家の外で、知らない人間に突然話しかけられるのが苦手だ。
というか、大嫌い。
例えば、歩いていて道を訊かれたり、座っていたら隣の人に雑談を持ちかけられたり、撮影を頼まれたり…… 挙句の果てには何かの勧誘や、驚くことに「歌を聞いてくれ」などと駅のホームで言われたこともある。
意味が分からないし全てが面倒この上ない。
タクラマカン砂漠の真ん中で水を求め、路頭に迷っているならまだしも、周囲には他にも無数の人間が存在しているのに、なぜ依頼するのが私でなくてはならないのか。他を当たってほしいと切実に思う。
一人でぶらついているから手持ち無沙汰に見える? 申し訳ないが、何もしていないようで結構忙しい。
あるいは、小柄で大人しそう(力の弱そう)な女性なら、接触する危険が少ないと判断されるのだろうか? だとすれば失礼な話だ。
そもそも、知らない人間にいきなり声をかけてくる行為自体があまりに不気味だから、なるべくなら関わりたくない。
常にそう念じているものの、願いも虚しく災厄は向こうからやってくる。
◇ ◇ ◇
ある観光地の片隅で考え事をしながら突っ立っていたら、中年の夫婦に呼び止められた。写真を撮ってくれませんか、と言う。嫌だ。
しかも後ろの看板を指して、できればこれを背景に入れてくれれば……とも宣う。正直、図々しい。見ず知らずの私にどうしてそんな頼み事ができるのか、理解に苦しむ。心に広がるのは彼らを厭う感情ばかり。
とはいえここで冷たく断ってしまっては、外面に大きな傷がついてしまうだろう。不親切な人間だと思われ、相手に良くない印象を与える。悪い評価が下される。
それは私が一番恐れていることだった。だから、防がなくてはならない。
顔に素早く仮面を貼り付けろ。
声をかけてきた夫婦には、まずにっこりと明るい笑みを浮かべて「全然良いですよ!」と返事をした。続いて撮影に使う携帯を受け取る。写真をどんな風にしたいのか改めて聞いて、シャッターを押すタイミングが分かりやすいよう合図して、撮ったら予備でもう一枚。
あとは写真を見せながら携帯を返し「これで大丈夫でしたか? 何か気になれば撮り直しますよ」と告げる。――どこにも問題は、ない。
早くどこかに行ってほしいなと思いながら、満足げに去っていく彼らを眺めて安心する。何も間違えずに終われた。
私の評価は「冷たい人」ではなく、「普通の親切な人」になった。
◇ ◇ ◇
日常生活のなかで、外面(そとづら)は良いに越したことはない、というのが持論である。
他人の頭の中は覗けない。
どんなに反社会的なことを考えていたって、実行しなければ罪には問われない…… 誰のことも傷つけないし不快にさせない。その場に適切な表情と行動さえ見せておけば、残りは自由で、咎められないのが事実。
私はお世辞にも善良な人間とは言えないし、あまり褒められた思考回路もしていないから、それを何とかして取り繕っておく必要がある。
良い人間のような表情、言動をしているとお得だ。外面の良さは信用に繋がるから。
体裁をきちんと整えて生活する。日々真面目に働き、法律も順守して、そのうえで好きな事を存分にやる。すると、他人に自分の行動を邪魔されたり、行動に苦言を呈されたりする機会がぐっと減る。むしろ「いつも頑張っているものね」と応援すらされる。
私自身はただ、自己中心的に物事を考えているだけなのにもかかわらず。
思えば、現在の「会社員」という肩書きも実に便利な代物。
無職です、フリーターですと答えるよりも、会社で働いていますと答えた方が他人に怪しまれないし、信用してくれる場合が多い。便利な肩書きの皮をかぶれば得られる自由が沢山ある。
だから、今日もぺたぺたと石膏を上塗りする。
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そうすることで波風の立たない快適な生活を送れるものの、全く疲れないと言ってしまえば大嘘になる。常ににこやかで、人当たりの良い性格を演出し続けるのはかなりのストレスのよう。
外に出るだけでも体力と精神力を使う。
仮面を顔に貼り付けて職場や会合へ赴き、帰ってくる頃には基本、無。目の前で何かが起こっても特に反応できない程度に無になる。自室で部屋着に着替えて化粧も落とし、布団に寝転んで、やっと人間の心を取り戻す感じ。
それでも、親しい人間と過ごす時には肩の力を抜けるのが唯一の救いだろうか。精神的に安らげる場所があって、良かったね。自分。
どう生きていたって万人には好かれない。
だからといって常に正直かつ素直な反応をさらけ出していたら、より沢山の敵を作ってしまう。それによって発生する面倒な事柄と出会わずに生きたい。分かってくれる人だけが分かってくれれば、それでいいから。
いつも外面は綺麗に保ちながら、精神の方は現実の側ではなくて、望む世界の中に置いておく。誰にも何にも介入されない、どこまでも自由な世界の側へ。
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