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彷徨する自由帖

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小笠原伯爵邸(旧小笠原邸)「おはなし会」の拝聴と建物見学:長い空白期間を経て復元されたスパニッシュ・コロニアル様式の近代建築

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 黄昏の深く青い空を切り取って、大きな星を埋め込んだみたいな天井。等間隔に椅子が並んだ円形のシガールーム。

 どこだかもう憶えていない場所で写真を見たときから、ずっとこの部屋に入ってみたかった。

 先日その夢を叶えられたので嬉しい。

 

 

公式サイト:

小笠原伯爵邸 | Ogasawara Hakushakutei

 

 東京都新宿区の若松河田にてささやかな催しに参加した。

 地下鉄の出口から徒歩1分、淡い灰黄色の掻き落とし外壁が特徴的な洋館。これが東京都選定歴史的建造物に指定されている旧小笠原邸であり、現在「小笠原伯爵邸」を名に冠して営業しているスペイン料理のレストランである。

 4月26日に開催された「おはなし会」では総支配人の方によるレストラン開業までの道のりや、建物の復元においてどのような工夫がなされてきたか、また竣工当時の様子や小笠原伯爵自身について分かっていることなどのお話を実際に拝聴でき、理解を深めるよい機会になった。

 この会は今回のみにとどまらず以後も定期的に開催されるらしいので、興味のある方は公式サイトやTwitter, noteなどに掲載される情報を参照されたい。当記事には私が「おはなし会」で聞いた内容や、館内見学時に抱いた感想を記載する。

 

 

 約1000坪の敷地面積。長い塀の先にひっそりと佇むレストランは、特に大きな看板を出してはいない。

 門から敷地に入ってすぐのところにある、小笠原長幹伯爵とその家族、時には彼らの客人も出入りしていたという、メインエントランスの正面に立ってみた。何かから人を守るように、石のレリーフ装飾の上部から突き出ている庇(キャノピー)は葡萄の棚を模して作られ、頭上を仰ぐとワイヤーの蔓が格子に絡まり葉を広げている。果実も実らせて。

 晴れの日は陽の光を受け、雨の日は水の粒を受けて、決して朽ちることのない丈夫な金属とガラスの葡萄。

 しかし、そうであるはずの庇の唯一の弱点は、定期的に磨いてやらなければその輝きを失いやがて崩壊してしまう部分にあり、実際に今から20年ほど前までは実際にそうなりかけていた。老朽化し、役割を失い、半ば廃墟化していたのである。

 

 

 小笠原伯爵邸が竣工したのは昭和2(1927)年の頃。同じ年に建てられた建築物としてホテルニューグランド本館が思い浮かぶほか、東京の上野-浅草間に日本初の地下鉄が開通したのも、確かこの年だったと考えた。

 設計を行ったのは曾禰達蔵・中條精一郎の二者が経営していた「曾禰中條建築事務所」であり、おはなし会の会場で配布された、大正14年9月時点の図面にもその名前が刻まれていた。彼らはかねてより長幹伯爵と親交があり、その縁あって彼の邸宅を手掛けるに至ったのであろう。

 ちなみに曾禰達蔵はかのイギリス人建築家、お雇い外国人だったジョサイア・コンドルに工部大学校で師事した1期生のうちのひとり。彼を含めて4人の弟子と呼ばれている者には佐立七次郎、片山東熊、そして東京駅丸の内駅舎を設計した辰野金吾がいる。

 元来、完成した建築物の定礎銘板に己の名を刻むのは珍しかった曾禰達蔵だが、この旧小笠原邸では白眉ともいえるシガ―ルームの外壁にこれを残しており、通常以上の思い入れがあったと伺えた。

 


 当時の日本では珍しかったスパニッシュ・コロニアル様式の美しい建築。けれど、そこに人々が集い、華やかな社交の場を楽しんでいたのはごくわずかな間のこと。小笠原長幹伯爵とその家族は邸宅の完成後、第二次世界大戦が激化するまでここに住んでいたが、建物は戦後の昭和23年にGHQによって接収されてしまった。

 返還後も内部の部屋の壁の一部はアーミーカラーだったブルーに塗られたまま、昭和28年には福祉局の児童相談所として利用が開始されたものの、ついにそれが移転してからは前述したように半ば廃墟化の道を辿ってしまう。

 一時は老朽化で取り壊しも検討されていたそうだが、その美しさと価値が再び見出され、修復が行われてレストランへと生まれ変わったのが平成14年。そして、平成16年には東京都の歴史的建造物に選定された。

 まるで伯爵が生活し、家族や友人、客人がここで歓談していた往時の空気まで蘇ったかのように、穏やかな雰囲気をまとって小笠原伯爵邸は若松河田に残っている。

 


 旧小笠原邸の修復にあたっては、できるだけその場に残されていた部品や建材を使い、竣工当時の写真(もちろんカラーではなくて白黒という難易度である)も参考にしながら手探りのうちに行われた。

 例えば窓の金具ひとつとっても簡単に新しいものにはせず、表にあるものが紛失していれば、邸宅の別の場所から持ってきて付け替える……といった具合に。ガラスも割れてしまった箇所に関しては、窓枠ごとイタリアなどの工房に運び込み、極力同じものを作成するように依頼されている。

 それゆえ周囲を見回してみても、どこが当時のままで、どこが修復されたり置き換えられたりしているのか、用意には判別しえない。本当に自然に馴染んでいる。床板も、草履など柔らかい履物で上を歩くのが普通だった頃の強度では心もとないので、ほとんどが新しく張り替えられているものらしい。

 おはなし会の会場だったグランドサロンでは、中央に据えられたメロンレッグの大テーブルが、伯爵自身の使っていた家具の中で唯一残されているものになる。緑の皮張りのチェアはその机に合わせてヨーロッパから取り寄せたもので、まったく浮いた感じを与えない。座り心地も良く、長く腰掛けていても疲れなかった。

 

 

 ちなみにグランドサロン奥の壁の下部にあるラジエーター、放熱器は、地下で発生させた熱を送り込んで暖房に利用するための設備。

 地下1階、地上2階、大正12年に発生した関東大震災の教訓を生かし、巨大地震にも耐えうる建物を、と志向して設計された鉄筋コンクリート造の邸宅は、現代の耐震基準に照らしても十分に通用する強度を持っているというから感心する。

 打ち捨てられていた時代を振り返るに、旧小笠原邸にとっては地面の揺れよりも、人間に手をかけられていない状態こそが荒廃に繋がっていたとわかる。外壁を飾る陶磁のパーツがほとんど全て剥がれ落ちてしまっていた頃の写真を拝見して、なおさらそう思った。壁の傷がまるで涙の流れた跡のようだったから。

 それらの装飾や、屋根を飾る深い碧色のスペイン瓦、また屋上のクリンカータイルを制作したのは陶芸家の小森忍。中国古陶磁の研究に情熱を注ぎ、特に釉薬関連においては日本の第一人者と呼ばれた大阪生まれの人物で、旧小笠原邸の装飾に使用した陶器のパーツは約1600個にも及んだ。

 

 

 

 

 植物が壁面を舞うような意匠、この装飾の主題は「生命の賛歌」であったとか。修復には現代陶芸家の奥田夫妻の協力を仰ぎ、ひとつずつ丁寧に焼き上げて発色を確認しながら、2003年まで作業が続けられた。

 壁の下部には定礎銘板が嵌め込まれ、この裏側にちょうどシガ―ルームが位置している事実を考えると、やはり小笠原邸の見どころはこの一角に詰まっているのだと改めて思わされる。私が長らく覗いてみたいと願っていた場所、当時は男性陣が紫煙をくゆらせていた喫煙室であり社交の場。

 同じ昭和初期に竣工したものだと洋館ではないが、横浜に存在する船舶の、氷川丸内部にも喫煙室が設けられている。あちらは大正アール・デコの系譜を色濃く受け継ぐ様式が特徴なので、また小笠原邸にあるものとは大きく雰囲気が異なるのだが。

 小笠原伯爵邸のシガ―ルームは円形をしており、建物1階のラウンジに隣接している部屋になる。

 

 

 人ひとりが立つと完全に塞がれてしまうほど間口が狭いから、ラウンジの中心部に立って覗こうとしても内部の全貌は伺えない。何か秘密を抱いた部屋みたい。

 照明の光量があまり多く設定されていないのもあって、壁面の大部分を占める、縦長の窓から差し込む光の眩しさが対比を生む。室内は昼間にしてまるで夜のようだった。はじめは天井の大きな星に目が行き、徐々に目が慣れてきたら床にも視線を落とす。入り組んだ星の図案……頭上にも足元にも輝く天体、ここは一体どこなのだろう。

 過去にウズベキスタンで見た霊廟や神学校の装飾の数々を思い出した。引かれた一本の線が重なり、角度を変えて絡み合って、増殖していく性質を持っている幾何学的な意匠。それらと共通点が見られるのも当然で、旧小笠原邸のシガ―ルームにはイスラム風の趣があるからだった。ヨーロッパに喫煙の文化をもたらした、中東の文化を取り入れた部屋。

 蒼く美しい天井の色彩を蘇らせたのは二科会に所属する画家とのこと。床も柱も大理石でできており、壁や戸棚の扉も含めて竣工当時の素材のまま丁寧に磨き、現在のような状態に整えている。全体を眺めても細部に寄ってもため息が出る。

 

 

 ところで、私には小笠原伯爵邸の前にはじめて立ってから、ずっと胸に引っかかっている感覚があった。それは「この建物に似た場所を確かに知っている」というもの。

 考えながらシガールームを去って回廊を歩き、パティオに足を踏み入れた瞬間、記憶が蘇ったのを悟る。マルタ共和国はイムディーナにあった、ファルゾン邸である。旧小笠原邸はスパニッシュ・コロニアル様式風の建物なので、スペインの影響を受けていたファルゾン邸に似ているのも道理だった。

 そもそもパティオ(中庭)の存在自体もそうだが、屋上へ続く階段、装飾の傾向、それから植物とのかかわり……どの部分にも相互に共通するものを見出せる。日本国内の近代建築ではなかなかお目にかかることができないつくりなので、見学は貴重な機会だ。特に細い階段、これには心を囚われる。

 中庭に設置してある彫刻は、朝倉文夫に師事していた小笠原長幹自身が制作したものだと言われており、彼は小笠原流礼法の宗家、また貴族院議員として日々を過ごすだけでなく、美術芸術分野にも関心があったのだろうと推測できた。もちろん、でなければこのような邸宅の建設を依頼はしないだろう。

 

 

「おはなし会」では長幹伯爵の幼少期の日記にも言及された。なんでも彼は小さい頃、お金を使って買い物をしてみたかった……のだという。それは一体どういうことなのか。

 旧小倉藩を治めていた藩主、最後の大名の長男であり、典型的な貴族だった伯爵。彼にとって買い物といえば誰かに連れられて百貨店に赴き、貴賓室で注文の品を受け取り、それを再び車に積み込んで帰るというのが通常の流れだった。それゆえ紙幣や硬貨を手にしてレジで品物と交換している、普通の客の行為が珍しかったのだろう。感覚の違いである。

 そんな彼が住んでいたこの邸宅は別名「小鳥の館」とも称されているのだが、しばらく館内を見学してみると、比較的すぐ理由に思い至るはず。あちこちに小鳥を象った彫刻や、ワイヤーの意匠や小物が置いてあるのが視界に飛び込んでくるから。

 なかでも目を引く美しさを持っているのは、メインエントランスを入ってすぐのロビー上部。明かり取りのように天井に設けられたステンドグラスは天空を模し、雲が浮かんで、そこには大小何匹もの鳩が華麗に舞っているのだった。

 もとの図案を手掛けたのは鳩山会館のステンドグラスも制作している小川三知で、現在あるものは竣工当時の写真を参考にイタリアで復元されたもの。

 


 一方、かつて応接間であったラウンジに設置されているのも三知の作品であり、当時からあるオリジナルである。客人のくつろぐ場を決して堅苦しいものにはしない、優しい色合いの白い花々、蕾や葉の重なりが素朴な印象を醸し出す。

 旧小笠原邸が荒廃していた時期、この作品は窓ごと取り外されて別所に保管されていたため、建物の修復にあたっては金属部分を締め直して補強するだけで事足りた。

 明治時代に生まれ、一度は家の方針もあって医師を志すも、芸術を志向する心を捨てきれずにいた小川三知。やがて念願叶って弟に家督を譲り、後にアメリカにも留学して現地の工房で腕を磨いた。帰国後は数多くの作品を手掛け、幸いにも現存しているいくつかの作品から彼の造形意識を伺える。

 曾禰中條建築事務所の設計、小森忍の陶器、小川三知のステンドグラス……それから小笠原長幹伯爵の彫刻をはじめ、複数の人間が持ち寄ったもので旧小笠原邸は構成されている。他の優れた建築と同じように。

 

 

 2階に上がると、いくつかの個室を結ぶ廊下の先に屋上庭園があった。ここでは美しい緑色の瓦を間近で見ることができる。

 邸宅の周囲は現在、煙突の向こうに高い建物が複数認められるような、典型的な都市部の風景に囲まれているものの、昔は富士山が見えていたし伯爵家族も屋上にテントを張ってはそれをのんびり眺めていたそうだ。天幕を固定するための金具が残っている。なんとも羨ましい、慎ましやかなのに豪華なパーティ。

 決して短くはない空白の期間を経て、往時の姿を取り戻した旧小笠原邸は今日もレストランとして沢山の人を迎えている。このおはなし会と建物見学が終わったら、そこから閉店の時間まではまたお客さんが来る。

 実際に使われることで建物は輝くとよく言われるが、それはその建物に対する想いとこだわりなくしては実現しない。以前、旧小笠原邸が福祉局の児童相談所であったように、別の形で利用されていたとしても、こんな風に息を吹き返すことはなかっただろう。

 館の魅力を見出し、復元に尽力した誰かがいたからこそ、こうして理想的に動態保存された近代建築が東京都内の一角に佇んでいられるのであった。

 


 この写真は余談。

 単純にお手洗いのシャンデリアが豪華だったので、思わず1枚撮ったもの。

 いつまでお店が続くのかは分からないが、仮に閉店するのだとしても建物はできるだけ良い状態で残っていて欲しいし、そうすれば素敵なレストランがここにあった事実も長く記憶され続けることだろう……と、思う。