本棚から創元SF文庫「星を継ぐもの」が出てきた。
J・P・ホーガンの著作で日本語訳は池央耿。《巨人たちの星シリーズ》3部作の、第1部だった(しかし、かなり後になって新しく第4部が発行されている。さらにそれ以降の続刊は日本語に訳されていない)。
読むと、この作品が「SF」であり「推理・ミステリ」でもあると評されている理由が分かった。
同時に、なんて地味なんだろう……としみじみ思い、考えるほどに嬉しくなる。
扱われる問題は壮大なのに、物語の仕掛けとして使われている叙述の手法自体はすごく、ものすごく地味、なのが実に良かった。読者は中盤で気付きを得て、最後の結論に至り、またプロローグに戻って納得する。あの流れ。
基本的な筋書き以外の部分では、ハント博士の述懐が印象に残る。
彼は現実を「相対的な〈量〉」だと感じるようになる。確固たる絶対的な現実が、そこに帰ればいつでも同じようにあるのではなく、その時己の身を取り巻いているものと、対峙しているものだけが現実でありうるのだと。
慣れ親しんだ地球を離れた瞬間に、生まれた時から慣れ親しんでいたその海も大地も、もはや現実ではなくなる。再びそこに戻るまでは。
戻ることがなければ……地球は(たとえ客観的には存在していたとしても)、未来永劫に「かつては現実だと思えた夢の名残り」となる。
引用部分を除いて約500文字
以下のマストドン(Masodon)に掲載した文章です。
〈……この先ネタバレ……〉
他の人の感想を検索したら「プロローグでコリエルが『巨人』と呼ばれていた理由が分からない」もしくは「なぜあの時点で月面にチャーリー(仮称)が巨人といたのか」というものが散見された。
それは物語の後半をよく読めばおのずと理解できてくる要素で、プロローグの描写はいわゆる「叙述トリック」になっている。
ダンチェッカー教授とハント博士の会話を見てみよう。
ルナリアン語で書かれた文章に登場する〈巨人〉の語は慣用句的なもので、超大な力や卓越した知識など、普通の人間よりも優れたものを指すときに使われているのだった。だから疲れを知らないように見えるコリエルをチャーリー(仮称)は巨人と呼んでいた。プロローグは彼らの視点で描かれているから、その慣用句が読者には最初理解できない。読み進めるうちに分かってくる。
ゆえに、コリエルはガニメアン種の巨人ではなく人類(ミネルヴァで生まれ育ったルナリアン)であり、後に作中世界の地球に降り立って、私達の祖先となった存在である。