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彷徨する自由帖

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「怪異」として存在する邸宅とお屋敷

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 そもそもどうして邸宅巡りをするんだろう。

 往時の姿で保存され、現在も一般に公開されている建築——とりわけ近代に竣工した個人邸、お屋敷——を好んで訪問する理由について、その一部に断片的に言及したことは何度もあるけれど、特にきちんとまとめてはいない。

 建物を見て回る純粋な楽しさや面白さの根幹に存在している、非常に個人的な見学動機の話。

 たとえば歴史が、とか、装飾や建築様式が、とか、そういう一般に伝わりやすい言葉ではどうしても表現しづらい領域にあるもの。

 近代史と近代遺産の興味深さとはまた別の。

 

 私は、保存邸宅は一種の怪異のような存在だと感じている。

 だから好き。

 

 邸宅。

 住居のことで、本来は誰かが住むために建てられた家であり、そう定義されている以上は基本的に人間が暮らすことになっている場所。あるいは箱の変形といえるかもしれない。

 規模の大きなものを指して、時にお屋敷とも呼ぶ。

 著名な人物がかつて住んでいたり、建築的な価値を見出されたりした邸宅のうちいくつかは、誰もそこに居なくなってからも形を保ち存在し続ける。

 厳密には邸宅……ではなくなり、旧〇〇邸と表記されるか、施設としての愛称を与えらえて、整備され管理される。時には明治村や北海道開拓の村のような野外博物館の一員として、別の場所にわざわざ移築までされて。

 保存邸宅。

 その様子にとても、そそられるというわけだ。

 

 通常、人の住まなくなった邸宅は廃墟になって、大抵は荒れたままになり、やがて取り壊される。しかし保存邸宅は当然ながら小綺麗なもの。ひょっとしたら、実際に使用されていた頃よりも。

 もう誰も暮らしていないのに、まるで今も誰かが暮らしているかのように、そういう体裁で整えられている場所。

 もちろん内部にある家具などがすべて当時のままではなく、展示物として新しく据えられているところもあるが、いわゆる普通の無人家では決してこうはならない。毎日窓が開けられて空気が循環し、掃除され、客間には客人を迎える準備がある。

 あ、擬態だ、と。私は思う。

 もう邸宅ではなくなった建物が、さも我こそは現役の邸宅だという皮をかぶって、巧みに擬態しているのだ。では、それはいったい何のための擬態かと考える。

 上の場合、言うまでもなく「人間を誘い込む」ためだろう……。けれど理由は知らない。

 

 邸宅に擬態する怪異に、長らく心を囚われている。

 

 明治24年、民俗学者の柳田国男が自費で出版した説話集「遠野物語」。

 そこに収録されている異聞怪談、なかでもマヨヒガと題された2編の話は、私が昔から特定の建物に対して抱いていた曖昧極まりない感覚にいくつかの支柱を与えた。すなわち、人が不在のはずの空間で、「あたかも誰かが生活を営んでいるように見せる」何かの存在。

 性質が、私の目に映る保存邸宅にとてもよく似ている。

 マヨヒガは時に迷い家とも表記され、調べれば、遠野地方以外にも類似の伝承が散見されるとあった。

 

 怪異の主旨はこう。

 あるとき、フキを取るため山中に分け入ったひとりの村人が谷奥で、それは立派な黒い門を持つ家に遭遇する。

 あやしく思って中を散策してみれば、広大な庭には紅や白の美しい花が咲き誇り、にわとりが放されていた。それだけでなく牛舎には牛、馬小屋には馬が飼われていて、どう見ても廃屋ではなく誰かがここで暮らしている様子なのに、一向に人間の姿はない。

 ついに村人は屋内へと入り込む。

 玄関、膳椀が並ぶ次の間、そして奥座敷……と進むと、部屋にある火鉢の上の鉄瓶は湯で満たされ、今にも沸騰しそうな様相であった。茶の用意でもしようというのか。さらに別の者の話では、どこかお手洗いのあたりに、人間が立っていそうな気配も感じたという。

 不在なのに在る気配。

 

 あぁ、これ、これ。

 まさにこういう印象なのである。保存された旧邸宅の持っている、どこか背筋が寒くなるのにひどく心躍る何か。展示用にわざわざ活けられた花瓶の花が揺れ、不可思議な音を奏でる。頭上から2階の床がきしむ音がする。係の人なのか他の見学者なのか、まったく別のモノなのかわからない。

 私はわざわざ古い家を探し出して、公開されていればそこへ行く。まんまと誘い込まれて、中をぐるぐる歩き回る。

 単に打ち捨てられた廃墟では、駄目。

 この一種「不気味なときめき」を得るには。

 

 外はお寒いでしょう、どうぞ、と言いたげに少し開かれた玄関扉も、テーブルの上に据えられた飾り、紅茶の注がれていないティーカップも、雰囲気を演出するために流されている音楽なども、すべてが実際のものではない。

 もう誰もその邸宅やお屋敷を使っていないのに、今の時代の見学者に向けて、それらしく当時を感じてもらうために用意された擬態の要素なのだ。

 街の中にも、あるいは人里離れた場所にも建つ、家のフリをした家。

 訪れれば、動く影を見て人間だと思い近付いたら、精巧な機械人形だった時のような不安感と高揚が胸に湧く。

 

 私は、一般に公開されている昔の邸宅やお屋敷をマヨヒガに見立てて「怪異」と呼んでおり、さらに彼らのことを好きでいる。