2018年の1月22日、このブログに最初の記事が投稿された。留学生時代のイギリス、現地の郊外で経験した小旅行と、土地について後から調べたことの記録だった。
あれから4年が経過した今でも、私はこうして同じブログを更新し続けている。
基本的に、いつも頭の中が忙しい。
視覚、聴覚、触覚を通じて流れ込んでくるものが、身のうちで無限に渦を巻いていて、順番に整理するのにひどく苦労する。それだけではなく、過去の回想や追憶によって自動的に再生される映像を、随意に止めることができない。勝手に脳内で流れ続けるから。
眠る(意識を失う)まで。
私がこの世界で、単に思考するだけの役割を担う存在だったならば、多分それでも良かった。けれど、そうではないから非常に困っている。
外から受け取り、また内側で新たに生まれる無尽蔵な情報や感情を抱えながらだと、普通の人間としての生活に大きな支障が出るのだと実感した。
ある時は歩いていると、瞼の裏にあったはずの風景が本当に眼前に広がっていて、変な道へと入り込んでしまう。うっかり、木や壁にぶつかりそうになる。
今ではなく、此処ではない場所で起こったことが再生されて、さっきまで会話していた人間の言っていることがもう聞き取れない。相手が誰かも一瞬、失念する。
不可解なことに出会うとそれについてもっと知りたくて、深く掘り下げたくなって、その糸口を掴むまでは新しい事柄に思考を割けない状態に陥る。
加えて、あ、今、何かを見た、何かが聞こえた、何かに触った、広い地球の上で常に物事が動いている、という実感。
それらの要素も容赦なく横から介入してくるから、起きているかぎり頭の休まる瞬間がない。
少なくともここ十数年はずっとそう。
特に物を考えず、感じもしない穏やかな安息の状態に、ほんの短い間であったとしても自分の身を置くのは、正気を保っている以上不可能のようだった。どうも根っからの性質らしいのだ。いわゆる酩酊できそうなものを片端から摂取しても、一向に駄目。
いつも、頭の中が忙しい。
それでも唯一の救いというべきか、わずかでもこの忙しすぎる頭を休める方法が、無いわけではないのだと知る。
そう、書いて、思考を(一時的にでも)外部に保存しておく行為。
すると全てではないにしろ、どこに置いておけばいいのか皆目わからなかったものの幾つかを、散らばった状態から机や棚の上に乗せることができる。床が見えれば掃き掃除ができる。掃き掃除ができれば、隣の部屋まで素足で歩いていける。
思考に隙間ができると、他人と会話をしたり、通常の人間のような振る舞いをしたりすることが可能になるわけだ。ありがたい。
だから、こうして書くことが習慣になっている。ブログだけじゃなく、例えばTwitterのようなサービスも正直、かなり私の役には立っているのではないかと改めて思った。
それがきっと更新の続いている主な理由、なんだろう。
あとは以前から書いているように、交信をしたい。
どこにいるのか知れない、本当に存在するかもわからない、私の言葉を受け取ってくれる誰かと……本物と、出会ってみたい。
何も行動を起こさなければ可能性はゼロに近くなってしまうけれど、書き続けていれば、もしかしたら邂逅できるかもしれない。
結局、愚かにも希望を捨てられないんだな。
でも、いや、だからこそ、これからもずっとやめないと思う。
他に、何をどうすることもできないし。
明確な意味や意義、要するに「私が存在しなければならない正当な理由」が無い世界で、この人生をどんな風に使うのが自分にとっての正解なのか、未だにわからないから。
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