花粉症、すなわち季節性アレルギー性鼻炎のおかげで、ありがたいことに(皮肉である)このごろは体調のすぐれない日が続く。
実際にあらわれる症状が鼻づまり、くしゃみ、また喉や目の痒みだけ、などというのはとんでもない間違いだ。花粉症は他にも全身の倦怠感に頭痛、ひどい時は軽度の発熱までもを連れてくる。
幼少期からこんなものに苛まれているせいで、2月の中旬を迎える頃になると、すでに私の精神は腰元までどっぷりと泥水に浸っているわけ。季節が巡るごとに。
とはいっても年々、花粉症の症状を訴える人が周囲に増えているような気がしていて、精神的にはとても楽に感じる。
なぜなら昔はこのアレルギー性鼻炎のせいで「体が弱すぎる」とか「食べ物の好き嫌いをしているせいで花粉症になる」とか、周囲から頻繁に根拠のない言いがかりをつけられて結構つらかったから。
両親はバランスの良い食事や十分な睡眠時間を含め、子供の生活習慣が規則正しく充足したものになるよう気を配っていた。私自身も家で本を読んだり絵を描いたりするだけでなく、外で運動するのも好きだった。しかしながら大きく花粉アレルギーの影響を受けている。もう体質なのだ。
また、これ以外でも体調不良は悪化しやすい。重篤な病気でなくともこじらせやすく、早めに休まないと想像以上に長引く。25年も生きてきてそれ自体にはもう慣れた。頑張ってもどうにもならないものは、どうにもならないのだ。
今回ここに書こうと思ったのは、感覚の話である。
何の感覚かって? 要するに、そうやって軽く体調を崩したときに療養のため、皿の上の焼き魚よろしく布団に横たわっている間に抱いているもの。天井や壁を見つめたり、寝たまま膝や背を丸めたりしながら、一体どんなことを考えているのかということだ。
……たとえば。
具合が悪いといえど、目を開けていられないほどではなく、全く身体を動かせないほどでもない。
その状態が、まるで免罪符のようだと思う。どこからか「お前は休んでも構わない」と告げられている気がする。今は行動を起こさなくてもよいのだと。特に異常のないとき自主的に選択する休養に比べるとはるかに確かで、安らかで、この上なく正当だと感じられる、ある種の赦(ゆる)しにも酷似したそれ。
だが別に、それを得るために体調を崩したいとは思わない。あくまでも、結果として与えられる酌量と安息について考えている。
常はだらしがないと叱られそうだが、布団にくるまってのろのろと食べ物を口に運ぶ権利。
寝ころびながら、陽が高く昇ってから山向こうに沈むまで、好きなだけ本を読み耽る権利。
するべき他の全てを差し置いてまぶたを閉じ、眠りにつく権利。
実際に言葉にしてみてはっきりとした。それらは「権利」だった。ほかに資格、と言い換えても問題はなさそうだ。
そういうものが、軽く体調を崩してはじめて、ようやく保証されるような感覚を抱いている。
自分が瑕疵なき健康体でいる日には、どう足掻いても許されないような行為を、具合が悪ければ許可される。休む資格を得られる。
だが「何に」許されるのか?
また、許されなかった場合に私を裁くのは、一体「誰」なのか?
休養をとる罪悪感は、どこからどのようにして生まれてくるものなのか。
そう、罪悪感。
物心つくかつかないかの頃から、私はそれを、確かに知っている。けれどそもそもなぜこんな感覚を抱く必要があるのかだけが、まったく分からない。
分からなくてもここにある。
軽く体調を崩すと「許された」ような気がするのだと、他人に話してみたって滅多に同意も共感もされない。それでも昔から長らく、ずっと考えている。
とりわけ、花粉による諸症状に苛まれるこの季節には。
ぼうっとしがちな頭を奮い立たせて決まった時間に目覚め、くしゃみを引き起こす風を振り払い、職場へと足を運びながら。
「誰が」「何を」裁くの?
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