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彷徨する自由帖

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柳広司「トーキョー・プリズン」人間の《本質》という儚い幻想への憧憬|ほぼ500文字の感想

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 J・ロンドン「白い牙」からの流れで柳広司「トーキョー・プリズン」を手に取ると、試されている気分になる。

 もちろん自分が勝手にそう感じているだけ。

 

“イツオは、あるいはキジマは、私であったかもしれない。
(中略)
そうならなかったのは、ごくささいな偶然の積み重ねの結果にすぎなかった。”

 

(柳広司「トーキョー・プリズン」(2009) 角川文庫 p.409)

 

 状況が変われば、人はあらゆることを実行できてしまう。「狂気」という言葉は便宜的に使われるが、では「正気」とは?

 何がそれを定義できるというのだろう。

 100人のうち1人だけが正気であるとするならば、その1人はなんと、狂っていることになるのである。

 

 環境と、環境に影響される生物の性格を頑なに切り離したい意識は消えかけても自分の内側に残っている。

 以前はそれが「本当に高貴な心を持った人間なら、どれほど過酷な目に遭わせたとしても高貴な心を失うことはない(すなわち途中で気高さを失った者は、本質から気高い人間ではなかった)」という暴論に繋がっていたのが問題だった。

 不変のものへの憧憬と実際とを、ある程度切り離せれば、あるいは……。

 登場する要素「キジマの記憶喪失」と「世界五分前仮説」の組み合わせは、単純に「現実とは何か」を説明するのは誰にもできず、絶対も存在し得ないことを示している。

 

 ところで「机を兼ねている蓋付き洗面台と椅子兼便座」を見られる監獄は、現在でもどこかにあるのだろうか?

 あるなら見学したい。

 

 

 引用部分を除いて約500文字

 以下のマストドン(Masodon)に掲載した文章です。