わたしの日課は、朝になるとポーチの掃き掃除をしてライオン像の埃を払い、夕方には頭を叩いておやすみを告げること。週に一度はお湯と洗剤を使ってたてがみと丸い足先の部分を洗い、歯の間も綿棒できれいにしてやっている。
(中略)
町の人々は、うちの玄関のライオン像をとても自慢に思っているので、わたしの姿を見かけると、誰もが会釈してみせる。
そして、わたしが死んだ時には……。
(創元推理文庫「丘の屋敷」(2008) シャーリイ・ジャクスン p.27 渡辺庸子訳)
そんな空想を愛したエレーナは、ひょっとしたらこの辺りにも住んでいるのかもしれない。
どこか、表の通りからも上空からも見えないところ、およそ私たちには知覚できない次元にある場所で、エルダーベリー・ワインの注がれたグラスを傾けている。
番人じみた門柱に目を留めたらその奥にいたライオンにたぶらかされて、足がもつれ、はじめは行こうと思っていなかった場所に引っ張り込まれた。
坂の中腹にある平坦な煉瓦敷きの道。脇の家は旧フリューガ邸とあるが、石像横にある肝心の玄関は固く閉ざされていたから、今日は休業しているのだろう。情勢の影響でもうしばらく開けていないのかも入れなかった。
通路を抜けて、庭の側に出る。
どういうわけか周囲にはしきりに風鈴を思わせる高い音が響いている。金属的で規則的、かつ淡々とした響きは、まるでささやかな意思の伝達を試みる信号のよう。
数本先の通りの方から話し声が聞こえる。でもここに人間はひとりもいない。
どうやらまた、この種の地獄に来てしまったみたいだ。
まわりに誰もいないから、世界に存在する人間はもう私だけなのかもしれない、と思わされる。あるいははじめから他には誰もいなかった可能性もある。あまりにも風景が「それらしい」から、ここに人間が暮らしていなかったはずはない、と考えたいだけで。
無人の家、
動かない馬車、
水の湧かぬ井戸。
気まぐれに配置された物事は外観だけのはりぼてで、機能を持たない。
おもちゃの町だ。人影に話しかけてもそれは単なる人形であり、ものを言わず、動きもせぬ。でなければ、外部刺激に応じて決まった動作を繰り返す。
似ている。あの感じに。
通っていた小学校の図工室で1枚のポスターに出会って以来、私の地獄はいつもイヴ・タンギーの絵の形をとってあらわれる。目に映る、または耳に聞こえる現実に、ぼんやり重なるようにして顕現する。
あの風景は実に荒涼としていて砂漠のようだ。
けれどそれだけじゃない。むしろ、ただ荒涼としているだけならまだ救いがあっただろうし、ゆえに地獄の写生画にはなり得なかったはず。
画面の中に配置され、時には浮遊している何らかの物体は、人間や文明の存在を示唆するような形状をしている。
即ちわざわざ作ったみたいな、とうてい自然界には存在しそうもない姿で。
それらを根拠に地平線さえかすむ広大な世界を彷徨い、誰かいるのか、と尋ねてみても答えはない。ドアノブに見えるものを思い切り引く。しかしそれは扉ではないから開かない。物体に、一見すると文字のようなものが書かれている。しかし理解できる部分がどこにもないから読めない。
「意味ありげなだけでどれも本物ではないもの」がひたすらに並び、わずかな期待だけを持たせて永劫に人間を踊らせる。
そういう地獄。
小さな穴に飛び込んだなら、その先にはもっと奇妙な世界があるのだろうか。あるいは人間たちや、人間にもわかるものが存在する世界だろうか。
馬のいななきが聞こえ、視界の端で誰かが駆けた、ような気がした。
刹那スカートの裾が角の向こうに消えたらもう何もいない。気配すらも。
ここには自分と意思を通わせられるものがないのだ。機械仕掛けの装置みたいに、勝手に動いている。私の理解できない法則に従って。例えば付近にはベンチのようなものが並んでいるが、あれらが本当に私の認識しているベンチと同じものかどうか、は判断しかねる。置き物かもしれないし、生き物かもしれない。
ことごとく意図も認識もすれ違う。星新一の「宇宙通信」を思い出した。
庭に足を踏み入れたときから、ずっと風鈴の音が鳴っている。
幼いころは高熱にうかされたり、ふと路地でひとりになったりすると、タンギーの作品から滲み出る要素を周辺環境から勝手に受け取って不安になっていた。大人になった今、私はむしろ、そういう地獄の絵の風景がすっかり大好きになったといえる。
たぶん、そもそも世の中の方がそういう地獄みたいなところであるのだと実感したからだ。絵画の方が整っていてよほどいい。
ここは意味深長の地獄。
現実、毎日どこにいても意味ありげな、理解できそうなものに囲まれている。物も人間も。彼らを本当に理解できているのか、はともかく、そう錯覚しなければ一切が成り立たない仕組みのもので溢れている。