過去の採掘と研磨
ああ、これならもう十分だ、と思えるだけの時間をかけて煮詰め、徹底的にそのことについて考えてみないかぎりは、過去に経験した出来事が「自分にとってどれほどの価値を持つものなのか」がわからない。
それは良い思い出か? 悪い思い出か? または、どちらでもない?
まったく精度の高い判断ができないのだ。いちど暫定的な答えを出してからも、何度も飽きるまで、繰り返し検証してみないことには。
自分自身へ問い続ける。
……うん。確かに、あの時は幸せだったよね。でも、その頃に感じていた幸せは「ほんとう」の幸せだった?
周りを取り巻いていた他の要素にも、状況にも、きちんと目を向けた? 胸に浮かんだ、怒りにも似たあの気持ちの正体はなに? 全部を踏まえてよく考えてみたら、その幸せってもっと別の感情だったといえるんじゃない?
……ああ、確かに、あれは悲しいことだったよね。でも、その頃に感じていた悲しみは「ほんとう」の悲しみだった?
それを引き起こしていた他の要素にも、原因の根幹にも、きちんと目を向けた? 脳裏をよぎった、喜びにも似たあの気持ちの正体はなに? 全部を踏まえてよく考えてみたら、その悲しみってただの錯覚だったともいえるんじゃない?
私が本当に感じていたこととは、一体何だったのだろう?
繰り返す。
あらゆる感情の整理に必要なだけの時間をかけて、飽きるまで、延々と問い続ける。
この性質のせいで、現在の視点からすれば過去に存在した人間が常に一番好きだし、過去に眺めていた景色こそが、この世で一番美しい。他のどんなものにも言える。
感覚の徹底的な整理を経て、最後まで淘汰されなかった存在だけが、自分にとっての「本物」だと判断されるから。
要するに私は、肌に触れているものや網膜に映っているものと、それらに接した際の感覚を分析するのに、人一倍の労力を費やさないといけない類の人間であるようだった。とにかく、物事の発生から時間を置くことが必要なのだ。
なんだか不良品じみている。あるいは、旧式の機械。とうに保証期間は終了しているみたいだけれど。
つねに驚くほどの速さで展開し、淡々と処理されていく世界や人々の動きすべてを、今日も車窓ごしの非現実的な光景としてじっと見つめている。
◇ ◇ ◇
記憶の貯蔵庫は鉱山や坑道みたいなものだ。厳密にいえば性質はかなり異なるけれど、似ている部分もたくさんある。
私は用があれば、カンテラを携えてそこに下りていく。
結晶化した過去の断片を求めて。
年月を経て、冷え固まった塊。それらは発生した当時からすると想像もできなかった色や形になっているものが多く、暗がりへ伸ばした手から伝わる意外さに感覚を刺激されながら、ひとつひとつを掘り出す。
角がすっかり取れて丸くなっているもの。どれほど長いあいだ眠っていたのだろう。また、未だに鋭利な輪郭を保っているもの。とくべつに高い硬度をもつ何かだ。
鉱石のような記憶の欠片は、地上に持ち帰って磨いてみないと詳細がわからない。
掘り出した直後に察せられるのは、それが自分のいつごろ抱いた感情で、発端がどんな出来事や情景だったかという、おぼろげな印象にとどまる。
採掘はとても心細い作業だ。
ごくまれに、まだ完全に凝固していない記憶の流れに足を取られて溺れたり、大けがをして隅でうずくまっているところを、また違う記憶に襲撃されて危害を加えられたりする。忽然と現れた湖にいくつのカンテラを沈めてしまったか、数えるのもやめた。
でも、どうにかして結晶化した過去を持ち帰らないと、私の経験は知覚にまで到達しない。ずっと未検証のまま、「よくわからないもの」として深くに埋もれてしまう。それは避けたかった。理由は、知らない。
意識の表層に戻ってきたら、すべてを綺麗に磨く。
そうして初めて、自分にとってその物事や感情がどんな意味を持つのか、あるいはどれほどの価値を持つのかが、徐々に明らかになっていく。
特に重要なものは早めに掘り当てておかないと、暗がりにひそむ結晶そのものが悪夢の原因になってしまう場合があるので、気が向かなくても定期的に行うのだった。
最後には「観賞」を行って、感覚の整理の一区切りとなる。
幻灯機みたいな回想の観賞
炎を挟んで悪魔と語り合うように、意識の深層から採掘し、さらに平たくなるよう研磨した石を光にかざしてみる。
すると、その幻灯みたいな板が壁に活動する絵を映し出すから、眺めて内容をつぶさに確かめるのだ。過去に存在し、経験した当時はわからなかった、いろいろな要素をきちんと認識するために。
思い出の再生、停止、早送り、巻き戻し。今度はまた、はじめから再生。
回想のなかで、過去を分析すること自体がまず面白い。けれどそればかりでもない。
実のところこれは、かなり中毒性の高い行為なのである。
どれほど重く苦しい記憶や感覚であっても、結晶をひたすらに磨いて別のものへと昇華させる過程で、あの意識の坑道で牙をむいてきたような凶暴さが薄れる。
あんなにも手強かったものが、もはや、ちっぽけな私に大した傷をつけることも叶わない存在になる。
この感覚を好きなだけ味わうのがやめられない。
いつだって取るに足らないものに翻弄されてしまう自己が滑稽で。振り返ってみて、ようやくそれを直視し、捕獲できるようになるのが興味深くて。
過去の事例から学んで、じゃあ次はもう少し上手くやろう、と思うこと。それから、ずっと懸念だったものと不安の首根っこを捕まえて、縄できつく括り、吊るしあげること。そこにあるのはまぎれもない愉悦だ。
とてもいい。昔は脅威だった記憶を、きれいな幻灯の檻に閉じ込めて、気の済むまでなぶるのは。
そうして笑いながら呟く。昔の自分は、こんなにも無価値でつまらないものに煩わされていたなんてね。ははは。じゃ、ここらでちょっと死んでよ、さよなら、って。
思い出の反芻は喫煙や飲酒と似たようなものだ。 中毒性があって、たぶん健康にも悪い。 あるいは思考を「しすぎる」ことそのものが。まるで病を患っているかのように、起きているあいだは思考することが止められない。
再生と停止を自在にできる弊害がそこにある。そのうち自分の手を離れて、勝手に繰り返されるようにもなる。ここまでくると扱いが難しい。
私は(不本意なことに)人間であって、ブロークン・レコードではないので、その状態に身をやつしていると生活に困った影響が出る。
頭の中で延々としゃべり続ける自分や誰かの声がうるさい。しかも、昔あった事柄や見聞きしたものの記録テープがその背景でずっと流されている。基本的には朝起きた瞬間から始まって、夜に眠るまで、ずっとこう。
それらに黙って耳を傾けて、気が付くと知らない土地に立っている場合があるのが恐ろしい。
だからこうしてキーボードを叩いたりノートを広げたりして、書いている。脳内をぐるぐる巡る情景や言葉を、文字に変換して外側に置いておかないと、いつか大変なことになりそうで。
私の場合、こればかりは絵を描くんじゃどうにもならなかった、だから最近は筆や色鉛筆を握る機会がめっきり減ったわけだ。それでいい。
一般に理解や共感をされたためしがないので、自分と同じようにcrazy overthinkerらしき傾向が見られる誰かの著作や日記なんかを発見すると、俄然うれしくなってしまう。発見したそばからブックマークして何度も読む。
ああ、そういえば。
いつか、ひどく悩んだり落ち込んだりしている私を見て「考えすぎ」だと励ましてくれた誰かは、たった今どこで何をしているんだろうか。
さっぱり知る由もない。