養したい、と願った彼。

 その背景には留学先のイギリス・ロンドンにいた漱石や、フランス・パリへ渡った浅井忠など、遠方にいる友人の存在も影響していたのではないか、という見解が牧村健一郎「漱石と鉄道」に載っていてしんみりとした気持ちになる。

 もう旅行などままならない身だけれど、友達がそうしているのと同じように、自分も少し遠くへ行きたい。叶うなら温かい興津の地に。そんな風に思う心が子規の胸中にもあったのではないか、などと想像させられた。

 もちろんこれも手紙の窃視と同じで、趣味の悪い覗き見のようなもの。もういない誰かの心情へと勝手に首を突き込もうとする愚かさ。でも、やめられない。彼らのことが好きなのだ。

 

水の泡に消えぬものありて逝ける汝と留まる我とを繋ぐ。去れどこの消えぬもの亦年を逐ひ日をかさねて消えんとす。

(中略)

汝の心われを残して消えたる如く、吾の意識も世をすてて消る時来るべし。

 

(岩波文庫「漱石・子規往復書簡集」(2010) 和田茂樹編 p.423)

 

 渡航先で子規の訃報を耳にし、やがて帰国して、墓所に足を運んだ漱石が書き残した文章の一部。

 書簡集から読み取れるのは、忌憚のない率直なやり取りのうちに散見される、思わず微笑んでしまうような言葉たち。それから、とても涙なしでは読めないような、切実な感情の吐露。

 時にすれ違っても、意見が異なっても、強い絆で結ばれていた二人であった。

 

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