読者の方々がすでに知っているように、このブログの管理者は夏目漱石作品を愛読していて、それらを世に送り出した作家本人にも並々ならぬ興味を持っている。とても、好きなのだ。漱石先生が。
だからいつも残念に思っている。
実際に漱石がそのような発言をした、という記録がどこにも残っていないのに、かなりの人々がその根拠を確かめないまま、不確かな情報の拡散に加担してしまっている事柄があることを。
「夏目漱石が "I Love You" を『月が綺麗ですね』と訳した」という伝説には、その典拠となる文献が、ない。
現時点でどこにも見つかっていない。
・国立国会図書館のレファレンス協同データベース
しつこいようだがもう一度書く。
「夏目漱石が、英語における "I love you" を『月が綺麗ですね』と日本語に訳した」という言説には、出典がない。
現時点でどこにも見つかっていない。
彼がいつ、どこで、さらにどのような場面でその発言をしたのかはいかなる文献にも残されておらず、ただ後世の人間が勝手に「このエピソードは有名だが……」と色々な場所で言っているだけなのだった。信憑性を担保するものが何もないために。
単なる伝説、俗説である。
どこにも証拠がない事柄を、さも「真実」であるかのように吹聴するのは、果たしてよいことだろうか。
この出典の存在しない逸話について、定期的にそれを理解している人達が「そんな発言の記録は残されていない」と言ってくれるのは救いだった。私は漱石先生とその作品が好きな側の人間であり、ことの真偽がどうでもいいとは欠片も思わないため、いい加減にしてくださいと言いたくなる場面が多々ある。
本来であれば他愛もない、証拠がなく噂の域を出ないはずの話が、あたかも実際にあったエピソードのように扱われ、さらにあまりにも人口に膾炙しているのである。
自分自身も作家の残した作品以外、いわゆる文豪面白エピソードに言及(要するに消費)することがある立場であるものの、せめてそれが事実に基づいた逸話なのか、根も葉もない噂の上に重ねられたものなのかくらいは、都度調べたい。
真偽が不明なら不明な旨を明記しなければ、出典不明の説が真実としてまかり通る。どんなことでも本当だと言い放題になってしまう。
ありもしないことを「あった」と断言したり豪語したりはできない。
なまじそれらしいだけの逸話を捏造し「有名な〜」と根拠なく話題に挙げてしまうと、驚くほど簡単に人口に膾炙する、嫌な一例。どうしてこんなにも根強いのか……。
しかもこれ、大抵は漱石先生のことが別に好きなわけでもなんでもない人たちが拡散に加担しているから、泣いてしまう。
出典のない逸話を広めるくらいなら、実際に残っている著作物や書簡や講義の記録から、夏目漱石自身や漱石の小説に出てくる登場人物の言葉を探してみてほしい。
その上で、例の翻訳が彼らしいエピソードだと感じるどうかはもちろん読者の自由だ。勝手に証拠があると思い込まなければ。