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彷徨する自由帖

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「私はこうして鬱から回復しました、だからあなたもきっと大丈夫」という、根拠のない言説にはうんざりです|かつての当事者として

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 まず、あなたは私ではない。

 

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「しばらく鬱状態だったけれど、○○をしたら症状が大幅に改善した! 他の皆もそうするべき」とか、「こういった工夫をすれば精神の状態が安定する」みたいな発言が世間でやたらともてはやされるのに、心底うんざりしていませんか。

 

 私はしている。もう、大いにしている。ふとした瞬間に視界に入るたびいい加減にしてほしいと思っている。

 いわゆる「生存者バイアス」という言葉が、メディア上や通常の会話の中で一般的に使われるようになる、ずっと前からだ。

 ……根拠のない言説は、なんとなくで全てを解決したい人間にとっては、これ以上ないほどに便利な道具なのだろう。

 

 では具体的に、どんな部分に辟易しているのか。

 それは、その発言者本人も当事者として厳しい時期を過ごした経験があるのにもかかわらず、「自分はこうだったから、あなたもきっと大丈夫ですよ」と平気で口に出せてしまう、恐ろしいほどの思慮の浅さにほかならない。

 

 いつか、鬱のどん底に身を沈めていた人は思い出してみてほしい。

 あらゆる重圧に押しつぶされそうなとき、何もかもが虚しくて呼吸すら億劫なとき、ほんの少し先も見通せないとき……涙を止められなかったり指先を動かすこともできなかったり、あるいはただ楽になりたかったりとか。

 他にも人によって症状や感じていたことは千差万別だろう。

 

 そんな終わらない苦しみの真っ只中、誰かが不意に近づいてきて、おもむろに告げるのだ。励ますような口調で、

「私も以前はそうでした、あなたとまったく一緒です。本当につらいですよね。でも、○○をしたから / ○○に出会ったから / 運よく○○の機会があって、今ではこんなに元気になりました。だからきっと大丈夫ですよ。明けない夜は無いので、それまで頑張って生きてください」

 と。

 

 おそらくは親切心からかけてくれた言葉なのだろう。少なくとも、この記事ではそう信じておきたい。悪意があると決めつけてしまうのは簡単だし、しかも話題が趣旨から逸れてしまうので。

 だが、上の発言における論の展開のしかた、だいぶおかしくはないだろうか?

 

「私はこうして鬱から回復した。だからあなたもきっと大丈夫」

 どんなにもっともらしく聞こえても、それを証明する方法はない。

 あなたは私ではない。

 

「鬱」と「鬱々とした気分」は似ているようでいて全然違う。

 個人的な印象だが、世間的にはそのあたりの区別がきちんとされていないように見受けられる。前者に関しては、治るのではなく、寛解するものだ。

 だから、特にインターネット上でたびたび目にする「今までつらかったけど○○を心がけたら元気になりました」の人のパターンは、精神疾患としての鬱とは一線を画する、「ただの気分の落ち込み」によるものだったのだろうと推測される。

 そこを混同してしまうといろいろ大変だ。

 

 筋力トレーニングをしろとか、ひたすら美味しいと思えるものを食べろとか、すべてを忘れてまず趣味に没頭しろとか。精神の安定には、とにかくそれらに大きな効果があるのだと喧伝する声をよく聞く。

 実際にできれば何よりだし、そうすることで誰かが少しでも幸せを感じられる状態になれたのなら、とても良いことだ。

 だが鬱に関しては、そう簡単に運ばない部分があまりにも多すぎるから難儀である。

 

 鬱の症状の中には異様な倦怠感や味覚障害・食欲不振も含まれている。

 これらはいかにも病気らしいし説明がしやすい。運動したくても身体が意思に反して動かない、また好物を口に入れても味を感じられないとなれば、上のアドバイス以外を試してみた方が効果的な気がする。

 そこで無理をすると、やろうとする→できない→できないから己を罰する必要がある、という鬱的な自責思考のサイクルがいとも簡単に形成されていくからだ。

 

 また、意外と厄介になりがちなのは、これまでの人生で何かの趣味に心を傾け、それを満喫していた場合。

「もともと大好きで楽しかったはずのことをしていても、まったく楽しくなれない」のが鬱の症状のひとつにあるので、その状態の人に気分転換をしろ、などと言ったところであまり意味がないというか、むしろ逆効果になってしまう場合が多々ある。

 私自身は誰かにそう強要されたことなどないが、最も症状の重かった時期は非常につらかった。好きだったことをしていても、好きなものを満足するまで眺めてみようとしても、何も感じられないのだから。

 

 極めつけに、周囲の多くが口を酸っぱくして言ってくれるのは「休め」と「寝ろ」、そして「日光を浴びろ」の三拍子だろう。

 これは正しい。メンタルクリニック通院中も幾度となく医師から促された行為で、一体どうしてなのか理由も説明してもらった。そこにはきちんとした根拠がある。

 それなのに、こうして記事後半で言及しているのはなぜなのか。

 人が鬱状態に陥ると、真っ先に上の三つからできなくなるからである。

 やがて鬱病だから眠れないのか、それとも眠れないから鬱病になってしまったのかすらも曖昧になり、安らかな終わりをひたすら夢想するようになる。運よく気絶するように睡眠の世界へ誘われたのだとしても、瞼の裏で往々にして悪夢を観ることになるから、もう最悪だ。

 

 鬱から簡単に解放される方法も、必ず効く万能薬も存在しない。

 

「私はこうして鬱から回復した。だからあなたもきっと大丈夫」

 もしもそれを心の底から言っているのだとしたら、あともう少しだけ頭を使って、本当にそうであるのかどうかを考えてみることをおすすめする。

 あなたは私ではない。

 

 これを書いている本人とて、どん底からかろうじて頭を出しているなどと豪語しているが、完全に解放されたと思えたことなど一度もない。夜は開けないし、苦しみは緩急をつけて途切れない軌跡を描く。明るい場所も暗い場所もずっと地続きに繋がっている。

 私が今こうして死なずに働きながら生活を送っていられるのは、単なる「結果」にすぎないのだ。

 もっと何かできるかもしれない、努力の仕方を変えようと思えたのも、運よく周囲の人間を含む環境の恩恵を受けられたからでしかない。精神論は関係ない。

 

 私は元気です。

 けれどそれは、何か特定の行為をしたから回復できたというわけでは、決してないのですよ。

 

 

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