chinorandom

彷徨する自由帖

MENU

夢野久作《女坑主》口先で弄する虚無より遥かな深淵を覗いたら|日本の近代文学

 

 

 

 

 

 

 物語に名前が登場する新張琢磨のモデルはきっと、実在した伊藤伝右衛門のような、明治大正期の炭坑成金なのだろう……と思う。

 

新張家の豪華を極めた応接室の中央と四隅のシャンデリアには、数知れない切子球に屈折された、蒼白な電光が煌々と輝き満ちている。
その中央の大卓子の上にはトテモ炭坑地方とは思えない立派な洋食の皿と、高価な酒瓶が並んでいる。

 

(角川文庫「少女地獄」(2012) より「女坑主」夢野久作 p.252)

 

 いかにも気弱そうな青年と凄艶な女坑主とが、絢爛な応接間で向かい合い、会話をしている。紙上に展開する空間は、冒頭から余剰を感じさせるほどにきらびやかで、それでいて、どこかうす暗い雰囲気にも包まれているのだった。

 昭和初期に発表された夢野久作の「女坑主」は、文庫にして約20数ページという短さに収まる。

 その中ではじめに場面が切り替わり、意表を突く要素が描かれたかと思えば、今度は重ねるようにして一気に力の関係が転換させられる。出し抜く方と出し抜かれた方……2人の人物が収められた画の構図は、ひとつ前の場面と比べるとまったく主従が反対になっている風にも見えた。

 一連の展開は、いわゆるスパイ物語から抜き出したもののようで疾走感があり、読んでいて単純にわくわくさせられる。最近の小説だと柳広司の「ジョーカー・ゲーム」シリーズも連想した。

 そして筋書き以外にも魅力的なのは情景描写に加えて、ほんの束の間だけ顔を合わせてやり取りした2人、青年と女坑主・新張眉香子の人物造形。彼らが自身の口から語り、あるいは実際に行動で示してみせた「虚無」への姿勢の味わい深さが、そこにはある。

 

書籍:

短編集 少女地獄(著:夢野久作 / 角川文庫)

 

 

※以下で物語の内容やその詳細に言及しています。

 

 

 応接室でぎこちない受け答えをする、純真そうな青年。

 彼は実のところ、虎視眈々と望む筋書きのために冷静に思考を巡らせ、ダイナマイトを手に入れて遁走しようと画策していた某党の九州執行委員長だった。

 本当は上海にある党の本部へ仲間と共に逃げ込むつもりなのに、それを偽って「今後の日本政府のためエチオピア(スエズ)で爆破事件を起こし、イギリスとイタリアの戦争を引き起こす」と言い、眉香子の興味をそそる。12人いる仲間のうち5人は東亜会つながりの軍事探偵で、これまで世界各国に散らばり、情報収集をしていたのだ……と。

 青年が語る「虚無観」は、そんな彼の作り話に端を発して述べられる。

 いわく、ダイナマイトの爆薬を使って水雷を完成させたら、くじ引きで決めた数人が水雷を持ってイギリスの軍艦のそばまで行く。あとは人間もろとも玉砕させる算段だが、これはどうしても計画を完遂するために必要な犠牲なのだ、と言う。

 

 話を聞き、尊い若者の犠牲があまりにも惜しいと嘆く眉香子。

 彼女に対して青年は、そもそも生きている実感など自分達にはなく、ただ衰えていくよりは使えるうち、できるだけ派手に命を使ってしまいたいと返すのだった。一般に情熱を傾けられそうな恋愛なども、結局は空虚な約束事であり、この世の真実とは空っぽであると語る。

「だから何もかもブチ壊してやりたくなる」のだと。

 

「世界中のありとあらゆる夢よりも、僕の心に巣喰っている虚無の方がズット深くて強いんですからね……明日になったらキット醒めちゃうんですから……」

 

(角川文庫「少女地獄」(2012) より「女坑主」夢野久作 p.255)

 

 だから、爆弾で死ぬことなど厭わない。

 そこへ眉香子はこう告げた。

 貴方に、死ぬのをイヤにならせて見せましょうか。

 

「理屈を言ったって駄目よ。明日になって見なくちゃわからないじゃないの。醒めようたって醒め切れない強い印象を貴方の脳髄の歯車の間に残して上げるわ……あたしの力で英、伊戦争を喰い止めてお眼にかけるわ」

 

(角川文庫「少女地獄」(2012) より「女坑主」夢野久作 p.255)

 

 この台詞が、鮮やかなまでに最後の場面にかかってくる。

 

 

 

 

 

 物語の初めに、眉香子という人物の背景にあるのがどのような経緯だったのか、概略が叙述されていたことをしみじみ思う。

 映画女優から福岡の筑豊における炭坑王・新張琢磨の妾となり、もとの正妻を押しのけて自分がその座についたかと思えば、遭遇したのは夫の急死。彼女が受け継いだ新張炭鉱には2千余人の労働者、内には前科者も含まれている中で、炭坑の元締めとして立派に君臨し周囲を失望させずにいるのが新張眉香子という人物なのだった。

 彼女が約40年の人生を通して、一体どのような人間の闇に対峙してきたのかは想像することしかできない。

 だが終盤で「人間を棄ててしまった女優上り、サンザしたい放題のことをしてきた虚無主義のブルジョア、惜しい浮世などない」と自身を称しているところからしても、一般市民には及ばない領域で数知れぬ物事を垣間見てきたはずだと思わされる。

 

「アンタ……それじゃ虚無主義者ね」
「そうですよ。虚無主義者でなくちゃ僕等みたいな思い切った仕事は出来ないんです」

 

(角川文庫「少女地獄」(2012) より「女坑主」夢野久作 p.254)

 

 この応接間で交わされた会話とは反対に、一切の夢も理想も掲げず、世の中など所詮はこんなものだと冷めきり、社会と人間存在の虚無をジッと見据えているのはむしろ眉香子の方ではないかと唸らざるを得ない。

 青年と眉香子は応接室で、相互に虚偽の人物を演じていた。

 

 青年の方に目を向けてみよう。実は某党員として上海の本部へ遁走しようとしていた彼だが、警察によって畳に転がされ、眉香子に「覚えておれ」「殺してやる」と吐き捨てた様子からは虚無的な様子など欠片も伺えない。当然だろう。所属している組織のために働き、いずれはその党の理想を実現させることこそが、おそらくは彼の抱いていた種類の「夢」だったのだから。

 仮に青年が真に虚無的な人間であれば、すべてを成り行きに任せ、別にいつ死のうが変わらない……と自分自身の状況すら諦念をもって静観するだろう。「プロ(プロレタリア)の闘士」たる青年が最後に見せたのは、そういう態度ではなかった。

「僕の心に巣喰っている虚無の方がズット深くて強い」と嘯いた面影など、もう欠片もない。

 

 出し抜こうとして、出し抜かれる。

 そういう水面下で展開した嘘と不人情の応酬、口先で弄された虚無感。けれど物語を通してたった一点、その厚い演技の仮面をはぎ取るとまでは行かずとも、何か真実のようなものを垣間見られる場面が作中には確かに存在した。

 見よ、と、誰にともなく強く促されたあの場面。

 草木の一本、犬の一匹、人間の一人も存在しない「寂寞無人の厳粛な地獄絵図」。

 

それは一本の木も草もない、荒涼たる硬炭焼滓だらけの起伏と、煙墨だらけの煉瓦や、石塊や、廃材等々々が作る、陰惨な投影の大集団であった。人間の影一つ、犬コロ一匹通っていない真の寂莫無人の厳粛な地獄絵図としか見えなかった。
その片隅に、もう消えかかったガラ焼の焔と煙が、ヌラヌラメラメラと古綿のように、または腐った花びらのように捩れ合っているのであった。

 

(角川文庫「少女地獄」(2012) より「女坑主」夢野久作 p.257)

 

 こんな「地獄絵図」たる新張炭鉱こそ、現在の眉香子の持ち物。

 うろたえた様子もすぐに霧散し、応接室を出てからは冷静に振る舞っていた青年の胸にだって、間違いなく強烈な印象を刻んだだろう。もちろん読者の胸にも。

 ぼんやり「瓶詰地獄」や「少女地獄」など、夢野久作の代表作が題に冠しているそれぞれの地獄のことを考えた。この世のあちこち、時には足元に、それらが口を開けている。

 

 パブリックドメイン作品なので、以下のリンクから全文が読める。

夢野久作 - 女坑主 全文|青空文庫

 紙媒体の購入はこちら。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 次に「坑主」ではなく「坑夫」の物語はいかがでしょうか?